第40章 剣の消えた交差点
等価交換がほどけ、四つの城から異世界が消えていきます。
大河は、母親と再会します。
けれど最後の均衡を保つため、誰かが楔にならなければならない。
玄弥は、自ら、それを選びます。
第一部で玄弥が大河へ言った言葉が、今度は、澪から玄弥へ返される――第二部の、幕切れです。
等価交換が、完全に、ほどけていく。
ニュースの映像が流れていた――と、あとから灯里が教えてくれた。東京の旧江戸城。静岡の駿府城の跡。名古屋城。大阪城。すべての城郭から、異世界の軍勢が、鎧巨兵が、城壁が、すうっと消えていった。重なっていた、二つの世界が、正しく離れていく。赤い雲海が、青い空から剥がれて、遠ざかる。
長い、長い戦いが、終わろうとしていた。
三島大社前の、交差点。
光の中で、玄弥は立っていた。エクスカリバーを握ったまま。鎖を断ち続けて。等価交換をほどき続けて。残った力を、ぜんぶ使い切ろうとしていた。
窓の向こうから、大河が、こちらへ走ってきた。光に、押し出されるように。ランドセルを背負ったまま。
「お兄ちゃん!」大河が叫んだ。「帰ってきたよ! おれ、帰ってきた!」
大河の足が、三島の地面を踏んだ。
規制線の外で、一人の女の人が、ふらり、と前に出た。大河の母親だった。ずっと、息子を待っていた。あの日から。星を見に行く、と言ったきり、帰らなかった、息子を。
「大河」母親の声が、震えた。「大河!」
「お母さん!」
大河が、母親の胸に飛び込んだ。母親が、息子を力いっぱい抱きしめた。崩れ落ちるように、その場に座り込んで。声を上げて、泣いた。何度も、何度も、名前を呼んで。大河のランドセルが、地面にずり落ちて、かたん、と音を立てた。母親はそれにも気づかず、息子の頭を、髪を、背中を、何度も手のひらで確かめていた。本物かどうか、確かめるみたいに。大河も、泣いていた。「ただいま」と。「おそくなって、ごめん」と。
玄弥は、それを見ていた。
ぼんやりと。霧の向こうから見るように。あの子の名前も、もう思い出せなかった。ランドセルの色が、赤だったか、黒だったかも、あやふやだ。あの子と、何を約束したのかも。けれど――あの、抱き合う二人を見ていると、胸のまんなかが、あたたかくなった。よかった、と思った。理由は、分からないけれど。なぜだろう、目の奥が、じんとした。涙が出そうで、でも、なんで泣きそうなのかは、思い出せなくて。それが、いちばん、おかしかった。
四つの城で戦った、人々のもとにも、記憶が、残った。夢のように、曖昧で。けれど、消えない記憶が。あの日、空に赤い海があったこと。黒い巨人と戦ったこと。誰かが、自分を助けてくれたこと。名前は、思い出せない。顔も、ぼやけている。それでも――確かに、誰かがいた。自分を、置いていかなかった、誰かが。その温かさだけが、残った。
玄弥の家にも。
いつだったか、黒殻騎から救い出した、名もない青年がいた。母親の味噌汁のにおいだけを頼りに、自分を取り戻そうとしていた、あの人。駿府城で助けた、姉の名前を人質に取られていた、子ども。二人とも、目を覚ましていた。記憶が、戻ってくる。青年は、自分の名前を思い出した。子どもは、姉の顔を思い出した。「あの人だ」二人はつぶやいた。「あの、寝坊しそうな、お兄ちゃんが、助けてくれたんだ」と。
玄弥が、一人ずつ救ってきた。その一人ずつが、今、自分を取り戻していた。地味で、遅くて、けれど確かな積み重ねが、世界をつり合わせる、ぎりぎりのところで、効いていた。
戦いが、終わった、はずだった。
二つの世界が離れていく、その、最後の瞬間に、玄弥は、気づいた。エクスの声が、教えてくれた。
『玄弥』エクスが言った。『最後の均衡が、保てない。等価交換は、ほどけた。だが――二つの世界の、つり合いを保つ、楔が、まだ必要だ。誰かが、境界に立たなければ、二つの世界は、また、ぶつかる』
「……俺だな」玄弥は、静かに言った。
『玄弥』
「いいんだ」玄弥は、口の端だけで笑った。「最初から、そうするって、決めてた。全員を、帰すためなら、俺が楔になる。誰か一人が、犠牲になるなら――それは、俺でいい。みんなを、帰せたんだから。それで、十分だ」
玄弥は、エクスカリバーを見た。
もう、ほとんど、記憶は残っていなかった。自分の名前すら、曖昧だった。けれど、一つだけ、はっきりと残っていた。守りたい。あの、抱き合う親子。あの、泣いている女の子。名前も、顔も、ぼやけているのに。その想いだけは、消えなかった。
そのとき、空が、また鳴った。
ほどけかけた、王級鎧巨兵。その、崩れていく巨体の中から、魔王が――最後の力で、交差点の中心へ、踏み込んできた。
『伊勢崎玄弥』魔王が叫んだ。『お前だけは、生かして、帰さん。お前がいるかぎり、私はまた、誰かに覚えられてしまう。自由になど、なりたくない。私は、楔のままで、いたいのだ。だから――お前を、道連れにする』
魔王が、交差点の中心へ、足を踏み入れた。
そこは、二つの世界のつり合いが、最も危うい、場所だった。楔の座。踏み込めば、反動に巻き込まれる。玄弥も。魔王も。
「玄弥!」
誰かが、叫んだ。
玄弥は、振り向いた。女の子が、走ってくる。腕に、擦り傷。髪が、乱れて。泣きながら。玄弥のほうへ。誰だっけ。すごく、大事な子。なのに、名前が。
「やだ!」女の子が叫んだ。「行かないで! あんた、また、一人でぜんぶ、背負おうとしてる! やめてよ!」
玄弥は、その子を見た。
「あんたの名前は」女の子が、泣きながら言った。「伊勢崎玄弥。寝坊ばっかりの、馬鹿。毎朝、待たせて。それでも、誰かが困ってると、放っとけない、お人好し。あたしの、幼なじみ。――白石澪。あたしは、白石澪。覚えてる? ねえ、覚えてる?」
「……みお」玄弥は、つぶやいた。
その名前に、絵はついてこなかった。けれど、その子の顔を見ていると、胸が、痛いほど締めつけられた。守りたい。この子を。誰よりも。それだけは、ぜんぶ忘れても、残っていた。
「ごめんな」玄弥は言った。「名前、ちゃんと覚えてられなくて。でも――あんたを、守りたいのは、本当だ。それだけは、消えてない。だから、行くよ。あんたが、いる、この世界を、守るために」
「やだ!」澪が、手を伸ばした。
けれど、届かなかった。指先が、空をつかんだ。
玄弥は、交差点の中心へ歩いていった。魔王へ、向かって。エクスカリバーを握って。最後の楔に、なるために。
光が、ふくれ上がった。
玄弥と、エクスカリバーと、魔王と、崩れていく王級鎧巨兵。それが、ぜんぶ、まぶしい光の中へ包まれていく。境界の、向こう側へ。異世界へ。引き込まれていく。
玄弥は、最後に、振り向いた。
澪を、見た。泣いている、その子を。名前は、もう思い出せない。けれど、その顔は、ずっと覚えていたい、と思った。たとえ、何を忘れても。この顔だけは。
「待ってろ」玄弥は言った。なぜだか、その言葉が、自然に口をついて出た。どこかで聞いた言葉のような、気がした。誰かに言った言葉のような。あるいは、誰かに言われた言葉のような。「絶対、帰ってくる。それまで――待っててくれ」
澪の顔が、くしゃっと歪んだ。
「それ」澪は、泣きながら叫んだ。「あんたが、大河くんに言った言葉だよ! 覚えてないくせに! 馬鹿! 大馬鹿!」
「……そうなのか」玄弥は、少し笑った。「じゃあ、間違って、ないな。ちゃんと、約束に、なってる」
魔王が、すぐ、そばまで来ていた。崩れていく、巨体の影が。玄弥は、最後に、その影へ言った。
「あんたも、一緒に行こう」玄弥は言った。「一人で楔やるの、もう、終わりだ。今度は――二人で、やればいい。俺と、あんたで。そしたら、ちょっとは、寂しくないだろ」
魔王の影が、止まった。一瞬。何か言いたげに、揺れて。けれど、言葉には、ならなかった。
光が、はじけた。
交差点が、白く染まる。
そして――静けさが、戻った。
いつもの、六月の曇り空。三島大社前の交差点。信号機。横断歩道。けれど、一つだけ、これまでとちがうものが、あった。
交差点の真ん中に――エクスカリバーが、なかった。
ずっと、刺さっていた剣。玄弥が、毎朝、信号待ちで見上げていた、剣。それが、初めて消えていた。玄弥ごと。魔王ごと。向こう側の世界へ。
澪は、その、空っぽの交差点に、立ち尽くしていた。
涙が、止まらなかった。剣も、玄弥も、消えた。あんなに大きかった戦いが、嘘みたいに。あとには、いつもの、なんでもない交差点だけが、残っていた。誰も、玄弥のことを覚えていない、かもしれない。記憶を、ぜんぶ失って、向こうへ行った、あの馬鹿のことを。膝の力が、抜けそうになる。その場に、しゃがみ込みたくなる。でも、しゃがまなかった。しゃがんだら、もう、立てない気がしたから。爪が、手のひらに食い込むくらい、こぶしを握った。
規制線の外で、町の人たちが、ぽつぽつと、われに返っていた。あの夏の朝と、同じだった。何が起きたのか、はっきりとは覚えていない。けれど、みんな、少しだけ、泣いたあとのような顔をしていた。誰かに、助けられた気がする。名前は、思い出せない、けれど。そんな顔を。宮下こよみが、咲良の手を握っていた。八百屋の店主が、空を見上げていた。
大河だけは、はっきりと覚えていた。
母親の腕の中から、大河は、空っぽの交差点を見ていた。「お兄ちゃん」大河はつぶやいた。「迎えに、来てくれたのに。今度は、お兄ちゃんが、向こうに行っちゃった」涙が、こぼれた。「おそいよ、お兄ちゃん。帰ってくるの、おそいよ。――でも、待ってる。おれも、待ってるから」
澪は、覚えている。
伊勢崎玄弥。寝坊ばっかりの、馬鹿。お人好し。毎朝、待たせて。それでも、誰一人、置いていかなかった、勇者。
「玄弥」澪は、空を見上げた。涙をぬぐって。「あんたが、言ったんだよ。大河くんに。『絶対、迎えに行く。それまで、待ってろ』って。今度は――あたしが、言う番だ」
澪は、空っぽの交差点の、真ん中に立った。剣が、刺さっていた場所に。アスファルトには、剣のあった跡が、丸く残っていた。長い年月、雨にも陽にも晒されずにいた、その円だけが、まわりより色が薄い。澪は、その円の中心に、つま先を合わせて立った。
「待ってなよ」澪は言った。まっすぐ、空を見て。「絶対、連れ戻す。あんたが、ぜんぶ忘れても。あたしが、何回でも、名前を呼ぶ。伊勢崎玄弥。あんたの名前は、あんたのものだ。あいつのものでも、楔のものでも、ない。――あたしが、覚えてる。だから、待ってろ。必ず、迎えに行く」
信号が、青に変わった。
誰もいない、交差点で。横断歩道だけが、青信号に照らされて。誰かを待つように、まっすぐ、向こう側へ伸びていた。
灯里が、隣に来た。タブレットを抱えて。泣きながら、それでも、新しいノートの一ページ目を開いた。「先輩のこと、ぜんぶ、記録します」と。「いた、ってこと。何をしたか。誰を、救ったか。忘れさせない」と。
凪人が、スケッチブックを開いた。玄弥の顔を描いた。寝坊して、慌てて、自転車をこいでいる、いつもの玄弥。「忘れたら」凪人は、鉛筆を止めずに言った。「これ、見ればいい。――おれが、ずっと、描き続けるから」
アヴァロンが、空を見上げていた。「俺が、必ず、向こうへつなぐ窓を、開く」と。「あいつを、迎えに行くための道を、作る」と。ガレスも、隣でうなずいた。「俺たちも、行く」と。「帰れない、はずだった、俺たちを、帰してくれた、あいつを。今度は、俺たちが、帰す番だ」と。
澪は、もう一度、空を見上げた。
今は、見えない。赤い雲海の向こう。記憶を失った馬鹿が、たった一人、楔になって、二つの世界をつなぎ止めている。けれど、独りには、させない。絶対に。
「待ってろ」澪は、もう一度言った。今度は、笑って。涙のあとで頬がつっぱって、うまく笑えたかどうかは、自分でも分からなかった。「すぐ、行くから」
その日も、信号は、青になった。
交差点で信号を待つだけの、なんでもない時間に、刺さっていた、一本の剣が、消えた。
けれど、まだ、終わっていなかった。迎えに行く番が、巡ってくる。今度は、玄弥が、待つ番だ。そして、澪が、迎えに行く。
長い、長い旅の、ちょうど、折り返し点。ここから、玄弥の帰り道が、始まる。
〈第二部 完〉
ここまで読んでくださって、本当に、ありがとうございます。第二部の最終話です。
第二十章で、玄弥は大河に言いました。「絶対、迎えに行く。それまで待ってろ」と。あの言葉を、今度は澪が玄弥に返す。それを、この章の芯に据えました。迎えに行く番が、巡ってくる。守りたいと願う想いが残っているかぎり、何度でも。
玄弥は魔王を倒しませんでした。最後まで。「一人で楔やるの、もう終わりだ。今度は二人でやればいい」――記憶を失ってもなお、玄弥は誰かを救おうとします。魔王さえも。そして交差点から、第一章からずっと刺さっていた剣が、初めて消えます。玄弥ごと。空っぽになった交差点で、澪が誓います。「必ず連れ戻す」と。
特別な勇者が世界を救う話には、したくありませんでした。一人ずつ救ってきた積み重ねが、最後の均衡を支える。みんなが少しずつ責任を引き受ける。灯里は記録し、凪人は描き続け、アヴァロンとガレスは迎えに行く道を作る。玄弥を、独りにはさせない。
第三部、赤い雲海の下で、名前を失った勇者の旅が始まります。どうか、もう少しだけ、この物語に付き合ってください。澪が玄弥を迎えに行く、その日まで。




