第1章 信号待ちの勇者
静岡県三島市。寝坊した中学二年生・伊勢崎玄弥は、通学途中の交差点でありえないものを見つけます。
車道のど真ん中に刺さっていたのは、観光イベントの展示物でも悪ふざけでもなく、神話の聖剣エクスカリバーでした。
少し笑えて、少し切ない。普通の日常の隣に、誰かの物語が刺さっている第1章です。
三島大社前の交差点のど真ん中に、剣が刺さっていた。
のちに「神話の聖剣エクスカリバー」と判明するそれを、しかし伊勢崎玄弥は、最初、ただの遅刻の障害物としか思っていなかった。
その朝も、盛大に、寝坊していたからだ。
――目覚まし時計は、たしかに鳴った。鳴った、はずだった。
玄弥は、布団の中で片目だけを開け、机の上で横倒しになったスマホを見た。
「……今、何時」
引き寄せて画面をつけると、八時十分。
「終わった」
短く言ってから、玄弥は布団を蹴り飛ばした。昨夜、アクションゲームを「あと一回だけ」で終われなかった自分が悪い。制服に着替えながら鏡を見ると、髪が右側だけ妙な方向に跳ねていた。
「寝癖も校則違反に入るのかな……」
誰にともなくつぶやき、玄弥は通学カバンをつかんで家を飛び出した。
湿った六月の朝を、自転車で全力で抜ける。住宅街を過ぎると、車のエンジン音、通学中の生徒の声、三島大社へ向かう観光客の話し声が一気に近づいてきた。三島大社前の交差点に差しかかった時、信号は赤だった。
「頼む、早く変われ……」
息を切らしながらブレーキを握る。隣には同じ学校の生徒が数人、向かい側にはスーツ姿の大人、道路脇にはスマホを構えた観光客。そして、交差点の真ん中に、剣が刺さっていた。
「……は?」
二度見しても、見間違いではなかった。片側二車線の道路の、白線の少し内側。そこに、銀色の剣がまっすぐ突き立っている。刃は細く、柄には古い装飾。ゲームや映画で見るような、いかにも伝説の武器です、という顔をした剣だった。
周囲にも人だかりができている。
「イベントかな」
「危なくない?」
「誰か通報した?」
そんな声を聞きながら、玄弥も同じことを考えた。観光イベント、展示物、誰かの悪ふざけ。たぶん、そのどれかだ。
信号が青になる。遅刻のほうが、今の玄弥にはずっと現実的な恐怖だった。
「あとで誰かが片づけるだろ」
そう自分に言い聞かせ、ペダルを踏み込んだ。その時だった。右手側から、車が突っ込んできた。
信号は赤のはずだ。なのに車は止まらない。運転席の男はかすかに顔を伏せ、目を閉じかけているように見えた。
「え」
声が出た時には、もう遅かった。車の側面が自転車の後ろをかすめる。金属がひしゃげる音。体が浮く感覚。通学カバンが肩から外れ、視界がぐるりと回る。地面に叩きつけられる——そう思った瞬間、玄弥の体は交差点の中央へ転がった。
カバンが跳ね、自転車のベルが場違いなほど甲高く鳴る。誰かが悲鳴を上げた。玄弥は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。痛い。けれど、思ったより体は動く。肘をついて顔を上げると、目の前に剣の柄があった。
銀色の柄は、古びているのに汚れていない。朝の光を受けて、そこだけ別の世界から切り抜かれたように光っている。玄弥は立ち上がろうとして、反射的に手を伸ばした。指先が、柄に触れた。
その瞬間、頭の中へ何かが流れ込んできた。剣の名。王の記憶。戦場の光。誰かの叫び。古い城、崩れる塔、黒い森、血の匂い、祈り。そして、こちら側の世界へこぼれ落ちようとしている無数の影。理解できない情報が、言葉になる前の熱のように脳を焼いた。
「エクス、カリバー……?」
自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。次の瞬間、交差点に落雷のような光が落ちた。ドーン、という衝撃音。信号機が揺れ、周囲の人々が一斉に身をすくめる。玄弥が思わず目を閉じると、まぶたの裏まで白く染まった。
光の中から、何かが現れた。大きな影、ずんぐりした体、豚に似た鼻。手には錆びた斧のようなもの。
「オーク……?」
ゲームの知識が、勝手に名前を当てる。その横には小さな影がいくつもいた。犬ほどの大きさのもの、子どもの背丈くらいのもの。形はばらばらなのに、どれもこの町の朝には似合わなかった。
なのにオークは、横断歩道の白線の前で止まった。信号を見上げている。青なのか赤なのか分からない、という顔をして。
「いや、そこ守るんだ……」
恐怖より先に、ツッコミが出た。その直後、上から何かが落ちてきた。
「きゃああああっ!」
「うわっ!」
反射的に起き上がろうとした瞬間、見知らぬ少女の体が玄弥の顔面にぶつかり、二人そろって地面に転がる。
「い、痛っ……」
「申し訳ありません! 着地地点の指定に失敗しました!」
少女は地面に手をついたまま、勢いよく頭を下げた。鼻を押さえながら見ると、歳は玄弥と同じくらい。けれど服装は明らかにおかしい。軽い甲冑のような胸当てに、古い時代の旅装。長い髪は光を受けて淡く揺れ、腰には細身の剣がある。コスプレにしては、空から落ちてきすぎていた。
「誰……?」
「私はアヴァロン。聖剣を守護する一族の末裔です」
「せいけん」
「はい。あなたが今、触れたものです」
玄弥は剣を見た。剣は、まだ道路に刺さったままだ。周囲では事故に気づいた大人たちが騒ぎ、誰かが運転手を車から降ろし、誰かが警察を呼んでいる。けれど、オークや小さな影を見て騒いでいる人はいない。モンスターたちは、交差点の影に溶けるように薄くなっていく。
「え、今の見えてないの?」
「境界がまだ不安定です。完全にこちらへ顕現していません」
「けんげん」
「現れる、という意味です」
「それは分かる。いや、分かるけど分からない」
アヴァロンは真剣な顔で玄弥を見つめた。
「あなたは聖剣に触れました。そのため、しばらく私はあなたのそばから離れられません」
「なんで?」
「聖剣があなたを観測者として認識したからです」
「観測者」
「はい」
「それ、学校に遅刻してる中学生にも適用されるやつ?」
アヴァロンはきょとんとした。
玄弥はようやく、自分の体を確かめた。肘は擦りむき、膝も痛い。けれど、車に接触されて自転車ごと吹き飛ばされたにしては、あまりにも軽傷だった。おかしい。けれど、今は何もかもがおかしい。遠くからサイレンが聞こえてくる。
「と、とりあえず学校行く」
「学校、とは」
「説明してる時間ない!」
壊れた自転車を見て、少し迷う。無理だ。後輪が変な方向を向いている。仕方なくカバンを拾い、走り出した。アヴァロンも慌ててついてくる。
「待ってください、観測者殿!」
「その呼び方やめて!」
「では、勇者殿」
「もっとやめて!」
その朝、玄弥は遅刻した。理由を聞かれて、事故に遭いました、とだけ言った。剣に触ったらエクスカリバーとかいう情報が流れてきて、オークと女戦士が落ちてきました、とは言わなかった。言ったら、保健室ではなく別の場所に連れていかれそうだったからだ。
教室に入ると、すでに一時間目は始まっていた。担任に軽く注意され、席へ向かう。幼なじみの白石澪が、横目でこちらを見た。澪は玄弥と同じ中学二年生で、家も近い。小学生の頃から、玄弥が忘れ物をしたり寝坊したりするたびに、なんだかんだ面倒を見てくれていた。その澪が、口だけで小さく言う。
「また寝坊?」
玄弥は首を横に振った。澪の視線が、肘の絆創膏に止まる。
「……何したの」
「事故」
「は?」
「いや、軽いやつ。大丈夫」
「大丈夫って顔してないけど」
玄弥は返事に困った。その時、机の横でアヴァロンが深々とうなずいた。
「白石澪殿は、あなたの身体状態を正確に観察しています。良き同伴者ですね」
「今しゃべらないで」
小声で言うと、澪の目が細くなる。
「誰としゃべってんの」
「えっ、いや、独り言」
「事故ったあとに独り言が増えるの、普通に怖いんだけど」
玄弥は机に顔を伏せたくなった。アヴァロンは玄弥のすぐそばにいるのに、周りの生徒は誰も彼女を見ていない。見えていないというより、視界に入っても気にしていないようだった。授業中、アヴァロンは黒板を見て驚き、チャイムに肩を跳ねさせ、教師の使うタブレットに小声で感嘆した。
「この板は魔術具ですか」
「黒板」
「あの音は警戒鐘ですか」
「チャイム」
「この建物は少年兵の訓練所ですか」
「学校。あと少年兵じゃない」
そのたびに玄弥が小声で答えるので、隣の席の男子に何度も不審な目で見られた。
昼休みになると、教室は朝の話題で少し騒がしくなった。
「見た? 三島大社前の交差点」
「剣刺さってるやつだろ」
「SNSに上がってる。めっちゃバズってる」
玄弥は弁当のふたを開ける手を止めた。スマホをのぞき込むと、たしかに写真が流れている。交差点の中央に刺さった銀色の剣、規制線、集まった人だかり。夢ではなかった。けれど、写真のどこにもオークはいないし、アヴァロンも写っていない。
「ねえ、玄弥」
澪が机の前に立っていた。
「朝の事故って、ここの交差点?」
「……まあ」
「で、さっきから誰と話してるの」
玄弥は固まった。アヴァロンは真面目な顔で澪を見ている。
「彼女には、私の輪郭が少し届いているのかもしれません」
「輪郭って何」
「玄弥」
澪の声が低くなった。
「また独り言」
「違う。いや、違わないけど、違う」
「どっち」
説明しようとして、玄弥はやめた。エクスカリバー、観測者、オーク、空から落ちてきた女戦士——どれから話しても、澪の目がますます冷たくなる未来しか見えなかった。
「あとで話す」
玄弥がそう言うと、澪はしばらく黙った。
「……絶対だからね」
それだけ言って、自分の席へ戻っていく。
「怒っておられます」
「分かってる」
「しかし、心配もしておられます」
「それも、まあ……たぶん」
玄弥は弁当の唐揚げを口に入れた。味がよく分からなかった。
放課後。玄弥は壊れた自転車を回収するため、歩いて三島大社前の交差点へ向かった。澪には、先生に呼ばれたとごまかした。半分くらいは嘘だった。
夕方の交差点は、朝よりもずっと騒がしい。警察車両が停まり、カラーコーンと規制線が置かれ、クレーン車がアームを伸ばして、作業員たちが剣にワイヤーをかけていた。
「交通の邪魔だから、そりゃ抜くよな」
玄弥がつぶやくと、アヴァロンが首を振った。
「あれは簡単には動きません。聖剣はただの金属ではありませんから」
ワイヤーが張り、クレーンのエンジンがうなり、見物人たちがざわめく。けれど、剣はびくともしなかった。道路のほうが先に悲鳴を上げそうなほどワイヤーがきしんでも、銀色の剣は一本の杭のようにそこに立ち続けている。
その時、玄弥の耳の奥で声がした。
『汝、何を守る』
ぞくり、と背筋が冷えた。
「今の」
「聖剣の声です」
アヴァロンの顔が引き締まる。次の瞬間、信号機の影がねじれ、夕方の長い影が地面から起き上がった。それは朝に見た小型のモンスターの一体だった。子どもくらいの大きさで、体は黒く、輪郭は水に溶けた墨のように揺れている。顔はない。けれど、何かを探すように、きょろきょろと交差点の中を歩いていた。
周囲の大人たちは気づいていない。いや、何か寒気のようなものを感じている人はいるのかもしれない。けれど、はっきり見えているのは玄弥だけだった。
「なんで、また……」
「境界が開いています。あのものは、こちらへ迷い込んだ残響です」
「残響って言われても」
モンスターが剣の周りをぐるぐる回る。玄弥は後ずさった。
怖い。
朝は勢いで何も分からなかった。けれど今は違う。あれが普通ではないことも、自分にだけ見えていることも、剣に触れたせいで何かが始まってしまったことも分かっている。逃げたい。そう思った時、モンスターの中から、かすかな感情が流れてきた。
帰りたい。
言葉ではなかった。けれど、そう感じた。怖いはずなのに、その感情はあまりにも小さく、頼りない。迷子の子どもが、知らない町で親を探しているようだった。
「……帰りたいのか」
「聞こえるのですか」
「分かんない。でも、たぶん」
玄弥は規制線の手前で立ち止まった。剣は、交差点の真ん中で静かに光っている。警察官の一人が玄弥に気づいた。
「君、危ないから下がって」
玄弥は答えられなかった。足が勝手に動いた。頭で考えるより先に、体が前へ出る。さっきの事故で吹き飛ばされた時も、同じだった。その素早さが、まだ自分のものだとは思えない。規制線をくぐる。
「おい、君!」
大人の声が飛ぶ。玄弥は走った。モンスターがこちらを向く。顔のない影なのに、視線が合った気がした。
怖い。でも、あれは襲おうとしているんじゃない。探しているんだ。
玄弥は剣の柄に手を伸ばした。触れた瞬間、光が広がる。朝ほど激しくはない、温かい光だった。モンスターの黒い輪郭がほどけていき、中から、小さな子どもの影のようなものが見えた。泣いているのか笑っているのか分からない。ただ、震えている。
玄弥はできるだけ静かに言った。
「帰ろう」
子どもの影が、こちらを見た。
「どこか分かんないけどさ。帰りたい場所、あるんだろ」
光が、風のように流れる。影は少しずつ薄くなり、最後に小さくうなずいたように見えた。
その奥で、何かがちらついた。黒い王冠らしきもの。崩れた椅子のようなもの。こちらへ伸ばされて、結局どこにも届かなかった手。意味は分からない。ただ、泣き声に似た何かが胸の底をこすった。誰かが、誰かを救えなかった——そういう手ざわりの感情だけが、後に残った。
「……え?」
そして、消えた。
交差点の空気が戻ってくる。クラクション、ざわめき、警察官の怒鳴り声、スマホのシャッター音。現実が、一気に玄弥へ押し寄せた。
「君、何をしてるんだ!」
警察官に肩をつかまれながら、玄弥は剣を見た。剣は、まだ抜けていない。ただ、耳の奥で声が響いた。
『答えはまだ遠い。だが、汝は聞いた』
玄弥は息を吐いた。自分が何をしたのか、まだ分からない。なぜ自分だけが聞こえるのかも、なぜ自分だけが見えるのかも分からない。ただ一つだけ、分かってしまったことがある。この剣は、もう誰かが片づけてくれるものではない。それに、あの影の奥にいた何かは、帰り道を探しているだけの迷子とは違った。玄弥はまだ、その黒い王冠の意味を知らない。
人だかりの向こうで、澪が立ち止まっていた。玄弥と目が合う。怒っているようにも、泣きそうなようにも見える顔だった。玄弥は何か言おうとしたが、澪の視線は玄弥の顔ではなく、剣に触れていた右手に向いていた。そこから玄弥が少しずつ知らない誰かに変わっていくのを、もう見つけてしまった——澪は、そういう目をしていた。
その日から、信号待ちはただの待ち時間ではなくなった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
交差点に刺さったエクスカリバー、落ちてきた少女アヴァロン、そして玄弥だけに聞こえた「帰りたい」という声。
まだ玄弥は勇者ではありません。けれど、剣に触れた右手の奥には小さな熱が残り、その変化を、幼なじみの澪はもう見つけてしまったようです。
誰かの声を聞いてしまった玄弥は、もう見なかったことにはできません。
次章では、抜けない聖剣の正体と、玄弥の体に起き始めた小さな――そして少し怖い――変化を描いていきます。




