第44章 境界獣の森
四王国を結ぶ古道は、境界獣に封じられていました。
騎士たちは討とうとしますが、玄弥は獣の目を見て気づきます。
これは、操られている目だ、と。光る森のいちばん奥に、誰かが埋め込んだ呪具が、獣たちを苦しめています。
四王国をつなぐには、古道を通らねばならなかった。
アルディアから、グランヴェルへ。セレノアへ。レイグラスへ。四つの王国を結ぶ、古い街道。けれど、その道は今、封鎖されていた。
「境界獣の森だ」アヴァロンが地図を広げて言った。古道のまんなかに、深い森が描かれていた。「魔王軍を恐れて、境界獣が森の奥から出てきている。道をふさいで、何者も通さない。ここを抜けねば、四王国を回ることはできん」
「討つしか、あるまい」ガレスが剣の柄に手をかけた。「白角騎士団で獣を討ち、道をこじ開ける」
「待って」
玄弥は地図を覗き込んだ。森の絵を、じっと見て。
「境界獣って、前に谷で会った」玄弥は言った。「襲ってくるように見えて、子どもを守ってただけ、だった。あいつら、理由もなく暴れる、生き物じゃない」
「では、なぜ道をふさぐ」ガレスが聞いた。
「分からない」玄弥は首を振った。理由を、うまく言葉にできない自分が、もどかしかった。「でも、何か理由があるはずだ。それを確かめないで討つのは――早い。少なくとも、俺は、そう思う」
翌朝。
玄弥、カイ、ガレス、アヴァロン、そして白角騎士団の一隊が、森へ入った。カイは鎧巨兵で。ほかは徒歩で。森の中は薄暗く、けれど、奇妙に明るかった。葉脈が淡く発光していた。苔も。木の幹も。歩くたびに、足もとから光の粒が舞い上がった。掌で受けると、すぐ消える。雪じゃないのに、雪を思い出した。
「きれいな森だな」玄弥は思わずつぶやいた。蛍を、いっぺんに何千匹も放したみたいだ。いや、蛍を、どこで見たんだったか。それすら、もう曖昧だった。誰かと、夜の川べりで。そこまで来て、また、ぷつりと切れる。
「セレノアの森も、こんなふうに光ってた。夜になると。――燃える前は」鎧巨兵の中から、カイの声がした。
玄弥は何も言わなかった。ただ、その声が、いつもよりやわらかいことに気づいた。
しばらく、鎧巨兵の足音だけが、光る苔を踏んでいた。
「父さんが」カイが続けた。誰に言うでもなく。「いや、父さんだったか、誰だったか。とにかく、誰かが、おれを肩車して、夜の森を歩いてくれた。気がする。光る葉っぱを手ですくって。きれいだろって。――そういう断片だけ、残ってるんだ。顔は、ないのに。肩の高さの感じだけ。木の匂いだけ」
「それ、大事な記憶だ。たぶん」玄弥は言った。自分にも、似たかけらが、いくつかあった。冷たい金属の感触とか。手すりの高さとか。誰のものかは、もう分からない。
「分からない」カイは首を振った。機体の中で。「誰のことか、分からないんだから。大事かどうかも、分からない。――でも、思い出すと、ちょっと、あったかい。それだけだ」
肩車の高さ。木の匂い。あたたかさ。名前が消えても、それは消えていなかった。城壁と、同じだ。
森の奥へ、進むほど。
空気が変わった。光る葉が、ちりちりと震え始めた。木々がざわめいた。葉の発光が、脈を打つように明滅した。強くなったり、弱くなったり。心臓が乱れたときの、あの感じに似ていた。何かが苦しんでいるような。怯えているような。
突然。
頭上から、巨大な影が落ちてきた。
羽虫だった。けれど、馬車ほどの大きさ。何枚もの薄い羽を震わせて。ぎいいっ、と耳をつんざく音を立てて。玄弥たちへ突っ込んできた。
「来た!」ガレスが剣を抜いた。
森のあちこちから、境界獣が現れた。
骨だけの鹿。白い骨格が走り回る。樹木と一体化した竜。幹から鱗のある首を伸ばし、こちらをにらむ。羽虫の群れ。森じゅうが、敵に見えた。
「囲まれた」アヴァロンが背中を合わせた。「玄弥、これでも、襲ってきていない、と言うのか」
「言う」玄弥はエクスカリバーを握った。けれど、抜かなかった。獣たちを、じっと見て。「見ろよ。あいつら、目がおかしい。赤く濁ってる。――谷で会ったやつらと、ちがう。あの谷の獣は、ちゃんと生きてる目をしてた。こいつらは、何かに操られてる、目だ」
骨の鹿が突進してきた。
玄弥は横へ飛んだ。鹿の角を、ぎりぎりでかわす。鹿はそのまま、木にぶつかってよろめいた。その脇腹に。
黒い何かが、埋め込まれていた。獣の体に。脈打つ黒い結晶のようなもの。そこから黒い筋が、獣の体じゅうに広がっている。血管のように。
「あれだ」玄弥は叫んだ。「あいつら、体に何か埋め込まれてる。黒い石みたいなのが。あれが、獣を狂わせてる」
『呪具だ』アヴァロンが目をすがめた。『黒冠魔導団の。獣の体に呪具を埋め込み、操っている。森に巣があるはずだ。その中心に。大もとの呪具が』
「巣をつぶせば、獣は元に戻るのか」玄弥は言った。
『おそらく』
「カイ!」玄弥は鎧巨兵を振り仰いだ。「巣の中心へ突っ込む。場所、分かるか」
「光がいちばん弱ってる、ほうだ」カイが即座に答えた。「森が苦しんでる中心。――あっちだ。森の、いちばん奥」
カイの鎧巨兵が走り出した。玄弥が、その肩に飛び乗る。ガレスたちが後ろを守る。羽虫の群れを、騎士たちが剣で払いのける。けれど、誰も獣を殺さなかった。玄弥がそう頼んだから。獣に罪はない、と。
森の奥へ。光が消えかけたほうへ。
樹木と一体化した竜が、立ちふさがった。幹から伸びた、長い首。口を開けて、黒い息を吐く。カイの機体が、それをかわす。竜の胸にも、黒い呪具が埋まっていた。竜は苦しんでいた。操られて。本当は暴れたくないのに。涙のような樹液を流して。
「ごめんな」玄弥は肩の上でつぶやいた。声が、竜に届くはずもないのに、つい、口に出た。「すぐ、楽にしてやる。もう少しだけ、我慢してくれ」
巣の中心が見えた。
森のいちばん奥。巨大な樹の根もとに、黒い塊があった。脈打つ呪具の本体。そこから無数の黒い筋が、森じゅうへ伸びていた。獣たちを操る糸。森を苦しめる根。
「あれを、断つ」玄弥はエクスカリバーを構えた。
『玄弥』エクスが言った。今度ははっきりとした声で。少し力が戻っていた。『あれは大きい。ただの鎖とはちがう。光刃を伸ばさねば、届かない。代償が――』
「分かってる」玄弥は言った。「でも、これは斬らなきゃならない。獣を、森を、自由にするために。一回だけ。一回だけ、大きく振るう」
玄弥はエクスカリバーを、頭上へ掲げた。
光刃が伸びた。森の闇を裂くように。白く、まぶしく。胸の奥で、何かが削れていく感覚。誰かと過ごした時間の記憶が。ひとつ、ふたつ、こぼれ落ちていく。それでも、玄弥は止めなかった。歯を食いしばって。
「カイ、近づけ!」
鎧巨兵が、呪具へ突っ込んだ。
玄弥は肩の上から跳んだ。空中で、光刃を振り下ろした。黒い呪具のまんなかへ。森を苦しめる、すべての糸の、結び目へ。
光がはじけた。
ばきっ、と。
呪具が断たれた。黒い筋が、いっせいにちぎれ飛んだ。森じゅうの獣の体から、黒い結晶が、ぼろぼろと崩れ落ちた。獣たちの赤く濁った目が――すうっと澄んでいった。
羽虫が羽を止めた。骨の鹿が立ち止まった。竜が苦しみから解放されて、長い首を、ゆっくりとおろした。森が静まった。光が、また強く灯り始めた。葉脈が。苔が。木の幹が。森じゅうが、息を吹き返したように明るくなった。
玄弥は地面に着地した。膝をつく。くらりと、めまいがした。また、何かを忘れた。何を忘れたのかも分からないまま。
「玄弥どの!」ガレスが駆け寄った。差し出された手を、玄弥は一度、断った。自分で立ちたかった。
「平気」玄弥は立ち上がった。よろめきながら。「ちょっと、また忘れただけ。何を忘れたかも忘れたから、たいしたことないよ」
「軽口を叩くな」アヴァロンが苦い顔をした。「いつか、お前自身を忘れる」
「その時は、誰か、思い出させてくれよ」玄弥は笑った。「城壁みたいに。みんなで語ってさ」
澄んだ目の境界獣たちが、森の奥から、こちらを見ていた。もう、敵意はなかった。竜が長い首を伸ばして。玄弥のほうへ。怖がらせないように、ゆっくりと。鼻先を近づけた。玄弥は、そっとその鱗に触れた。ひんやりして、すべすべしていた。それでいて、奥に火の通った石みたいな、かすかな熱があった。竜が低く鳴いた。喉の奥を震わせるような、長い音。礼を言うように。
そして、竜は翼を広げた。
森の天蓋が割れて、光が差し込んだ。竜が空へ舞い上がった。境界獣たちが、それに続いた。羽虫が。骨の鹿が。森の上空に、道を作るように。四王国へ通じる、空の道を。
「空路を開いてくれてる」カイが操縦槽から言った。「獣たちが。礼のつもりか」
「だな」玄弥は空を見上げて笑った。「斬らなくて、よかった」
そのとき。
森の最深部の岩壁に。凪人なら、きっと最初に気づいただろう。玄弥は、ふとそれに目を留めた。岩壁に、古い絵が描かれていた。色あせて。けれど、はっきりと残っていた。
古代の壁画。
そこには、ひとりの人間が描かれていた。両手を広げて。二つの世界のあいだに立っている。楔のように。その二つの世界がぶつからないように、身をもって支えている、姿。
そして、その人間の頭上に。
黒い王冠が、描かれていた。
絵の具は岩に染み込んで、爪を立てても剥がれそうになかった。指の腹が、ざらりとした岩肌に触れる。
「これ、楔だ。最初の楔」玄弥は指先で、壁の冷たい絵をなぞった。「二つの世界をつないだ、人。――そして、黒い、王冠」
「魔王の王冠だ」アヴァロンが壁画を見上げた。声が低く沈んだ。「なぜ、最初の楔の頭上に、魔王の王冠が描かれている」
玄弥は壁画を見つめた。
胸がざわついた。最初に楔になった人。その頭上の、黒い王冠。魔王。――それは別々のもの、なのか。それとも。
玄弥は、ふと、魔王の最後の言葉を思い出した。自由になど、なりたくない。私は、楔のままで、いたいのだ。あのとき、魔王はそう叫んだ。なぜ楔のままでいたいのか。誰が、好きこのんで、二つの世界のあいだに、たった一人で立ち続けたいと思うのか。
玄弥は、楔のつらさを知っていた。今、まさに、自分がその立場にいるから。記憶を失い、名前を忘れ、たった一人で境界に立つ。それは、こんなにも孤独で。こんなにも、報われない。
「もしかして」玄弥はつぶやいた。「魔王も――最初は」
言葉が続かなかった。
けれど、何かが胸の奥で、繋がりかけていた。壁画の楔。黒い王冠。そして、孤独な魔王。まだ、はっきりとは見えない。けれど、確かに、そこにある。
「玄弥」エクスがかすれた声で言った。『私は、これを見たことがある気がする。遠い、昔。私がまだ、誰かの手にあった頃。――だが、思い出せん。私も忘れている。何か、大切なことを』
玄弥は壁画を、心に刻んだ。今は分からない。けれど、いつか、この絵の意味が分かる気がした。
光る森を抜けて。
玄弥たちは空路を見上げた。境界獣たちが開いた道。四王国へ通じる、空の街道。これで、四つの国を回れる。連合を呼びかけられる。
「行こう」玄弥は言った。「まずはアルディアで、四王国の使者を集める。みんなをつなぐんだ。一人を、楔にしないために」
カイが、鎧巨兵の手を差し出した。
玄弥がその手に乗る。肩へ上がる。光る森が、足もとに広がっていた。空には赤い雲海。けれど、その下を、澄んだ目の境界獣たちが、自由に飛んでいた。
「カイ、セレノアにも行くからな」玄弥は肩の上で言った。「あんたの故郷だろ。焼かれても、土地は残ってる。一緒に見に行こう」
カイは、しばらく黙っていた。
それから、ぶっきらぼうに言った。けれど、その声は、ほんの少し湿っていた。
「……勝手に決めるな」カイは言った。「でも――まあ。連れてけって言うなら。考えてやる」
玄弥は笑った。
森を抜けて。鎧巨兵が、空路へ向かって歩き出した。
壁画の人間が、誰もいなくなった森の奥で、両手を広げたまま、二つの世界を支え続けていた。何百年も。何千年も。ひとりきりで。
読んでくださり、ありがとうございます。
第二十五章で、玄弥は境界獣を「襲ってきたのではなく、子を守っていただけ」と見抜きました。この章でも芯は同じです。暴れる獣の奥に、操られた苦しみがある。呪具を断てば、獣は敵でなくなる。竜が涙のような樹液を流す描写を入れたのは、敵に見えるものほど助けを呼んでいる、という物語の根を、もう一度確かめたかったからです。
ただ、今回ばかりは光刃を大きく振るわねば呪具に届かなかった。そのぶん玄弥はまた記憶を失います。「何を忘れたかも忘れた」と軽口を叩く彼に、アヴァロンが「いつか自分自身を忘れる」と返す。代償は、確実に積み重なっています。
そして森の最深部の壁画――最初の楔と、その頭上の黒い王冠。これは第三部最大の謎、「魔王とは何者か」へ続く、いちばん大切な伏線です。エクスすら、何かを忘れている。この絵の意味は、終盤で必ず明かします。
獣たちが空路を開いてくれました。次章、いよいよ四王国会議。けれど、剣より遠いのは、人の心です。




