第26章 星を数える子
二度目の窓を開いて、玄弥たちは、また赤い空の下へ。今度は、まっすぐ大河のいる集落へ向かいます。星を毎晩数えて待っていた、あの子と、ようやく再会。けれど、黒冠魔導団の魔道士が、住民の記憶を狙って現れます。そして魔道士は、玄弥にいちばん残酷な選択を突きつけてきます。
二度目の窓は、前より、少しだけ開きやすかった。
一度通った場所は境界が覚えているんだ、とアヴァロンは言った。剣を地面に突き立てながら、足跡みたいなもんだ、と。同じ道は二度目のほうが見つけやすい。そういうものらしい。
赤い空が、またにじみ出してくる。
今度は、誰も足がすくまなかった。玄弥も、灯里も、凪人も。覚悟はできていた。白線をまたぐ。乾いた、焦げ臭い風。ひび割れた赤い土。前と同じ世界だ。でも、こっちには目的があった。それがいちばん違う。
あの集落へ。大河のいる場所へ。
「灯里、大丈夫か」振り返って聞いた。
「……平気、です」灯里はこめかみを押さえていた。やっぱり記憶が揺れているらしい。それでも前ほどじゃない。「対応表で、自分のこと確認しながら歩いてます。あたしは榊原灯里。三島の図書委員。先輩の後輩。これ、唱えてれば引きずられにくいんです」
「凪人は」
「絵、描いてる」凪人は歩きながらスケッチブックに鉛筆を走らせていた。「描いてると、自分がどっち側にいるか分かる。手が覚えてるから」
みんな、それぞれのやり方で、自分をつなぎ止めていた。玄弥は、前はただ慌てるだけだったのを思い出して、こいつらすごいな、と少しだけ後ろを歩く速度を落とした。
じゃあ自分はどうやって自分をつなぐんだろう、と歩きながら考えた。澪の声、と思って、すぐ照れくさくなった。べつにそんな、たいそうなものじゃない。ただ、あいつが名前を呼ぶと、ふしぎと足が地面につく。それだけだ。たぶん。
風が、ひゅう、と耳のわきを抜けた。三島の川風とは似ても似つかない、ざらついた風。早く帰りたいな、と一瞬だけ思って、いやいや今は大河だ、と頭を切り替えた。
丘を越えると、集落が見えた。
赤い森の合間に、瓦屋根。トタンの壁。電柱。三島の住宅街を、ちぎって貼りつけたみたいな景色。前に見たのと変わらない。ただ、今日はその軒先に人がいた。洗濯物を干しているおばさん。湧き水のそばでしゃがみこんでいるお年寄り。どこかで、町ですれ違っていたかもしれない顔。みんな、見覚えがある気がする。
集落の入り口に、小さな影がひとつ、こっちを見ていた。
ランドセルを背負ったままの男の子。
「……お兄ちゃん?」
その声で、玄弥の足が止まった。心臓が跳ねた。前に丘の上から叫んで、返ってきた、あの声だ。今は、もっと近い。手を伸ばせば届く。
「大河」
走った。赤い土を蹴って。
大河も走ってきた。ランドセルがぱかぱか跳ねている。二人は集落の入り口の真ん中で、ぶつかるみたいに抱き合った。玄弥はその小さな体を力いっぱい抱きしめた。骨も、体温も、息も、ちゃんとある。夢じゃなかった。本当にいる。ランドセルの肩ベルトが、抱きしめた腕に食い込んだ。そんなどうでもいいことまで、やけにはっきり分かった。
「おそいよ、お兄ちゃん」
大河は玄弥の胸に顔をうずめたまま言った。いつもの口癖。だけど、声がすこし震えていた。
「……ああ。ごめんな」玄弥の声も震えた。「ほんと、遅くなった。ごめん」
「ぜんっぜん、来ないんだもん」大河が顔を上げた。笑っていた。むりやり笑っているのが、玄弥には分かった。「おれ、毎晩、星、数えてたんだよ。約束したから。昨日でね、たぶん四千こえた。途中で分かんなくなるけど」
「四千」言葉に詰まった。一日に数百。それを何日も。一人で、この赤い空を見上げて、寝転んで、指を一本ずつ折って。きっと毎晩、誰も来ない丘の上で、首が痛くなるまで。玄弥は、自分が三島でぬくぬく布団にくるまっていた夜の数を、思わず数えそうになった。
「すごいでしょ」大河は胸を張った。「おれ、平気だもん。みんな優しいし。ご飯もくれるし。星、すごくきれいだし。だから別に、寂しくなんか、ないし」
ないし、と言いながら。
大河の目が、玄弥の後ろをちらちら見ていた。誰かを探すみたいに。澪や灯里の、その後ろを。
「……お母さんは」
ぽつり、と、それだけ。
玄弥は、何も言えなかった。
「お母さん、来てない、よね」大河の笑顔が、すこしずつ崩れていく。「分かってる。だって、ここ、向こうの世界だもん。お母さん、こっち来れないもん。おれ、分かってるよ。ちゃんと、分かってるんだから」
分かってる、と、何度も繰り返した。
言いながら、目に涙がたまっていく。こぼすまいとして、大河は上を向いた。赤い空を。星を数える、あの空を。
「……ばかだな」玄弥はもう一度、大河を抱きしめた。今度は、そっと。「無理すんな。寂しいって、言っていいんだよ。会いたいって、言っていいんだ」
「……っ」
大河の肩が、震えた。
「会いたいよ」大河が玄弥の服をぎゅっとつかんだ。「お母さんに会いたい。お母さんのご飯、食べたい。家、帰りたい。寂しいよ。ずっと寂しかったよ。星なんか、もう数えたくないよ。本当は」
玄弥は、ただ、その背中をなでた。言葉なんて出てこなかった。出てこなくて当然だ。この子がずっと我慢していたものが、こぼれていくのを、受け止めるしかできなかった。
澪が近づいてきて、しゃがんだ。大河の目線に合わせて。
「大河くん」澪は、優しく言った。「えらかったね。ひとりで、ずっと。ほんとに、えらかった」
その一言で、大河は声を上げて泣いた。子どもらしく。ようやく、子どもに戻れたみたいに。
悲鳴が上がったのは、その泣き声の途中だった。
集落の奥。湧き水のそば。大河の背をなでていた玄弥の手が止まった。顔を上げると、そこに黒い影が一人、立っていた。背の低い、黒ローブの男。その手から、紫色のもやが立ちのぼっている。駿府城で見た、あの色だ。記憶を吸い上げる、呪いの色。
もやが、しゃがんでいたお年寄りを包んでいた。お年寄りの目がうつろになっていく。口がぽかんと開く。手から力が抜けて、水桶が転がった。からん、と乾いた音。
「黒冠魔導団!」アヴァロンが剣を抜いた。「下級術者だ。住民の記憶を、記憶鉱へ吸い上げている。急げ!」
「大河、ここにいろ!」玄弥は立ち上がった。「澪、頼む!」
「うん。任せて」澪は大河を自分の後ろにかばった。「大河くんは、あたしが守る。行って」
走った。湧き水のほうへ。
黒ローブの男が、玄弥たちに気づいた。にやり、と笑う。痩せた、青白い顔。ただ、その目には、駿府城の子どもみたいなおびえはなかった。慣れた手つきで、もやを操っている。
「ほう。聖剣の坊やか」男はしわがれた声で言った。「噂は聞いている。黒殻騎から乗り手を逃がして回っている、おせっかいな餓鬼だと」
「住民から手を離せ」玄弥は剣の柄に手をかけた。「その人たちの記憶を、返せ」
「返す?」男が笑った。「これはもう燃料だ。返るものか。お前たちが来なければ、村ひとつぶんの記憶をいただいて帰るところだったのに。――邪魔をするなら」
男が、片手を振った。
紫のもやが、住民たちへ襲いかかる。何人もの記憶を、いっぺんに吸い上げようと。
「させるか!」
剣を抜いた。
光の刃が伸びる。けれど、斬ったのは男じゃない。住民と紫のもやをつなぐ、細い糸。駿府城のときと同じだ。記憶を吸い取る、その経路だけを断つ。行き場を失ったもやが、ばらけて散った。住民たちが、はっと息を吹き返す。
光刃を振った、その瞬間。
玄弥の頭の隅で、何かがすっと薄れた。母の作った目玉焼きの味だった、気がする。気がする、というだけで、もう思い出せない。塩だったか、醤油だったか、それすら。剣を使うたびの、いつもの代償。けど、立ち止まっている暇はなかった。
「玄弥! あんたの名前、伊勢崎玄弥!」澪の声が後ろから飛んできた。大河をかばいながら。「忘れんな!」
「分かってる!」
その声で、玄弥は自分の輪郭を描き直す。
黒ローブの男は、住民を吸えなくなって、舌打ちした。逃げようと身をひるがえす。
「逃がさん」アヴァロンとガレスが、左右から回り込んでいた。男の退路をふさぐ。「観念しろ。お前たちの手口は、もう割れている」
男は、囲まれた。なのに、追い詰められても、まだ笑っていた。
「囲んでどうする」男は両手を広げた。「俺を捕らえても、何も変わらん。俺はただの末端だ。それより――坊や。一つ、いいことを教えてやろう。お前が知りたがっていることを」
玄弥は剣を構えたまま、男を見た。
「等価交換のことだ」男はにやにや笑った。「お前、あの餓鬼を連れて帰りたいんだろう。簡単だぞ。あいつ一人を向こうへ戻せばいい。そうすれば釣り合いが取れて、すぐにでも帰れる。――ただし」
男は、言葉を切った。間を、たっぷり取って。
「あの餓鬼が一人、向こうへ戻れば。こちら側へ、現代の誰かが一人、引きずり込まれる。同じ重さの、誰かが、な」
玄弥の息が、止まった。
「お前の隣の女か。後ろの子どもか。それとも、町の見知らぬ誰かか。誰がここへ来るかは分からん。だが、必ず一人、入れ替わる。それがこの世界の法だ。――さあ、どうする。一人を助けるために、別の一人を地獄へ突き落とすか?」
男は玄弥の顔を見て、満足そうに笑った。
返事を待たずに、足元へ紫の光を走らせる。転送の術。体がぐにゃりとゆがんで――消えた。後には何も残らない。住民たちのぼんやりした顔と、止まったままの悲鳴だけ。
「……待て!」ガレスが剣を振ったが、空を切っただけだった。「逃げられた」
玄弥は、その場に立ち尽くしていた。
あいつの言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。大河一人を戻せば、誰かがこちらへ来る。前から薄々、感じてはいた。いちばん考えたくない可能性を、わざわざ手土産みたいに置いていかれた。
「玄弥」
澪が大河の手を引いて、近づいてきた。大河はまだ、目が赤い。けど、もう泣いてはいなかった。じっと玄弥を見ている。
「今の、聞いた」玄弥はぽつりと言った。「大河を一人、戻したら……誰かがここに来ちまう」
「お兄ちゃん」
大河が、玄弥の服の裾を引っ張った。
「おれ、ひとりだけ帰るの、やだ」大河はまっすぐ玄弥を見上げた。涙の跡の残る顔で、それでもしっかりと。「おれが帰って、代わりに誰か来ちゃうの、やだよ。その人だって、お母さんとか、いるかもしれないじゃん。おれとおんなじに、寂しくなっちゃうじゃん。そんなの、やだ」
玄弥は、すぐには返事ができなかった。
まだランドセルの肩ベルトの跡が腕に残っている。さっきまで、家に帰りたいと泣きじゃくっていた子だ。その子が、自分の番をあとに回した。
「……大河」
「だからさ」大河が、にっと笑った。むりやりじゃない。今度は、本当の笑顔だった。「おれ、もうちょっと待てるよ。お兄ちゃんが、ちゃんとみんな一緒に帰れる方法、見つけてくれるんでしょ? なら、待つ。星、数えながら」
玄弥はしゃがんで、大河の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「ああ」声が、また震えそうになった。「見つける。絶対、見つける。一人も置いていかない。お前も、ここのみんなも、誰も犠牲にしないで――ぜんぶ丸ごと、連れて帰る」
「指切りは?」
「すんのか、それ」
「するの」大河が小指を突き出した。「約束は、指切り。お母さんと、いつもするもん」
玄弥は、自分の小指を、大河の小指にからめた。
ゆーびきり、げーんまん。大河が歌った。小さな声で。澪も、灯里も、凪人も、その輪に加わる。指切った。歌の最後に、大河が玄弥の小指をぎゅっと握って、しばらく離さなかった。
「窓が閉じる」アヴァロンが静かに言った。背後で、三島の景色が、ゆらいでいる。
玄弥は立ち上がった。後ろ髪を引かれながら。それでも、前に丘の上から声だけ聞いて引き返したときとは、足の向きが違っていた。大河自身が、待つと言ってくれたのだ。
「行ってくる」玄弥は大河に言った。「次に来るときは、たぶん、迎えに来るときだ。だから、もうちょっとだけ」
「うん」大河が手を振った。「星、ちゃんと数えとくね。お兄ちゃんが来たとき、何個になったか、教えてあげる」
「楽しみにしてる」
白線を、またぐ。
気づくと、また三島大社前の交差点だった。夜明けの、青い空。空気が、しっとり湿っていて、川のにおいがする。赤い空のざらついた風とは、何もかも違う。でも、玄弥の小指には、まだあの子の握った、汗ばんだ小さな指の感触が残っていた。ほどけないように、と願うみたいに、玄弥はその小指を、もう片方の手で包んだ。
「次は」玄弥は空を見上げた。「次は、連れて帰る。指切ったからな」
信号が、青に変わった。誰もいない、夜明けの交差点で。
読んでくださり、ありがとうございます。
ついに、大河と再会する回でした。「おそいよ、お兄ちゃん」――この口癖を、本物の声で、抱きしめながら聞かせたかった。大河は強がって笑います。「寂しくなんかない」と。けれど、玄弥たちの後ろを、お母さんを探すように、ちらちら見てしまう。その我慢が、澪の一言でほどけて、ようやく子どもに戻って泣く場面を、いちばん書きたかったところです。
魔道士が告げた法則――「大河一人を戻せば、現代側から一人がこちらへ来る」。これは、これから玄弥をずっと苦しめる枷になります。けれど、その選択を拒んだのは、玄弥ではなく、大河自身でした。「おれが帰って、代わりに誰か来ちゃうの、やだ」。まだ小学生のあの子が、自分の帰還より、見知らぬ誰かを犠牲にしないことを選ぶ。この物語の芯を、いちばん幼い登場人物に言わせたかった。
指切りをして、玄弥は約束しました。一人も置いていかず、ぜんぶ丸ごと連れて帰る、と。次章、その「丸ごと帰る方法」の、最初の糸口が見えてきます。




