第25章 最初の窓
今度は、こちらから、向こうへ。アヴァロンとガレスが、三島大社前に、短い「窓」を開きます。赤い雲海の下、崩れた城塞の世界へ。釣り合いのもう半分を、確かめるために。けれど、その世界は、人の記憶を、揺さぶってきます。
窓を開く、と言われても、玄弥には、その絵がうまく浮かばなかった。
夜明け前。三島大社前の交差点。人通りは、まだない。街灯だけが、濡れたアスファルトを照らしている。交差点の真ん中で、エクスカリバーが、いつものように静かに刺さっていた。その周りに、玄弥たちは立っていた。玄弥、澪、灯里、凪人。そして、アヴァロンとガレス。
「窓って、ドアみたいなの、できんの?」玄弥が聞いた。
「そんな上等なものでは、ない」アヴァロンは剣を抜いた。自分の剣を。エクスカリバーじゃない、ふつうの片手剣を。「境界の薄い場所で、剣の記憶を解き放つ。すると、ほんの数十分、向こう側とこちら側が重なる。重なった間だけ、歩いて渡れる。それだけだ」
「戻れなかったら?」灯里が、慎重に聞いた。
「窓が閉じる前に、戻る。閉じれば――こちらへは、帰れん」アヴァロンの声は、平らだった。「大河たちが、戻れなかったように、な」
誰も、軽口を言わなかった。
玄弥は、エクスカリバーの柄に手を添えた。今日は抜かない。けれど、剣の力が窓を安定させるのだと、アヴァロンは言った。玄弥がそこにいるだけで、窓は長く開いていられる。
「行くぞ」
アヴァロンとガレスが、剣を地面へ突き立てた。同時に。低い、詠唱。聞いたことのない言葉。剣の刃から、淡い光が地面に広がっていく。波紋みたいに。
空気が、ねじれた。
交差点の向こう側の景色が、ぐにゃりと歪んだ。三島の見慣れた町並みが薄れて――その奥から、別の景色がにじみ出してきた。赤い。空が赤い。夕焼けでも、朝焼けでもない、どろりとした赤。地平線にゆっくりと流れる、赤い雲の海。その下に、崩れた巨大な城壁。骨のような樹。
「……うわ」凪人がつぶやいた。「ほんとに、向こうの世界だ」
「行こう」玄弥は言った。「窓が、閉じる前に」
一歩、踏み出す。
交差点の白線を、またぐ。たったそれだけのことが――別の世界へ足を踏み入れることだった。横断歩道の白いペンキを、片足だけ踏んだまま、もう片足は、向こうの赤い土を踏んでいる。その、一歩のあいだに、世界の境目がある。へんな感じだった。空気の匂いが、変わる。乾いて、すこし焦げ臭い。夏に近所で誰かが庭で燃やしているような、落ち葉のにおいに、ちょっとだけ似ていた。赤い光が、肌を染める。足の下はもう、アスファルトじゃなくて、ひび割れた赤い土だった。サンダルを忘れた裸足みたいに、その熱と乾きが、靴の底ごしに伝わってくる。
振り返ると、まだ薄く、三島の交差点が見えた。信号機が、青く光っている。その光景が、水たまりに映った景色みたいに、ゆらゆらと揺れていた。窓は開いている。けれど、長くはもたない。
空を、見上げる。
赤い雲の海が、ゆっくりと流れていた。雲が、波みたいにうねる。その隙間から、ときどき、星がこぼれ落ちて見える。三島の空では見たことのない、大きな、青白い星。これを、大河は毎晩、数えているのか。玄弥は、胸が締めつけられた。星はきれいだった。きれいだからこそ、よけいに、こんな場所にひとりで置いてきてしまったことが、つらかった。
「綺麗、だね」澪が、ぽつりと言った。玄弥の隣で。
「うん」玄弥はうなずいた。「あいつが、見てる空だ」
毎晩ぜんぶ覚えとくから、帰ったら教えてあげる。大河は、別れぎわに、そう言った。たぶん、今もこの空の下のどこかで、指を折りながら、律儀に数えている。星なんて、覚えきれるわけがないのに。それでも、約束を、ひとつずつ守ろうとしている。そういう子なのだ、あいつは。
異世界の荒野を、歩きはじめて、すぐ。
灯里の様子が、おかしくなった。
「……あれ」灯里が、足を止めた。きょろきょろと、あたりを見回す。「あたし、ここ、知ってる。この、赤い土の感じ。子どもの頃、ここで、遊んだ……ような……」
「灯里?」玄弥が振り返った。「何、言ってんだ。お前、三島の子だろ」
「三島……?」灯里は、混乱した顔で玄弥を見た。「あたし、三島の子、でしたっけ。それとも、ここの……あれ、どっちで育ったんだっけ、あたし」
凪人も、同じだった。
スケッチブックを抱えたまま、ぼうっと赤い空を見上げている。
「この空、ずっと見てた気がする」凪人はぼそぼそと言った。「絵に、何回も描いた。こっちが、ほんとの空だったかもしれない。三島の、青い空のほうが、夢だったのかも」
「しっかりしろ!」アヴァロンが、鋭く言った。「向こう側の、記憶鉱の影響だ。境界の薄い者ほど、こちらの記憶に引きずられる。自分がどちらで生まれたか、分からなくなる。それに、のまれるな」
玄弥は、背筋が冷えた。灯里と凪人を、両側から支える。けれど自分は、なんともなかった。澪も。
「玄弥どのと、澪どのは、平気なのか」ガレスが、不思議そうに言った。
「……なんで、あたしたちだけ」澪がつぶやいた。
「分からん」アヴァロンが、玄弥と澪を、じっと見た。何かを考えるような目で。「だが、二人は、よほど、こちら側に――三島に、深く根を張っているのだろう。記憶が、揺らがない。それは、いいことだ。今は」
玄弥は、その「今は」が、少し引っかかった。けれど、聞き返す暇はなかった。
地面が、揺れた。
赤い土の向こうから、何かが群れで、こちらへ駆けてくる。獣だった。馬ほどの大きさ。けれど、馬じゃない。角があって、目が四つあって、体が半分透けている。境界獣、とアヴァロンが呼んだ。十頭。いや、もっと。
「囲まれる!」ガレスが、剣を構えた。「玄弥どの、エクスを!」
玄弥は、柄に手をかけた。けれど――抜く寸前で、止まった。
よく、見た。先頭の、いちばん大きな獣。その後ろに、小さな影がいくつも隠れていた。子どもの獣。親が子を、後ろにかばっている。こちらを威嚇しているのは、襲うためじゃ、なかった。自分の子のいる場所に、知らない者が踏み込んできたから。
「待って」玄弥は、剣から手を離した。「こいつら、襲ってきてるんじゃ、ない。守ってるんだ。子どもを」
「玄弥どの、しかし――」
「道を、空ければいい」玄弥はゆっくりと、横へ動いた。両手を上げて。獣たちの巣のある方向から、離れるように。「俺たちが、巣の反対側を通れば。こいつら、追ってこない。たぶん」
「たぶん、で、命を賭けるのか」ガレスが、苦い顔をした。剣を握ったまま。「外れたら、全員、やられるぞ」
「ガレス」玄弥は、まっすぐ彼を見た。「あんた、三島で、雨傘の怪物のとき、見たろ。あれも、襲ってきてるように見えて、違った。怖い顔は、たいてい、助けを呼んでる顔だ。――信じてくれ」
ガレスは、しばらく玄弥を見ていた。それから、ふっと息を吐いて、剣を収めた。完全には、納得していない。けれど、玄弥の目を信じることにした。そういう退き方だった。
「……あなたの、その目に、賭ける。だが、私は後ろを警戒する。子どもを守る親ほど、追い詰めれば、何をするか分からん。それだけは、忘れるな」
「うん。ありがとう」
みんなで、ゆっくりと迂回した。赤い岩の陰を、回って。境界獣の群れは、玄弥たちが巣から離れていくのを、じっと見ていた。それから――先頭の親獣が、ふっと警戒を解いた。子どもたちを引き連れて、向こうへ去っていく。一頭も、傷つけずにすんだ。
「……斬らずに、すんだ」澪が、ほっと息を吐いた。
「こっちでも、同じだな」玄弥は笑った。「怖い顔してても、理由がある。聞けば、分かる」
風に、乗って、何かが聞こえた。
遠くの、丘の向こう。玄弥は駆け寄って、岩の上に登った。丘のふもとに、集落があった。けれど、ふつうの異世界の村じゃ、ない。赤い森の合間に――見覚えのある屋根が混じっていた。瓦屋根。トタンの壁。電柱。三島の住宅街が、そのまま赤い土の上に移植されたみたいに、建っていた。等価交換で向こうへ持っていかれた、町のかけら。
そして、その集落のどこかから。
子どもの声が、聞こえた。
「いーち、にー、さーん……」
星を数える、声。
玄弥の心臓が、跳ねた。さっきまで、剣のせいでぼやけていた、その声の輪郭が――今、はっきりと耳に届いた。間違えるはずが、ない。
「……大河だ」玄弥は、声を震わせた。「大河の、声だ。あそこに、いる」
玄弥は、丘を駆け下りようとした。集落へ。大河の声のほうへ。体が、勝手に動いた。
「玄弥どの!」ガレスが、その腕をつかんだ。「窓が、閉じる! あと、わずかだ!」
玄弥は、振り返った。背後で、三島の交差点の窓が、みるみる小さくなっていた。輪郭がちぎれはじめている。青信号の光が、もう点みたいになっていた。あれが閉じれば――玄弥たちも、帰れない。大河と、同じ側に取り残される。澪も。灯里も。凪人も。
「でも、すぐそこに……っ」
玄弥の声が、割れた。届きそうだった。あと、ほんの数百メートル。走れば、抱きしめられる距離に、大河がいる。なのに、ここで戻らなければ、今度はぜんぶの町を巻き込んで、戻れなくなる。みんなを、巻き添えにする。
また、だ。また、多くを守るために、一人を置いていく。
「玄弥」
澪が、玄弥の前に立った。両手で、玄弥の顔をはさんだ。まっすぐ、目を見て。
「今日は、駄目。今日は、まだ、無理。――でも、場所が、分かった。あの子が、生きてて、星を数えてて、すぐそこにいるって、分かった。それ、すごいことだよ。前進だよ」澪の声も、震えていた。「だから、今日は、帰ろう。みんなで、ちゃんと戻る方法、見つけてから。今度こそ、一人も置いていかないで、迎えに来よう。ね」
玄弥は、唇を噛んだ。血の味がした。
それでも、最後に、丘の上から、力の限り叫んだ。集落のほうへ。
「大河ーっ!」
声が、赤い荒野に響いた。集落の、星を数える声が、ぴたり、と止まった。誰かが顔を上げた気配が、した。
「迎えに来るからな! 絶対だ! もうちょっとだけ、待っててくれ! 星、数えて!」
遠くで――小さく、けれど、はっきりと、声が返ってきた。
「……お兄ちゃん!? おそいよ、もー!」
おそいよ。その一言に、玄弥の目の奥が、熱くなった。澪が言った通りだ。あの子は、いつも、そう言う。忘れかけていた、その響きが、本物の声で戻ってきた。なのに玄弥は、泣くより先に、なぜだか、ふっと笑ってしまった。おそいよ、か。ほんとに、その通りだよ。
「ああ、ごめん! ほんと、遅くて、ごめん! 次は、絶対、間に合うから!」
窓が、ほどけはじめた。アヴァロンが、玄弥の背を押す。玄弥は、走った。涙を、赤い風にちぎられながら。最後の、ひと跨ぎ。白線を、越える。
気づくと、玄弥たちは、三島大社前の交差点に立っていた。
夜明けの、青い空。アスファルト。濡れた路面。いつもの町。背後の窓は、もう閉じていた。赤い空は、消えていた。けれど玄弥の頬には、まだ、あの焦げ臭い、赤い風の匂いが残っていた。そして、耳の奥には――「おそいよ、もー」という、あの声が。
灯里と凪人が、地面に座り込んだ。記憶の混乱が解けて、ぐったりしている。けれど二人とも、ちゃんと三島の子の顔に戻っていた。
「場所は、分かった」玄弥は、空を見上げて言った。声は、もう震えていなかった。「あとは、戻す方法だ。釣り合いを計算して。四つの城をつないで。――必ず、迎えに行く」
信号が、青に変わった。誰も渡らない、夜明けの交差点で。その青だけが、約束みたいに光っていた。
澪が、そのこぶしの上に、そっと手を重ねた。
「ほどきな」澪は、静かに言った。「力、入れすぎ。今ほどいても、誓いは消えない。あんたが握りしめてなくても、あたしが覚えてるから」
玄弥は、ゆっくりと指を開いた。手のひらに、爪の跡が四つ、残っていた。その小さな痛みが、なぜか、玄弥を落ち着かせた。約束は、ここにある。消えない。
丘の上で握ったこぶしを、玄弥はようやくほどいた。けれど、その代わりに、心の真ん中に、もっと固い、もっと熱いものを握り直した。必ず、迎えに行く。その一点だけは、何があっても、ほどかない。
読んでくださり、ありがとうございます。
向こう側の世界を、初めて歩く回でした。赤い雲の海、青白い星、ひび割れた赤い土。灯里と凪人は、自分が三島とこちら、どちらで育ったのか、分からなくなる。境界の薄い者ほど、向こうの記憶に引きずられる。けれど玄弥と澪だけは、揺らがない。アヴァロンの「二人は、よほど深く三島に根を張っている」――この言葉は、後の大きな真実への、小さな伏線です。
境界獣は、襲ってきたのではなく、子を守っていただけ。玄弥は剣を抜かず、道を空ける。「怖い顔してても、理由がある。聞けば、分かる」。この物語の芯は、向こうの世界でも、変わりません。
そして、丘の向こうの集落から聞こえた、「いーち、にー、さーん」。星を数える声。剣のせいで薄れていた大河の声が、本物になって戻ってきます。あと数百メートル。なのに窓が閉じる。また、多くを守るために、一人を置いていく。それでも玄弥は叫びました。「迎えに来るからな!」。返ってきたのは、「おそいよ、もー!」。
場所は、分かりました。あとは、戻す方法です。次章、ついに、大河と再会します。




