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第9話 名前の残る帳面

カルドの帳面には、午後二時過ぎ、エマ・ノールト、一人で来訪、と三つの欄に分けて記されていた。


 ハドリーは日中の紙へ同じ時刻を書き、グレーテへ質問を続けた。


「訪ねてきた理由を、本人は何と言いましたか」


「前日の話について、ハーゲンさんへもう一つ確かめたい、と。お父さんの私信をカルドさんへ見せるつもりがあるのか、四か月も待たずに答える気はないのか、本人に聞きたいと言いました」


 グレーテはエマを勝手に居間へ通してはいない。名前と用件をハーゲンへ伝え、本人が会うと答えてから案内した。


 最初はグレーテも同席していた。エマが私信を見せる気があるか尋ねると、ハーゲンは、前日の訪問だけでは決めない、正式な要請が来たら正式に答える、と返した。


「エマさんは、四か月先ではなく今答える選択はないのか、ともう一度聞きました。ハーゲンさんは、その時は約束しませんでした」


「二人だけになった時間はありますか」


 会話の途中でハーゲンが咳き込み、温かい水を求めた。グレーテは台所へ行き、冷めた湯を温め直して清潔な杯を出した。


「私が席を外したのは、いつもの家事です。ハーゲンさん本人が水を頼みましたし、エマさんとは前の日にも会っています。あの時、二人を残してはいけないと思う理由はありませんでした」


 グレーテは言い訳を足さず、その時に考えたことだけを述べた。ハドリーも、席を外した責任については尋ねず、時間と位置の確認を続けた。


「台所の小時計を見た時と、戻った時の居間の時計から考えて、十分には届きません」


 その間、居間にはハーゲンとエマだけが残った。


 グレーテは台所にいる時、ガラスが木へ触れるような硬い音を一度聞いた。割れる音ではなかった。どの器が鳴ったのか、誰が動かしたのかは見ていない。


「席を立つ前、エマさんは何か持っていましたか」


「二つ折りを重ねた薄い紙を持っていました。書いた物なのか、何かを包んでいたのかは分かりません」


 戻った時、ハーゲンは同じ椅子にいた。エマは客用の椅子から離れ、白柳滴と水差しを置く脇卓の近くに立っていた。薄い紙は、もう手に見えなかった。


「ただ、瓶や杯へ触れたところは見ていません。紙をどこへ置いたかも見ていません」


 エマはグレーテが戻って数分後に帰った。滞在は二十分を少し過ぎる程度で、三十分には届かなかった。ハーゲンは自分で返事をしており、直後に具合を崩したわけでもない。


 記録係は紙を三つに分けた。見た物は、薄い紙と戻った時の位置。聞いた物は、ガラスが木へ触れた音。見ていない物は、瓶への接触、紙の中身、何かを入れる行為。


 一通りの聴取が終わってから、カルドはハドリーの許可を得て尋ねた。


「私信についての問いは、エマから出た。それで間違いないか」


「はい。ハーゲンさんからではありません」


 


 昼を過ぎた丘の道には、屋根から落ちた雨が細い流れを作っていた。


 ハドリーは邸の保全を担当する保安吏へ再入室を告げ、カルドとグレーテを居間へ入れた。カルドは参考人として、示された場所から見るだけだった。


 グレーテは家具を動かさず、自分が台所へ行く前の三人の位置を示した。戻った時、エマが立っていた場所も指す。


 客用椅子から脇卓までは数歩だった。ハーゲンの椅子からも、身体を傾ければ手が届く。午後、脇卓には白柳滴の瓶、水差し、服薬用の杯が置かれていた。夕方の服用を終えると、グレーテが瓶を薬棚へ戻して鍵をかける。それが普段の順番だった。


 保安吏は、椅子と脇卓の位置を床の見取り図へ写した。グレーテが出る前と戻った後で、家具そのものは動いていない。ハーゲンもエマも脇卓へ届く場所にいたため、部屋の形だけではガラスを動かした者を一人に絞れなかった。


 薄い紙も、破片も、見つからなかった。朝に回収された瓶と杯は、すでに市の医療施設へ送られている。


「ここへ近づけたことは分かる」


 カルドは脇卓から距離を取ったまま言った。


「瓶へ触れたことまで分かるわけではない」


 ハドリーは、位置と行為を別の欄へ書かせた。


 邸を出る前、医療施設からミリアの短い予備回答が届いた。夕方の反応低下は、強い眠りを起こす複数の薬草と矛盾しない。ただし死因の判断ではなく、保全した瓶と杯の検査もこれからだった。


 ハドリーは市場を担当する役所へ、その薬草群のうち販売時に記録を残す品について、直近の販売照会を出した。


 


 午後の写本工房では、濡れた紙を乾かす枠が窓際に並んでいた。糊を煮る匂いの中で、筆先を整える小さな音が続いている。


 ハドリーは、公の調査として昨日の出入りと作業の交代を確かめると説明した。カルドへの報告という契約記録にも関わるため、質問が終わるまで発言しない条件で同席を認め、記録係は出席者欄へ名を書いた。リイサは、職人が抜けた時刻や担当交代を残す作業帳を出した。


 昨日の欄には、エマが昼食後、私用で少し出ると伝えたことが残っている。担当していた乾燥紙の返し作業は、ヨナスへ渡されていた。行先は書かれていない。


「午後一時の鐘から四十分ほどあとです。戻ったのは、三時の鐘が鳴る頃でした」


 リイサが時刻を読み上げる。


 ヨナスは手を止め、作業台の乾燥枠を指した。


「俺が二回、紙を返しました。三回目は、戻ったエマがやりました。行先は聞いていません」


「持っていた物は?」


「見ていません。戻ってからは、いつものように仕事をしていました」


 リイサも、エマが遅れた分を自分で片づけたことだけを答えた。ハドリーは原本を持ち出さず、その頁の写しへリイサの確認印と照合した時刻を入れさせた。


 ヨナスはエマの行先を考えて答えを足そうとはしなかった。古文書を裂いた時と同じように、自分が手を動かした二回分と、見ていない持ち物を分けている。リイサも帳簿の欄を指で追い、記録にない理由を代わりに作らなかった。


 工房を空けていた時間は、グレーテが示した訪問時間と無理なく重なる。


 カルドは契約書の控えを開いた。調査に関係する相手へ会った時は報告する。契約前の行動でも、調査に関係するなら開示する。その二行を確認した。


「本人への確認には、後見人を同席させてください」


 ヨハンが言った。


「工房を空にできません。私が残り、リイサが行きます」


 ハドリーはうなずき、夕方の時刻を伝えた。


 工房を出ると、市場から照会の返事が来ていた。候補となる薬草群の直近の記録販売を調べると、灰眠草7.5gの一件があり、店まで確認できた。


 


 市場へ着くと、雨を避けていた露店が屋根布を上げ始めていた。濡れた麻袋と乾いた薬草の匂いが、狭い通りにこもっている。


 薬草店の中では、天井から下がる束が入口の風で揺れていた。小さな銅の秤は台の端へ寄せられ、帳簿を開く場所だけが空けられている。


 今回は、すでに作られた販売帳の照合が中心だった。ハドリーは、触れず質問しない条件でカルドを閲覧位置へ立たせ、灰眠草の販売記録を求めた。カルドは帳簿へ手を出さず、記録係の横で開かれるのを待った。


 店主は革表紙の販売帳を出した。灰眠草のように扱いへ注意がいる薬草は、日付、品名、量、代金、客が告げた氏名を販売時に記す決まりだという。


 調査契約を結ぶ前日の朝の欄に、店主の筆跡で記録が残っていた。


 灰眠草 7.5g。


 エマ・ノールト。


「この名前は、客が言ったものですか」


「そうです。聞いた名前を復唱し、その場で書きました。使いすぎれば強く眠り、呼びかけへの反応が鈍る危険があるとも伝えています」


 店で売ることのできる量を渡したが、用途は聞いていない。客が持ち帰ったあと、どこに置き、誰に使ったかも知らない。


 店主が確かに言えるのは、客がその名を告げ、自分が復唱して帳面へ書いたことまでだった。顔だけで本人だとは決めず、人物の確認は後でエマ自身に行う。


 ハドリーは該当頁だけでなく、前後の行、頁番号、綴じ目も確認した。記録係が作った写しへ、店主が原本と同じだという印を押す。


 購入日は契約前だった。それでも、カルドが契約書へ入れた開示条項の範囲には含まれる。最後に名を本人へ確かめなければ、記録の線はつながらない。


 


 夕刻、保安局詰所の窓が西日で淡く赤くなった。


 エマは工房の仕事着のまま、リイサと聴取室へ入った。栗色の髪は後ろで緩く束ねられ、指先には薄く墨が残っている。


 ハドリーは、記録係を挟んで向かいへ座った。


「今日は三つだけ確認します。灰眠草を買ったこと、ハーゲン邸へ行ったこと、その二つをカルドさんへ報告したかどうかです。何かを混ぜた、誰かを死なせたと決めて質問するのではありません」


 販売帳の写しが机へ置かれた。エマは自分の名を見つけると、紙を押さえていた指を止めた。日付、品名、量を、自分で最後まで読む。


 リイサは隣に座っていたが、紙を取り上げず、エマの代わりにも読まなかった。後見人として同席しても、答えるのは本人だと分けていた。


「この日に、自分の名を告げて買いましたか」


「はい。私が買いました。灰眠草を7.5gです」


「何のために買い、今どこにありますか」


 エマは作業着の袖口を指で直した。


「その二つは、今ここで答えなければなりませんか」


「答えない場合は、答えなかったと記録します」


「では、今は答えません」


 声は小さくなったが、笑いも言い訳もなかった。


「買うこと自体が禁じられている品ですか」


 リイサがハドリーへ尋ねた。


「いいえ。店で売ることのできる量でした。購入した事実と、何に使ったかは分けて調べます」


 次に、ハーゲン邸への訪問を尋ねられた。


「一人で行きました。父の私信をカルドさんへ出すつもりがあるのか、本人にもう一度確かめたかったんです」


 ハドリーは、グレーテが席を外した間にガラス音を聞いたこと、戻った時にエマが脇卓の近くにいたことを伝えた。


「その間に、瓶か杯へ触れましたか。薄い紙には何が入っていましたか」


 エマの手が袖口から離れた。机の木目を見たまま、答えなかった。


 ハドリーは質問を繰り返さず、回答なしと記録させた。


「帳簿の日付は、契約を結ぶ前ですね」


 リイサが確かめた。


「前だ」


 カルドは契約書の該当箇所を開き、エマの前へ向けた。


「ただし、契約前の行動でも調査に関係するなら開示する。調査対象へ会った時も報告する。それが条件だ」


 カルドが確認するのは二点だけだった。


「ハーゲンへ一人で会ったことを、俺へ報告したか」


「していません」


「灰眠草の購入を、調査に関係する行動として話したか」


「それも、話していません」


 訪問と購入を隠していたことは、契約の開示条項に反していた。だが、それは白柳滴への接触や、ハーゲンを死なせた事実まで証明するものではない。


 エマは契約書から目を上げた。


「契約を終わらせますか」


「終わらせない」


 カルドはすぐに答えた。


「依頼人に不利な事実も報告する条件は、依頼人が不利になった時にも使う。そのために入れた。ただ、前と同じ信用で話を聞くことはできない」


 エマはうなずいた。リイサは代わりに謝らず、契約書の日付をもう一度見た。


 ハドリーは、確認できた三点を読み上げた。購入した。訪問した。報告しなかった。


 一方、薄い紙の中身、瓶や杯への接触、灰眠草と夕方の症状の関係、翌朝の死因は確認できていない。エマには後の聴取へ応じ、市外へ出る時は事前に知らせるよう求めた。拘束はしなかった。


 購入した物の用途も、邸での行為も、最終的な死因も確かめられていない。ハドリーは疑いを理由に先の答えまで作らず、今後の連絡方法だけを記録へ残した。


 エマとリイサが帰ると、ハドリーは新しい紙を縦に二つへ分けた。


 左に、夕方の第一危機。右に、翌朝の死。


 灰眠草の販売記録は左側へ置かれた。右側には、口の内側の小さな傷、顎から首の薄い色の変化、死因未確定という三つだけが残る。


 ハドリーはグレーテの症状証言、白柳滴と杯の保全記録、販売帳の写しをそろえ、ミリアへ渡す準備を始めた。


 カルドは二つの欄を見比べた。次に確かめるべきなのは、エマが何を考えていたかではない。夕方に反応を失った原因と、朝に死亡していた原因を、同じものとして扱ってよいかどうかだった。


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