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エクスカリバーが交差点の真ん中にささってるんだが…  作者: 源三郎


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第30章 魔王の名指し

ある朝、すべての黒殻騎が、いっせいに攻撃を止め、三島の方向を向きます。

空が割れ、黒い玉座から、魔王の声が降ってきます。そして魔王は、玄弥のフルネームを口にする。「伊勢崎玄弥を抹殺せよ」。日常のいちばん奥まで、敵が踏み込んできた朝。そして、名前を奪う魔道士が、町へ放たれます。


 異変は、ある朝、いっせいに起きた。


 その朝も、玄弥は寝坊した。


 いつものことだった。布団から転げ出て、歯ブラシをくわえたまま制服に腕を通して、トーストの端をかじって、自転車に飛び乗る。サドルが、夜露で冷たい。母親が玄関から、「またそんなに慌てて」と笑った。手にはまだ玉杓子を持っている。台所から、味噌汁のにおいが、後を追ってきた。豆腐とわかめの、いつものやつだ。


 なんてことのない朝。けれど、ペダルを踏みながら、玄弥はふと思った。この、なんでもない朝が、いちばん守りたいものなんだ、と。寝坊して、怒られて、味噌汁のにおいを嗅いで、信号を待つ。それだけの、日常。


 その日常を、根こそぎひっくり返す知らせが、待っていた。


 灯里のタブレットが、ひっきりなしに鳴った。各地の城から、窓を通じた報せ。駿府城も、名古屋城も、大阪城も。そして、まだ味方になっていない、東京の旧江戸城まで。すべての城で、同じことが起きていた。


「黒殻騎が」灯里の声が上ずった。「いっせいに、攻撃を止めた、って。ぜんぶの城で。同時に」


「攻撃を、止めた?」玄弥は眉をひそめた。「なんで」


「分かりません。でも――」灯里が画面を見て、青ざめた。「全部の黒殻騎が、いっせいに、同じ方向を向いた、そうです。こっち。三島の方向を」


 その時。


 空が、低く鳴った。


 遠雷のような。けれど、雷じゃない。もっと深い。地の底から響くような、声。玄弥たちは外へ飛び出した。三島大社前の、交差点へ。


 空に、亀裂が入っていた。


 青い、六月の空。その一部が割れて、黒い闇がのぞいている。その奥に――何かが見えた。黒い玉座。とげのような装飾。そこに座る、影。顔は見えない。けれど、頭に、いびつな黒い王冠をいただいていた。


「魔王」アヴァロンの声が震えた。初めて聞く震えだった。「魔王だ。直接、声を響かせている。四つの城へ。そして――ここへも」


 空の亀裂から、声が降ってきた。


 低く、重く、けれど、ふしぎなほど静かな声だった。怒鳴ってもいない。叫んでもいない。ただ淡々と。世界中に染み渡るように。


『黒殻騎に告ぐ』


 声が、言った。


『今より、四城への攻撃を停止せよ。標的を変更する』


 標的の、変更。それが何を意味するのか。聞きたくないのに、耳が勝手に声を拾ってしまう。玄弥は無意識に、澪の前に半歩出ていた。


『聖剣を持つ者がいる。我が黒殻騎から、乗り手を生きたまま解き放つ者。鎖を断ち、捕虜を奪い返す者。――その者の、名を告げる』


 空が、震えた。


『伊勢崎玄弥』


 玄弥の心臓が、止まりそうになった。


 自分の名前。フルネーム。出席簿でしか呼ばれないような、フルネーム。この世界とは、何の関係もないはずの、三島の中学二年生の名前を、空の亀裂の向こうの何かが、はっきりと口にした。発音は、少しも間違っていなかった。担任よりも、ずっと正確だった。その正確さが、いちばんこわかった。誰が、この名前を、向こうへ運んだのか。


『伊勢崎玄弥を、抹殺せよ。すべての黒殻騎を、その者のもとへ向かわせよ。聖剣もろとも、その者の記憶を、名を、存在を――この世から消し去れ』


 声が途切れ、空の亀裂が、ゆっくりと閉じていく。黒い玉座が、闇に沈んでいく。最後に、王冠の影だけがしばらく残って――それも、消えた。


 交差点に、静けさが戻る。


 けれど、その静けさは、いつもの夜明けの静けさとは違った。重かった。空気が、ぴん、と張りつめている。


「……名前」玄弥はその場に立ち尽くしていた。「あいつ、俺の名前を、知ってた」


「玄弥」澪が駆け寄った。


「なんで知ってるんだ」玄弥の声が震えた。「俺、向こうの世界とか、関係ない。ただの、寝坊する中学生だ。なのに、あいつ、俺のフルネームを。どうやって調べた。誰に聞いた。俺のことを――どこまで、知ってるんだ」


 玄弥は、自分の手を見た。震えていた。


 これまで、戦ってきた。黒殻騎と。魔道士と。けれど、それはぜんぶ、白線の向こうの、遠い城の話だった。


 今朝の味噌汁のにおい。母親の笑い声。くわえたパンの味。そういう当たり前のものまで、あの黒い玉座は、名前ごと見下ろしていた。学校も、家も、寝坊する朝も。安全な場所が、足元から一つずつ消えていく。玄弥は、胃のあたりが冷たくなるのを感じた。


「……怖いか」アヴァロンが静かに聞いた。


「ああ」玄弥は正直に言った。隠す気力もなかった。「怖い。今までで、いちばん、怖い」


「それで、いい」アヴァロンはうなずいた。「怖いと思えるのは、お前が守るものを、ちゃんと持っているからだ。何もこわくない者は、何も守っていない。お前は、守るものがたくさんある。だから、こわい。それは――弱さじゃない」


 玄弥は、アヴァロンの言葉を噛みしめた。


 澪が、玄弥の震える手を、両手で握った。澪の手のほうがずっと小さいのに、握る力は、玄弥より強かった。爪が、玄弥の手の甲に、軽く食い込むくらい。


「あんたの名前」澪はまっすぐ玄弥を見た。「伊勢崎玄弥。あいつが何度呼んでも。消そうとしても。あたしが、何度でも呼び返す。あんたの名前は、あんたのものだ。あいつのものじゃない。誰にも、消させない」


 玄弥は、その手の温かさが、指先から腕へ、ゆっくりのぼってくるのを感じた。震えが、すこしずつ、ほどけていく。澪はきっと、自分の手が震えていることには、気づいていない。


「……うん」玄弥はうなずいた。「ありがとう」


「それに」凪人がスケッチブックを抱え直した。「魔王が、玄弥の名前を呼んだってことは、さ。魔王も、玄弥を無視できなくなった、ってことだろ。玄弥のやり方が、効いてるんだ。乗り手を救うやり方が。だから、あいつは玄弥を消したがってる。怖がってるのは、向こうも同じだよ」


 言われて、玄弥は自分の手のひらを見た。


 四城への攻撃を、わざわざ止めてまで。乗り手を一人ずつ逃がしてきただけの、中学生一人を。


「効いてた、のか」玄弥はつぶやいた。


「効いてたんだよ」凪人はうなずいた。「一人ずつ、地味に。でも、ちゃんと」


 地味に、という言い方が、なぜか胸にきた。それで上等だ、と思おうとした。思おうとしても、手の震えは、まだ止まらなかったけれど。


 玄弥は、ふと、家のほうを振り返った。


 あの家には、玄弥がこれまで救ってきた人たちがいる。いつだったか、黒殻騎から助け出した、名もない青年。記憶を削られて、自分の生まれた町の名前すら出てこない。それでも、台所から味噌汁のにおいが流れてくると、決まって顔を上げる。鼻をひくひくさせて、何かを思い出しかけて、また、うつむく。そのにおいだけが、青年とこの世界をつなぐ、細い一本の糸だった。母親は何も聞かずに、毎朝、その鍋に煮干しを足す。


 駿府城で助けた、あの子ども。姉さんの名前を人質に取られて、呪いをばらまかされていた。連れ帰って、青年と同じ部屋で療養している。まだ、夜になるとうなされて、姉さんの名を呼ぶ。けれど先週、玄弥が将棋の駒の動かし方を教えたら、桂馬の跳ね方を覚えて、初めて声を立てて笑った。その笑い声を、玄弥はずっと覚えている。


 一人ずつ、救ってきた。一人ずつ、家の畳の上が、にぎやかになった。帰れない者が増えていく痛みもある。それでも、味噌汁のにおいに顔を上げる青年も、桂馬で笑った子どもも――玄弥の名前を、知っている。


「あの人たちも」玄弥はつぶやいた。声が、しぼんでいく。「俺が救ったって、覚えてる。俺の名前を、知ってる。……まさか、あの人たちが先に狙われるんじゃ」


 玄弥の背筋を、冷たいものが這い上がった。自分のために救った人が、自分を覚えているせいで、また狙われる。そんな筋書きが、いちばん、あの黒い玉座の好みそうなやり口だった。


 その時、灯里のタブレットが、また鳴った。


 灯里は画面を見て――顔をこわばらせた。


「先輩」灯里の声が固かった。「攻撃が止まった、城の話、だけじゃないです。今、報せが来ました。三島の、近く。境界の薄い場所で――何かが転送されてきた、って。さっき。魔王の声の、すぐあとに」


「黒殻騎か」ガレスが剣に手をかけた。


「いえ」灯里は首を横に振った。「黒殻騎じゃ、ない。もっと小さい。人型。一人。けど――ものすごく強い、術の気配がする、って。アヴァロンさんでも、感じませんか」


 アヴァロンが目を閉じた。それから、ゆっくりと目を開く。その顔が、固まっていた。


「……七禍卿だ」アヴァロンが低く言った。「一人、こちらへ転送された。間違いない。この、重い気配。一国を滅ぼせる、禁術の気配だ」


「七禍卿」玄弥は繰り返した。大阪城で聞いた、あの名前。「七人の大魔道士。そのうちの一人が」


「ああ」アヴァロンは目を閉じたまま、気配を探っていた。それから、ぽつりと名を口にした。「この気配は……奪名卿うばなきょうだ。七禍卿の一人。名を奪う者。人から名前を抜き取り、その者を、誰の記憶からも消し去る、禁術を使う」


「うばな、きょう」玄弥は、その名を繰り返した。舌の上に、嫌な重さが残った。


「名前を奪われた者は」アヴァロンの声が固かった。「ただ、忘れられるのではない。存在ごと、世界から抜け落ちる。家族も、友も、その者がいたことを忘れる。写真からも、消える。最初から、いなかったことにされる。――いちばん、むごい禁術だ。死よりも、なお」


 灯里が、タブレットを胸に抱えたまま、ごくりとつばを飲んだ。隣で、凪人の鉛筆を持つ手が、止まっている。誰も、すぐには言葉を継げなかった。死んだ者は、せめて誰かの記憶に残る。けれど、名前を奪われた者は、その「残る場所」ごと消されるのだ。


「魔王は、お前を消すために、黒殻騎だけじゃなく、奪名卿まで送ってきたわけだ。だが――」アヴァロンは、ふと首をかしげた。


 言葉を切る。眉をひそめて。


「妙だ」アヴァロンはつぶやいた。「気配が、お前のいるここへ、向かっていない。別の方向へ動いている。三島の、住宅街のほうへ。お前を狙うなら、まっすぐここへ来るはずなのに」


 玄弥は、嫌な予感がした。


「どこへ向かってる」玄弥は聞いた。


「町の、人々のいるほうだ」凪人がスケッチブックを開いた。手が震えはじめている。何かを描いている。黒いローブの影。その影が、誰かの家のドアをたたいている、絵。「玄弥を覚えてる人。玄弥と話したことのある人。玄弥の名前を知ってる人のほうへ……向かってる」


 玄弥は、奥歯を噛んだ。


「あいつ、何をする気だ」


「奪名卿のねらいだ」アヴァロンが剣を握った。声が低かった。「やっと、読めた。あいつは、お前をまっすぐ殺しに来たのではない。もっと回りくどい。もっと、たちの悪いやり方だ」


 アヴァロンは、玄弥を見た。その目が、深刻だった。


「魔王は、お前をまっすぐ殺すのではなく――まず、お前を覚えている人々から、お前を消そうとしている。お前の名前を知る者を、一人ずつ。お前が誰にも覚えられなくなれば。お前という存在そのものが――この世から、消える」


 玄弥は、息をのんだ。


 澪が、握った手に力を込めた。「させない」低く言った。「あたしは、絶対、あんたを忘れない。あいつが、何をしても」


 ガレスが剣を抜いて、肩に担いだ。「俺の部下たちにも、声をかける」ガレスは言った。「町に散らばっている。一軒ずつ回って、住民をまとめよう。一人でいさせるな。名前を奪われるのは、一人でいる時が、いちばん危ない」


「あたしは、対応表を配ります」灯里がタブレットを握りしめた。「みんなに、玄弥先輩の名前を書いてもらう。紙に書いておけば。たとえ頭から消されかけても、紙が思い出させてくれる、かもしれない。気休めでも、やらないより、ましです」


「俺は、描く」凪人が言った。「玄弥の顔を。何枚も。町じゅうに貼る。忘れたら、絵を見ればいい。――忘れさせて、たまるか」


 みんなが、それぞれの武器を握った。剣じゃなくても。名前を覚えておくこと。それ自体が、戦いだった。


 玄弥は、空を見上げた。


 もう、亀裂はなかった。いつもの、青い六月の空。その下のどこかを、名前を奪う者が、今も歩いている。玄弥をまっすぐ狙わずに。玄弥を覚えている、誰かのほうへ。


「行くぞ」玄弥は剣を握った。「町のみんなを守る。誰の名前も、誰の記憶も、奪わせない。――俺の名前を覚えててくれる人を、一人だって失ってたまるか」


 信号が、青に変わった。けれど玄弥は、それを待たずに走り出していた。住宅街のほうへ。味噌汁のにおいの、するほうへ。


読んでくださり、ありがとうございます。

承の締めくくり、魔王が初めて、はっきりと姿と声を見せる回でした。けれど怒鳴りも叫びもしない。淡々と、玄弥の名前を呼ぶ。その静けさが、いちばん怖いと思って書きました。寝坊して、味噌汁のにおいを嗅いで、信号を待つ――そういう当たり前の朝まで、あの黒い玉座から見られていた。戦場が、玄弥の食卓まで伸びてきた恐怖を、描きたかった。

けれど、魔王が四城への攻撃を止めてまで玄弥一人を狙うということは、玄弥のやり方が効いている証でもあります。「怖がってるのは、向こうも同じだ」。凪人のこの一言が、この章の救いです。一人ずつ、地味に、けれど確かに、玄弥の戦いは魔王軍の根っこを揺るがしていた。

そして最後に、七禍卿の一人――奪名卿が、現代側へ転送されます。狙うのは、玄弥本人ではなく、玄弥を覚えている人々。名前を奪い、存在ごと世界から消す、いちばんむごい禁術。療養中のあの青年も、あの子どもも、町の誰もが標的になりうる。

剣ではなく、「名前を覚えておくこと」が武器になる戦い。みんなが、それぞれのやり方で、玄弥の名前を守ろうとします。次章、奪名卿との、記憶をめぐる戦いが始まります。

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ここまで読んでくださりありがとうございます!
玄弥たちが向き合うのは、倒すだけでは終わらない怪物たち。
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