第8話 夜の時刻表
丘の下にある保安局の詰所は、古い倉庫を半分に仕切って使っていた。
窓の外を、市場へ向かう荷車が通っていく。朝の雨で濡れた車輪が石畳をこすり、低い音を残した。室内には小さな炉があり、湯を沸かす鍋から白い湯気が上がっている。
グレーテは炉に近い椅子へ座っていた。借りた外套を肩に掛け、両手で温かい飲み物の杯を包んでいる。前掛けの皺を伸ばす動きは、ようやく止まっていた。
机には横長の紙が広げられている。時刻を書くための線が引かれ、二十一時三十四分の欄だけが先に埋まっていた。
ハドリーは火のついていない細巻き煙草を紙の端へ置いた。
「今日は、夕食前にハーゲンさんが具合を崩したところから、あなたが家を出るまでを聞きます。それより前のことは、別の紙で取ります」
グレーテが顔を上げる。
「昨日一日の話を、今まとめて聞かないのですか」
「二十一時三十四分に近い方から固めます。朝からの出入りと食事や薬は、このあと時間を分けて聞きます。長い一日を一度に話すと、前後が混ざりますから」
ハドリーは記録係にも、紙の上へ「夕食前以後」と書かせた。カルドはその向かいに座ったが、帳面を開くだけで質問は始めなかった。
「途中で疲れたら止めます。答えたあとに違うと思った時は、その場で直してください。最後にこちらで読み上げます」
「分かりました。見ていないことは、見ていないと答えます」
「それで十分です」
ハドリーは証言をきれいに整えるよう求めなかった。空いている時刻を、グレーテの推測で埋めるつもりもなかった。
夕食前、ハーゲンが一時、呼びかけへ答えなくなった。呼吸は続いており、その後、受け答えができるまで回復した。グレーテが医療官を呼ぶと告げ、再び同じことが起きた時は本人が断っても呼ぶという条件で、その場は見守った。
ハドリーは長く聞き直さず、時刻表へ「夕食前・一時反応なし」「回復」と分けて書いた。
「六時を過ぎてから、市内便が来ました」
グレーテはそこでカルドを見た。
「あなたの書面です。読んだあと、ハーゲンさんは壁の暦を外しました。それから書斎の引き出しを開けて、赤い封蝋の私信を机へ出しました」
ハドリーがカルドへ目を向ける。
「書面の内容を、記録に必要な範囲で」
「私信が今もあるか。あるなら、どこにあるか。自分の意思で調査資料として出すか。三つを別に答えるよう求めた」
「返事と私信は、どう受け取る予定でしたか」
「今朝、俺が直接受け取りに行く予定だった。宿を出る前に保安局から呼ばれた」
ハドリーは、それ以上をカルドへ尋ねなかった。私信を出したことと、カルドの手元へ渡ったことは同じではない。
「次に家へ来た人は?」
「八時半を少し過ぎた頃です。災害補償院長のアーベル・サルガンさんが来ました」
カルドは組んだ両手を動かさなかった。
「補償院で会っている。灰橋の時は、避難に使う道を決める仕事をしていた」
「その話はあとで確認します。昨夜の訪問は、前もって決まっていましたか」
ハドリーはすぐにグレーテへ質問を戻した。
「はい。何日か前から予定板に書いてありました。補償院に残る古い記録が、今も本人の情報と合っているか確かめる仕事です」
確認するのは、今の住所、八年前の役職、旧裁定部を離れた年の三つだった。急に訪ねてきた私用の客ではない。
アーベルは居間へ入ると、書類より先にハーゲンの顔色を見た。息が浅いことにも気づき、その日の確認はやめてもよいと伝えた。
「今日は取りやめても構いません。予定を移しても、あなたの不利益にはしません」
アーベルがそう言うと、ハーゲンは椅子へ座ったまま首を振った。
「今日、済ませたい」
「では、確認する項目を減らします。苦しくなったら途中でもやめます」
アーベルは立ったまま話を進めず、ハーゲンの向かいへ椅子を運んだ。グレーテが水を持ってくるまで、質問も始めなかった。
「延期しても、補償や封印の再審査で不利にはしないと言っていました」
「ハーゲンさんは?」
「予定どおりにやると答えました。アーベルさんは質問を三つだけにして、長い書類は読ませませんでした。私には水を頼みました」
グレーテが水を持って戻ると、住所と役職の確認は終わっていた。ハーゲンはゆっくりだったが、自分で答えていた。
確認が済んだあと、ハーゲンは、四か月先の再審査まで待てない時に旧担当者ができることを尋ねた。
アーベルの答えは三つだった。
当時の判断について、今から説明を加えること。自分の手元にある資料を、自分の意思で提出すること。封印を解くべきだという意見を、今の担当者へ出すこと。
どれも再審査の結論を約束するものではない。ただ、今の時点で記録へ残すことはできる。資料を出すなら、何をどこへ渡したかを書き、受け取った側の控えを必ず取るよう勧めた。
「話をした場所は」
「居間です。アーベルさんは書斎へ入っていません」
「席を立ったのは」
「帰る時だけです。使った書類は自分の鞄へ戻しました」
グレーテは言い切ったあと、杯を置いた。
「親切だったかどうかは、私には決められません。ただ、今日はやめていいと先に言いました。水を飲む間も待っていました」
ハドリーは人物への評価を書かず、延期の提案と、実際に行った確認だけを別の欄へ記した。
カルドはハドリーが書き終えるまで待ち、それから一つだけ尋ねてよいか確認した。
「手元の資料を出す話は、ハーゲンから訊いたのか」
「そうです。アーベルさんから勧めて始めた話ではありません」
カルドはその答えを、自分の要請書とは別の行へ記した。二つの説明が同じ提出へ向いていても、始まった理由と話した者は違う。
「帰った時刻は」
「九時の鐘が鳴る五分ほど前です。正面玄関から出て、私が門まで送りました。正面の坂を下り始めるところまでは見ています」
「そのあとは」
「見ていません」
退出する前、アーベルは、ハーゲンの呼吸がまた乱れたら本人が嫌がっても医療官を呼ぶよう、グレーテへ念を押したという。
そこへ保安吏が、補償院から届いた予定記録の写しを持ってきた。数日前から二十時三十分の訪問が登録されている。担当者はアーベル本人。用件は古い補償記録の確認となっていた。
「この紙で分かるのは、訪問が前もって決まり、公務として登録されていたことまでです」
ハドリーは写しの端へ受取時刻を書いた。
「実際に何時まで家にいたかは、予定表だけでは分かりません」
昼前、周辺の店を回っていた保安吏が詰所へ戻った。
「坂向かいの仕立屋主人が、昨夜九時前にハーゲン邸の正面門を見たそうです。店の中から、グレーテさんが誰かを見送るところを見ています」
向かいの店なら、正面門と坂を続けて見られる。ハドリーは記録係を連れ、正式な証言を取りに行くことにした。
カルドは詰所に残った。契約調査人であっても、保安局の聴取へ同行する権限はない。届いた予定記録の写しを読み直しながら待つ。グレーテにも温かい食事が出され、同じ話を続けてさせないことになった。
市場へ向かう荷車が一巡する頃、ハドリーが記録係と戻ってきた。雨は上がっていたが、灰色の上着の肩には、通りの軒から落ちた雫が残っている。グレーテの前では、出されたスープの皿が空になっていた。
ハドリーが持ち帰ったのは、主人の署名がある証言記録、店の控え札の写し、店内から正面門までの簡単な見取り図だった。質問の前に人物名を教えていないことも、記録の最初に書かれている。
カルドはまず見取り図を開いた。仕立屋はハーゲン邸の坂向かいにあり、主人は店の作業台から窓越しに門を見ていた。窓辺には糸巻きと作りかけの上着が並ぶが、門までの視界を隠す高さではない。
証言では、九時の鐘が鳴る五分ほど前、グレーテが門で一人の男を見送っていた。主人は暗くて顔を見分けられなかったが、砂色の上着、小柄な体、白い物が混じる短い髪、少し前へ傾いた背を覚えていた。男は邸の門から正面の坂へ出て、そのまま下った。主人自身は店内におり、ハーゲン邸を訪れた者ではない。
時刻の根拠は、仕立て直した外套を九時に店へ受け取りに来る客だった。控え札の写しには、袖を半寸短くする仕事と九時の受取予定が記され、品を受け取った客の印も残っている。主人は男を見たあと時計を確かめ、客が来るまでの五分で袖をもう一度測ったと答えていた。
記録係の末尾には、主人が首に測り紐を掛け、耳の後ろに白い印付け片を挟んでいたことも書き添えられていた。証言を終えると、作業台の外套を重ね、左右の長さを測り直したという。人の顔より、服の色と丈を正確に見る人物だと分かる。
カルドは三つの資料を並べた。補償院の紙は、予定された公務だったことを示す。グレーテは、来訪者がアーベル本人で、正面から帰ったと証言した。仕立屋主人が見たのは、二十時五十五分頃に、その外見と合う男が門から正面の坂を下ったことだった。
「三つとも、同じことを全部証明してはいない」
記録を読み終えたカルドが言った。
「ええ。予定、本人の確認、退出。欄は分けます」
ハドリーは煙草を指で転がし、火をつけないまま上着の内側へ戻した。
聴取は、アーベルを見送ったあとの行動から再開した。
グレーテはすぐには帰らず、ハーゲンの呼吸と、服薬時刻を書いた木板を確かめた。水差しにも水を足した。ハーゲンは疲れていたが、問いかけには自分で答えた。
「朝になったら医療官を呼ぶと、もう一度言いました。今度は、強く断りませんでした」
書斎には、伏せた暦、赤い封蝋の私信、インク壺、カルドの要請書が残っていた。アーベルが帰ったあとも、私信は机の上にあったことになる。
帰る前の確認には、六年間変わらない順番があった。台所の火を消し、窓を確かめ、古い通用口を閉める。最後に正面玄関から出る。
「通用口の掛け金は、目で見ただけですか」
「手で下ろしました。古い扉なので、閉めたあとに一度引きます。昨夜も開かないことを確かめました」
時刻は二十一時十五分頃。グレーテは正面玄関から外へ出た。ハーゲンは自分で内側から正面戸を扱える状態で、グレーテは門を閉めて帰った。
娘の家へ向かうには、邸の塀沿いを回って裏坂へ出る。そこで、街灯を見回っていた夜番人と会っていた。
夜番人からは、保安吏がすでに基本の証言を取っていた。次は巡回板に印を付けた場所と、そこから見える道を確かめるための現地確認だったため、ハドリーは参考人としてカルドの同行を認めた。質問はハドリーが行う。
二人は聴取を終えると、裏坂へ向かった。
昼の裏坂は、夜より狭く見えた。塀の影に湿った落ち葉がたまり、古い通用口へ続く石段には苔が残っている。夜番人は覆い付きの手提げ灯と巡回板を持って待っていた。
左脚が少し固く、歩みは遅い。だが、どの街灯をどの順で見るかは毎晩同じだった。
巡回は、坂下の橋灯から始まり、表通りを上って裏坂へ回る。歩調が変わらないため、灯りごとの時刻も大きくずれない。昨夜は雨もなく、修理のために止まった灯りもなかった。
「この灯りを見た印が、ここです」
巡回板には、二十一時十五分頃を示す位置へ小さな穴が開いていた。番人は街灯を確かめるたび、時計板に重ねて穴を開ける。あとから書き足さずに、どこまで回ったかを残すためだ。
「穴を開けたすぐあと、グレーテさんが正面側から回ってきました。昨夜は遅かったですね、と声をかけました」
「返事は?」
「ハーゲンさんの具合が悪かった。朝また来る、と言っていました」
番人が見たのは、グレーテが裏坂を下り、娘の家がある方角へ進んだところまでだった。別れたあとの道までは見ていない。邸内の戸締まりも、当然見てはいなかった。
詰所へ戻ったハドリーは、時刻表へ四つの事実を書き加えた。
二十時半過ぎ、アーベルが予定された公務で来訪。
二十時五十五分頃、正面から退出。
二十一時十五分頃、グレーテが私信と通用口の掛け金を確認し、正面から退出。
二十一時三十四分、配達人がハーゲン本人の返答、署名、封蝋を確認。
時刻表はそこでいったん閉じられた。
アーベルが帰ったあとも私信は机上にあり、ハーゲンはさらにあとで配達人へ応対している。前夜の公務訪問だけを、ハーゲンの死や私信の不在へ結びつける材料はなかった。
一方、通用口の欄では、前夜と朝の状態が違っていた。
「二十一時十五分には下りていた。朝には外れていた」
カルドが二つの記録を見比べる。
「誰かが通った証拠ですか」
「そこまでは言えません」
ハドリーは眼鏡を外して拭き、掛け直した。
「ハーゲンさん本人が外した。古い建具がずれて外れた。誰かが扉を使った。今は三つとも残します」
予備鍵の記録と、建具の動きは別に調べる。その答えが出るまで、外れた掛け金を侵入の証拠とは呼べない。
ハドリーは夕方以後の時刻表を脇へ置き、新しい紙に「昨日・日中」と書いた。さらに、医療施設へ送った薬瓶や杯の一覧を横へ並べる。
夜の時刻表は二十一時三十四分まで埋まったが、掛け金が変わった理由には届かなかった。次に確かめるのは、昨日一日の出入りと、食事、水、薬など、ハーゲンの身体へ入った物だった。
ハドリーは日中の紙へ向き直った。
「昨日の日中、ハーゲン邸へ最初に来たのは誰です」
質問は日中へ移った。グレーテは朝から順に思い返し、迷わず答えた。
「午後二時を過ぎた頃、エマ・ノールトさんが来ました。一人でした」
カルドの親指が止まった。彼は帳面の新しい行へ、時刻、名前、一人で来訪、と分けて書いた。




