第24章 駿府城、空の騎士
いちばん近い城――静岡・駿府城へ。空を飛ぶ翡翠翼騎団が、黒殻騎に襲われています。けれど本当の脅威は、呪い。味方の姿が敵に見える呪いで、翡翠翼騎団は、同士討ちを始めてしまう。澪が名前を呼び、灯里が紋章を読み、玄弥が呪いだけを斬る。そして戦いのあと、玄弥は――。
駿府城が燃えている――そうニュースが伝えたのは、翌朝のことだった。
正確には、燃えているのは城じゃ、なかった。城の上空。そこで、翅の生えた巨人たちが、何かと戦っていた。黒い、影の群れと。映像はぶれていて、よく見えない。けれど灯里は、画面を止めて指さした。
「先輩、これ。翡翠翼騎団です。空を飛べる、鎧巨兵。それが、黒殻騎の飛行部隊に襲われてる」
「いちばん近い城だな」アヴァロンが地図を見た。「三島から静岡まで、東海道線で四十分ほどか。間に合うなら――行く価値はある」
玄弥は、迷わなかった。
ただ、一つだけ引っかかった。三島を空けてもいいのか。けれど灯里が、それを見越して言った。
「三島は、昨日の今日で、しばらく敵の動きは止まってます。継承者を見つけた、って報せが行ったばかり。次の手を考えてる間は、たぶん来ない。今のうち、です」
「俺も、残る」ガレスが言った。右腕は、まだしびれが抜けていない。「部下と、町を見ておく。あの青年もいる。玄弥どのは、行け」
というわけで、静岡へ向かったのは四人だった。玄弥、澪、灯里、アヴァロン。凪人は町に残って、地下の脈を描き続けると言った。「絵でつながってれば、遠くても、たぶん見える」と。
電車の中で、玄弥はずっと、窓の外を見ていた。
いつもの東海道線。富士山が見える。海が光る。なのに、その風景のあちこちに、赤い森の切れ端や、知らない城の影が混じっている。車内のつり革が、カーブのたびに、ぜんぶ同じ方向へ、いっせいに傾く。誰も座っていないボックス席に、忘れ物の傘が一本、立てかけたまま残されていた。持ち主は、どこへ行ったんだろう。乗客はまばらだった。みんな、静岡方面へは行きたがらない。逆向きの電車だけが混んでいた。
「ねえ」澪が、隣でぽつりと言った。「あんた、ちゃんと覚えてる? あたしのフルネーム」
「は?」玄弥は面食らった。「当たり前だろ。何、急に」
「いいから。言ってみ」
「……白石、澪。白石澪だろ」
澪は、ふっと息を吐いた。安心したように。
「うん。合ってる」澪は窓の外へ目をやった。「昨日、あんた、剣使ったあと、一瞬、あたしのこと、誰だっけって顔したから。たぶん、自分じゃ気づいてないだろうけど」
玄弥は、何も言えなかった。
大河の声だけじゃ、ない。剣を使うたびに、ほかの記憶も、すこしずつ欠けていく。今度は、いちばん近くにいる、澪の名前が危ない。それを、澪自身が、いちばんこわがっている。なのに、ついてくると言って、聞かない。
「……ごめん」玄弥は、小さく言った。
「謝るな。気持ち悪い」澪は、わざとぶっきらぼうに言った。「謝る暇あったら、忘れんな。それだけ」
静岡駅に着くと、空気が変わった。
遠くで、地響き。空に、翅の巨人。城の方角から、黒い煙。人々が駅から逆向きに流れていく。玄弥たちはその流れに逆らって、駿府城公園のほうへ走った。
近づくにつれて、おかしい、と気づいた。
空で戦っている、翅の巨人たち。よく見ると――黒殻騎と戦っているだけじゃない。翡翠翼騎団同士で、斬り合っていた。緑がかった装甲の巨人が、同じ緑の巨人に、剣を突き立てている。味方を。
「同士討ち、だ」アヴァロンが、短く息を吸った。「呪いだ。誰かが、呪いをかけている。味方の姿が、敵に見える呪いを」
城の、櫓の上。黒いローブの人影が見えた。両手を広げ、何かを唱えている。その手から、紫色の、もやのようなものが、空へ立ちのぼっていた。それが、翅の巨人たちを包んでいる。
「あいつだ」玄弥は走りながら、剣の柄に手をかけた。「あいつが、呪いをばらまいてる。けど――」
飛んでいる巨人を、どうやって止める。玄弥は、空は飛べない。
「先輩!」灯里がタブレットを見ながら叫んだ。「各機に紋章があります。胸のところ。模様が、一機ずつ違う。それを照合すれば、どれが本物の味方か、見分けられます! あたしが、読みます!」
「澪は」玄弥は言いかけた。
「あんたの名前、呼ぶ」澪は、もう声を張り上げていた。「伊勢崎玄弥! 聞こえてる? あたしは白石澪! あんたの、幼なじみ! 忘れんな、絶対!」
その声が、玄弥の背骨を、まっすぐにした。
玄弥は、剣を抜いた。光の刃が、空へ伸びる。地を蹴る。体が軽い。櫓の屋根まで、一息に跳ぶ。呪いを唱える、黒ローブへ。
「やめろ!」
玄弥は叫んだ。けれど、斬らなかった。黒ローブの体じゃない。その手から空へ伸びる、紫のもやの根もと。呪いと巨人たちをつなぐ、紫の糸。それだけを狙う。
「灯里! どれが、本物だ!」
「右の三機! 胸に、羽根が二枚の紋章! それが本物の翡翠翼騎団です! 左の、紫がかったのは、呪いの幻!」
灯里の声が、戦場の地図になった。玄弥はそれを頼りに、紫の糸を、一本ずつ断っていく。呪いの幻が、ひとつ、またひとつ消える。本物の味方が、互いの姿を取り戻していく。剣を向け合っていた巨人たちが、はっとしたように、刃を止めた。
途中、一機の翅の巨人が、まだ幻に惑わされたまま、玄弥のいる櫓へ剣を振り下ろそうとした。味方を、敵だと思い込んだまま。玄弥は、よけきれない。
「玄弥! 右!」
澪の、叫び。地上から。玄弥は反射的に、右へ跳んだ。巨人の刃が、櫓の屋根をかすめて、瓦を砕く。間一髪。澪の声がなかったら、潰されていた。玄弥は宙で体をひねり、その巨人をつなぐ紫の糸も断った。巨人がわれに返って、慌てて剣を引く。
澪の声は、名前を呼ぶだけじゃ、なかった。戦場の、玄弥の目にもなっていた。
「うわ……ああっ」
黒ローブが悲鳴を上げて、櫓から転げ落ちた。呪いの源を、断たれて。玄弥はその体を、光の刃の腹で受け止めて、そっと地面へ下ろした。気を失っただけだ。殺しては、いない。
倒れた黒ローブの、フードがずれた。
その下から出てきたのは――まだ、子どもみたいな顔だった。玄弥は、声をなくした。十二、三歳。痩せた頬。目の下に、濃い隈。眠りながら、うわごとをつぶやいている。
「……やめ、たい……。もう、呪いたく、ない……。でも、やめたら……ねえさんの、名前、消されちゃう……」
玄弥は、しゃがんで、その子の顔を見た。
この子も、だ。脅されて、やらされている。姉さんの名前を、人質に取られて。呪いをばらまく以外に、選べなかった。玄弥がつい今しがた戦っていた相手は――味方を同士討ちさせていた、憎い敵は――こんな、小さな子どもだった。
「……ひでえな」玄弥は、ぽつりと言った。怒りの行き場がなかった。「こんな子に、こんなこと、させて」
アヴァロンが近づいてきて、その子を見下ろした。眉をひそめる。
「黒冠魔導団だ」アヴァロンの声が固かった。「魔王直属の、術者集団。やつらは、自分では手を汚さん。名前を人質に取って、子どもや、弱った者に術を使わせる。捕まっても、死ぬのは操られた者だけ。――汚い、戦い方だ」
玄弥は、その子の額の汗を、拭ってやった。
「この子も、連れて帰る」玄弥は言った。迷いは、なかった。「呪った側だろうと、関係ない。脅されてたんだ。姉さんの名前、取り戻すまで、面倒、見る」
澪が登ってきて、その子を見て、何も言わずに、自分のカーディガンを脱いで、かけてやった。
空の同士討ちが、止まった。
翅の巨人たちが、ゆっくりと城の周りに降りてくる。風が、巻き起こる。玄弥は剣を収めた。光が消える。全身から、力が抜けて――その瞬間。
隣に駆け寄ってきた、女の子の顔を見て、玄弥は一瞬、誰だか分からなくなった。
「……えっと」
知っている、はずの顔。なのに、名前が出てこない。喉まで出かかって、すっと引っ込む。砂をつかみそこねるみたいに。玄弥の頭が、真っ白になった。
女の子の表情が、固まった。傷ついた、というより――こわがった顔。
「……あたし」彼女は、声を絞り出した。震えていた。「白石、澪。あんたの、幼なじみ。さっきも、言ったろ」
「あ」
その瞬間、すべてが戻ってきた。澪だ。白石澪。電車で、フルネームを言わせた。「忘れんな」と言った。当たり前のことが、どっと頭に流れ込んできた。
「澪。ごめん、澪。今、一瞬――」
「いい」澪は、ぱっと笑った。「ほら、ちゃんと、思い出したじゃん。問題、なし」
笑っていた。けれど、その目の奥が、笑っていなかった。膝の上で、握ったこぶしが、白くなっていた。玄弥が、自分を忘れかけた。その恐怖を、澪は笑顔のすぐ裏側に、必死で隠していた。玄弥はそれに気づいた。気づいて、何も言えなかった。
翡翠翼騎団の団長が、巨人から降りてきた。
翡翠色の鎧をまとった、背の高い女性だった。片膝をついて、玄弥に頭を垂れる。
「聖剣の使い手。礼を言う。あなたが来なければ、我々は味方の手で、全滅していた」団長は低く言った。「呪いを断ち、なお、誰も殺さなかった。その剣の使い方――確かに、見届けた。三島へ、力を貸そう。窓を開く時は、翡翠翼騎団が、空を押さえる」
「ほんとか!」玄弥の声が、はずんだ。一つ目の城が、味方に。
「ただし」団長は立ち上がり、きっぱりと言った。「鋼壁の、あの石頭にも、白角の、あの跳ねっ返りにも、蒼帆の、あの食わせ者にも、私は従わん。命令されるなら、組まぬ。私が力を貸すのは、あなたにだ。あの四つの誇りは――そう簡単には、ひとつにならんぞ」
玄弥は、苦笑した。
一つ、味方になった。でも、団長の言葉は、これからの難しさを、そのまま突きつけていた。四つの誇りを、ひとつにする。それが、どれだけ遠い道のりか。
帰りの電車。眠った子どもを、灯里が膝に寝かせていた。アヴァロンは腕を組んで、目を閉じている。澪はずっと、窓の外を見ていた。
「ねえ」澪が、外を見たまま言った。「あんたさ。剣、使うたびに、なんか、忘れるんでしょ」
「……うん」
「どこまで、いくの。それ」澪の声は、静かだった。怒っても、責めてもいない。ただ、こわい、という声だった。「大河くんの声。あたしの名前。次は、何。お母さんの顔とか? 自分の、名前とか? 最後、あんた、あんたじゃ、なくなるんじゃないの」
玄弥は、すぐには答えられなかった。本当のことを言えば、たぶん、その通りだったから。アヴァロンが、目を閉じたまま、何も言わないのが、答えを物語っていた。
「分かんない」玄弥は、正直に言った。「でも、やめたら、誰も戻ってこない。大河も、向こうのみんなも。この子の、姉さんも。だから――やめられない」
「……ばか」澪は、窓に額をつけた。「そういうとこ、ほんと、ばか」
けれど、その「ばか」には、いつもの棘がなかった。代わりに、玄弥の腕に、こつん、と澪の肩が当たった。それきり、澪は何も言わなかった。電車の揺れに合わせて、肩が触れたまま、三島まで離れなかった。
言葉より、その重みのほうが、玄弥にはずっと、こたえた。
三島に着くと、ガレスが改札で待っていた。眠った子どもを見て、何も聞かずに、背負った。あの青年と同じ部屋に、寝かせるのだろう。助けた者が、ひとり、またひとり、増えていく。帰れない者が、増えていく。それでも玄弥は、それを間違いだとは思わなかった。
その夜、灯里が言った。
「先輩。次は、こっちから、向こうへ行く番です」灯里は対応表を広げた。「四つの城を、本気でつなぐには、向こう側の地点を調べないと。釣り合いの、もう半分が見えない」
アヴァロンが、うなずいた。
「短い時間なら、窓を開ける。三島大社の前に。私と、ガレスの力で」アヴァロンは玄弥を見た。「赤い空の下へ、渡る。大河のいる側へ。覚悟は、いいか」
玄弥は、窓の外の暗い空を見た。今は見えない、赤い星空。その下で、星を数えている、あの子。
「行く」玄弥は言った。「やっと、近づける」
帰りの電車で、玄弥が心の中で、何度も繰り返した言葉を、最後に、もう一度、繰り返す。白石澪。白石澪。白石澪。――絶対に、忘れない。たとえ、何を引き換えにしても。それだけは。
読んでくださり、ありがとうございます。
この章の戦いは、敵を倒すのではなく、「味方が、味方を、敵と見間違える」呪いをほどく戦いでした。澪の声は、名前を呼ぶだけでなく、玄弥の目にもなる。灯里の紋章照合が、戦場の地図になる。ひとりでは勝てない戦いを、みんなで勝った回です。
そして、いちばん書きたかったのは、戦いのあと。玄弥が、澪の顔を見て、一瞬、名前を思い出せなくなる。澪は笑ってごまかすけれど、握ったこぶしは白い。強くなるほど、いちばん近くの人を忘れていく。その恐怖を、二人は、まだ言葉にできずにいます。帰りの電車で玄弥が心の中で繰り返す「白石澪」は、力への、ささやかな抵抗です。
呪いをばらまいていたのは、姉の名前を人質に取られた、小さな子どもでした。黒冠魔導団。手を汚さず、弱い者に術を使わせる。玄弥は、その子も連れて帰ると決めます。
ひとつ目の城が、味方に。けれど団長は言います。「四つの誇りは、そう簡単にはひとつにならない」。その通りの道のりが、これから始まります。




