第27章 帰せないひとり
灯里が、小さな実験を始めます。向こうの物を一つ留めると、こちらの同じ重さの物が、音もなく消える。等価交換の法則を、目の前で確かめてしまう。大河を先に帰すか、全員を待つか――仲間の意見が割れる中、魔道士がまた、大河の「お母さんの顔」を奪いに来ます。玄弥は、剣ではない武器で、それに立ち向かいます。
灯里は、実験をしたいと言った。
大河と再会した、次の日の夕方のことだ。玄弥の家の居間。灯里がちゃぶ台の上に、小さな石を二つ並べた。同じくらいの大きさ。同じくらいの重さ。片方は、玄弥が靴の裏にくっつけて持ち帰った、向こうの赤い土のかたまり。もう片方は、源兵衛川で拾った、なんてことのない川石。
「等価交換の法則。あの魔道士が言ってたやつです」灯里は対応表を広げた。「あれ、本当か確かめます。向こうの物をひとつ、現代に置いたまま、ほんの少しだけ境界に触れさせる。そのとき、こっちの同じ重さの物が、どうなるか」
「危なくないのか」澪が眉をひそめた。
「ごく小さい石、だけです」灯里は慎重に言った。「人とか、生き物では、絶対にやりません。アヴァロンさんも、見ててくれます」
アヴァロンがちゃぶ台の前に座った。指先に淡い光をともす。窓を開くほどの力じゃない。針の穴ほどの、境界のほつれ。それを赤い土のかたまりに近づける。
しばらく、何も起きなかった。
それから、ふっ、と。
三島の川石が、消えた。
音もなく。煙も立てず。そこにあったものが、ただ、なくなった。誰も触れていないのに。ちゃぶ台の上には、赤い土だけが残っている。
「……うわ」凪人がつぶやいた。「ほんとに、消えた」
「行ったんです。向こうへ」灯里はノートに何かを書きつけた。手がすこし震えている。「赤い土をこっちに留めたぶん、同じ重さの川石が向こうへ。本当だった。一つ来たら、一つ行く。逆も、また」
「念のため」灯里はもう一つ、台所から、塩の入った小皿を持ってきた。「重さを変えて、もう一回。今度はさっきより重い石を、向こうに留めます。何が消えるか」
アヴァロンが、また指先に光をともす。今度は、もっと慎重に。
ちゃぶ台の塩の小皿と、その隣の湯のみが、いっぺんに消えた。塩と湯のみを合わせると、ちょうど向こうの石と同じくらいの重さになる。きっちり釣り合ったぶんだけ、こちらが持っていかれた。
「……重さで、選ばれてる」凪人が顔をこわばらせた。「物の種類は、関係ないんだ。重さが合えば、何でも持っていく」
「そうです」灯里はノートに線を引いた。「だから、向こうから大河くん一人ぶんの重さが来たら。こっちからは、その重さになるように、いろんな物が消えるか、人が一人消えるか――どっちかで釣り合いを取る。最悪なのは、人が選ばれること」
玄弥は、湯のみのあった場所をじっと見ていた。さっきまでそこには麦茶が入っていた。半分くらい飲んだ、ぬるい麦茶だ。湯のみの底の輪っかの跡だけが、ちゃぶ台の木目に、うっすら湿って残っている。それすら、じきに乾く。あったことの証拠が、こんなに簡単に消えるのか。玄弥は、ちゃぶ台のその場所を、指でそっと押さえた。冷たくも、温かくもない。ただの木の感触があるだけだった。
ただの石でも、玄弥は腕の毛が逆立つのを感じた。これが人だったら。さっきの実験みたいに、音もなく、煙もなく、ただいなくなる。それを、敵は戦術に使っている。
玄弥は、ふと、台所にいる母の背中を思い出した。今ごろ夕飯の支度をしているはずの、何も知らない背中。あれが、ある日、何の音もなく――。そこまで考えて、玄弥はあわてて頭を振った。考えるな。考えても、いいことなんて、ひとつもない。
「黒冠魔導団は」アヴァロンが低く言った。「この法則を逆手に取っている。人質を取って、こちら側の物資や兵士を、無理やり向こうへ送る。村人を生きた支柱にして、転送門を開く。等価交換を、戦争の道具にしているのだ」
「最低だな」玄弥は吐き捨てた。
その夜。
玄弥の家に、みんな集まったまま、話し合いになった。大河を、どうするか。母が出してくれた麦茶のコップに、それぞれ手をつけないまま、汗をかかせていた。蛍光灯の下、ちゃぶ台を囲んで、誰も最初の一言を言い出せずにいる。
先に口火を切ったのは、凪人だった。そこから、意見が割れた。
「先に帰そう」凪人が言った。めずらしく、強い口調で。「あの子、まだ小学生だ。一日でも早く帰してやりたい。代わりに誰か来ても――その人を、また助けに行けばいい。順番に、やればいい」
「でも」灯里が首を横に振った。「誰が来るか、選べないんです。お年寄りかもしれない。赤ちゃんかもしれない。来た瞬間に、戦場のど真ん中かもしれない。助けに行く前に、何かあったら」
「じゃあ、大河はずっと向こうに置いとくのか」凪人が声を荒げた。
「そうは言ってない!」
「やめろ、二人とも」玄弥が割って入った。
部屋が、静かになった。
玄弥はちゃぶ台の木目を見ていた。答えなんて出やしない。凪人の言うことも分かる。灯里の言うことも分かる。どっちも正しくて、どっちも誰かを危険にさらす。こういうとき、大人ならどう決めるんだろう。ふと、そう思った。けど、ここに大人はいない。玄弥たちで決めるしかなかった。
「……俺は」玄弥はゆっくり口を開いた。「大河との約束を守りたい。一人も置いていかないって、約束した。それは、大河を一人で帰すことも、含んでる。あいつ自身が、一人で帰るのはやだって言ったんだ。誰かを犠牲にして帰るのは、やだって。――その気持ちを、無視したくない」
みんなが、玄弥を見た。
「だから、待つ。全員一緒に帰れる方法を、見つけるまで。四つの城をつないで、釣り合いをぜんぶ計算して。時間はかかる。それでも――それが誰も犠牲にしない唯一の道なら、俺はそっちを選ぶ」
「玄弥」アヴァロンが口を開いた。腕を組んだまま。「一つ、言っておく。お前のその選び方は――正しい。だが、いちばん苦しい道だ。先に一人を帰せば、お前は今夜、楽になる。約束を一つ、果たせる。だが、お前はそれを選ばなかった。全員を抱えたまま、ずっと苦しむ道を選んだ。それが、どういうことか分かっているな」
「分かってる」玄弥はうなずいた。「楽になりたくて誰かを犠牲にするのは――守ってることに、ならない。それはただ、自分が楽したいだけだ」
アヴァロンはしばらく玄弥を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。何かを認めるような目だった。「……お前のその答えを、一族の誰かに聞かせてやりたい。聖剣の継承者とは、こうあるべきだと」
「……時間がかかる間に、大河くんに何かあったら」澪が静かに言った。責めているんじゃない。確かめている声だった。
「分かってる」玄弥はうなずいた。「だから、急ぐ。死ぬ気で急ぐ。けど、焦って誰かを向こうに突き落とすのだけは、やらない。それだけは」
澪はしばらく玄弥を見て、それから、小さくうなずいた。
「分かった」澪は言った。「あんたが決めたなら、あたしも、それでいく」
話が、まとまりかけた。
その時、凪人が急にスケッチブックを開いた。
ものすごい勢いで、鉛筆を走らせはじめる。顔が、青ざめていた。
「凪人?」
「……大河くんが」凪人の声が震えた。「見える。向こうの、集落。大河くんのまわりに……黒い、もやが」
凪人の絵には、赤い空の下で星を数えている大河の、すぐ後ろに、黒ローブの影が、紫のもやを伸ばしている様子が描かれていた。昨日、取り逃がした、あの男だ。
「窓を!」玄弥は立ち上がった。「アヴァロン、窓を開けてくれ!」
「夜は境界が安定せん。だが――」アヴァロンも立った。「やってみる。ガレスを呼べ」
二人の力で、無理やり、ほんの小さな窓をこじ開けた。前のような大きさはない。一人、やっと首を突っ込めるほどの隙間。それでも、その向こうに、赤い空と、集落と――黒ローブの男が、見えた。
男は、大河に迫っていた。
「動くな、餓鬼」男の声が、隙間から聞こえた。「お前の記憶をいただく。いちばん温かいやつを、な。母親の――顔を」
男の手から、紫のもやが、大河の頭に巻きついた。
大河の目が、うつろになりかける。
「やめろ!」玄弥は隙間に剣を突き込もうとした。けれど、窓が小さすぎて、光刃が通らない。剣が、使えない。「くそっ、届かない!」
「玄弥」アヴァロンが玄弥の肩をつかんだ。「剣では無理だ。窓が小さすぎる。それに――剣を使えば、また、お前の記憶が削れる。別の方法を」
別の、方法。玄弥は隙間に顔を押しつけて、大河に向かって叫んだ。
「大河! 聞け! お母さんのこと、お前が自分で言うんだ!」
大河のうつろな目が、ぴくり、と動いた。
「忘れるな! お母さんの口癖! いつも何て言ってた!?」玄弥は声を張り上げた。「思い出せ! お前の言葉で!」
「……お、かあ、さん……」大河の唇が震えた。紫のもやに抗うように。「お母さん……は……」
「言え!」
「……『またそんなとこ、ほっつき歩いて』」大河の口から、言葉がこぼれた。「いつも、言うんだ。おれが寄り道して帰ると。『またそんなとこ、ほっつき歩いて、心配したでしょ』って。怒ってるけど……でも、ぎゅって、してくれるんだ」
紫のもやが、ぴくっ、とひるんだ。
「もっとだ!」玄弥は叫んだ。「手は! お母さんの手は、どんなだ!」
「……あったかい」大河の目に、光が戻ってきた。「ちょっと、ごつごつしてて。でも、あったかいんだ。頭、なでてくれるとき……あったかくて、ちょっと、味噌のにおいする。お味噌汁、作ったあとだから。おれ、あの手、大好きなんだ」
大河の言葉が、温度を帯びるたびに。
黒ローブの紫のもやが、力を失っていった。吸い上げようとした記憶を、当の本人がしゃべりながら、両手で握り直していくみたいに。もやは、つかみどころを失って空回りした。
「な――なぜだ」男がうろたえた。「吸えない。記憶が、固い。本人が握って、離さん」
「当たり前だろ」玄弥は隙間の向こうへ笑った。「大事な記憶は、本人がいちばん、よく覚えてる。お前が横から盗もうとしたって、無理だ。お母さんの手の温かさを、お前が知ってるか? 知らねえだろ。大河だけのものだ。盗めるもんか」
男の紫のもやが、はじけ飛んだ。
男は術の反動でよろめいた。舌打ちして、また転送の光を足元に走らせる。
「……次は、こうはいかんぞ」男は消える間際に言った。「等価交換は、物だけじゃない。記憶も、想いも、釣り合うのだ。お前たちが必死につなぎ止めた、その想いも――いつか、燃料にできる。覚えておけ」
男は消えた。窓がゆらいで、閉じはじめる。
最後に、大河の顔が見えた。我に返った、大河が。
「お兄ちゃん!」大河は隙間に向かって叫んだ。「おれ、お母さんの手、忘れなかったよ! ちゃんと、覚えてた!」
「ああ!」玄弥も叫び返した。「えらいぞ! その調子だ! 忘れんな、絶対!」
窓が、閉じた。
居間に、静けさが戻る。みんな、しばらく誰もしゃべらなかった。
「……今の」灯里がノートを胸に抱え直した。背表紙の角が、白くなるほど握られている。「大事、です。すごく大事なこと、でした」
「何が」玄弥は息を整えながら聞いた。
「あの魔道士、言ってました。等価交換は、記憶も、想いも、釣り合うって」灯里の目が、きらりと光った。「裏を返せば、です。重さで釣り合うのは、物だけじゃない。想いの強さでも釣り合う、かもしれない。――もしかしたら、大河くん一人を帰すのに、こっちから人を送らなくても。同じだけの強い想いを、向こうへ渡せば、釣り合うかもしれない」
玄弥は、つい身を乗り出した。膝が、ちゃぶ台の脚にぶつかった。
「それ……ほんとか」
「分かりません。まだ、思いつき、です」灯里は慎重に言った。けれど、その手はもう、新しいページに計算を書きはじめていた。「でも、今夜の大河くんを見て。記憶は、物みたいに重さがある。だったら、それを天秤の片方に、乗せられるかも。――研究する価値は、あります」
玄弥は、もう一度、消えた湯のみのあった場所を見た。それから、閉じた窓のあった、空っぽの空間を。
道が、見えた気がした。まだ、細い、糸みたいな道だけど。誰も犠牲にしないで、大河を帰す道が。
「頼む、灯里」玄弥は言った。「その研究、進めてくれ。俺は――その間に城をつなぐ。一個でも多く、味方を増やす」
その夜、灯里のノートには、新しい言葉が書かれた。
「想いの重さ」。
答えは、まだ誰も知らない。玄弥は、その四文字をしばらく見ていた。信じておかないと、ここから先、足が前に出ない。だから、信じることにした。それだけのことだった。
読んでくださり、ありがとうございます。
この回は、戦いらしい戦いの少ない、けれど大事な回でした。消える川石、消える湯のみ。音もなく、煙もなく、ただ、なくなる。それが人だったら――という恐怖を、静かに置きたかった。
大河を先に帰すか、全員を待つか。凪人と灯里の言い分は、どちらも正しくて、どちらも誰かを危険にさらします。正解のない問いを、子どもたちだけで決めなければならない。玄弥が選んだのは、いちばん苦しい道――全員を抱えたまま、ずっと悩み続ける道でした。アヴァロンの「楽になりたくて誰かを犠牲にするのは、守ることにならない」という言葉に、玄弥の答えを込めました。
そして、この章のいちばんの核は、剣を使わずに記憶を守る場面です。魔道士が大河の「お母さんの顔」を吸い上げようとしたとき、玄弥は、大河自身に語らせました。口癖、手の温度、味噌のにおい。本人が握っている記憶は、横から盗めない。――等価交換は、物だけでなく「想いの重さ」でも釣り合うかもしれない。次章からの城めぐりの裏で、灯里がこの研究を進めていきます。




