第35章 魔王、東へ
魔王が、王級鎧巨兵を起動しました。一歩進むたび、人々から「救えなかった誰か」の記憶を吸い、機体が巨大化していく。
三方の城から精鋭と七禍卿が集まり、三島への進軍が始まります。
そして、影の騎士が遺した記憶が、魔王の正体を語りはじめます。
その朝、空は晴れていた。六月の、よく晴れた朝。なのに玄弥は、ずっと嫌な感じがしていた。胸の奥がざわつく。何かが近づいてくるような。雨が来る前の、湿った空気みたいに。
灯里が各地の城へ窓をつないで、様子を探っていた。そして、駿府城跡からの報せが来た。
「先輩」灯里の声は、もう震えてすらいなかった。震える段階を通り越して、ただ、固かった。「魔王が。動きました」
玄弥は剣の柄を握った。
アヴァロンが、駿府城の方角へ窓を開いた。けれど今度は、城を映すためじゃなかった。その向こうの戦場を見るためだった。
窓の向こうに、赤い雲海の戦場が広がっていた。その中心に、起動した王級鎧巨兵が、立っていた。
巨大だった。これまで見た、どの鎧巨兵とも違った。黒殻騎が七メートルなら、あれは、その何倍もある。山が立ち上がったみたいに。けれど、ただ大きいだけじゃなかった。その体は――歪だった。
「あれは」アヴァロンが声を震わせた。「複数の人間の記憶と願いを、継ぎ合わせた巨体だ。見ろ。胸に、無数の顔が浮かんでいる」
玄弥は目を凝らした。王級鎧巨兵の胸。黒い甲殻の表面に、無数の人の顔が浮かんでは消えていた。苦しそうな顔。泣いている顔。何かを訴える顔。それはまるで――救えなかった人々の記憶が、機体の中に閉じ込められているみたいだった。
「魔王が」アヴァロンは言った。「あの操縦槽にいる。一人の人間が操っているのか。それとも、集まった願いそのものが動いているのか。もう、分からぬ」
王級鎧巨兵が、一歩。前へ踏み出した。
その瞬間、玄弥は見た。機体の足が、地面を踏むたびに。周囲から、何かが吸い上げられていた。赤い戦場にいる人々――異世界の兵士たちや、避難民たちから。光の糸のようなものが、王級鎧巨兵へと吸い込まれていく。
「あれ、何だ」玄弥は喉を鳴らした。
「記憶だ」アヴァロンが低く言った。「あの巨体は、歩くたびに、周りの人々から記憶を吸い上げている。それも――ただの記憶ではない。『救えなかった誰か』の記憶だ」
「救えなかった誰か」
「人は、誰しも」アヴァロンは目を伏せた。「救えなかった誰かを抱えている。死なせてしまった家族。助けられなかった友。守れなかった約束。その悔いと痛みが、いちばん重い記憶だ。王級鎧巨兵は、それを吸い上げて、力に変えている。歩くたびに、大きくなっていく」
窓の向こうで、王級鎧巨兵が、また一歩、進んだ。そのたびに、人々の悔いが吸い上げられ、機体はまた一回り、大きくなった。誰かを救えなかった痛みを、燃料にして。育っていく。化け物が。玄弥の背中を、冷たいものが伝った。
「魔王軍の進軍が、始まる」アヴァロンが言った。窓の向こうの戦場を指さして。「見ろ。各地の城を包囲していた部隊が。集まってくる」
玄弥は見た。戦場の四方から、黒い軍勢が、王級鎧巨兵のもとへ集まってきていた。旧江戸城を囲んでいた黒殻騎。名古屋城を攻めていた部隊。大阪城を揺さぶっていた艦隊。それらの精鋭が。一つの軍勢になって。そして、その中に――何人もの魔道士の影が混じっていた。それぞれ、違う紋章を掲げて。
「七禍卿だ」アヴァロンが言葉を詰まらせた。「数名。集まっている。転送の紋章。呪詛の紋章。記憶改変の紋章。――三島を攻めるために。総力を挙げて」
その軍勢が、いっせいに、同じ方向を向いた。三島の方角を。玄弥たちのいる町を。
「来る」玄弥はつぶやいた。「全部、こっちに来る」
窓を閉じたあとも、玄弥は、しばらく動けなかった。あの巨大な影が。あの軍勢が。七禍卿が。ぜんぶ三島へ向かってくる。澪のいる、灯里のいる、凪人のいる町へ。療養している、あの人たちのいる町へ。家の場所すら思い出せない、玄弥の町へ。
「玄弥」澪が隣に来た。「大丈夫?」
「ああ」玄弥は嘘をついた。「大丈夫」
その時、ガレスが、思いつめた顔で近づいてきた。手に、古い何かを握っている。
「玄弥どの」ガレスは言った。「あなたに見せたいものが、ある。ずっと、迷っていた。けれど――今、見せるべきだと、思った」
ガレスが握っていたのは、古い布の切れ端だった。何か文字のようなものが刺繍されている。色あせて、ほとんど読めない。
「これは」ガレスは言った。「影の騎士の、ものだ」
影の騎士。最初の頃、戦った敵。けれど、敵じゃなかった。誰かを守れなかった悔いを抱えた、騎士だった。最後は、その願いを聞いて、玄弥が楽にしてやった。あの騎士の。玄弥の指先が、布に伸びかけて、止まった。
「影の騎士が消える間際に」ガレスは言った。「私にこれを託した。『いつか、聖剣の子に見せろ』と。私には意味が分からなかった。だが、ずっと持っていた。――これを解いてくれ。アヴァロン。あなたなら、読めるはずだ」
アヴァロンが、布を受け取った。古い文字をたどる。指でなぞりながら。その顔が、しだいにこわばっていった。
「……これは」アヴァロンの声が震えた。「影の騎士が遺した記憶だ。布に刺繍された記録。彼が生きていた頃の。そして、彼が知っていた――魔王のことだ」
「魔王の」玄弥は身を乗り出した。
アヴァロンが、布の文字を読み上げた。途切れ途切れに。
「『魔王は、かつて、人だった』」アヴァロンは読んだ。「『二つの世界を救うため。自ら楔になった、一人の人間だった』」
玄弥の心臓が、跳ねた。楔。
「『その者は』」アヴァロンは続けた。「『世界を固定するために。境界へ縛られた。記憶も、名前も、ぜんぶ失って。誰にも覚えられず。一人で。永遠に。――やがて、誰もその者を覚えていなくなった。家族も。友も。その者が世界を救ったことすら。忘れられた』」
それは、まるで、アヴァロンが社で語った、楔の話そのものだった。剣を授かった者の最後。記憶も、名前も失って。誰にも覚えられず。一人で、永遠に。
「『忘れられた、その者の心に』」アヴァロンは声を絞り出した。「『孤独がたまった。誰も救えなかった、という後悔がたまった。世界を救ったのに。誰もそれを覚えていない。その痛みが――黒い王冠となった。魔王軍となった。魔王は世界を憎んでいるのではない。ただ、覚えていてほしかった。誰か一人でも。自分がいたことを』」
布が、アヴァロンの手の中で、ぱらりと崩れた。古すぎて。読み上げたことで、力を使い果たしたみたいに。
交差点に、静けさが落ちた。玄弥は、その場に立ち尽くしていた。
魔王が。昔、楔になった人。世界を救うために。誰にも覚えられず。一人で。それは――玄弥がこれから、なろうとしているものだった。
背筋を冷たいものが這い上がった。けれど、その奥に、もっと深い何かがあった。哀しみだった。あの巨大な影への。あの化け物への。哀しみだった。
「……アヴァロン」玄弥はぽつりと言った。「俺、今、気づいた」
「何を」
「俺たち、魔王を倒そうとしてる」玄弥は言った。「あいつを斬って。あいつを消して。それで世界が救われると思ってる。でも、違う」
みんなが、玄弥を見た。
「魔王を倒したって」玄弥は続けた。声が震えた。「世界はまた、楔を必要とする。二つの世界を固定するために。誰か一人が、また楔になる。記憶も、名前も失って。誰にも覚えられず。一人で。――そして、その人もいつか忘れられて。孤独がたまって。後悔がたまって。また、黒い王冠が生まれる。また、魔王が生まれる」
玄弥は、こぶしを握った。
「魔王を倒すだけじゃ。同じことの繰り返しなんだ」玄弥は言った。「次の魔王を生むだけだ。楔にされた誰かが。忘れられて。憎しみをためて。――それじゃ、意味がない。何も終わらない」
「じゃあ」澪は聞いた。玄弥をじっと見ながら。「どうすれば、いいの」
玄弥は、答えられなかった。まだ、分からなかった。けれど、一つだけ、分かったことがあった。
「楔を」玄弥はゆっくりと言った。「誰か一人に押しつけるのを。やめなきゃいけない。世界を守るために。一人を犠牲にして。忘れて。それでおしまいにする。――そのやり方を、変えなきゃいけない。じゃないと、魔王は何度でも生まれる」
玄弥は、ふと、自分の決意を思い出した。みんなを帰すために。自分が楔になる。誰にも言わずに。最後に引き受ける。それは、まさに、魔王と同じ道だった。誰にも覚えられず。一人で。世界を固定して。そして、いつか忘れられて。――玄弥も、同じ孤独をたどることになる。みんなのために、と思って選んだ道が。次の魔王へ続く道だった。
玄弥は、奥歯を噛んだ。けれど、今は、それを考えている暇は、なかった。
「灯里」玄弥は言った。「魔王軍が、三島へ来るまで。あと、どのくらいある」
「分かりません」灯里はタブレットを握りしめた。「でも。窓の向こうの進軍速度から計算すると。早ければ数日。遅くても十日以内、です」
「十日」玄弥は空を見上げた。六月の青い空。その下で、町はいつもの朝を迎えていた。学校へ向かう子どもたち。パン屋のシャッターを巻き上げる音。自転車のベル。誰かが犬を叱る声。源兵衛川のせせらぎ。坂の途中で、ランドセルの女の子が、こぼした飴玉を拾おうとしゃがんでいた。なんでもない、ほんとうに、なんでもない日常。あと数日で、ここへ、あの巨大な影が来る。この、飴玉を拾う子のところまで。
「守る」玄弥はつぶやいた。「この町を。みんなを。それで――」
玄弥は、言葉を切った。それで、魔王を倒すだけじゃ駄目だ。倒したら、次が生まれる。じゃあ、どうする。魔王を倒さずに。でも、町を守って。みんなを帰して。誰も楔にしないで。――そんな都合のいい方法が、あるのか。分からなかった。でも、探すしかなかった。
「アヴァロン」玄弥は言った。「魔王が昔、人だったって。楔だったって。それ、もし本当なら。魔王にもまだ、人の心が残ってるのかもしれない。覚えていてほしかった、っていう。あの願いが」
「玄弥」アヴァロンは玄弥を見た。「まさか、お前」
「分かんない」玄弥は首を横に振った。「でも、いつもそうだったろ。モンスターも。黒殻騎も。影の騎士も。怖い顔の奥に、いつも人がいた。聞けば、分かった。――魔王だって。もしかしたら」
アヴァロンは、何も言わなかった。ただ、玄弥を心配そうに見ていた。
澪が、玄弥の隣に立った。
「あんた」澪はぽつりと言った。「また、何か一人で抱えてる顔、してる」
玄弥の喉が、つまった。
「……気のせいだろ」玄弥は言った。
「ならいいけど」澪は玄弥の横顔を、じっと見た。「あんたが最近、ときどき、いなくなりそうな顔、するの。なんでか、分かんないけど。怖い。だから――勝手に、いなくならないでよ。約束」
玄弥は、澪を見た。澪は、何も知らない。楔のことも。玄弥の覚悟も。魔王が楔だったことも。けれど、何かを感じ取っていた。玄弥が遠くへ行ってしまいそうなのを。錨だから。玄弥をつなぎ止める錨だから。澪は、玄弥がすり抜けていくのを、本能で察していた。
「……約束する」玄弥は言った。
それは、たぶん、守れない約束だった。守りたかった。守れるなら。けれど、もし、みんなを帰すために玄弥が楔にならなきゃいけないなら。玄弥はいなくなる。澪の隣から。それでも、玄弥は約束した。澪を安心させるために。そして――自分が、まだ人でいたいから。
信号が青に変わった。誰もいない交差点で。その青の向こうに。玄弥にはもう、見えていた。近づいてくる、黒い王冠の影。救えなかった誰かの記憶を吸って、大きくなる化け物。けれど――その奥にいるのは。きっと、昔、世界を救って。誰にも覚えられず。一人で泣いていた、人だった。
玄弥は、剣を握り直した。倒すだけじゃ、駄目だ。じゃあ、どうすればいいのか。まだ、答えはなかった。けれど、玄弥はもう、知っていた。怖い顔の奥には、いつも人がいる。聞けば、分かる。たとえ、それが魔王でも。たとえ、その先に、自分が楔になる未来が待っていても。
青信号が、夜明けの町を照らしていた。あと数日で。この青が、戦場になる。
読んでくださり、ありがとうございます。
この章は、第二部の「転」を締めくくる回です。魔王が、ついに現代へ渡ってくる。けれど、私がいちばん書きたかったのは、戦いの始まりではなく、魔王の正体でした。
影の騎士が遺した布に刻まれていたのは――魔王もかつて、世界を救うために選ばれた楔だった、という記憶。記憶も名前も失い、誰にも覚えられず、一人で世界を支え、やがて世界を救ったことすら忘れられた。その孤独と、「誰も救えなかった」という後悔が、黒い王冠を生んだ。魔王は、世界を憎んでいるのではなく、ただ、覚えていてほしかった。
これを知った玄弥は、恐ろしい事実に気づきます。魔王を倒すだけでは、また次の楔が必要になり、その人もいつか忘れられ、次の魔王が生まれる。倒すだけでは、何も終わらない。――そしてそれは、みんなを帰すために自分が楔になろうとしている、玄弥自身の未来でもありました。
怖い顔の奥には、いつも人がいる。聞けば、分かる。たとえそれが魔王でも。玄弥のその信念が、これからどこへ向かうのか。第二部の「結」、四城同盟と剣の消える日へ――次章から、いよいよ最終局面が動きだします。




