第36章 大阪城の裏切りを止めろ
大阪城の境界門が、内側から、開きました。手引きしたのは、王国を売った悪人ではありません。家族の名前を、頭の中から隠され、「言うことを聞けば返す」と脅された、ひとりの少年でした。第二部の結が、ここから始まります。
報せは、夜明け前に来た。
灯里のタブレットが震えた。一回。二回。それきり、止まらなくなった。玄弥は寝ぼけ眼のまま、布団から転がり出る。外はまだ薄暗い。台所からは味噌汁のにおいもしない。母親も起きていない、そういう時間だ。
「先輩」電話の向こうの灯里の声は、固かった。「大阪城が、危ないです。境界門が――内側から、開きました」
「内側から?」一瞬、言葉の意味がつかめなかった。「敵が、こじ開けたんじゃ、なくて?」
「ちがうんです」灯里の声が上ずる。「誰かが、中から鍵を外した。蒼帆魔導艦隊の、誰かが。黒冠魔導団を、城のいちばん奥まで、招き入れたんです」
玄弥は、目が覚めた。駿府城が落ちた、あの夜のことが、まだ生々しい。空を飛べていた騎士たちが記憶を抜かれて、次々に落ちていった。あの城のことを思い出すと、今でも胸の奥がざわつく。それを、もう一度繰り返すわけにはいかなかった。四つの城のうち、もう一つでも欠ければ――魔王の道は、まっすぐ三島へ伸びる。
玄弥は、椅子に放り出してあった服をつかんだ。澪に連絡した。凪人に連絡した。アヴァロンとガレスを叩き起こした。三島大社前の交差点に全員が集まる頃には、空が白みかけていた。寝癖を直す暇もなかった。澪は、寝間着の上にパーカーだけ引っかけてきたらしく、髪が片側だけ、おかしな方向に跳ねていた。こんなときなのに、玄弥は、それが妙におかしくて、笑いそうになって、あわてて噛み殺した。
「窓を、開く」アヴァロンが剣を地面に突き立てた。「大阪城の天守へ。記憶鉱の脈をたどる」
光がたわんだ。空間がねじれて、円い窓になる。その向こうに――揺れる甲板が見えた。
くぐった先は、また、あの船の上だった。魔導船の甲板。前に来たときと同じ。なのに、空気がちがった。前は空中戦の、張りつめた緊張だった。今度のは、もっと重い。なんと言えばいいんだろう、裏切りのにおい、とでも呼べばいいのか。甲板の上で、艦隊の兵士たちが二つに分かれて、にらみ合っていた。剣を抜いて。味方同士で。
澪が、玄弥の袖をつかんだ。
「ねえ」小声だった。「これ、敵と戦う前に、味方同士でつぶれるやつだ。前の、軍議のときと、おんなじ」
玄弥も、それは感じていた。あの軍議。四つの城の団長たちが窓ごしににらみ合って、最後には味方に剣を向けた。黒冠魔導団が不信を煽った。あれと同じにおいがする。誰かがわざと、この船の結束を、内側から腐らせている。
「先に止めなきゃ」うなずいた。「斬り合う、前に」
「来てくれたか、聖剣の使い手」
あの痩せた艦長が駆け寄ってきた。蒼い外套がぼろぼろになっていた。
「境界門の奥に、黒冠魔導団が入り込んだ」艦長は早口だった。「もう、城の心臓部だ。手引きしたのは――うちの、若い見張りだ。すでに捕らえた。あとは」
「処刑、ですか」玄弥が、先に言ってしまった。
艦長が、口をつぐんだ。前に、似たことがあった。あの航海士のとき。あの男も家族を取られて、震えていた。玄弥たちは、彼を救った。だから艦長は今、ためらっている。同じ結末を、また見ることになるのか、と。
「会わせてください」玄弥は言った。
船倉に、その兵士はいた。まだ子どもみたいな顔だった。十六か、十七か。縛られた手が震えていた。玄弥が近づくと、彼は顔を上げた。そして――泣きそうな目で、笑った。なんで、こんなときに笑うんだろう。玄弥は、その笑い方が、あとあとまで忘れられなくなる。
「来ても、無駄だよ」その子は言った。「おれは、もう戻れない。仲間を売ったんだ。城を売った。最低の裏切り者だ。早く、殺してくれ」
「凪人」玄弥は、後ろを振り向いた。
凪人は、もう鉛筆を握っていた。じっと、その子を見ている。スケッチブックの上を、鉛筆がすべる。震えながら。何度も止まりながら。
「……線が、ぐちゃぐちゃだ」凪人が消しゴムのかすを払った。「この子の、頭の中。ぐちゃぐちゃに、かき混ぜられてる。誰かに。むりやり」
「どういう、ことだ」玄弥は聞いた。
凪人は答えなかった。ただ、描き続けた。やがて鉛筆が、止まった。
「玄弥」凪人の声が、震えていた。「この子、自分の家族の、顔が、思い出せないんだ」
その子の肩が、びくっと揺れた。
「ほんとうは」凪人は絵を見せた。「この子、家族を思い出そうと、必死なんだ。でも、顔が出てこない。名前も。だから、言われたとおりにするしか、なかった。『門を開けば、家族の名前を返してやる』って。そう、言われたんだ」
玄弥は、その子の前にしゃがんだ。膝が、甲板の冷たさを拾った。
「家族の、名前」静かに聞いた。「忘れた、のか」
「……分かんない」その子は、声を絞り出した。「お母さんが、いたはずなんだ。妹も。顔も、名前も、ぜんぶ、あったはずなのに。気づいたら、ぽっかり穴が空いてた。胸の、ここに。誰かがいた、っていう感じだけ残ってて。それが、たまらなく怖くて。あいつらが言ったんだ。『言うことを聞けば、返す』って。だから、おれ……」
その子の目から、涙がこぼれた。
「奪名卿の、術だ」アヴァロンが低く言った。「いや――もっと、雑なやり方だ。名前を、完全に奪うのではなく、思い出せないところに、隠す。人質を取らずに、人質にできる。なんて、卑劣な」
玄弥は、奥歯を噛んだ。脅すために家族をさらう必要すら、ない。記憶の中の家族を、ただ隠せばいい。返してほしければ、言うことを聞け。そう迫ればいい。この子は、誰も人質に取られていなかった。取られたのは――この子の頭の中の、いちばん大切な場所だった。胃の底が、ひやりとした。
「灯里」玄弥は振り向いた。「記録は」
「あります」灯里は、もうタブレットを開いていた。「蒼帆艦隊の、乗組員名簿。家族構成まで記録が残ってます。この子の名前をたどれば――」
灯里の指が、画面を走った。
「ありました」灯里が顔を上げた。「この子の名前は、ティル。母親の名前は、サナ。妹は――ニコ。三人家族。ニコは、まだ五歳です」
その子の――ティルの目が、見開かれた。
「サナ」ティルがつぶやいた。「ニコ……」
その瞬間、何かがティルの中で、ほどけた。
「お母さん」声が震えた。「サナ。そうだ。お母さんの、名前。ニコ。妹。あの子、星が好きで。いつも、おれの後ろをついて来て。『にいに、にいに』って。――思い出した。思い出したよ。顔も。声も。なんで、忘れてたんだ。なんで」
ティルは、声を上げて泣いた。
凪人が、その横で絵を描いていた。さっきまでぐちゃぐちゃだった線が、いつのまにか、まっすぐになっている。母親の顔。妹の顔。三人で笑っている絵。ティルがそれを見て、また泣いた。
「これ」凪人が、絵をティルに渡した。「持っとけよ。もう、忘れないように。忘れそうになったら、これ、見ろ」
「……ありがとう」ティルは、絵を抱きしめた。
玄弥は、立ち上がった。艦長を見た。
「この子は、裏切り者じゃない」玄弥は言った。「家族を取り戻したくて、利用された、だけです。処刑する理由なんて、どこにもない」
艦長は、長い間、黙っていた。それから、ふっ、と息を吐いた。
「……二度目だ」苦笑した。「お前たちに、同じことを教えられるのは。前は航海士。今度は見張り。私は、裏切り者を見つけては斬ろうとして。お前たちは、その奥にいる人を、すくい上げる。――どうやら、私のほうが、ずっと見えていなかったらしい」
「いや」玄弥は、首を横に振った。「艦長が、すぐに殺さなかったから、間に合ったんです。あなたが、迷ってくれたから」
艦長は、玄弥をしばらく見た。それから、剣を納めた。
「黒冠魔導団は、まだ城の奥にいる」表情を引き締める。「門は、開かれた。だが――まだ、終わっていない。聖剣の使い手。我が艦隊に、力を貸してくれるか」
「もちろん」玄弥は、エクスカリバーを握った。
ティルを先頭に。玄弥たちは、開かれた境界門のほうへ走った。城の回廊は、薄暗かった。壁のところどころに、青白い苔が光っている。記憶鉱の脈が近いのだ、とアヴァロンが言った。床がわずかに振動していた。奥から、重い足音。鉄のきしむ音。
「来るぞ」ガレスが、剣を肩からおろした。「狭い場所だ。玄弥、光刃を大きくしすぎるな。天井に、つかえる」
「分かってる」玄弥は、息を整えた。といっても、息はうまく整わなかったが。
城の奥の回廊で、黒殻騎が待っていた。数体。黒い甲殻。王冠の頭。赤い継ぎ目が、ぬらぬらと光っていた。狭い城の中で、それはいっそう不気味に見える。胸の操縦槽が、かすかに上下している。生きているのだ。中に、誰かがいる。記憶を削られて、服従だけを植えつけられた、誰かが。
「乗り手を、救う」玄弥は、剣を構えた。「鎖だけを斬る。あとは――頼む」
黒殻騎が、襲ってきた。玄弥は、エクスカリバーの光刃を伸ばした。少しだけ。大きくしすぎると、記憶を持っていかれる。最低限。乗り手と機体をつなぐ、黒い鎖だけを見極めて。一閃。鎖が切れた。黒殻騎が崩れ落ちる。中から、記憶を削られた捕虜が、転がり出た。
その捕虜を、艦隊の兵士たちが受け止めた。
「殺すな」艦長が叫んだ。「捕らえて、保護しろ。この者たちも、被害者だ」
ティルも、走っていた。さっきまで、縛られていたのに。崩れた黒殻騎の中から出てきた捕虜を、抱え起こして。
「大丈夫」ティルが言った。「もう、大丈夫だ。あんたの名前も、すぐ思い出せる。おれが、手伝うから」
救われた人が、次の人を救っている。それが、いちばん見たかった景色だった。玄弥が一人でぜんぶを抱える必要は、なかった。一人救えば、その一人がまた、手を伸ばす。手が増えていく。そうやって輪が広がっていくのなら――いつか、玄弥がいなくても、誰も置き去りにならない日が、来るかもしれない。ふと、そんなことを思った。なぜだか急に、喉が渇いた。場ちがいなところで、冷たい麦茶が飲みたくなる。
黒冠魔導団の魔道士は、形勢が崩れたのを見て、煙のように消えた。逃げたのだ。捨て駒を、置き去りにして。けれど、その捨て駒は、もう捨て駒ではなかった。一人ずつ、艦隊の手で、すくい上げられて。記憶を取り戻し始めていた。
戦いが終わった甲板で、艦長が、玄弥の前に立った。それから――片膝をついた。
「蒼帆魔導艦隊は」艦長は、はっきりと言った。「処刑ではなく、救出を、選ぶ。今日、ここで。我らは、お前のやり方に――伊勢崎玄弥の方針に、賛同する。四王国で、最初の一つとして」
玄弥は、声を失った。
「他の城は、まだ迷っている」艦長は立ち上がった。「白角も、鋼壁も、翡翠翼も。だが、我らが先に、旗を揚げる。臆病な交易国家と笑われても、構わん。――裏切り者を斬る国ではなく、裏切らされた者を救う国でありたい。それを教えてくれたのは、お前だ」
玄弥は、頭を下げた。なんと返せばいいのか分からなくて、結局、言葉は出てこなかった。
その時、灯里が声を上げた。
「先輩」タブレットを見て、笑った。久しぶりに、笑った。「通信が、つながりました。大阪城から――四つの城、ぜんぶへ。魔導通信が、復旧したんです。境界門が奪われかけて、逆に、つながった。これで、四城が、声を届け合えます」
「四城が」澪がつぶやいた。「やっと、つながった」
玄弥は、甲板から空を見上げた。赤い雲海の向こう。今は見えないけれど、あの空の下で、三人家族がもう一度、出会えた。星の好きな妹のところへ、ティルは帰れるだろうか。きっと、帰れる。玄弥は、そう信じた。信じる、というより、そう願わずにいられなかった、というほうが近い。
信号の青を、待つように。誰かがまた、誰かの名前を呼べる日を。玄弥はずっと、待っている。
『汝、何を守る』
エクスの声が、いつもの問いを投げた。
「家族の名前を呼べる、ぜんぶの夜だよ」玄弥は、小さく笑った。「一つも、奪わせない」
四つの城が、初めて声をつないだ朝だった。
読んでくださり、ありがとうございます。
裏切り者を斬る話には、したくありませんでした。第二十九章で航海士を救ったときと、芯は同じです。門を開けたティルは、誰かを人質に取られていたのではなく、自分の記憶の中の家族を、人質に取られていた。返してほしければ従え、と。これが黒冠魔導団のいちばん卑劣なところだと、書きながら思いました。凪人が顔を描き、灯里が名簿から名前を呼び戻す。剣ではなく、絵と記録が、ひとりを取り戻します。
そして、救われたティルが、次の捕虜へ手を伸ばす。玄弥が一人で全部を抱えなくてもいい、という小さな光を、ここで置きました。これは終盤の大きな選択への、伏線でもあります。
蒼帆魔導艦隊が、四王国で最初に玄弥の方針へ賛同し、四城の魔導通信が復旧します。やっと、声がつながった。次章、四つの城が、初めて一つの作戦のもとに動きます。




