第2章 抜けない剣と遅刻届
第1章でエクスカリバーに触れてしまった玄弥。
翌日、学校には交差点の剣の噂が広がり、玄弥のそばには相変わらずアヴァロンがいます。
今回は、抜けない聖剣の正体と、玄弥の体に起き始めた小さな――けれど少し不気味な変化を描く章です。
翌朝、伊勢崎玄弥は目覚ましが鳴る前に起きた。奇跡だった。というより、眠れなかった。
布団の中で何度も目を閉じた。けれど、そのたびに交差点の光景が浮かぶ。車道の真ん中に刺さった銀色の剣、顔のない小さな影、黒い王冠、壊れた玉座。そして、人だかりの向こうに立っていた白石澪の、怒っているようにも泣きそうにも見えた顔。
玄弥は右手を見た。剣に触れた手だ。昨日から、そこだけ少し熱を持っている気がする。見た目は何も変わらない。火傷も傷もない。ただ、手のひらの奥に、小さな灯りが残っているみたいだった。
「……夢じゃないんだよな」
「夢ではありません」
枕元から声がして、玄弥は布団を跳ね上げた。
「うわっ!」
そこに、アヴァロンが正座していた。昨日、空から玄弥の顔面に落ちてきた異世界の少女。聖剣を守護する一族の末裔。本人はそう名乗っていたが、玄弥としては、まだ自己紹介の半分も処理できていない。
「な、なんで部屋にいるの」
「あなたのそばから離れられないためです」
「いや、そういう設定なのは聞いたけど! 距離感!」
アヴァロンは真面目な顔で首をかしげた。
「守護対象を視界に入れておくのは当然では」
「中学生の部屋では当然じゃない」
「では、廊下で待機すべきでしたか」
「そういう問題でもない」
玄弥は頭を抱えた。朝から疲れる。けれど、昨日の夕方に警察官から怒られ、事情を聞かれ、壊れた自転車を引き取り、母親に「本当に大丈夫なの」と十回くらい確認されたことを思えば、まだましなのかもしれない。学校へ行けば、もっと面倒なことになる。そう思いながら制服に着替えた。アヴァロンには背を向けるよう言ったが、彼女はなぜか部屋の壁に向かって直立不動になった。
「見ていません」
「声に出すと逆に気になる」
通学路を歩きながら、玄弥は何度も右手を握ったり開いたりした。昨日、車に接触されて吹き飛ばされた。なのに、体は軽い。肘と膝の擦り傷は痛むが、筋肉痛も打撲の重さもほとんどない。おかしい。助かったことを喜ぶべきなのに、体が自分のものではないような気持ち悪さがあった。
「聖剣の影響ですか」
アヴァロンが隣で言った。
「たぶん、昨日から体が変なんだけど」
「剣に触れたことで、あなたの生命体エネルギーが一時的に活性化しています。怪我の回復や反応速度に影響が出る場合があります」
「生命体エネルギー」
「生きている力です」
「ざっくりした説明きたな」
「正確に説明すると長くなります」
「じゃあ今はざっくりでいい」
校門が見えてきた。その前で、澪が腕を組み、玄弥を待っていた顔で立っている。
「おはよう」
玄弥が言うと、澪はまず彼の顔を見て、それから右手を見た。
「昨日、説明するって言ったよね」
「言った」
「で?」
「どこから話せばいいか分からない」
「じゃあ、昨日の交差点で何を触ったの」
玄弥は答えに詰まった。
「聖剣です」
アヴァロンが小声で言う。
「それをそのまま言ったら終わる」
玄弥が小声で返すと、澪の目が細くなった。
「また誰かと話してる」
「違う。いや、違わないけど」
「どっち」
昨日もした会話だった。澪はため息をつく。
「事故に遭ったのに、普通に学校来てる。警察の人に止められてたのに、なんか平気そうな顔してる。しかも昨日、あの剣に触ってた」
「見てたのか」
「見た」
澪の声が、少しだけ揺れた。
「玄弥、昨日の顔、変だった」
「顔?」
「うまく言えないけど。いつもの玄弥じゃないみたいだった」
玄弥は右手を握った。その言葉は、昨日見た黒い王冠よりも妙に胸に残った。
「俺も、よく分かってない」
「分かってないなら、なおさら一人で変なことしないで」
その時、チャイムが鳴った。澪は言いたいことを飲み込んだ顔で、校舎へ向かう。
「昼休み。逃げないで」
「はい」
玄弥は素直に返事をした。
「白石澪殿は指揮官の素質があります」
「怒ってるだけだと思う」
「怒れる相手がいるのは、良いことです」
玄弥は何も返せなかった。
教室に入ると、昨日の交差点の話題で持ちきりだった。
「伊勢崎、昨日あそこにいたんだろ?」
「SNSで見たぞ。警察に捕まってなかった?」
「剣、触ったってマジ?」
「いや、あれ触っていいやつなの?」
男子たちが一斉に寄ってきて、玄弥は席に着く前に囲まれた。
「捕まってない。注意されただけ」
「あの剣、本物?」
「知らない」
「抜けた?」
「抜いてない」
「じゃあ勇者じゃないじゃん」
「そうだよ。俺は勇者じゃない」
玄弥がそう言うと、机の横に立っていたアヴァロンがきっぱり言った。
「現時点では、勇者認定は保留です」
「保留でもない」
玄弥が小声で返したせいで、男子の一人が眉をひそめる。
「伊勢崎、誰と話してんの?」
「自分」
「昨日から怖いぞ」
「自分でも怖い」
担任が入ってきたことで、ようやく質問攻めは終わった。しかし、別の面倒が待っていた。
「伊勢崎。昨日の遅刻届と事故報告、まだ出てないぞ」
担任が出席簿を閉じながら言う。
「あ、はい」
「理由は?」
教室中の視線が玄弥に集まる。玄弥が黒板の端を見ると、アヴァロンはなぜか胸を張っていた。
「聖剣との接触および境界事故です」
「それは書けない」
玄弥は小声で即答した。担任が眉を上げる。
「伊勢崎?」
「交通事故に巻き込まれました」
「それは分かっている。遅刻届には具体的に」
「交差点で、ちょっと」
「ちょっと?」
クラスの誰かが吹き出した。結局、玄弥の遅刻届には「通学中の交通事故のため」と書かれた。間違ってはいない。間違ってはいないが、大事なことが九割くらい抜けている。
授業中も、アヴァロンは落ち着かなかった。数学の時間、教師が電子黒板に図形を映すと、彼女は息をのんだ。
「光る板に文字が」
「電子黒板」
「魔力はどこから」
「コンセント」
「こんせんと」
「そこから説明するのか……」
英語の時間には、教科書の音声に驚いて机の下をのぞき込んだ。
「小さな吟遊詩人が閉じ込められているのですか」
「スピーカー」
「救出は不要ですか」
「不要」
その時、教室のスピーカーが短くざらつき、英語の音声が途中で途切れた。
『Where are you from?』
同じ文が、もう一度流れる。
『Where are you from?』
三度目は、少しだけ声が低かった。
『Where are you from?』
クラスの何人かが笑う。
「先生、音声バグってます」
「あれ、昨日まで普通だったんだけどな」
教師がタブレットを操作する。けれど玄弥は笑えなかった。右手が熱い。机の下で握った手のひらから、淡い金色の光が一瞬だけ漏れる。
「っ」
慌てて左手で覆った。同時に、電子黒板に映っていた教科書の画面がちらつく。ほんの一秒にも満たない。けれど玄弥には見えた。交差点、銀色の剣、その背後に黒い王冠の影。画面はすぐ元に戻り、教室にはまた英語の音声だけが流れている。
「聖剣が、機械の光に反応しています」
「やめてくれ、学校で」
玄弥は小声で返した。その時、斜め前の席から視線を感じた。澪だった。彼女は電子黒板ではなく、玄弥の机の下を——右手を隠している玄弥を、まっすぐに見ていた。
体育の時間、玄弥は見学にされた。昨日事故に遭った生徒を走らせるわけにはいかない、という当然の判断だ。だが、グラウンドの端で座っている間も、体は妙に軽かった。サッカーボールが一つ、勢いよくこちらへ転がってくる。玄弥は何気なく足を出した。止めるだけのつもりだった。けれど、足先がボールに触れた瞬間、体が勝手に角度を選び、ボールはきれいに跳ねて、近くにいた男子の足元へぴたりと戻った。
「お、伊勢崎うま」
言われて、玄弥は自分の足を見た。ゲームでなら、今の軌道を予測するのは簡単だ。けれど現実で、あんなふうに体が動いたことはなかった。遠くで澪がこちらを見ていた。昨日と同じ目だった。玄弥は慌てて視線をそらした。
昼休み。澪は約束通り、玄弥の机の前に来た。
「屋上前の階段」
「取り調べ場所みたいに言うなよ」
「取り調べだから」
玄弥は弁当を持って立ち上がった。アヴァロンもついてくる。屋上へ続く階段の踊り場は、昼休みでも人が少ない。窓からは校庭と、遠くに三島大社の緑が見えた。澪は壁にもたれ、玄弥を見た。
「で、あの子は?」
玄弥は息を止めた。
「見えるのか?」
「はっきりじゃない。なんか、いる気がする。昨日から、玄弥の横に」
「白石澪殿。私はアヴァロンと申します」
アヴァロンが姿勢を正すと、澪は目を細めた。
「今、何か言った?」
「たぶん、名前」
「たぶんって何」
「俺にも状況が複雑で」
玄弥は昨日からの出来事を、できるだけ現実的に説明しようとした。交差点に剣が刺さっていたこと。事故で吹き飛ばされ、剣に触れたこと。頭に知らない情報が流れ込んだこと。オークや小さな影が見えたこと。アヴァロンが落ちてきたこと。夕方、小さなモンスターの「帰りたい」という感情を感じたこと。話し終えるまで、澪は一度も笑わなかった。それが逆に怖かった。
「信じる?」
玄弥が聞くと、澪は即答しなかった。
「信じたくはない」
「だよな」
「でも、玄弥が嘘ついてる顔じゃないのは分かる」
玄弥は少しだけ息を吐いた。
「だから怖い」
澪は、窓の外へ一度だけ視線を逃がした。
「嘘なら、怒れば済んだのに。……あと、昨日から変。体の動きとか、反応とか。さっきの体育も」
「見てたのか」
「見えるよ。幼なじみだから」
その言い方が、少しだけ痛かった。
「聖剣は、触れた者の生命体エネルギーを活性化させることがあります」
アヴァロンが静かに口を開く。玄弥は澪に向き直った。
「剣に触ったせいで、体がちょっと変になってるらしい」
「ちょっと?」
「たぶん、ちょっと」
「その『たぶん』が一番信用できない」
澪は玄弥の右手を見た。
「強くなるとか、そういう話?」
「分かんない」
「分かんないまま使わないで」
短い言葉だった。けれど、怒っているだけではないのが分かった。澪は怖がっている。モンスターでも剣でもなく、玄弥が玄弥ではなくなることを。玄弥は、何も言い返せなかった。澪が言葉にした怖さは、玄弥自身がいちばん感じていたものだったからだ。
その時、予鈴が鳴り、アヴァロンがびくっと肩を跳ねさせた。
「警戒鐘ですか」
「昼休み終了の合図」
「この学校は鐘で人を動かすのですね」
「言い方」
澪は小さく息を吐いた。
「放課後、交差点に行くんでしょ」
「自転車、まだ完全には回収できてないし」
「私も行く」
「危ないかも」
「だったらなおさら」
玄弥は返す言葉を探した。見つからなかった。
放課後の三島大社前交差点は、昨日よりさらに人が増えていた。警察車両に加え、作業用のトラック、クレーン車、テレビ局らしいカメラまで来ている。歩道には見物人が並び、スマホを掲げる人も多い。剣は相変わらず、道路の真ん中に刺さっていた。銀色の刃は、夕方の光を受けても少しも色を変えない。
「本当に抜けてない」
澪がつぶやいた。その声には、昨日よりもはっきりした緊張があった。
作業員たちが剣に太いベルトをかける。クレーンのアームがゆっくり上がり、ワイヤーが張る。見物人たちが息をのみ、エンジン音が低くうなる。けれど、剣は動かなかった。もう一度、さらに強く。ワイヤーがきしみ、道路の表面に細いひびが入る。それでも剣は動かない。道路に刺さっているのではなく、町そのものを貫いているようだった。
「なあ、アヴァロン」
玄弥は小声で言った。
「あれ、本当に何なんだ」
アヴァロンは、剣を見つめたまま答えた。
「エクスカリバーは、武器である前に楔です」
「くさび?」
「世界と世界の境目を固定するもの。境界の崩れぬよう、此方と彼方を縫い止める役目です」
「今、何か聞いてる?」
澪が玄弥を見る。
「剣は、世界の境目を固定する楔なんだって」
「何それ」
「俺も何それって思ってる」
「本来なら、聖剣は私たちの世界にあるはずでした。ですが、何らかの理由でこの町に落ち、三島大社前の交差点へ刺さった。その場所が、境界事故の入口になっています」
アヴァロンは続けた。
「入口って」
「だから昨日、オークや小さな影が出た。逆に、こちらのものがあちらへ落ちる可能性もあります」
玄弥は澪へ言葉を移した。説明しながら、自分の声が少し震えているのが分かる。澪の顔色も変わった。
「つまり、昨日みたいなのがまた起きるってこと?」
「起きるかもしれない」
「玄弥だけが見えるの?」
「今のところは」
澪が唇を結んだその時、剣の周りの空気がわずかに揺れ、玄弥の右手が熱くなった。剣から声がする。
『観測者』
玄弥は息を止めた。
『境界は、まだ閉じていない』
信号機の影が、ほんの一瞬だけ伸びた。歩道の端に置かれた自動販売機の下で、何か小さなものが動く。黒い指先のような影。それは落ちていた十円玉を両手で抱えるように持ち上げ、自動販売機の明かりにびくっと震えた。太陽を盗んでしまった小さな泥棒のようだった。影は十円玉ごと、すぐに自動販売機の下へ引っ込む。けれど玄弥には聞こえた。小さな、小さな声。
まぶしい。
澪が玄弥の袖をつかんだ。
「今、何かいた?」
玄弥は澪を見た。彼女にも、完全ではないにしろ何かが届き始めている。
「始まっています」
アヴァロンが剣の柄に手を添え、低く言った。クレーンの音も、見物人のざわめきも、その瞬間だけ遠くなる。玄弥は右手を握った。昨日より熱い。昨日より、少しだけ怖い。
今日の遅刻届には、「通学中の交通事故のため」と書いた。でも本当は、それだけではなかった。交差点に聖剣が刺さっていたから。世界の境目が、まだ閉じていないから。そして自分が、もう昨日までの自分と同じ場所には戻れない気がしたから。
そして澪の手が、まだ玄弥の袖をつかんでいる。それが、今は何より現実だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
エクスカリバーはただの武器ではなく、世界と世界の境目を固定する楔でした。
そして、軽すぎる体、勝手に鋭くなる反応。その変化を、澪は誰よりも早く、そして少し寂しそうに見つめ始めています。
「玄弥が玄弥でなくなること」を、本当はいちばん怖がっているのは、玄弥自身なのかもしれません。
次章では、見えないはずのアヴァロンと、見えるはずのない怪物が、玄弥の日常をさらにややこしくしていきます。




