第46章 炉都グランヴェル
四王国を、一つずつ。玄弥は、自分の足で、回り始めます。
最初に、たどり着いたのは、火山と溶鉱炉の国、グランヴェル。
補給路を断たれ、炉の火を消しかけた都へ、黒冠魔導団の魔の手が、伸びていました。
鉄の都が、巨大な炉に変わろうとするとき、勇者は、何を、断つのか。
空路を、二日。
境界獣たちが開いてくれた空の道を、カイの鎧巨兵は駆けた。赤い雲が足もとを流れていく。ときどき、その隙間から地上の王国が見えた。焦げた村。空っぽの街道。逃げる人の列。どこも傷ついていて、玄弥は見ているうちに、なんだか目の奥が痛くなってきた。見ないほうがいい、とも思った。でも目をそらすのも、それはそれで卑怯な気がして、結局ずっと見ていた。
三日目の朝、遠くに煙が見えた。
一本や二本じゃない。何十本もの太い黒煙が、地平線からまっすぐ立ち上っている。雲海を突き抜けて、空ぜんぶを灰色に染めて。
「グランヴェルだ」操縦槽からカイが言った。「鍛冶の国。火山と溶鉱炉の都。――あの煙、ぜんぶ炉の煙だ」
「すごい数だな」玄弥は肩の上で目を細めた。「町じゅうで焚き火してるみたいだ」
「鋼壁重騎団の本拠地だぞ。重装の鎧巨兵を何百体も造ってる。鉄を溶かすにゃ火がいるからな。火山のふもとに都を築いた変わり者の国だ」
そこで、カイの言葉が途切れた。
「ここは……」
ぽつり、と。それきり続かない。横目で見ると、カイは煙の立ち上る都を、じっと見ていた。なつかしむような。それでいて、どこかを、何かに刺されたような顔で。
「カイ?」
「……いや」首を振った。「昔の話だ。たいしたことじゃない」
たいしたことじゃない、と言いながら、声からいつもの軽さが抜けていた。玄弥は何も聞かなかった。聞かなかったのに、カイのほうがぽつぽつと続けた。前を見たまま。
「おれ、家族の記憶をなくして、難民になったあとさ。行き場がなくて、あちこち流れて。そのうち、この国に流れ着いたんだ。鍛冶の国に。それで――ここで、ある人に拾われた。整備を教わった。工具の握り方から、叩く角度から。ぜんぶ。おれが機体を組めるのは、その人のおかげだ」
「どんな人だったんだ」玄弥は聞いた。
カイは少し黙った。
「……それが、思い出せない。顔も、名前も。へんだろ。あんなに世話になったのに。母さんのこと忘れてるのは呪いのせいだって、それは分かるんだ。でも、その人のことは。なんでだか。思い出せない。――まあ、いいさ。今はそれより、都だ」
無理やり話を打ち切るみたいに、カイは操縦桿を握り直した。けれど横顔の影は、すぐには晴れなかった。玄弥はそれを、見ないふりで見ていた。
近づくにつれて、都の姿がはっきりしてくる。火山のすそ野に、石と鉄で組まれた灰色の都。城壁は分厚く、塔はずんぐりして、優美さなんて欠片もない。けれど、頑丈そうだった。槌で叩いてもびくともしない、そういう頑丈さ。
その頑丈な都が、今、苦しんでいた。
城門の外に、黒殻騎の群れがたむろしている。けれど、攻めてはいなかった。ただ待っている。都を取り囲んで、じわじわと、首を絞めるみたいに。
「補給路を断たれてるんだ」カイが低く言った。「鋼壁重騎団は強い。正面からじゃ城門を破らせない。だから魔王軍は攻めないんだ。囲んで、待つだけ。鉄がなくなるのを。食料が尽きるのを。――兵糧攻めだよ」
「卑怯なやり方だな」
「卑怯でも効く。っていうか、いちばん効く」カイは吐き捨てるみたいに言った。「重い鎧巨兵は足が遅い。打って出れば、転送魔法で背後に回り込まれる。籠もれば干上がる。――詰んでるんだ、あの都は」
カイの鎧巨兵は黒殻騎の群れを避けて、城壁の裏手へ回り込んだ。物資搬入用の、小さな裏門がある。そこで玄弥は肩から跳び降りて、門番に声をかけた。
「アルディアから来た。白角騎士団のガレスと一緒だ。鋼壁重騎団長に会いたい」
門番は、最初、ものすごく警戒した。当然だ、と玄弥は思った。こんな時に、見知らぬ子どもが裏門に立ってるんだから。けれど、後からガレスの隊が追いついて、白角の紋章を見せると、門番はしぶしぶ門を開けた。
都の中は、外から見た以上に追い詰められていた。
炉の火は消えかけていた。鉄がないからだ。職人たちが手持ち無沙汰に座り込んでいる。修理を待つ鎧巨兵が、広場に何十体も横たわっていた。腕がもげて。装甲が割れて。動かないまま。直したくても、直す鉄がない。
「ひどいな」玄弥はつぶやいた。
「鎧巨兵の、墓場みたいだ」カイが操縦槽から降りてきた。横たわる機体の一つに歩み寄って、傷を覗き込む。整備屋の目で。「これ、もったいないよ。あとちょっと鉄があれば動くのに。継ぎ手が折れてるだけだ。芯は生きてる」
カイは別の機体のほうへ歩いた。
肩の装甲を覗き込んで、継ぎ手の組み方を指でたどる。そこで、手が止まった。
「……これ」
カイはしゃがみ込んで、その継ぎ手をまじまじと見た。眉を寄せて。何かを思い出そうとするみたいに。
「どうした」玄弥は聞いた。
「いや」カイは首を傾げた。「この組み方。継ぎ手の噛ませ方。――見たことがある気がするんだ。っていうか、おれ、この組み方、できる。教わった覚えがある。たぶん、この都の流儀だ」
指先で、その継ぎ目の角度をなぞる。
「妙な感じだ」とカイはつぶやいた。「初めて来たはずなのに、手が覚えてる。誰かにこうやって組むんだ、って教わった気がする。――誰に、だろうな」
しばらく、その機体を見ていた。それから、ぶるっと頭を振って立ち上がる。胸のざわつきを、振り払うみたいに。
鋼壁重騎団長は、広間にいた。
岩のような体格の男だ。鎧の上から毛皮を羽織って、けれど、その顔は疲れ切っていた。会議で見た、あの傲慢な使者とは、まるで別人だった。彼は現実を見ていた。自分の都が、ゆっくりと死んでいくのを。
「聖剣の少年か」団長は玄弥を見て言った。「使者から聞いた。連合の話を断ったとか。賢明だ。連合など絵空事だからな。――それより、見ての通りだ。我が都は、長くもたん」
「炉をまた燃やせばいいんだろ」玄弥は言った。「鉄がいるんだよな。なら、外の黒殻騎をどかして、補給路を――」
「打って出れば回り込まれる」団長は首を振った。「何度もやった。そのたびに機体を失った。もう、出せる機体がない。――それに」
団長が言いかけた、まさにそのときだった。
地が、揺れた。
どん、と、腹の底に響く揺れ。一度。二度。だんだん強くなる。広間の壁が震えた。天井から埃が落ちてきた。
「また、か」団長が立ち上がった。「火山が騒いでいる。三日前からおかしい。地下の記憶鉱が、暴走している」
「記憶鉱が、暴走?」
「黒冠魔導団の仕業だ」団長は吐き捨てた。「火山の地下には、巨大な記憶鉱の脈がある。我らはそれを少しずつ使って、炉を焚いてきた。だが奴らは、その脈に術をかけた。暴走させて――」
その先を、言わせなかった。
広間の窓の外で、火山が吼えた。
山頂が赤く光る。地割れが走る。都の地面のあちこちから、赤い光が噴き出した。記憶鉱の脈が、暴走して、地表へ噴き上がってきたのだ。熱風が都をなめた。石畳が灼けた。職人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「都が」団長が青ざめた。「都が、炉になる。記憶鉱の熱で。このままでは――都じゅうが溶鉱炉に変わって、みな焼ける」
玄弥は窓から外を見た。
赤い光が、都の地下を走り回っていた。生き物みたいに。脈打って。その光が通った場所から、炎が噴き出す。家が。塔が。広場が。次々に火に包まれていく。
「カイ」玄弥は振り向いた。「あの暴走、止められるか」
「記憶鉱の暴走を?」カイは眉を寄せた。「無茶を言うな。整備屋に火山を止めろって」
「あんた、誓気が機体を動かすって言ってたろ。記憶鉱に誓気を流す、って。なら、逆もできるんじゃないか。暴走した記憶鉱を――しずめることも」
カイの手が、止まった。それから、ゆっくりと顎を撫でる。何かを計算するときの、いつもの癖だった。
「……理屈は、ある」カイは言った。「記憶鉱は誰かの記憶だ。それが暴れてるなら、暴れさせてる何かがあるはずだ。核みたいなものが。それを見つけて解いてやれば――」
「核はどこだ」
「火山の地下。記憶鉱の脈の、いちばん深いところ」カイが答えた。「でも、そこへ行くには、暴走した記憶鉱が噴き出る地割れを抜けなきゃならない。熱で焼け死ぬぞ」
「鋼壁重騎団の鎧巨兵」玄弥は団長を見た。「あれ、重装で盾がぶ厚いんだよな。熱には強いか」
「ああ」団長がうなずいた。「我らの機体は、火山のふもとで鍛えた。熱にはいちばん強い。だが――動く機体が、ほとんどない」
「一体でいい」玄弥は言った。「一体動けば、それを盾にして地割れを抜ける。カイ、直せるか。動かない機体を、一体だけでも」
「やってみる」カイはもう走り出していた。横たわる機体の群れへ。「ガレス、手伝え。重い装甲をはずすぞ。腕力がいる」
「承知」ガレスが続いた。
広場で、カイが一体の鋼壁機を選んだ。いちばん傷の浅い、継ぎ手が折れているだけの機体を。工具をふるう。汗を流して。継ぎ手をつなぎ、配線を結び直し、砕けた装甲を別の機体からはずして移植した。ガレスが重い部品を軽々と運ぶ。玄弥も見よう見まねで手伝った。手はあちこちで滑ったし、油でべたべたになったけれど、今度は邪魔だとは言われなかった。それが、ちょっと嬉しかった。
「直った」カイが立ち上がった。額の汗をぬぐって。「動く。けど、誓気を流せる乗り手がいる」
「私が乗ろう」団長が進み出た。「これは我が都の機体だ。我が都を救うなら――私が乗らねばならん」
団長が操縦槽へ入った。
機体の継ぎ目に、灰色がかった銀の光が灯る。鋼壁重騎団の誓気。都を守るという想い。重く、鈍く、けれど決して折れない誓い。機体がゆっくりと立ち上がった。分厚い盾を構えて。
「行くぞ」団長が言った。「少年たち。私の盾の影に入れ。熱から守る」
鋼壁機が歩き出した。
暴走する記憶鉱の地割れへ。赤い光が噴き上がる、その中へ。分厚い盾が熱風を受け止めた。盾の影に、玄弥とカイが続く。ガレスも。熱がすさまじかった。盾のこちら側でも、肌がひりついた。けれど団長の盾は、びくともしない。
「これが、鋼壁重騎団か」玄弥は熱の中でつぶやいた。「すげえ、頑丈だ」
「当たり前だ」団長の声が機体から響く。誇らしげに。「我らは守るためにある。盾は決して退かぬ。それが鋼壁の誇りだ」
地割れを下った。
火山の地下へ。記憶鉱の脈が走る洞窟へ。赤い光が壁をつたって流れていた。脈打ちながら。ときどき、その光の中に、玄弥は人の姿を見た。鉱夫たち。記憶鉱を掘っていた人々の記憶が、光の中に閉じ込められて、苦しそうにもがいている。
「人が、いる」玄弥は喉の奥が詰まった。「記憶鉱の中に。鉱夫の記憶が」
「炉の燃料にされかけたんだ」カイが低く言った。「黒冠魔導団に。記憶を抜かれて。それで暴走してる。閉じ込められた記憶が苦しんで、暴れてるんだ」
カイは脈の壁に近づいた。
赤い光のふちに、黒い錆のようなものがにじんでいた。記憶鉱を内側から腐らせるみたいに。じわじわと。カイがそれに手をかざす。
「この、汚染のやり口……」
カイは、そこで黙り込んだ。眉間に皺を寄せて。黒い錆の広がり方を、目で追って。
「カイ?」
「……いや」カイは低く言った。「誓気をこうやって内側から腐らせるの。やり方が。なんか――知ってる気がするんだ。嫌な感じだ。胸の奥が、ざわざわする。誰がやったかなんて分からないのに。なのに、知ってる気がする。この手つきを」
「気のせい、じゃないのか」玄弥は言った。
「だと、いいけどな」カイはそう言って、口をつぐんだ。それ以上は言葉にしなかった。たぶん、言葉にできなかったんだと思う。
洞窟の奥に、核があった。
黒い塊。脈打つ呪具。けれど――そのまわりに、赤く燃える記憶鉱が、玉みたいに固まって貼りついていた。びっしりと。脈打って。その一つひとつの中に、人の影が見える。腕を振り上げ、槌を握り、掘り、運び、汗をぬぐう。鉱夫たちの記憶。働く姿のまま。閉じ込められて。
「あれを、断つ」玄弥はエクスカリバーを握りかけた。
光刃を伸ばそうとして、手が止まった。
『よせ、玄弥』エクスが鋭く言った。声がまた、少し戻っていた。『見よ。あの核は――鉱夫たちの記憶そのものだ。森の核とは違う。あれは外から貼りついた呪いではない。記憶鉱がそのまま固まって、核になっている。斬れば――』
「中の記憶も」玄弥は息を詰めた。「砕ける」
『そうだ』エクスは言った。『鉱夫の心ごと、断ち割ることになる。あの中でもがいている人々が、二度と戻らなくなる。森のときは斬ってよかった。だが、ここは斬ってはならん』
玄弥は、掲げかけた剣を下ろした。
核を見た。赤く脈打つ記憶鉱の玉を。その中でもがく鉱夫たちを。斬れば終わる。簡単だ。でも――それは、燃料を燃やし尽くして火を消すのと同じだ。中の人ごと。
「斬らない」玄弥は言った。低く。「斬ったら駄目なんだ、これは。――でも、暴走は止めなきゃならない。斬らずに。どうやって」
「圧だ」カイが叫んだ。機体から飛び降りて。核を見上げて。「見ろ。記憶鉱が暴れてるのは、行き場がないからだ。熱がたまって、たまって、逃げられない。だから地上へ噴き上げる。――昔は、ここに逃がし弁があったはずなんだ。炉の排熱路が。グランヴェルは火山の火を扱う国だぞ。熱を逃がす仕組みがないわけ、ないんだ」
カイは洞窟の壁を走った。手で煤をこすって、古い石組みを探す。整備屋の目で。
「あった」カイが叫んだ。「ここだ。塞がれてる。黒冠魔導団が、わざと塞いだんだ。逃がし弁を。だから熱が暴れる。――これをもう一度開けば、圧が抜ける。暴走はおさまる」
「直せるのか」玄弥は聞いた。
「一人じゃ、無理だ」カイは額の汗をぬぐった。「崩れてる。石組みを組み直して、熱を受けながら弁をこじ開ける。手が足りない。それに、この熱だぞ。生身じゃもたない」
「機体でやれ」団長が進み出た。「我らの鋼壁機を使え。私一機では足りんが――」
「団長」カイが振り向いた。「あんたら、連環誓気って使えるよな。鋼壁重騎団の。何人もの守る想いを、鎖みたいに繋いで、盾を重ねるやつ。あれ、こういうときに効くんじゃないか。一人の力じゃ足りないものを、何人もで繋いで支えるなら」
団長の目が、見開かれた。
「……整備屋のお前が」団長は低く言った。「我らの操縦原理を知っているとはな」
「セレノアで聞きかじっただけだ」カイは言った。「理屈は、たぶん同じだろ。一人で背負えないものは、何人かで繋いで背負う。盾でも。弁でも」
団長が笑った。岩のような顔で。はじめて。
「面白い」団長は言った。「鋼壁重騎団、総出だ。動かぬ機体も構わん。誓気だけは流せる。盾を繋げ。連環誓気で。この整備屋の号令の下に」
鋼壁の兵たちが動いた。
動かない機体に乗り込んで。それでも誓気を流す。都を守るという想いを。一機。二機。十機。灰色がかった銀の光が、機体の継ぎ目に灯った。そして――その光が、鎖みたいに繋がった。一つの機体の誓気が、隣へ。隣から、また隣へ。ここを守る。ここを守る。ここを守る。何十もの想いが連なって、一枚の巨大な盾に重なった。
「これが」玄弥は声を落とした。「連環誓気か」
「一人倒れても、隣が継ぐ」団長の声が響いた。「それが鋼壁の戦い方だ。攻めは苦手だ。だが、守ることなら――誰にも負けん」
その重ねられた盾の影で、カイが走った。
熱風の噴き出す逃がし弁へ。連なる盾が熱を受け止めた。びくともしない。そのこちら側で、カイは工具をふるった。崩れた石組みを組み直し、錆びついた弁をこじ開けにかかる。汗が滝みたいに流れた。額に。背中に。けれど、手は止まらなかった。
「ガレス、そっち押さえろ」カイが叫んだ。「玄弥、そのてこ、引け。せーので。いくぞ」
「おう」
三人で。盾の影で。重い弁をこじ開けた。せーの、で。ぎい、と鈍い音がして、古い排熱路が、何百年ぶりかに口を開けた。
たまっていた熱が、どっと抜けた。
逃がし弁から、火山の空へ。まっすぐ。地上の噴き出しがおさまっていく。圧が抜けていく。暴走の勢いが、少しずつ、和らいでいった。
「抜けた」カイが膝をついた。荒い息で。「圧が、抜けた。これで――暴走は止まる。あとは」
あとは。核だ。
まだ赤く脈打つ記憶鉱の玉。その中でもがく鉱夫たち。圧は抜けた。でも、彼らはまだ閉じ込められたまま、働き続けている。終わらない仕事の中に。
玄弥は、剣を鞘に戻した。
核へ歩み寄った。斬るためじゃない。手を差し入れるために。
「玄弥」カイが止めかけた。「熱いぞ、それ」
「分かってる」
熱かった。指が灼けた。それでも玄弥は、記憶鉱の玉へ手を差し入れた。脈打つ赤い光の中へ。そこにいる鉱夫たちへ。一人ずつ。触れるように。
「あんたたち」玄弥は言った。「もう、上がっていいぞ」
核が、ぴくり、と震えた。
「もう、上がっていい」玄弥は繰り返した。「仕事は終わりだ。よく働いた。長いこと。ずっと。――でも、もう、いいんだ」
玄弥は、目を閉じた。
鉱夫たちの名前を探した。記憶鉱の中から。光の奥に刻まれた名前を。一つずつ。指でなぞるように。読み上げた。
「ヨルグ」玄弥は呼んだ。「もう、上がっていい。仕事は終わりだ」
一つの光が、ふっとほどけて、穏やかな金色に変わった。
「ミルザ。もう、上がっていい」
また、一つ。
「ベルタ。ハンノ。クルト。――もう、いい。みんな、よくやった。もう、休んでいい」
名前を呼ぶたびに、光が一つずつほどけていった。働く姿が、槌を置き、手を止めて、顔を上げる。長い、長い仕事の終わりに。けれど――名前は無数にあった。何十人。何百人。掘り続けた鉱夫たちの、すべて。一人ずつ呼んでいては、玄弥の声では届ききらない。
『玄弥』エクスが言った。『すべての名を呼びきるには――足りん。お前の声では。光刃を伸ばすときと同じだ。届かせるには代償がいる。お前の記憶を一つ、差し出せ。そうすれば、声がすべての名に届く』
玄弥は迷わなかった。
「いいよ」玄弥は言った。「持ってけ」
胸の奥で、何かがひとつ、ほどけて抜けていった。誰かと笑い合った記憶。誰だったかは、もう思い出せない。けれど、あたたかい記憶だった。それが玄弥から離れて――声になった。すべての鉱夫の名に届く、声に。
「みんな」玄弥は呼んだ。声が洞窟じゅうに満ちた。一人ずつ、ではなく。すべての名を一度に。「仕事は終わりだ。もう、上がっていい。長いこと、ご苦労さま。――おかえり」
赤い、暴走の光が、いっせいにほどけた。
槌を置く音。手を洗う音。長い息をつく音。何百もの記憶が、役目を終えて、穏やかな金色の光に変わっていく。脈打つのをやめて。地下の洞窟が静かになった。記憶鉱が、本来の姿に戻った。終業のあとの、あの静けさに。
地上でも、噴き出していた炎がおさまった。都をなめていた熱が引いた。地割れがふさがった。都じゅうの地面から噴き出していた赤い光が、消えた。
都は、救われた。
炉が、また燃え始めた。けれど、今度は暴走の炎じゃない。穏やかな鍛冶の火だ。職人たちがわれに返って、歓声を上げた。鉱夫たちが――洞窟からよろめき出てきた。記憶を取り戻して。「ここは、どこだ」「俺たちは、どうして」とつぶやきながら。けれど、その目には、生きている光があった。
団長が操縦槽から降りてきた。
玄弥の前に立って、深く頭を下げた。岩のような男が。
「礼を言う」団長は言った。「お前は我が都を救った。剣で斬ったのではない。剣を抜きかけて――やめた。あの核を斬れば、簡単だった。だが、お前は斬らなかった。代わりに名を返した。一人ずつ。仕事を終わらせて、休ませた。――我らが長年、燃料としか見ていなかったものの中に。名前を持った人がいることを。お前が教えてくれた。それと――」
団長はカイを見た。
「そこの整備屋」と団長は言った。「我らの連環誓気を借りて、逃がし弁を再建したのは見事だった。鋼壁重騎団でも忘れていた、古い排熱路だ。お前のような整備屋が、この都にひとりいれば。我らはもっと早く立ち直れたものを」
カイはぼそりと、「整備しか能がないんだ」と言って、耳を赤くして顔をそむけた。
団長は、顔を上げた。
「決めた」団長は言った。「鋼壁重騎団は、お前に従う。聖剣の少年に。お前が率いるなら、我らは剣を貸そう。連合の頭に立て。お前なら――誰の下にも属さぬ、中立の勇者なら、我らも納得する」
玄弥はしばらく、団長を見ていた。
うれしさと苦しさが、同時に胸に来た。せっかく認めてくれた。なのに。
「ありがとう」玄弥は言った。「でも――それは、断る」
団長が眉を寄せた。
「あんたが俺に従うって言ってくれたの、すげえうれしい」玄弥は続けた。「本当だ。でも、俺に従っても、駄目なんだ。俺がいなくなったら、どうする。俺がいる間だけの連合じゃ、意味がない」
「では、どうしろと」団長が聞いた。
「あんたが従うべきなのは、俺じゃない」玄弥は言った。「アルディアと。セレノアと。レイグラスと――約束するんだ。王国同士で。俺を間に挟まずに。直接。困ったときは助け合うって。それは、俺がいてもいなくても続く。俺に従うのは楽だよ。責任を俺に預けられるから。でも、それじゃ、また、一人に押しつけることになる」
団長は、玄弥を見つめた。
それから、深く息をついた。
「……お前は」団長は苦笑した。「面倒な勇者だな。差し出された王冠を突き返す馬鹿は、お前くらいだ」
「よく言われる」玄弥は笑った。
「だが」団長は続けた。「お前の言うことは、分かる。我らはこれまで、誰かに従うか、誰かを従えるか、しか考えてこなかった。横に並んで約束する、ということを――忘れていた」
団長はガレスを見た。白角機の騎士を。
「アルディアの騎士よ」団長は言った。「お前の都が危機のときは、鋼壁重騎団が駆けつける。約束しよう。お前に対してではない。お前の都に対して」
「我らも同じだ」ガレスがうなずいた。「鋼壁重騎団が危機のときは、白角騎士団が盾になる。約束する」
二つの王国が、はじめて、横に並んで約束を交わした。玄弥を間に挟まずに。直接。
玄弥は、その光景を見ていた。胸がいっぱいになった。たった二国。けれど、一歩だ。確かな一歩。
カイが、隣に来た。
「お前さ」カイがぽつりと言った。「やっぱり、変なやつだな。せっかく王になれたのに」
「変で、いいよ」玄弥は笑った。「俺、王には向いてない。一人ずつしか、つなげない。地味だけど。――でも、これで二国だ。あと、二つ」
炉の火が、灰色の都をあたたかく照らしていた。暴走の炎じゃない。鍛冶の火。人を焼く火じゃなく、鉄を鍛え、暮らしを支える、火。
玄弥はその火を見ながら、心の中で、また誰かにつぶやいた。名前も顔もぼやけている、誰かに。
「二国目、つないだよ」玄弥は言った。「ちょっとずつ、進んでる。だから――もうちょっとだけ、待っててくれ」
その想いがどこへ届いたのかは、分からなかった。
けれど、炉の煙が、まっすぐ、赤い空へ立ち上っていった。
読んでくださり、ありがとうございます。
四王国巡戦、その一国目です。
グランヴェルは、頑丈で、無骨で、けれど兵糧攻めという、いちばん地味で、いちばん効く手に、じわじわ追い詰められている。
派手な戦いではなく、補給を断たれて干上がる――この、現実的な弱り方を、書きたかった。
火山の地下で、玄弥が見たのは、燃料にされかけた鉱夫たちの記憶でした。
鋼壁重騎団は、ずっとそれを「燃料」として見てきた。その中に「人がいる」と気づかせること。それが、この章の芯です。
そして団長は、玄弥に「お前に従う」と言います。
差し出された王冠。けれど玄弥は、また突き返しました。従うべきは、自分ではなく、横にいる王国同士だ、と。アルディアとグランヴェルが、玄弥を間に挟まずに、直接、約束を交わす。
たった二国。でも、一歩です。
一人ずつ。地味でも。次は、カイの故郷――セレノアの森へ向かいます。




