第7話 朝に渡せなかった手紙
朝の光は、まだ丘の半分までしか届いていなかった。
坂の下では、パン屋が鎧戸を押し上げている。焼けた小麦の匂いが冷たい空気に混じり、仕立屋の軒先では、夜露に濡れた看板が風に揺れていた。
グレーテは、布で包んだ朝食籠を両手で抱えて坂を上った。中には柔らかく煮た麦と、温めた乳、それに薄く切ったパンが入っている。昨夜のことを考えれば、ハーゲンが食べられるのは半分ほどだろう。
朝になったら、今度こそ医療官を呼ぶ。
断られても譲るつもりはなかった。
門は閉じていた。庭にも、いつもと変わったところはない。グレーテは腰の鍵束から一本を選び、正面玄関を開けた。鍵は引っかからず、いつもと同じように回った。
「おはようございます」
家の中から返事はなかった。
朝は声が出にくい日もある。グレーテは玄関脇へ朝食籠を置き、居間をのぞいた。炉の火は消え、昨夜手元へ置いた水差しがそのまま残っている。
「ハーゲンさん、起きていますか」
書斎の扉が開いていた。
ハーゲンは机の横の椅子に座り、身体を右へ崩していた。膝掛けの端が床へ落ち、杖は椅子の脚に挟まっている。
グレーテは急いでそばへ行き、肩に触れて名を呼んだ。返事がない。口元へ手を近づけても息は感じられず、首へ指を当てても動きはなかった。
それ以上、身体は動かさなかった。昨夜まで机の奥にあった伏せた暦と、インク壺、カルドの書面が見える。その間に置かれていた赤い封蝋の封筒だけがなかった。
昨夜、ハーゲンはあれを自分で引き出しから出した。朝になったらカルドへ渡すと、二度確かめた。グレーテは反射的に机へ手を伸ばしかけたが、前掛けを握って止めた。今動かせば、あとから何がどこにあったのか説明できなくなる。
グレーテは机へ近づかず、入ってきた時と同じ場所を通って玄関へ戻った。
坂の下で戸を開けていた店の者へ、医療官と保安局を呼ぶよう頼む。保安局は、事件や不審な死を公の立場で調べる役所だ。グレーテは自分で人を探しに走らず、正面階段へ戻った。
誰かが門へ近づくたび、そこで止めた。
最初に来た保安吏へ自分の鍵を渡し、玄関から書斎まで歩いた順と、肩に触れたことを話した。朝食籠は玄関脇に置いたままだ。
「中へ入ったのは、あなた一人ですね」
「ええ。机にも、窓にも触っていません」
答えながら、グレーテは生成りの前掛けを何度も伸ばしていた。籠を包んでいた布の隙間から、湯気はもう上がっていない。
「朝になったら、医療官を呼ぶつもりでした」
保安吏は返事を急がず、聞いたことを紙へ書いた。
同盟保安局の査察官、ヴァンス・ハドリーが着いた時には、門の前に近所の者が集まり始めていた。
査察官は、現場を守り、証人から話を聞き、必要な物を証拠として預かる責任者だ。ハドリーは門と玄関へ一人ずつ保安吏を置き、到着した者の名と、どこまで入ったかを記録させた。
「窓は開けない。炉にも火を入れないでください。寒い人には、外で外套を渡す」
灰色の現場用上着は、厚い肩と胸にぴたりと合っていた。細い金属縁の眼鏡の奥には疲れが見える。それでも声を荒らげず、確認の順番も変えなかった。
右手には細巻き煙草を一本持っている。火はついていない。考える時に指で転がすだけで、現場では口へも運ばなかった。
ハドリーは正面階段にいたグレーテへ椅子を出させ、外套も借りてきた。
「鍵を預けたあと、誰かに質問されましたか」
「最初の保安吏に、入った場所と触れた物を話しました」
「ほかには」
「近所の人には何も。中を見たいと言われましたが、断りました」
ハドリーは記録係へ目を向け、門前に集まった者の名も残すよう指示した。見物に来ただけの者まで疑うためではない。誰が現場へ近づいたかを、あとで思い出し直さずに済ませるためだった。
「発見してからのことを、もう一度だけ確かめます。玄関を開けた。居間を通った。書斎で呼吸を見て、肩に触れた。そこから外へ戻った。間違いありませんか」
「ありません」
「遺体を椅子へ戻したり、机を探したりはしていない」
「していません」
「それでいいです。人を呼びに走らず、入口を守ったのも正しい」
グレーテはうなずき、また前掛けの皺を伸ばした。
「面倒な人でした。昨夜も医療官を呼ばせませんでした」
過去形になったところで、声が止まった。グレーテは玄関の朝食籠を見て、包み布の端だけを整えた。
市の医療官ミリア・ヴォスは、書斎へ入ると上着の袖を左右同じ高さまで上げた。革の診察包みを机から離れた床へ置き、布、器具、記録板の順で開く。
ミリアが調べるのは、死亡と身体の状態だ。家への出入りや、なくなった物を調べるハドリーとは役目が違う。
診察を終えるまで、ハドリーは問いかけなかった。
「死亡しています。数時間は経っていると思います」
ミリアは器具を戻さず、記録板へ時刻を書いた。
「昨夜の何時ですか」
「ここで正確には決められません。部屋の冷え方にも左右されます」
見える範囲に、大きな傷はなかった。家具が倒れた様子もなく、床に争った跡も見当たらない。ハーゲンに心臓と肺の持病があり、前夜に一度意識を失ったことを聞けば、そのまま病死した可能性はある。
だが、ミリアは口の内側にある小さな傷と、顎から首へかけての薄い色の変化も記録した。
「死んだ理由になりますか」
ハドリーが尋ねた。
「まだ分かりません。倒れた時に傷ついたのかもしれませんし、発作の時に強く力が入った可能性もあります。ほかの原因も、今は消せません」
「死亡は確認できる。死因はまだ決められない」
「その通りです」
薬瓶、水差し、杯、服薬記録は、位置を書いてから一つずつ包まれた。ハドリーは薬の名や量から先に答えを作らず、中身を調べる物として番号を付けさせた。
その間に、書斎机からカルド名義の要請書が見つかった。
グレーテは、ハーゲンが赤い封蝋の私信を翌朝カルドへ渡すと言っていたことだけを答えた。ハドリーは前夜の話をそこで広げず、保安吏へ宿の名を聞いてカルドを呼びに行かせた。
宿を出たカルドが丘へ着く頃には、朝の光が門柱まで上がっていた。家の前には保安局の縄が張られ、見物人は坂の向かいへ下げられている。
門前で待っていたハドリーは、細巻き煙草を指に挟んだまま名乗った。
「この家の出入りと、証拠の扱いは私が管理します。あなたには捜査の権限がありません」
「承知している。呼んだのは、そちらだ」
「二日前に本人と話し、昨夜はこの書面を送った。今朝、受け取る予定だった物がある。そこまでで合っていますか」
「合っている」
カルドは宿の名と部屋も答えた。ハドリーは眼鏡を押し上げ、記録係の文字を確かめる。
「あなたの契約は、この家の捜索まで含みますか」
「含まれない。依頼はヘルマン・ノールトの死の再調査だ。ハーゲンの死について、俺が命令できる相手はいない」
「なら、今日は参考人です。あなたの帳面も、必要な箇所は写しを取ります」
「原本を渡す時は受取記録を残せ。依頼人の資料も混じっている」
「こちらの手順で残します」
ハドリーはカルドを信用したとは言わなかった。カルドも、自分を特別扱いするよう求めなかった。前日の状態を知る者として、使える範囲だけ使う。その条件なら、断る理由はない。
「前に見た状態との差だけを教えてください。見るのはいい。触るのはこちらです」
「手袋は」
「貸しますが、触れてよいという意味ではありません」
カルドは薄い手袋を受け取り、両手を身体の前で組んだ。親指が一度だけ動き、それから止まる。
書斎へ入ると、椅子にいたハーゲンは白い布で覆われていた。ミリアがそばに残り、運び出す前の記録を続けている。
机の奥には、表を下にした暦があった。横にはインク壺と、昨夜送った要請書がある。右下の引き出しは閉じていた。
「ここに封筒がありました」
戸口からグレーテが言った。
ハドリーは床に置いた見取り図へ印を付ける。
「いつ見ましたか」
「昨夜です。ハーゲンさんが首の鍵で右下の引き出しを開けました。赤い封蝋の封筒を出し、朝になったらカルドさんへ渡すと言って、机へ置きました。暦、封筒、インク壺の順です」
「今朝は」
「封筒だけが見えませんでした。引き出しの中は見ていません」
ハーゲンの首に下がっていた鍵は、すでに小袋へ封じられていた。ハドリーの立会いで鍵を使い、保安吏が引き出しを開ける。中の書類を一枚ずつ動かし、元の位置を記録したが、赤い封蝋の封筒はなかった。
「私信の現物を見たことは?」
ハドリーがカルドへ顔を向けた。
「ない。存在は公の目録と、ハーゲン本人の話で知った。昨夜、机のどこに置かれたかはグレーテの証言で初めて知った」
「内容は」
「知らない」
ハドリーは記録係の紙をのぞき、言葉を直した。
「『盗まれた』とは書かないでください。前夜に目撃された封筒が、朝の机上と引き出しから確認できない。今、分かるのはそこまでです」
「家のどこかへ移した可能性もある」
カルドが言うと、ハドリーはうなずいた。
「家全体を調べる前です。外へ持ち出されたとも決めません」
要請書もインク壺も残っている。紙を何もかも持ち去った状態ではないが、封筒だけが選ばれたともまだ言い切れなかった。
正面玄関は、朝まで鍵がかかっていた。窓に割れや大きな隙間はない。一方、台所の奥にある古い通用口は、扉そのものは閉じていたが、内側の掛け金が外れていた。
ハドリーは誰にも触れさせず、扉と掛け金の位置を図へ写させた。鍵穴には擦れがある。しかし、それが昨夜ついたものか、長く使った建具の傷かは分からない。
「普段、ここは見ますか」
「帰る前に確かめます」
グレーテが答えた。
ハドリーは、その先を尋ねなかった。
「昨夜の詳しい話は、暖かい場所で休んでから聞きます。来た人、帰った人、戸締まりを順に分けます。今ここで急いで、時刻を混ぜたくありません」
グレーテの鍵と、ハーゲンが身につけていた鍵は、別の袋に封じられた。予備鍵が何本作られ、誰へ渡り、何本戻ったかは、鍵を作った店と家の記録の両方で確かめることになった。
机には、昨夜届いた本人確認通知の受領紙も残っていた。ハーゲンの署名と赤い封蝋、その横に二十一時三十四分と書かれている。
「配達した者には、先に基本確認を取りました」
ハドリーは受領紙へ触れずに言った。
「顔を見て、氏名と住所への返答を聞き、自筆の署名と本人の封蝋を確認した。配達側の受領簿も取り寄せています。家に残った紙だけで決めるつもりはありません」
カルドは時刻を帳面へ写した。
「夕方に一度倒れた。それでも、二十一時三十四分には返答と署名ができた」
「その時に生きていたことは確認できます」
ミリアが手を拭きながら会話へ加わった。
「ただし、その後も助かる状態だった証明にはなりません。逆に、夕方の発作だけで今朝の死を説明できるとも、まだ言えません」
ハドリーは記録板を三つの欄に分けた。死因。見当たらない私信。家の戸締まり。どれか一つを、ほかの答えに使わないためだった。
「封筒がないから殺されたとも、病死なら封筒は関係ないとも、今は書けません」
火のついていない煙草の先で、ハドリーは三つの欄を順に示した。
「別々に確かめて、同じところへ着いた時だけ結びます」
カルドは返事の代わりに、その三本の見出しを帳面へ写した。
保安吏は二人一組で、居間、寝室、台所、物置を順に調べた。初めの捜索では、赤い封蝋の封筒は家の中から見つからなかった。それでもハドリーは、家の外へ出たとは記録しなかった。
遺体はミリアが詳しく調べるため、市の医療施設へ運ばれることになった。邸内ではさらに詳しい捜索が続き、机、薬、二つの出入口は保安局の管理下に置かれる。
ハドリーは新しい紙を机へ広げ、左端へ昨日の日付を書いた。時刻を並べるための線を引き、二十一時三十四分の欄だけを先に埋める。
「昨日の夕方から、この家で見たことを時刻順に聞きます。誰が来て、誰が帰ったか。見ていないところは、見ていないで構いません」
グレーテは前掛けから手を離し、紙を見た。
カルドも、先に埋まった一つの時刻へ目を向ける。朝にはハーゲンが死に、渡されるはずだった私信も見当たらない。
ハーゲンが最後に生きていた時刻は分かった。次に確かめるのは、その夜、誰がこの家を出入りしたかだった。




