第41章 赤い雲海の下
ここから第三部、四王国連合・異世界決戦編が始まります。剣も玄弥も、向こう側へ。赤い雲海の下、記憶を半分なくした勇者が、たった一人で目を覚まします。けれど、谷の底で出会う、もう一人の少年が――この長い旅の、最初の灯になります。
目を覚ましたとき、玄弥は、自分が誰なのか、すぐには思い出せなかった。
頬に当たっているのは、ひび割れた赤い土だった。乾いていて、すこし焦げ臭い。手のひらの下で、小さな石がいくつも転がっている。背中も腰も、どこもかしこも痛かった。けれど、その痛みが、かえって、自分がまだ生きていることを教えてくれた。痛いということは、まだ、ここにいるということだ。
ゆっくりと起き上がる。砂が、こめかみから、はらはらと落ちた。空を見上げた瞬間、喉の奥で、声にならない音が引っかかった。
赤い、雲の海が、そこにあった。
夕焼けでも朝焼けでもない。どろりとした赤が、何層にも重なって、波みたいにうねっている。その隙間からときどき、青白い大きな星が、こぼれ落ちるように見えた。三島の空では、見たことのない星だ。なんでこんなときに、と自分でも思うのに、ひどく腹が減っていた。最後に何か食ったのが、いつだったのかも思い出せない。
「……三島」
その言葉が、勝手に口をついて出た。けれど、その町の景色は、もうぼんやり霞んでいる。青い空。コンビニの白い光。源兵衛川のせせらぎ。どれも知っているはずなのに、手ですくおうとすると、するりと指の間からこぼれていく。
覚えているのは断片だけだった。信号待ちの横断歩道。誰かの泣き顔。星を数える子どもの声。それから――「待ってろ」と言った、自分の声。誰に言ったのかは、もう思い出せない。
玄弥は、自分の右手を見た。
そこに、剣があった。白い刀身。柄にほどこされた、古い紋様。エクスカリバー。それだけははっきり分かった。掌になじむ重さ。何度も握ってきた手応えが、まだ手のひらに残っている。これだけは、忘れていない。むしろ、体のほうが覚えている、という感じだった。
「エクス」玄弥は呼びかけた。「いるか」
『……ああ』
声は遠かった。水の底から聞こえてくるみたいに。いつもの張りのある響きがない。かすれて、途切れがちで。ひどく疲れているみたいだった。
『すまない、玄弥』エクスが言った。『私も力を使い果たした。お前をここまで運ぶので精いっぱいだった。声を保つのも――今は、つらい』
「無理すんなよ」玄弥は剣の柄を、そっと撫でた。指の腹に、刻まれた紋様のでこぼこが伝わってくる。「俺たち、けっこう満身創痍だな。お互いさまだ。喋れるだけ、ましだと思っとくよ」
『お前は、覚えているか』エクスがためらいがちに聞いた。『お前が、何をしたのか』
玄弥は目を閉じた。思い出そうとした。けれど出てくるのは、白い光と、誰かの伸ばした手と、それから、はじけるような別れの感覚だけ。
「楔になったんだろ、俺が。みんなを帰すために」玄弥は言った。「――それは覚えてる。なんでか、ぜんぶは思い出せないけど。そこだけは、ちゃんとここにある」
胸のまんなかを、こぶしで軽く叩いた。とん、と。
『記憶を使った代償だ』エクスの声が痛ましげに揺れた。『境界を越えるたび。剣を振るうたび。お前は自分を、少しずつ向こうへ置いてきた。名前すら危ういところまで』
「伊勢崎玄弥」玄弥はゆっくり口にした。確かめるように。「俺の名前は、伊勢崎玄弥。寝坊ばっかりの馬鹿。――それは、誰かが言ってた。何度も。耳にこびりついてる。だからこれだけは忘れない。誰が言ったのか、思い出せなくても」
言いながら、胸が痛んだ。
その「誰か」の顔が、もうぼやけている。大事な人だったはずなのに。すごく、大事な。なのに。
無理やり、たぐり寄せようとした。女の子の声。腕の擦り傷。乱れた髪。泣きながら叫んでいた。あんたの名前は伊勢崎玄弥、と。そこまでは出てくる。けれど、その子の顔が、白く塗りつぶされていた。名前も、最後の一音だけが、舌の先に残っている。み、で始まる名前。み。み――。だめだ。先が出てこない。喉まで来ているのに。
「出てこない」玄弥は額を押さえた。「あれだけ必死に呼んでくれたのに。あの子の名前すら」
『焦るな』エクスが静かに言った。『無理にたぐり寄せれば、かえってほつれる。記憶とはそういうものだ。ふとした拍子に戻ることもある。匂い。音。光。――お前の芯に、いちばん近い記憶は、最後まで残る。それを信じろ』
「芯に近い記憶、か」玄弥はぽつりとつぶやいた。「それが、守りたいって気持ち、なんだな」
立ち上がる。膝が笑った。それでも立った。
あたりを見渡す。赤い荒野が、どこまでも続いていた。遠くに、巨大な樹が一本。城壁よりも高い、黒い影。そのさらに向こうに、骨で組まれたような城がそびえていた。白い骨格が雲海の赤に染まって、生き物のなきがらが、そのまま城になったような不気味さだ。見ていると、なぜか奥歯のあたりがすうっと冷たくなる。
ここが向こう側。アヴァロンたちのいた世界。大河のいる――。
その名前が、ふいに口をついて出た。「大河」と。口にしてから、玄弥は自分の言葉に追いつかれたように、唇を結んだ。大河。星を数える子。迎えに行くと約束した。けれど、もう帰したはずだ。たしか。帰したはずなのに、なぜ、まだ、こんなに胸が騒ぐのか。順番が合わない。帰したのか、まだなのか。
「ぜんぶ、ごちゃごちゃだ」こめかみを押さえた。「記憶が。順番が、めちゃくちゃになってる」
そのとき、空が鳴った。
遠い雷のような低い響き。けれど雷じゃない。何か巨大なものの声だった。腹の底に、ずん、と響く。
骨の城のほうから、黒い光の柱が立ち上った。空へ向かって、赤い雲海を貫いて。その柱の根もとから、声が放たれた。世界じゅうに届くような声が。
『聞け』
玄弥は、その声を知っていた。忘れたくても忘れられない声。魔王の声だった。
『私は帰った。境界の向こうから、この世界へ。――そして、聖剣の継承者も共に来た。伊勢崎玄弥。あの忌々しい剣の持ち主が』
黒い柱が脈打った。
『全軍に命じる』魔王の声が低く響いた。『継承者を、生かして帰すな。あれがいるかぎり、私はまた、誰かに覚えられてしまう。名を呼ばれてしまう。――それは許さん。あれを消せ。記憶のひとかけらも残さず、消せ』
声が止んだ。黒い柱が、すうっと消えていく。けれど、その命令は世界じゅうの魔王軍へしみ込んでいった。玄弥には、それが分かった。風が変わった。土が震えた。無数の目が、こちらを探し始めた気配。
「俺を、生かして帰すな、か」玄弥はぽつりと言った。「派手な歓迎だな。せめて飯くらい出してくれよ」
『玄弥、隠れろ』エクスがかすれた声で言った。『今のお前は戦えない。私も刃を保てるか分からん。荒野のまんなかは危険だ。身を隠せる場所を――』
その言葉の途中で。
地平線の向こうから、黒い群れが現れた。
黒殻騎。魔王軍の量産型、鎧巨兵。全高七メートル。黒い甲殻。王冠に似た頭部。継ぎ目が赤く光っている。一体。二体。三体。――いや、もっと。追跡部隊。命令を受けて、もう玄弥を嗅ぎつけた。
「はや」玄弥は思わずつぶやいた。「逃げ足、こっちがほしいくらいだ」
走った。膝の笑いを無視して。赤い荒野を。黒殻騎の足音が地響きになって追ってくる。地面が揺れる。背中に敵意が突き刺さる。
玄弥はエクスカリバーを握り直した。けれど、抜けなかった。いや、抜けば刃は出る。出るけれど。
『使うな』エクスが叫ぶように言った。『今、剣を大きく振るえば、お前はまた記憶を失う。残ったわずかなお前の芯まで。――それだけは駄目だ。逃げろ。今は逃げるんだ』
「分かってる」玄弥は歯を食いしばった。「だから走ってんだろ」
前方に、亀裂が見えた。大地が深く裂けて、谷になっている。両側に切り立った赤い岩壁。その底へ、細い道が続いていた。狭い。あの巨体じゃ、入りにくい。
「あそこだ」玄弥は谷へ駆け込んだ。
黒殻騎の群れが、谷の入り口でつかえた。巨体が岩壁にぶつかる。それでも無理やり押し入ろうとする。岩が崩れる。砂煙が上がる。一体が腕を伸ばしてきた。指先が、玄弥のすぐ後ろをかすめた。風圧で、背中の汗が冷えた。
転がるように、岩陰へ滑り込む。その先に、もっと狭い横穴があった。迷わず潜り込む。背中を岩にこすりながら。後ろで黒殻騎の咆哮が響いた。届かない獲物への、苛立ち。
しばらく、玄弥は暗闇の中を進んだ。息が上がっていた。心臓が痛いほど鳴っている。それでも足を止めなかった。やがて横穴の先に、淡い光が見えた。出口だ。そこへ転がり出る。
谷の底だった。
潜り込んだ拍子に、どこかで膝をすりむいたらしい。ズボンの裾がじわりと滲んでいたが、痛みを感じる余裕すら、今はなかった。頭上、はるか高くに、細く赤い空が見える。両側を岩壁にはさまれて。底には、不思議と緑が生えていた。淡く発光する苔。葉脈が光る低い木。三島でも異世界の荒野でもない、奇妙に静かな場所だった。
玄弥は、岩に背を預けて座り込んだ。ぜえぜえと、肩で息をする。
「……ここまで来れば」つぶやいた。「あいつら、入ってこられないか」
『当面は』エクスが言った。声はまだ弱い。『だが、長くはもたない。あの数だ。いずれ谷を回り込む。それまでにお前は、力を取り戻すか、味方を見つけるか――』
そのとき。
音がした。
金属を叩く音。かん、かん、かん、と。規則正しく。誰かが、何かを修理しているような。
玄弥は顔を上げた。
谷の奥。岩の陰に、何か大きな影が横たわっていた。鎧巨兵だった。けれど動いていない。壊れている。片腕がもげて。甲殻に亀裂が走って。横倒しになって。
その巨体の胸のあたりに、ひとりの人影が、しがみつくように取りついていた。
小柄な影。子ども――いや、玄弥と同じくらいの年ごろの少年だ。すすけた外套。短く切った髪。手に工具らしきものを握って。鎧巨兵の装甲をはずし、何かを覗き込み、また叩いていた。一心不乱に。よそ見ひとつしない。
よほど集中していたのだろう。玄弥が、苔を踏む足音を立てるまで、少年はこちらに気づかなかった。やがて、その足音に、少年がはっと顔を上げた。
鋭い目だった。野良猫みたいな。すぐに工具をこちらへ向けた。武器みたいに構えて。警戒をむき出しにして。
「動くな」少年が低く言った。「それ以上近づくと――殴る」
「いや、待て、待て」玄弥は両手を上げた。「敵じゃない。本当に。武器も、これ、剣だけど、抜く気ないし」
「黒冠の回し者か」少年の目がすがめられた。「それとも、王国の徴兵か。どっちでもいい。おれの機体には、触らせない」
「機体? ああ、これ」玄弥は横倒しの鎧巨兵を見た。「これ、あんたのか。直してるのか、これ」
「だったら、なんだ」
少年は答えながらも、工具をおろさなかった。けれど、その目の奥に、玄弥は別のものを見た。怯えだ。威嚇のいちばん奥に隠された、震え。三島でも何度も見た、あの顔。
怖い顔は、たいてい助けを呼んでいる顔だ。
誰かが昔、そう言っていた。あるいは、自分が言ったのか。もう思い出せない。けれど、その言葉だけは、胸の奥にしっかり残っていた。なぜそれは残っていて、あの子の名前は消えるんだろう。理屈に合わない。
「俺、伊勢崎玄弥」玄弥は両手を上げたまま言った。「向こうの世界から来た。たぶん、あんたの知らないところから。――あんたは?」
少年は、しばらく玄弥をにらんでいた。それから、ふっと力を抜いた。けれど工具は、まだ握ったまま。半分だけ警戒を解いて、半分は解かずに。
「カイ」少年はぶっきらぼうに言った。「カイ・フェルン。――名乗ったからって、おれがお前を信じたわけじゃ、ないからな」
「うん」玄弥は笑った。「それでいい」
谷の底で。淡く光る苔の上で。記憶をなくしかけた勇者と、人を信じることをやめた少年が、はじめて向かい合った。
頭上では、まだ黒殻騎の足音が響いていた。けれど、谷の底には届かない。今は、まだ。
カイは、また機体のほうへ向き直った。工具を握り直して。玄弥に背を向けて。けれど、その背中は、さっきまでのように、こちらを拒んではいなかった。玄弥は、苔の上にあぐらをかいて、その作業を、ぼんやり眺めていた。かん、かん、と金属を叩く音が、谷の底に、規則正しく響く。妙に、落ち着く音だった。
赤い雲海の、下で。長い旅の、最初の夜が、更けていった。
読んでくださり、ありがとうございます。
第二部は、玄弥が楔になって異世界へ消えるところで幕を閉じました。第三部の幕開けは、その玄弥が、誰もいない赤い荒野で目を覚ますところから。剣の声は弱く、三島の記憶もぼやけて、自分の名前すら危うい。それでも「守りたいと思ったことだけは残っている」――この一点を、第三部を貫く芯にしたいと思っています。
魔王は先に帰り、全軍へ「継承者を生かして帰すな」と命じます。追われ、谷へ逃げ込んだ玄弥が出会うのが、新しい仲間、カイ・フェルン。セレノアの難民で、鎧巨兵の整備が得意で、家族の記憶を黒冠魔導団に奪われている少年です。人を信じるのが怖い彼と、忘れることを背負った玄弥。似た傷を抱えた二人が、これからどう変わっていくのか。
野良猫みたいに警戒するカイの「名乗ったからって、信じたわけじゃない」――この距離から、二人の物語を始めます。次章、谷を黒殻騎が囲みます。




