第6話 待つのをやめた夜
夕方になると、丘の街灯が上から順にともり始めた。
坂の下に並ぶ屋根から、夕食を作る煙が上がっている。風が吹くたび、木を燃やす匂いと運河の湿った空気が入れ替わった。
丘の家々は、運河沿いの店より早く戸を閉める。通りを行く人は減り、車輪の音も坂の下へ遠ざかっていた。ハーゲン邸の窓には、向かいの街灯がぼんやり映っている。
ハーゲン邸の居間では、グレーテが時計と服薬記録の木板を見比べていた。前日の客に出した杯は片づけられ、卓には水差しと白柳滴の瓶だけがある。
白柳滴は、ハーゲンの心臓や肺の苦しさを和らげる薬だ。瓶には、以前使っていた量を示す古い線が残っている。今の処方はそれより少ない。
グレーテは医師から指示された今の量で止め、杯へ水を足した。
「古い線までは入れていません。今の決まった量です」
「毎日聞いている」
「毎日確かめていますから」
ハーゲンが飲み終えるまで見届け、木板へ時刻を書いた。時計の針は六時に近づいていた。
グレーテは空になった杯と瓶を別々に確かめた。量を間違えていないことは、自分の手と木板の印で分かる。瓶を棚へ戻し、いつもの位置に鍵をかけた。
グレーテは台所から夕食を運んだ。温めた豆と根菜の匂いが広がっても、ハーゲンはいつものように皿の位置を直さない。
「パンは半分でよろしいですか」
返事が遅かった。
ハーゲンは杖へ手を伸ばした。だが、右手は肘掛けから滑り、膝掛けの上へ落ちた。そのまま目を閉じる。
「ハーゲンさん」
グレーテは椅子の横へ回り、肩に触れた。もう一度名を呼んでも、返事がない。
呼吸は浅いが、途切れず続いている。グレーテは胸の動きを確かめてから外套を取り、近くの医療官を呼びに出る支度をした。
玄関へ向かう前に、ハーゲンの指が動いた。グレーテは外套を持ったまま椅子のそばへ戻り、急に揺すらず名前を呼び続ける。壁の時計と炉の薪だけが、返事のない居間で音を立てていた。
ハーゲンの瞼が動いた。
「聞こえている」
声はかすれていた。グレーテが支えると、自分で杯を持ち、水を二口飲むことはできた。呼吸も少しずつ元の速さへ戻っている。
「医療官を呼びます」
「呼ばないでくれ」
「意識を失ったんですよ」
グレーテは外套を脱がずに言った。ハーゲンは息を整えてから、もう一度はっきり首を振る。
「九時半に本人確認の通知が来る。署名も封蝋も、私がしなければならない。今はここにいてくれ」
予定を理由に医療官を断ることへ、グレーテは納得しなかった。それでも、本人の受け答えが戻り、自分で水を飲めたことは確かだった。
「もう一度意識を失うか、呼吸が乱れたら、あなたが何と言っても呼びます。今夜の予定も全部断ります」
「分かった」
グレーテはようやく外套を脱いだ。すぐ手に取れる椅子の背へ掛け、水をハーゲンの手元に残す。
ハーゲンは壁の暦を見た。四か月先まで引かれた線の終わりは、封印を解くか続けるか、現在の担当者が再審査する月だった。
「あそこまで生きて、再審査を見届けるつもりだった」
「今日のようなことがまた起きたら、四か月を待てるとは限りません」
暦へ伸ばした手は、椅子からでは届かなかった。ハーゲンは腕を下ろし、しばらく自分の右手を見た。
「次も、目を開けられるとは限らないな」
六時を少し過ぎた頃、正面玄関の呼び鈴が鳴った。
グレーテが戸を開けると、市内便の使いが封書を差し出した。表にはカルド・ヴェインの名と、ヴィルヘルム・ハーゲン本人へ渡すよう書かれている。
使いは灰色の配達上着を着て、胸に今日の便をまとめた革札を下げていた。ハーゲン邸の住所を読み上げ、受取人が家にいるかを確かめる。急ぎではあるが、公的な通知ではないため、本人の署名までは求めなかった。
グレーテは受取欄へ時刻を書き、居間へ持ち帰った。
「昨日の契約調査人からです」
封書を受け取ったハーゲンは、震える指で紙を開いた。文面は短く、問いが三つの欄に分かれている。
ヘルマン・ノールトの私信は、今も存在するか。
存在するなら、現在どこにあるか。
調査資料として、自分の意思で提出するつもりがあるか。
提出しない場合も、理由を書いてほしい。提出するなら、翌朝カルド本人が受け取りに来る。最後に提出先が記されていた。
返事を書く欄の下には、回答した日付と署名を入れる場所がある。口頭で約束したと言い争わずに済むよう、出した側と受け取った側の双方に記録を残す形だった。
書面は、私信が残っているとも、ハーゲンが持っているとも決めつけていない。昨日までに確認できた事実と、まだ分からないことが分けられていた。
ハーゲンは一つ目の欄へ指を置いたまま、壁の暦を見た。
「四か月先まで生きるつもりでも、今日の返事まで先へ送る理由にはなりません」
グレーテが言った。
「その言い方は、この書面より厳しいな」
「書面は読めます。息が止まれば、返事は書けません」
ハーゲンは杖をついて立ち上がった。足元が揺れたため、グレーテが腕を支える。
書斎へ入る前に、壁から暦を外した。グレーテが受け取ろうとしたが、自分で抱えて机まで運び、表を下にして伏せた。
机の右下には、深い引き出しがある。ハーゲンは襟元から細い紐を出し、その先についた鍵を外した。
二度目で鍵が入り、引き出しが開いた。
奥から出てきたのは、赤い封蝋で閉じられた封筒だった。表にはヴィルヘルム・ハーゲンの名がある。封蝋には、開けたあとで閉じ直した跡が何度も重なっていた。
封筒の端は黄ばんでいたが、紙は折れていない。引き出しの中でほかの書類と擦れないよう、薄い布に包まれていた。ハーゲンは布だけを畳み、引き出しの奥へ戻した。
ヘルマンが告発と同じ包みに入れた、個人宛ての私信だった。
「明日の朝、カルド・ヴェインへ渡す」
ハーゲンは封筒を机上へ置いた。
「今年は読んだあと、引き出しへ戻さない。私が出すと決めた物として渡す」
「机の上でよろしいんですね」
「ああ」
グレーテは中身を尋ねなかった。机の奥から、伏せた暦、私信、インク壺。その順に並んでいることだけを確かめた。
冷めた夕食を温め直し、食べられる分だけ皿へ戻した。ハーゲンは時間をかけたが、半分ほど口にした。
食後、ハーゲンはカルドの書面を机へ広げた。三つ目の欄には、自分の意思で私信を提出するかとある。
ハーゲンは赤い封蝋に指を置き、伏せた暦を見た。
「提出する」
グレーテは少し待ってから確かめた。
「朝になったら、カルドさんへ渡すんですね」
「私が話せるなら、私が渡す。話せないなら、この書面ごと渡してくれ」
「話せない時は、先に医療官を呼びます」
「それでいい」
ハーゲンはカルドの書面を畳み、私信の脇へ置いた。
九時半を過ぎていた。
丘の上まで届いていた荷車の音は消え、坂道には街灯の明かりだけが残っている。夕方には赤かった炉の火も、小さな炭の色へ変わっていた。
冷えた書斎で、ハーゲンは一人、椅子に座っていた。
窓ガラスの内側には、薄く白い曇りができている。振り子が動くたびに時計の音が部屋を横切り、次の音までの静けさが長く感じられた。ハーゲンは膝掛けを掛け直し、呼吸が乱れていないことを確かめてから立ち上がった。
机の上には、伏せた暦、ヘルマンの私信、インク壺が並ぶ。右手の震えは残っているが、夕方のような息苦しさはなかった。
まもなく、正面玄関の呼び鈴が鳴った。
配達人は濃紺の外套の胸に、小さな時刻板を下げていた。戸口の灯りを上げ、通知の名と目の前の顔を見比べる。
それから、通知に書かれた氏名と住所を読み上げた。封印された案件の受付番号も途中まで読み、間違いがないか尋ねる。
ハーゲンは椅子に座ったまま、一つずつ自分で答えた。
通知は、封印の期限が近づいたため、今の住所と本人であることを確かめるものだった。期限が来れば、担当者が封印を続けるか解くかを改めて調べる。
配達人は、ハーゲンの返事を代わりに書かなかった。声の調子を確かめながら、本人が最後まで答えるのを待つ。ハーゲンも急がず、聞かれた順に返した。
配達人は答えを聞くたび、手元の三つの欄へ印をつけた。声が聞こえただけでは本人確認にならない。顔と返答を確かめ、最後に本人の筆跡と印を残して、ようやく受領となる。
次に、受領欄へ本人が署名した。右手が震え、最初の一画がわずかに曲がる。それでも、名前は最後まで自分で書いた。
配達人が小さな火で赤い封蝋を温める。ハーゲンは前日に練習した通り、印を真上から押した。縁は少しかすれたが、印の形は読み取れる。
配達人は携帯時計を見て、受領簿へ時刻を書いた。
「二十一時三十四分。ご本人の返答、署名、封蝋を確認しました」
ハーゲンは控えを受け取り、配達人が坂を下りるまで戸口の椅子に座っていた。石畳を踏む足音が遠ざかり、正面門の外が静かになる。
書斎へ戻ると、机にはヘルマンの私信があった。伏せた暦には、まだ四か月先までの線が残っている。
ハーゲンは封筒へ手を置き、引き出しへ戻っていないことを確かめた。
赤い封蝋は灯りを受けても暗いままだった。ハーゲンは封筒を机の中央へ寄せ、朝に手渡せる向きへ置き直した。
八年間、私信を読むか戻すかを決めるのはハーゲン一人だった。翌朝には、その内容を確かめる相手がいる。彼は封筒から手を離し、机の中央に残っていることをもう一度見た。




