第22章 黒殻騎、三島へ
黒い巨人――黒殻騎が、駅のほうへ歩きだす。
ガレスたちの槍は通じません。玄弥はエクスカリバーを抜き、光の刃を巨人と同じ高さまで伸ばします。けれど力を手にした瞬間、玄弥の中から、いちばん大切なものの音が、すこしだけ薄れていく。
黒い巨人は、思っていたより、ずっと静かだった。
ビルみたいな足が一歩踏み出すたび、地面が鈍く沈む。けれど咆哮もない。機械の唸りもない。ただ、足の裏がアスファルトを潰す音だけが、街に低く響いていた。商店街のアーケードのほうで、誰かが落としたらしい買い物かごが、巨人の歩みに合わせて、からん、からん、と転がっている。そのあいだぬけた音が、かえって、この場の異常さを際立たせた。静けさのほうが、よっぽどおそろしい。怒っているわけでも、憎んでいるわけでもない。決められた通りに、ただこちらへ来る。三島駅のほうへ。人の多いほうへ。
河川敷で、ガレスたちがそれに食らいついていた。
「散れ! 足の関節を狙え!」
ガレスの号令が飛ぶ。部下たちが左右に分かれ、巨人の足首めがけて槍を突き入れる。穂先が装甲に当たる。火花が散る。――それだけだった。槍は根もとからぐにゃりと曲がった。黒い甲殻には、傷ひとつつかない。
「だめだ、通らねえ!」
部下の一人が叫んだ。巨人の足が、無造作に横へ振られる。兵士が一人、河川敷の草の上へ、藁束みたいに吹き飛んだ。鎧が地面を削る。動かない。
ガレスは舌打ちした。それでも、退かなかった。退けば巨人は、まっすぐ駅へ向かう。土曜の昼前。三島駅には人がいる。観光客も、家族連れも。ここで食い止める以外に、選択肢はなかった。
「アヴァロン! 左から目を引け! 私が膝の裏へ回る!」
「無茶を言う」
言いながらも、アヴァロンはもう駆けていた。外套をひるがえして。巨人の足もとを縫うように走る。剣を抜き、装甲の継ぎ目へ刃を滑り込ませる。手応えはない。それでも、巨人の面のような顔が、わずかにアヴァロンのほうへ向いた。そのわずかな隙に、ガレスが膝の裏へ、肩から、ぶつかっていく。鎧と装甲がぶつかる、鈍い音。巨人が半歩、よろけた。
たった、半歩。
けれどその半歩を稼ぐために、ガレスの右腕がしびれて、動かなくなっていた。槍が握れない。彼らは命を削って、時間を買っていた。玄弥のための時間を。
玄弥が交差点にたどり着いたのは、そのときだった。
エクスカリバーの柄を、両手で握る。雨上がりの淡い光が、刃を撫でていた。玄弥は一度だけ、目を閉じた。あの夜、剣を抜いて、町ぜんぶの「言えなかった言葉」をほどいた感覚。あれを、もう一度。だが、今度の相手は後悔そのものじゃない。それを武器にして、踏みつぶしに来た巨人だ。
「エクス」玄弥は、小さく呼んだ。「あいつ、止めたい。けど、たぶん――聞かなきゃいけないやつが、いる」
『ならば、抜け』
エクスの声は、短かった。
『汝が抜くたび、汝はすこしずつ軽くなる。覚悟はいるぞ』
玄弥は、剣を引き抜いた。
光が、噴き上がった。
刃から白い光が、まっすぐ空へ伸びる。一メートル。三メートル。みるみる伸びていく。黒殻騎と同じ高さ。七メートルを超える、巨大な光の刃。玄弥の腕の延長が、いきなりビルの高さにまでなった。体が羽根みたいに軽い。地面を蹴れば、屋根の上まで届きそうだった。力が全身を駆けめぐる。
そして、その瞬間。
玄弥の頭の奥のほうで、すっと、何かが薄れた。
――大河の、声。
「お兄ちゃん」と呼ぶ、あの、ちょっと舌っ足らずな声。さっきまで、はっきり思い出せたはずの、その響きの輪郭が。砂に書いた字を波がさらっていくみたいに、ほんの少し、ぼやけた。背中を、冷たいものが滑り落ちていく。力と引き換えに、いちばん手放したくないものが、削られていく。これが、エクスの言った「覚悟」だ。
「……っ、いま、聞いてる場合じゃない」
玄弥は自分に言い聞かせて、地を蹴った。
体が跳ぶ。河川敷へ。ガレスたちの頭上を越えて。光の刃を、横に薙ぐ。黒殻騎の腕に当たる。今度は――通った。装甲がずるりと断たれ、光の中に溶ける。巨人が、初めてよろめいた。
「玄弥どの、それだ!」ガレスが叫んだ。「両断しろ! 胴を、断て!」
玄弥は、刃を振りかぶった。胴の真ん中へ。一気に断ち切れる。そう思った、その時。
「玄弥くん、待って!」
凪人の、声。
いつのまにか、規制線の手前まで来ていた。スケッチブックを両手で突き出している。震える指が、一枚の絵を玄弥のほうへ向けていた。黒殻騎の胸のあたり。そこに、丸く、人の形が描かれていた。膝を抱えて、うずくまった、小さな人影。
「胸んとこ……だれか、いる」凪人は声をしぼり出した。「こわがってる。すごく。閉じ込められてる、みたいに」
玄弥は、刃を止めた。寸前で。
目を凝らす。黒殻騎の胸部。漆黒の装甲の、その奥に――かすかに、光がある。淡い、人の輪郭。膝を抱え、頭を伏せている。あの夜、町じゅうの後悔の中に玄弥が見つけた声と、同じ形をしていた。怪物の中に、人がいる。怯えて、固まったまま。
「……乗り物じゃ、ないのか」玄弥はつぶやいた。「これ、誰か乗ってるんじゃなくて――誰かが、こいつになってる」
『そうだ』エクスが答えた。『黒殻騎の動力は、生きた者の記憶と、心だ。怯えを燃やして、動く。胴を断てば、中の者も消える』
あやうく、断つところだった。中にいる、誰かごと。そう思った瞬間、手のひらの汗が、急に冷たく感じられた。
「斬る場所、変える」
玄弥は、息を整えた。よく、見る。黒殻騎の胸の人影と、その外側の装甲をつないでいる、細い、黒い、糸のような光。鎖だ。あれが、人を巨人に縛りつけている。あれだけを断てばいい。
「澪!」玄弥は叫んだ。背後で規制線を押さえている、澪へ。「俺、深く入る。名前、呼んでてくれ。俺の」
「分かってる! いいから、行け、伊勢崎玄弥!」
澪の声が、背中を押した。玄弥の苗字と、名前。それが、まだ玄弥を玄弥のまま、つなぎ止めていた。
跳ぶ。黒殻騎の胸へ。光の刃を、細く絞る。ビルの高さの刃が、一瞬で針みたいに研ぎ澄まされる。狙うのは、ただ一点。人影と装甲をつなぐ、黒い鎖。
「もう、こわがらなくていい」
うまく言えたか、自信はなかった。こんな台詞、本で読んだ受け売りみたいで、自分でも、ちょっと恥ずかしい。でも、ほかに言葉が、見つからなかった。玄弥は、刃を滑り込ませた。鎖だけを断つように。やさしく。
「お前を、ここに縛ってるやつは、もう、いないよ」
ぷつん、と。
音もなく、黒い鎖が切れた。
黒殻騎が、内側から崩れていく。装甲が剥がれ、光に溶けていく。両断とは違った。ほどけていく、崩れ方。その胸の中から、ひとり、転がり落ちてきた。玄弥は刃を消して、それを抱きとめた。
若い、兵士だった。
玄弥とそう変わらない歳に見える、痩せた青年。向こうの軍装。けれどその目は、うつろで、何も映していなかった。記憶を削られた者の、目。自分が誰かも、なぜここにいるのかも分からない、空っぽの目。
「……き、た」青年は、かすれた声でつぶやいた。「みつ、けた……せい、けんの……つぎの……ひと」
その胸もとで、黒い紋章が、ぽう、と浮かび上がった。王冠の形をした、黒い印。それは誰かへ報せを送るように、一瞬、強く光って――そして、青年の意識がぷつりと途切れると同時に、消えた。
玄弥は、青年をそっと草の上に寝かせた。
胸が、ざわついていた。今ので、向こうに知られた。聖剣の継承者がここにいると。三島に。自分のいる、この町に。
ガレスが駆け寄ってきた。倒れた青年を見下ろし、苦い顔をする。
「……量産兵の、なれの果てだ。記憶を抜かれ、巨人に流し込まれる。これが、魔王軍のやり方だ」ガレスは低く言った。「玄弥どの。あなたはたった今、敵を一人、人間に戻した。だが――」
「分かってる」玄弥は空を見上げた。さっきの裂け目は、もう塞がっていた。けれどその奥に、何かがいる気がした。冷たい目で、こちらを覗いている。「あいつら、これから本気で、俺を狙ってくる」
澪が規制線をくぐって、駆け寄ってきた。玄弥の腕をつかむ。すり傷を確かめる。玄弥の頬が青いのを見て、眉を寄せた。
「……また、なんか、忘れたな」
澪には分かるらしかった。玄弥が剣を使ったあと、ほんの一瞬、目の奥が迷子になる。そのことに、誰よりも早く気づくのは、いつも澪だった。
「大河の、声」玄弥は、正直に言った。隠しても、見抜かれる。「うまく、思い出せない。さっきまで、はっきり聞こえてたのに」
澪は、何か言いかけて、口をつぐんだ。代わりに、ぎゅっと玄弥の腕を握った。痛いくらいに。
「『お兄ちゃん、おそいよ』」
「……え」
「大河くん、いっつも、そう言ってたじゃん。あんたが寝坊して、迎えが遅れるたびに。ほっぺた膨らませて。『おそいよ、お兄ちゃん』って」澪は、まっすぐ玄弥を見た。「あたしが、覚えてる。あんたが忘れても、あたしが、何回でも言ってやる。だから――忘れることを、こわがるな。あたしが、いるから」
喉の奥が、つかえた。さっきまでぼやけていた声が、澪の言葉に、ほんの少し輪郭を取り戻す。「おそいよ、お兄ちゃん」。そうだ。あの子はいつも、そう言って、笑った。
アヴァロンが、傷ついた青年を背に担ぎ上げた。
「この者の削られた記憶は、戻らんかもしれん。だが、命はある」アヴァロンは静かに言った。「これは、魔王軍のほんの先触れだ。やつらは生きた者の記憶を、誓気という力に変え、鎧巨兵を動かしている。今日の一体で、それが分かった。次は、もっと多くの記憶を抱えた、大きいものが来る」
誓気。鎧巨兵。聞き慣れない言葉が、玄弥の胸に重く沈んだ。けれど今は、それより、足もとに横たわる青年のことだった。誰かの家族かもしれない。誰かが帰りを待っているかもしれない。河川敷の草の上で、青年の頬を、午後の風が撫でていく。どこか遠くで、土曜の昼を知らせるチャイムが鳴っていた。この音を、この子は、知らない。玄弥は、なぜだか、それがやけに哀しかった。
玄弥は、自分の手のひらを見た。
力は、まだ体に残っていた。軽い。鋭い。けれど、いくら思い出そうとしても、大河の声がさっきより、すこし遠かった。「お兄ちゃん」の、音が。ぼやけたまま。戻らない。
強くなった分だけ、いちばん守りたかったものの声が、遠くなる。
玄弥は唇を噛んで、それでも、倒れた青年の肩に上着をかけた。
灯里が、規制線の外から走ってきた。タブレットを抱えている。さっきまで、図書室でみんなを机の下に隠していたはずだ。
「先輩、無事ですか――って、無事じゃないですね、その顔」灯里は玄弥の頬を見て、それから、横たわる青年に目を留めた。短く、息を吸いこむ。「この人……向こうの、兵隊さん?」
「うん。中から出てきた。あの、黒いやつの」
灯里はしばらく、青年の顔を見つめていた。それから、タブレットに何かを打ち込みはじめた。指が、速い。
「記録、します」灯里は画面から目を上げずに言った。「この人の顔。今日の日付。助けたこと。――忘れられても、どこにも残らなくても、あたしが書いておきます。誰かが、この人を人間に戻したっていう、証拠を」
その言葉に、玄弥はすこし救われた。
大河の声を忘れても。この青年の名前を、誰も知らなくても。灯里が書く。澪が覚えている。凪人が絵にする。アヴァロンが剣の記憶に刻む。玄弥がひとりで抱えなくていいように。みんなが、すこしずつ覚えていてくれる。
空を、もう一度、見上げる。
箱根のずっと向こう。赤い空の下で星を数えている、あの子のもとへ行くための道は、まだ見えない。けれど今日、玄弥は一人を、巨人から人間に戻した。それはたぶん、その道の最初の一歩だった。
「帰ろう」玄弥は言った。青年を、ガレスと二人で担ぎながら。「この人、寝かせて、傷、診て。それから――作戦、立てよう。四つの城のこと。大河のこと。ぜんぶ」
誰も、すぐには「勝てる」とは、言わなかった。
ただ、誰も、玄弥の隣から離れなかった。それで、十分だった。
読んでくださり、ありがとうございます。
黒殻騎を、ただの兵器にはしたくありませんでした。あの巨人の正体は、記憶を抜かれ、怯えを燃やされて動かされる、ひとりの人間です。凪人の絵がそれを見つけ、玄弥は胴を断つ寸前で刃を止める。斬るのは、人を巨人に縛る黒い鎖だけ。「もう、こわがらなくていい」――この物語の戦いは、最後まで、そういう戦いであってほしいと思っています。
そして、力の代償。玄弥が剣を抜くほど、大河の「お兄ちゃん」という声が、すこしずつ遠くなる。強くなるほど、いちばん守りたかったものから遠ざかる。澪が名前を呼び続けるのは、玄弥を玄弥のままつなぎ止めるためです。
助けた青年が遺した、王冠の黒い紋章。「聖剣の継承者を見つけた」。玄弥の居場所は、もう、向こうに知られてしまいました。
次章、四つの城に立てこもる者たちと、敵の正体「鎧巨兵」が見えてきます。




