第47章 記憶を喰う森
カイの、故郷へ。けれど、たどり着いたセレノアの森は、黒く呪われ、人々は家族の顔さえ忘れていました。カイも、焼け跡の前で、何ひとつ思い出せない。森ぜんぶが、一体の巨大な鎧巨兵となって、起き上がるとき――現代の三島から、一枚の絵が、届きます。
セレノアへ向かう、空の上で。
カイは、ずっと無口だった。
いつもの軽口も、皮肉も、出てこない。操縦槽の中で、ただ前を見ていた。鎧巨兵を走らせながら。玄弥はその沈黙の意味を、なんとなく分かっていた。だから、何も言わなかった。ただ、肩の上で、隣にいた。それしか、してやれることがなかった。
やがて見えてきた森は、地平線の端から端まで続く、大森林だった。けれど――黒かった。
「あれが、セレノアか」玄弥はつぶやいた。
カイは、答えなかった。
森は本来、光るはずだった。境界獣の森のように。葉脈が。苔が。木の幹が。淡く発光するはずだった。けれど、この森は黒く変色していた。光がない。死んだみたいに静まって、黒い靄が立ち込めて。木々が、苦しげにねじれている。
「呪われてる」カイがようやく口を開いた。声がかすれていた。「森が、ぜんぶ。記憶ごと。――おれの故郷だ。ここが」
森のふちに、集落があった。
難民の集落。森を追われた人々が、身を寄せ合って暮らしていた。けれど、その人々が――おかしかった。
カイの鎧巨兵が集落のはずれに降りる。玄弥が肩から跳び降りて、集落へ歩み寄った。人々がこちらを見た。けれど、その目がうつろだった。
「あんた、誰だい」一人の女が玄弥に聞いた。「いや――わたしは、誰だったかね」女は首を傾げた。「ここは、どこの村だい。わたしには家があったような気がするんだが。どこにあったかね」
「故郷を、忘れてる」玄弥は声が出なかった。
集落の人々が、みな、そうだった。
自分の名前を。家族の顔を。生まれた村を。忘れていた。ぼんやりと座り込んで、「思い出せない」「何か、大事なものがあったはずなのに」とつぶやいて。子どもが母親の隣にいるのに、母親はその子を見ても、誰だか分からない、という顔をしていた。それがいちばん、見ていてつらかった。
「森の呪いだ」カイが低く言った。「黒冠魔導団の。森の記憶を汚染して。森とつながって生きてきた、セレノアの人々の記憶も、根こそぎ喰ってる。――森が、人々の記憶を喰ってるんだ」
カイは集落を、一人ずつ、顔を覗き込んで歩いた。知った顔がいないか。けれど、誰もカイを見ても、何も言わなかった。カイも、誰の顔も思い出せなかった。
「ここに」カイはつぶやいた。一軒の焼け跡の前で、立ち止まって。「ここに、おれの家があった、気がする。ここで暮らしてた。父さんと、母さんと、妹と。けど――」
カイは焼け跡を見つめた。
「何も、出てこない」声が震えていた。「顔も。声も。何も。ここまで来たのに。故郷に帰ってきたのに。おれは、誰のことも思い出せない。家族がいたはずの場所に。ただ、穴があるだけだ」
玄弥は、カイの隣に立った。
何も言えなかった。城壁を戻したときみたいに、語ってくれる住民がいれば。でも、ここでは、みんなが忘れていた。語れる人がいなかった。記憶を、喰われて。
「玄弥どの」
ガレスが駆けてきた。森のほうを指して。
「森が……森が、動いている」
玄弥が振り返ると、黒い森が、うねっていた。木々がいっせいにざわめいて、地面が盛り上がった。森全体が――起き上がろうとしている。一本一本の木がばらばらに動くんじゃない。森ぜんぶが、一つの巨大な生き物みたいに。
「鎧巨兵だ」カイが青ざめた。「森ぜんぶが。一体の。とんでもない大きさの――」
森が、立ち上がった。
黒い木々が束になって、巨大な腕になる。盛り上がった地面が胴体になる。黒い靄がその輪郭を覆った。全高、百メートルを超える、森の巨人。木々の枝が髪のように揺れ、根が足のように地を踏みしめた。
『よく、来た』
森の奥から、声が響いた。木々のざわめきに混じって。冷たい、声。
「呪森卿」アヴァロンが剣を抜いた。「七禍卿の一人。森の呪いを司る者」
『この森は』声が囁いた。『もはや森ではない。私が育てた兵器だ。セレノアの民の記憶を喰らい、力に変えた、巨大な鎧巨兵。――森に根を張った者たちは、もう私の力の一部だ。誰一人、思い出せまい。自分が誰だったかも』
森の巨人が、腕を振り上げた。集落へ向かって。叩き潰そうと。
「逃げろ!」玄弥は叫んだ。
人々が逃げ惑う。けれど、記憶を喰われた彼らは、逃げ方さえおぼつかなかった。子どもが転んだ。母親がその子を見ても、助けに行かなかった。誰だか、分からないから。
玄弥はその子を抱え上げた。腕の中に。森の腕が振り下ろされる。玄弥は転がってよけた。地面がえぐれた。土煙が上がる。
「カイ、機体を!」玄弥は叫んだ。「あの森の巨人を、止めなきゃ」
「無茶を言うな」カイが機体に跳び乗った。「あんな化け物。おれの機体じゃ、踏み潰されるだけだ。大きさが違いすぎる」
『焼くしか、あるまい』アヴァロンが唇を噛んだ。『森を焼けば、呪森卿の核も燃える。グランヴェルから火を持ってくれば』
「だめだ」玄弥は即座に言った。「焼いたら、森の中の記憶もぜんぶ燃える。セレノアの人々の記憶が。カイの家族の記憶も。森が喰ってる記憶を、取り戻せなくなる」
「じゃあ、どうする」カイが叫んだ。「策が、あるのか」
玄弥は、奥歯を噛んで考えた。森が記憶を喰ってる。人々が忘れてる。城壁のときは、住民が語って戻した。でも、ここではみんな忘れてる。語れる人がいない。森の外から――誰かが記憶を運んでこなきゃ。森の中の記憶を呼び戻すための、何かを。
そのとき、玄弥の頭の奥で、ふいに声が響いた。遠い。か細い。けれど、確かに。
『……げん……や』
玄弥は弾かれたように顔を上げた。
「今の」玄弥は空を見上げた。「誰か、呼んだ。俺を。げんや、って」
『何も聞こえんが』ガレスが首を傾げた。
けれど、玄弥には聞こえた。そして――空に、何かが現れた。
黒い森の上の空気が、ゆらりと揺れた。境界が薄れる感覚。三島で、何度も感じた、あの感覚。窓が開く。向こう側とこちら側の境界に。小さな、薄い窓が。
その窓の向こうに、絵が見えた。
一枚の絵。誰かが描いた絵。発光する森の絵。光る葉。湖の上の都市。子どもが肩車されて、夜の森を歩く、絵。
「これ」カイが、操縦桿を握る手に力をこめた。喉の奥で言葉がつかえている。「セレノアの森だ。燃える前の。なんで――誰が、こんな絵を」
玄弥は、その絵の筆づかいを知っていた。
誰の絵か。名前は出てこない。けれど、この優しい線。見えないものを描く絵。胸の奥があたたかくなる、絵。
「凪人」玄弥はつぶやいた。その名前が、ふいに出てきた。「凪人の絵だ。あいつが描いて――境界の向こうから、送ってきた」
『げんや』
また、声が響いた。今度ははっきりと。少年の声。
『見えるか。届いてるか。灯里さんが対応表で座標を出して。澪さんが定点になって。僕が絵を描いた。セレノアの森の。あんたたちの世界の人が忘れた風景を。届けって念じて、描いたんだ』
「凪人」玄弥は叫んだ。空へ。「届いてる! ちゃんと、見えてる!」
『よかった』凪人の声が安堵した。『その絵を――境界に映してくれ。森の住民が見えるところに。失われた風景を見れば。思い出すかもしれない』
「分かった」玄弥はエクスカリバーを握った。「エクス、できるか。この絵を、境界に大きく映すこと」
『やってみよう』エクスが答えた。声に力が戻っていた。『私は境界の剣だ。窓を開くのは、本来の仕事だ。――凪人の想いを、こちらの空へ映す』
玄弥はエクスカリバーを空へ掲げた。
光刃が伸びた。けれど、今度は斬るためじゃない。窓を大きく開くために。境界の膜を押し広げて、凪人の絵を、この世界の空へ映し出すために。
黒い森の上空に、巨大な絵が広がった。
発光するセレノアの森。燃える前の。光る葉。湖の上の都市。子どもが肩車されて歩く、夜の森。光る葉っぱを手ですくう、子どもの姿。それが空いっぱいに映し出された。記憶を喰われた人々の、頭上に。
集落の人々が、空を見上げた。
うつろだった目に、何かが灯った。
「あの森」一人の女がつぶやいた。「あの森を、わたしは知っている。あそこで――あそこで、わたしは」
「思い出した」別の老人が叫んだ。「湖の都市だ。わたしは、あそこで舟を漕いでいた。毎朝。霧の中を。思い出したぞ」
空の絵を見て、人々の記憶が、少しずつ戻り始めた。喰われたはずの記憶が。風景を見ることで。呼び戻されていく。母親が隣の子を見て、「ああ」と声を上げた。「お前。お前は、わたしの子だ。思い出した。お前の名前は――」
森の巨人が、苦しみ始めた。
『やめろ』呪森卿の声が揺れた。『記憶を返すな。それは私の力だ。私の燃料だ。住民が思い出せば、森の力が――』
森が喰っていた記憶を、人々が一つずつ取り戻していった。森の巨人から、力が抜けていく。黒い靄が薄れた。木々の輪郭が崩れた。森が、人々の記憶を手放していく。けれど、それで終わりではなかった。
「まだ、足りない」カイが叫んだ。「核が残ってる。呪森卿の核を撃たなきゃ。森は、また立ち上がる」
「核はどこだ」玄弥は聞いた。
「森の中心」カイが機体を走らせた。「いちばん黒いところ。あそこだ」
カイの鎧巨兵が森へ突っ込んだ。崩れかけた森の巨人の、体の中へ。玄弥が肩の上でエクスカリバーを構える。森の中心へ。黒い核へ。
だが、核を護る力が、まだ強かった。森の巨人が最後の力を振り絞って、腕を振り下ろす。カイの機体に。
「うわっ」カイの機体がよろめいた。「だめだ。力が足りない。誓気が押し負ける」
カイの機体の翡翠色の光が、弱まった。
「カイ」玄弥は肩の上で叫んだ。「思い出せ。何か。一つでいい。森の記憶を。あんたの芯にある記憶を」
「ない」カイが苦しげに言った。「家族の顔も。声も。何も――」
そのとき、空に映った絵が揺れた。子どもを肩車する、あの絵が。そして、カイの頭の奥で、ふいに歌が流れた。
女の声。やわらかい。子守唄のような。一節だけ。歌詞は思い出せない。けれど、その旋律。聞き覚えのある旋律。森の匂いと一緒に、しみついた旋律。
「歌」カイがつぶやいた。「母さんの……歌だ。これ。母さんが歌ってた。夜の森で。おれを寝かしつけるとき。――顔は思い出せない。名前も。でも、この歌だけ。一節だけ。残ってた」
操縦槽の中で、カイが、ぐっと奥歯を噛んだ。それでも、こらえきれないものが、目のふちから盛り上がってきた。
「思い出した」カイは言った。「母さんが歌ってくれた。光る森で。肩車されて。きれいだろって。あれは母さんだ。母さんの歌だ。――守りたかったんだ。おれ。この歌を。この森を。母さんを」
カイの機体の継ぎ目に、翡翠色の光が、爆発するように灯った。今までで、いちばん強い光。母の歌を誓気にして。守りたいという想いを、力にして。
「玄弥!」カイが叫んだ。「肩を貸す。撃て!」
機体が玄弥を、核の目の前へ持ち上げた。
玄弥はエクスカリバーを振りかぶった。光刃が伸びた。カイの誓気が、その光を押し上げる。母の歌の想いが。守りたいという願いが。玄弥の刃に宿った。
核のまんなかへ。
「カイの想い、受け取った」玄弥は叫んだ。「これは、あんたの一撃だ」
光刃が、振り下ろされた。
ばきっ、と。
核が、断たれた。
黒い核が砕けて、森の巨人が崩れた。黒い靄が晴れていく。木々が地面に戻る。一本ずつ。ばらばらに。そして――森に光が戻り始めた。葉脈が。苔が。木の幹が。淡く発光し始める。黒く死んでいた森が、少しずつ、生き返っていく。
集落の人々が、歓声を上げた。記憶を取り戻して。家族の名前を呼び合って。抱き合って。
カイは、機体を降りなかった。
操縦槽の中で、じっとしていた。玄弥が肩から降りて、機体の足もとに立つ。
「カイ」玄弥は声をかけた。「思い出したな。母さんの歌」
操縦槽が、開いた。
カイが出てきた。目が赤かった。けれど、泣いていることを隠そうともしなかった。
「一節だけ、だ」カイは言った。声が震えていた。「顔は、まだ思い出せない。名前も。でも――歌が、戻ってきた。母さんの歌が。これだけは、もう誰にも奪わせない。城壁みたいに。何度でも思い出す。お前が言ったろ。語れば戻るって」
カイは、そこで、ふと口をつぐんだ。
母さんの歌と一緒に、もう一つ、何かが浮かんできた。だが、それは歌みたいに、あたたかいだけではなかった。工具の握り方を教わった、手の感触。汗の匂い。叩く音。――昨日、グランヴェルでざわついた、あの感じが、もう一度、胸をよぎった。整備を教えてくれた、誰か。家族をなくしたおれを、拾ってくれた、誰か。
「変なんだ」カイは、自分の胸のあたりを、手のひらで押さえた。「母さんの歌は、思い出すとあったかい。なのに。おれを拾って、整備を教えてくれた人のことを思うと。あったかいのに、いっしょに、ちくっと痛む。なんでだか、分からない。お礼を言いたいくらいの人なのに。胸の奥が、こう――ひっかかる」
「気のせい、かな」カイは言った。「思い出せないから、変な感じがするだけ、かもな」
「ああ」玄弥は笑った。「戻ったな。一つ」
「一つだ」カイはうなずいた。「でも、一つでいい。一つあれば。守りたいって、思える。機体が、動く。――お前の言う通りだった。守りたいって思ったことは、消えないんだ」
空に映った凪人の絵が、ゆっくりと薄れていった。窓が閉じていく。
「凪人!」玄弥は空へ叫んだ。「ありがとう! あんたの絵が、みんなを救った! 俺、ちゃんと覚えてるからな。あんたのこと。澪も。灯里も。みんな覚えてる。絶対、帰る!」
『うん』凪人の声が遠ざかりながら答えた。『待ってる。大河も、毎晩、星、数えてる。早く帰ってこいよ。げんや』
窓が、閉じた。
光る森の上空に、赤い雲海が、また流れた。玄弥はその空を見上げた。胸がいっぱいだった。仲間がいた。向こう側に。名前を思い出せた。澪。灯里。凪人。大河。少しずつ。あの子たちが、まだ、自分を待っている。
カイが、隣に来た。
しばらく、二人で光る森を見ていた。それから、カイが、空を見上げたまま口を開いた。言い淀むように、いったん黙って、それから。
「おれさ」カイは言った。「ずっと、思ってたんだ。家族の記憶を奪ったのは、顔も知らない黒冠魔導団のやつらだって。どっかの遠くにいる魔道士だって。憎むなら、そいつらだって。――でも」
カイは、そこで言葉を切った。
「でも、なんか」カイは続けた。声を低くして。「今日、母さんの歌を思い出して。いっしょに、整備を教えてくれた人のことも浮かんで。そしたら――変な考えが、よぎったんだ。もしかしたら、おれの記憶を奪ったのは。遠くの誰かじゃなくて。もっと、近くの。おれの知ってる誰かだったんじゃないかって。――おかしいよな。証拠も、ないのに。なんで、そんなこと思うんだか」
「カイ」
「いや」カイは首を振った。早口で。「忘れてくれ。今のは。疲れてんだ、たぶん。母さんの歌、戻って。胸がいっぱいで。変なこと、口走った」
けれど、玄弥は見ていた。カイが無理に笑った、その口もとが、少しだけこわばっていたのを。
「お前の世界のやつら」カイは話を変えるみたいに言った。「いいやつらだな。会ったこと、ないのに。おれの母さんの森を、描いてくれた」
「だろ」玄弥は笑った。「自慢の仲間だ」
光る森が、少しずつ息を吹き返していた。
黒かった森に、緑の光が、一つ、また一つと灯っていく。まるで、戻ってきた記憶の数だけ。
三国目だ。それでも、王にはならない。玄弥はそう決めていた。
あと、一つ。レイグラス。雲海の港の国。そこで待っていたのは、いちばん厄介な裏切りだった。
読んでくださり、ありがとうございます。
この章は、ずっと書きたかった回でした。カイが、故郷に帰る。なのに、帰っても、誰の顔も思い出せない。いちばん残酷なのは、奪われたことより、「帰ってきたのに、空っぽだった」という、その瞬間だと思います。
森を焼けば、呪森卿の核も燃える。けれど、それでは中の記憶も、カイの家族も、ぜんぶ燃えてしまう。だから玄弥は、焼かない。代わりに、凪人の絵を境界に映しました。現代側の仲間――灯里の対応表、澪の定点、凪人の絵。三島と、向こうの世界が、初めて、はっきりと手をつないだ回です。第44章で見た境界の薄さ、第25章の「窓」が、ここで効いてくる。
そして、カイは思い出します。母の歌を、一節だけ。顔も名前もない。でも、旋律だけが残っていた。それを誓気にして、核を撃つ。「守りたいと思ったことは、消えない」――第42章で玄弥がカイに言った言葉が、今度はカイ自身の力になりました。
あと一国。けれど、レイグラスで待っていたのは、いちばん優しい人の、いちばん悲しい裏切りでした。




