第31章 名前を奪う魔道士
魔王が放った奪名卿の術が、ついに三島へ届きます。
出席簿から、下駄箱から、母親の記憶から、玄弥だけが消えていく。
自分は本当にここで生きていたのか――足元が崩れる玄弥を、たった一人、つなぎ止める声があります。
最初におかしくなったのは、出席だった。
一時間目の途中、玄弥は教室の扉を開けた。寝坊して、また遅刻。いつものことだ。担任がこっちを見る、叱られる、そういう流れのはずだった。
ところが担任は、玄弥を見て――きょとんとした。
「……えっと」出席簿をめくる。何度も。「君、どこのクラス? うちの生徒じゃないよね」
玄弥は固まった。
「いや、俺、二年三組の伊勢崎です」かろうじて声が出た。「伊勢崎玄弥。先生、いつも俺の遅刻、怒ってるじゃないですか」
「いせざき……?」担任は出席簿を上から下まで指でなぞって、眉をひそめた。「そんな名前、ないなあ。い、で始まるのは井上さんだけだよ。君、名前、間違えてない?」
教室のみんなが、玄弥を見ていた。知らない顔を見るみたいに。
いつも後ろの席で漫画の貸し借りをしている田所が。前の席で玄弥の消しゴムをよく借りる佐久間が。誰一人、笑わなかった。「何やってんだよ玄弥」と茶化す声もない。ただ、不審な転入生でも見るような目で。
「……お前ら」声がかすれた。「田所。昨日、俺に五巻、貸したろ。佐久間、お前、俺の消しゴム、まだ返してないだろ」
田所が佐久間と顔を見合わせた。
「だれ……?」
そのひとことが、玄弥の足元をすくった。
教室の空気が、ぐにゃりと歪んで見えた。窓際の後ろから二番目。自分が座っていたはずの席。そこにはもう別の生徒がいた。最初からそうだったみたいに。玄弥の場所が、この教室のどこにもない。
逃げるように廊下へ出た。手が震えていた。今朝の味噌汁のにおいも、母親の笑い声も、ぜんぶ夢だったんじゃないか。自分は本当にこの町で暮らしていたのか。足の下から、さっきまでの確かさが崩れていく。
昇降口で、下駄箱を見た。
「伊勢崎」の名札が、消えていた。
靴が入っていたはずの場所。そこに名前はなく、棚は空っぽで、最初から誰も使っていなかったみたいに、埃が薄く積もっていた。
玄弥は走った。学校を飛び出して、家へ。
玄関の戸を開けて、「ただいま」と言いかけて――言葉が、出なかった。
台所に母親がいた。いつものエプロン。鍋をかき混ぜている。味噌汁のにおい。なんてことのない、いつもの光景だ。
「お母さん」声が震えた。
母親が振り返って――ぎょっとした顔をした。見知らぬ男の子が勝手に上がり込んできた、そういう顔。
「ど、どちら様?」玉杓子を握ったまま後ずさる。「うち、男の子なんていないわよ。どこから入ったの。お母さん、呼ぶわよ」
「お母さんは、あんただろ!」叫んでいた。「俺だよ! 玄弥だよ! 今朝もパン、くわえて出てっただろ! 遅刻だって笑ってただろ!」
母親の顔に、おびえが走った。
知らない子どもが、わけの分からないことを叫んでいる。さっきまで玄弥を笑っていた、その同じ目が、今は玄弥をまるごと知らないと言っていた。
その場に崩れ落ちそうになった。
いちばん近い人。いちばん覚えていてほしい人。その人の記憶から、自分が抜け落ちている。廊下の奥で、家じゅうの写真の自分の顔だけが、ぼやけて消えかけているのが見えた。
その時。
「玄弥!」
玄関の外から、声がした。
澪だった。息を切らして走ってきて、玄弥の腕をつかんだ。強く。
「ここにいた」ほっと息を吐く。「学校から、いなくなったって、灯里が。探した」
「澪」すがるように見た。「お前、俺のこと」
「伊勢崎玄弥」澪は即座に言った。まっすぐ目を見て。「中学二年。寝坊魔。聖剣の馬鹿。――忘れるわけ、ないでしょ。あんたのことを」
玄弥は、その場に座り込んだ。
涙が出た。みっともなく、子どもみたいに。母親に忘れられて、教室から消されて、最後の最後に、澪が名前を呼んだ。それだけのことで、こんなにも崩れるのかと、自分でも驚いた。
「なんで」しゃくり上げた。「なんで、お前だけ覚えてるんだ」
「分かんない」澪は隣にしゃがんだ。「でも、覚えてる。だから、それでいい。あんたが誰に忘れられても。あたしが覚えてる」
母親が戸口で、おろおろと二人を見ていた。澪はその母親に頭を下げた。「すみません。この子、ちょっと具合が悪くて。連れて帰ります」そう言って、玄弥を立たせた。
外へ出る。
空は晴れていた。なのに玄弥の世界は、足元から崩れかけていた。
大社前の交差点に、みんながいた。灯里がタブレットを握りしめて駆け寄ってくる。
「先輩!」ほとんど泣きそうな顔だった。「無事ですか。よかった。あたし、ずっと紙に書いてました。先輩の名前。十回も、二十回も。書いてないと、頭から消えそうで、怖くて」
灯里がノートを開いて見せた。
「伊勢崎玄弥」と、何度も書いてある。びっしりと。ページが真っ黒になるくらい。震える字で。書きながら、自分の記憶が抜け落ちるのと戦っていたのが、伝わってきた。
「灯里」その手を握った。「ありがとう」
「俺も」凪人がスケッチブックを差し出した。「描いた。玄弥の顔。何枚も」
ページには玄弥の顔があった。寝ぼけた顔。笑った顔。剣を構えた顔。何枚も。けれど――最新の一枚だけ、輪郭がぼやけている。凪人の手元で、消えかけていた。
「描いてる途中で」凪人がぼそりと言った。「誰を描いてるか、分かんなくなる。手が覚えてる間に、急いで描いた。間に合わせた」
「アヴァロンは」玄弥は聞いた。
「ここだ」交差点の真ん中、エクスカリバーの刺さったところから声がした。アヴァロンが剣に手を当てている。「剣が覚えている。継承者の記憶を。エクスカリバーは、お前を忘れない。剣を通せば、お前の輪郭を保っていられる。――だが」
その声が、固かった。
「これは対症療法だ。澪どのが覚え、灯里どのが書き、凪人どのが描き、剣がつなぐ。それで、お前は消えずにいられる。けれど、町の人々の記憶からは、お前は消えつづけている。元を断たねば、いずれ、この四つだけでは支えきれなくなる」
「元って」
「奪名卿だ」
その声に応えるように。
交差点の向こうに、影が立っていた。
いつからそこにいたのか。黒いローブ。背は低い。顔はフードの奥でよく見えない。けれど、その手元から淡い灰色のもやが立ちのぼっていた。記憶を吸う紫とは違う。もっと冷たい色。名前を奪う色だ。
「これは、これは」奪名卿が言った。しわがれた、けれどどこか歌うような声だった。「まだ消えていないとは。しぶといな、聖剣の子よ。もう半分は消えているはずなのだが」
「あんたが」玄弥は剣の柄に手をかけた。「町のみんなから、俺を奪ってるのか」
「奪うとは、人聞きが悪い」奪名卿はくつくつと笑った。「私はただ、整理しているだけだ。お前という名前を。みなの頭の中から。一人ずつ、丁寧に抜いていく。お前という染みを、世界からぬぐい取る。――魔王さまの、ご命令だ」
玄弥の後ろで、澪が灯里の肩を抱いた。灯里はまた、こめかみを押さえている。記憶が揺れている。凪人も頭を振っていた。奪名卿のもやが、近くにいるみんなにまで届きはじめていた。
「お前を覚えている者を、一人、また一人」奪名卿は灰色のもやを撫でた。愛おしそうに。「消していけば、やがて、お前は誰の記憶にもいなくなる。そうなれば、お前は――死ぬよりも確かに、いなくなる。最初から生まれなかったことになる。さあ、坊や。お前は本当にいるのか? 母親も覚えていないのに?」
そのひとことが、玄弥のいちばん弱いところを突いた。
本当に、俺はいるのか。さっきの母親の顔。教室の空席。下駄箱の消えた名札。ぜんぶ、もしかして自分の思い込みだったんじゃないか。自分は本当は、最初からどこにもいなかったんじゃ――
玄弥の手が、剣から離れかけた。
その瞬間。
「玄弥!」
澪が叫んだ。玄弥の名前を。はっきりと。世界中に響くみたいに。
「あんたは、いる! あたしが覚えてる! あんたは伊勢崎玄弥だ! 今朝、あたしに、おはようって言った! 昨日、源兵衛川で転んで、ずぶ濡れになった! 先週、あたしの消しゴム、勝手に使った! ぜんぶ覚えてる! あんたがいた証拠は、あたしの中に、山ほどある!」
その声に、玄弥の足が、地面を捉えた。
消しゴムのことなんか、自分でも忘れていた。なのに澪は覚えている。母親が忘れても、教室が消しても、馬鹿みたいな毎日のかけらが、澪の中にだけ、ちゃんと残っていた。
「……いる」つぶやいて、剣を握り直した。「俺はいる。澪が覚えてる」
「ほう」奪名卿の声が、わずかに硬くなった。「その娘か。お前をつなぎ止めているのは。なるほど。お前をいくら消そうとしても、消えない。その娘がいるかぎり。――では、その娘から消すか。お前の名を覚えている、その頭から」
奪名卿が、手を澪のほうへ向けた。灰色のもやが、澪へ伸びる。
「させるか!」
玄弥は剣を抜いた。光の刃が伸びる。けれど――斬ろうとしたのは奪名卿じゃない。澪へ伸びる、灰色のもや。その経路だけを断とうとした。いつものやり方で。
ところが、光刃がもやに触れた瞬間。もやはばらけずに――刃をすり抜けた。
「無駄だ」奪名卿が笑った。「記憶鉱の糸とはわけが違う。名前は、もっと深い。お前の剣では断てぬ。私の術は、私の陣の中で完結している。糸を斬っても、また、つながる」
もやが、澪に届きそうになった。澪が、とっさに前髪を払うように顔をのけぞらせる。
その刹那。玄弥は見た。
奪名卿の足元。ローブの裾の下。地面に、灰色の光で描かれた模様があった。複雑な円。文字とも図形ともつかない線が、何重にも重なった陣。そこからもやが湧き出している。奪われた無数の名前が、その陣の中でぐるぐると渦を巻いて、封じられていた。
元は、あいつ自身じゃない。あの、陣だ。
「アヴァロン!」玄弥は叫んだ。「あいつの足元! 陣がある! 奪った名前が、あそこに封じられてる!」
「斬れ、玄弥!」アヴァロンが応えた。「術者を斬る必要はない! 陣を断て! 名前の檻を、壊せ!」
玄弥は地面を蹴った。
奪名卿のもやが、澪に触れる寸前。その間に割り込む。背中で澪をかばって、剣を振り下ろした。奪名卿にではなく、その足元の陣へ。
光刃が巨大化した。澪を守る、その意志に応えて、刃が何倍にも伸びる。地面に描かれた灰色の円を、まっすぐに断ち切った。
陣が、割れた。
封じられていた無数の名前が、いっせいに解き放たれた。灰色のもやが光になって、四方へ散っていく。三島の町じゅうへ。それぞれの持ち主のもとへ、帰っていく。
玄弥の頭の中で、何かがまた一つ、消えた。光刃を巨大化させた代償。今度消えたのは――小学校の入学式、だったかもしれない。桜の下で、母親と撮った写真。それがするりと抜けた。けれど立ち止まる暇は、なかった。
「玄弥! 伊勢崎玄弥!」澪がまた名前を呼んだ。
「分かってる!」剣を構えたまま、振り返らずに答えた。「お前がいる。それでいい」
その瞬間。遠くで。町のあちこちで。誰かがはっと息を吹き返す気配がした。教室の田所が。佐久間が。家の母親が。玄弥の名前を、自分の記憶を、取り戻していく。一人ずつ。じわじわと。
奪名卿は、陣を断たれて舌打ちした。
もやが霧散して、力を失っていく。それでも、奪名卿は逃げなかった。フードの奥から、玄弥と澪をじっと見ている。何かに気づいたように。
「……ほう」奪名卿がつぶやいた。「そういうことか。今、分かった」
「何が」玄弥は剣を構えたまま聞いた。
「お前たち、二人だ」奪名卿は玄弥と澪を交互に見た。「私はお前一人を消そうとしていた。だが、消えなかった。なぜか。その娘が覚えていたからだ。――いや、違う。もっと深い。お前たち二人とも、世界を固定する、定点なのだ。動かぬ楔。世界が揺らいでも、お前たち二人だけはぶれない。だから、記憶を奪っても奪っても、お前たちの間で補い合って、復元される。私の術が効かぬわけだ」
玄弥は眉をひそめた。
定点。前にアヴァロンも言っていた。玄弥と澪だけ、向こうの世界で記憶が揺らがなかった。よほど深く三島に根を張っている、と。あの「今は」が引っかかったのを、思い出した。
「世界を固定する、定点」繰り返した。「どういう意味だ」
「さあ、な」奪名卿は楽しそうに笑った。「それは、お前のそばの、剣の一族に聞くがいい。きっと、面白いことを教えてくれる。お前たち二人が、どれほど重い役目を背負っているか。――それを知ったとき。お前たちは、今のように笑っていられるかな」
奪名卿が、足元に灰色の光を走らせた。
「待て!」玄弥は踏み込んだ。
けれど、遅かった。奪名卿の体がゆがんで――消えた。後には、断たれた陣の、消えかけた残り火だけが、地面ににじんでいた。
交差点に静けさが戻った。玄弥は剣を下ろした。汗が背中を伝う。
「……逃げられた」
「だが、町は守った」アヴァロンが近づいてきた。「名前はみな、戻った。お前を覚えている者も。元を断ったのだ。あの陣さえなければ、奪名卿は新たに術を組み直さねばならぬ。時間が稼げた」
玄弥は空を見上げた。
いつもの青い空。その下で、町は何事もなかったように動きはじめていた。さっきまで自分を忘れていた人々が、また玄弥を覚えている。それがどれほど、ありがたいか。
けれど、玄弥の胸には、奪名卿の最後の言葉が残っていた。定点。楔。重い役目。それを知ったとき、笑っていられるか。
「アヴァロン」玄弥は聞いた。「あいつの言ってたこと。俺と澪が定点だって。世界を固定する楔だって。あれ、本当か」
アヴァロンは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えの半分を語っていた。
「……いずれ、話す」アヴァロンは目を伏せた。「だが、今はない。お前は町を守った。今は、それでいい。詳しいことは、私が一族の記録を確かめてから、だ」
「アヴァロン」
「すまん」アヴァロンは玄弥を見なかった。「もう少しだけ、待ってくれ」
玄弥は、それ以上聞かなかった。
けれど、確かに何かがある。自分と澪が、ただの中学生ではない、何か。剣を使うたびに記憶を失うことと、つながった何か。それが、いま、霧の向こうにぼんやりと見えはじめていた。
澪が、玄弥の隣に立った。
「あんたの名前」空を見上げて言った。「ちゃんと戻ったね。みんなの中に」
「うん」玄弥はうなずいた。「お前が、最後まで覚えててくれたから」
「当たり前でしょ」澪はふん、と笑った。「あたしが忘れたら。誰があんたの寝坊、起こしに行くのよ」
玄弥は笑った。久しぶりに。心から。
信号が青に変わった。誰もいない交差点で。その青だけが、いつものように、約束みたいに光っている。
二人は、並んで立ったまま、それを渡らなかった。渡れば、ふつうの朝に戻れる気がして。けれど玄弥の胸には、まだ奪名卿の声が残っていた。定点。楔。それを知ったとき、笑っていられるか。――青が、もう一度点滅して、赤に変わるまで、二人はそこにいた。
読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、玄弥にとっていちばん怖い回でした。剣で斬られるより、名前を忘れられるほうが、ずっとこわい。母親に「どちら様?」と言われる場面は、書いていて、私もつらかったです。けれど、そこで澪が叫ぶ「あんたは、いる。あたしが、覚えてる」。この一言を書きたくて、この章を組みました。
玄弥は、奪名卿を斬りませんでした。斬ったのは、奪われた名前を封じた魔法陣のほう。檻を壊して、町じゅうの名前を、それぞれの持ち主へ返す。斬って勝つのではなく、誰かを取り戻す。この物語の芯は、ここでも変わりません。
そして、奪名卿が去り際に残した言葉――「お前たち二人とも、世界を固定する定点だ」。アヴァロンが、なぜか言葉を濁す。第25章で蒔いた「二人は深く根を張っている」の種が、ここで芽を出しはじめます。この重い真実は、第33章で明かされます。次章は、四つの最強軍団の、初めての軍議。けれど、最強たちは、ひとつになれません




