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第5話 四か月を待つ人

翌朝、カルドとエマは市の西側へ向かった。


 運河から離れるにつれ、道は緩やかな上りになる。荷車の音は遠のき、代わりに庭木を切る鋏と、坂を下る水の音が聞こえた。


 ヴィルヘルム・ハーゲンの家は、丘へ続く坂の途中にあった。灰色の石塀は低く、鉄の門が開いている。門から玄関までの石畳では、隙間の草が半分だけ抜かれていた。草を入れる籠は少し先に置かれ、作業の途中で人だけがいなくなっている。


 エマが呼び鈴を引くと、家の中で鐘が一度鳴った。


 戸を開けたのは、小柄で丸みのある女だった。黒に近い紫の服に、生成りの前掛けを重ねている。灰色の髪は頭巾の下へきつく編み込まれ、腰の大きな鍵束が動くたびに鳴った。前掛けの右側には、薄茶色の染みが残っていた。


「どなたですか」


「契約調査人のカルド・ヴェインだ。ヴィルヘルム・ハーゲン氏に、八年前の記録について聞きたい」


 女はカルドの外套と帳面を順に見た。


「どこの依頼ですか。お話は、どのくらいかかります」


「依頼人はエマ・ノールト。長くても一時間だ」


「ヘルマン・ノールトの娘です」


 エマが自分で名乗った。


 女は驚いた顔をしたが、勝手に返事はしなかった。


「ハーゲンさんは居間にいます。会うかどうかは、ご本人が決めます」


 奥へ伝えに行くと、低い男の声が返ってきた。灰橋とヘルマンの名を聞いた上で、通せと言った。


「私はグレーテ・ミュラーです。この家へ通って六年になります。こちらへどうぞ」


 玄関には、よく磨かれた靴が一足だけ出ていた。壁際の杖には、握った跡が黒く残っている。


 居間は広いが、普段使う物は窓際の一角へ集まっていた。一脚の椅子のそばに本と暦があり、使っていない椅子は壁へ寄せられている。奥では書斎の扉が半分開き、机の脚と、右下にある深い引き出しが見えた。引き出しには小さな鍵穴がある。


 窓際の男が、膝掛けを外して立ち上がった。


 ヴィルヘルム・ハーゲンは六十八歳。背が高く痩せており、立てば今も人を見下ろす高さがある。だが、客用の椅子まで歩く足幅は小さかった。後ろへ撫でつけた鉄灰色の髪は、左側だけ白い。高い襟の室内着は暗い葡萄色で、細い首を隠していた。


「座ったままで失礼する。エマ・ノールトだね」


 ハーゲンの右手は、椅子の肘掛けに置いても細かく震えていた。爪の縁に赤いものが付いている。


 グレーテが茶の道具へ手を伸ばすと、ハーゲンが言った。


「客の分だけでいい。娘さんの家へ帰る時刻を遅らせるな」


「私の仕事の順番は、私が決めます」


 グレーテは四つの杯を出した。ハーゲンは口を結び、少しして言い直した。


「それは命令ではない」


「この人は、命令でないものまで命令文にするんです」


 グレーテはそれだけ言うと、湯を注ぎ始めた。


 カルドは依頼の範囲を説明し、帳面へ記録する許可を求めた。ハーゲンは契約書の控えを読み、エマが正式な依頼人だと確かめてから頷いた。


 カルドは中央記録院で写した公開索引を卓へ置いた。


「この受理署名と、八年封印を決めた署名は、あなたのものか」


「どちらも私のものだ。決定も私が下した」


「なぜ、ヘルマンの告発を閉じた」


 ハーゲンはすぐには答えず、公開索引の二つの欄を指で分けた。


「封印できた法の上の理由を聞いているのか。それとも、資料を直させず、最も長い八年を選んだ理由を聞いているのか」


「両方だ。分けて答えてくれ」


 ハーゲンは背を椅子へ預けた。


「告発に添えられた記録の写しには、扱った者の記録が途切れている物があった。誰が作り、誰が原本を保管し、誰がヘルマンへ渡したのか。その順番を最後まで追えない物だ。関係のない第三者の情報も含まれていた」


 そのまま公開の審理へ進めれば、証拠として使えるか、秘密を守れているか、どちらにも異議が出る。だから当時の決まりでは、内容を確かめる間、封印することができたという。


「不備そのものは、作った話ではないんだな」


「違う。どの写しに何が欠けていたかは、封印された本文に関わる。今ここでは答えられない」


 カルドは、不備があったことと、その中身は未確認であることを別々に書いた。


「提出したヘルマンへ、足りない記録を求めることはできたはずだ。問題のある写しだけ外すか、短く保留することもできた」


「できた」


「それでも、八年を選んだ」


 ハーゲンの目が、卓の横にある暦へ動いた。今の月から四か月先まで、小さな線が引かれている。


「八年を選ぶ必要はなかった」


 長く整っていた声が、その一文だけ低くなった。


「火災の後に出された多くの決定には、裁定部の確認と署名も重なっていた。告発を正式に扱えば、危機対応をした部署だけでは済まない。裁定部の判断と、部下を監督した私の責任も調べ直される」


「それを避けたのか」


「当時は、補償と裁定を止めないことが市民のためだと考えた。大きな火災の直後に、役所の判断まで崩せば、誰も制度を信じなくなるとな」


 ハーゲンは震える右手を左手で押さえた。


「同時に、私は自分の地位を失うのが怖かった。二つをまとめて、制度を守るためだと言った。便利な言葉だったよ」


「誰かに命じられたのか」


「いいや。封印は私の権限で、私が決めた。他人の命令ではない」


 ハーゲンは公開索引をエマの方へ戻した。


「違法ではなかった。その言葉を、私は八年も逃げ道に使った。違法でないことと、正しかったことは同じではない」


 エマは索引を見たまま訊いた。


「父の告発は、そんな方法でしか出せないほど、粗末だったんですか」


「粗末なら、不備を直して出し直せと返せた。君の父親は、別々に保管された記録の食い違いを、一つの手続きの問題として持ち込んだ。結論を先に決めず、不足は不足のまま書く人だった」


 誉めるために飾った言葉ではなかった。何ができる調査官だったかを、元副長として答えていた。


 エマの指が、膝の上で組まれた。父を認める言葉を聞いても、礼は言わなかった。


 カルドは添付目録の写しを開き、「個人宛私信 一通」とある行を示した。


「この手紙は誰宛てだった」


「私だ。ヴィルヘルム・ハーゲン個人へ宛てられていた」


「告発と同じ包みに入っていたのか」


「同じ包みだった。受け取った以上、目録から消すわけにはいかない。それで一通と記した」


 だがハーゲンは、その手紙を告発本文や証拠の写しとは別に扱った。正式な主張書でも、出所を確かめた証拠でもないというのが理由だった。


「その手紙は今、どこにある」


「答えない」


「告発の封印箱へ戻したのか」


「それにも答えない」


「捨てたか、誰かへ渡したか、今も持っているか」


「内容と、今どこにあるかは話さない。私信を証拠として扱わなかった。それが私の答えだ」


 カルドは問いごとに行を分けた。一通は存在した。宛先はハーゲン。告発とは別の扱い。内容、現在の場所、今も残っているかは不明。


「目録へ残したのは、手紙がなくなっても、受け取った事実だけは追えるようにするためか」


「受け取った物を、受け取らなかったことにはできない」


 エマが顔を上げた。


「父が何を書いたかを、八年間、あなただけが知る状態にしたんですか」


 ハーゲンはまた暦を見た。


「内容には答えない。だが、誰にも確認させなかった責任は私にある」


 そこで息が続かなくなった。ハーゲンは浅く咳き込み、胸元を押さえる。


 グレーテは返事を待たず、細い瓶と水差し、小さな木板を持ってきた。


「話は止めます。白柳滴の時間です」


 白柳滴は、心臓や肺の苦しさをやわらげる薬だった。瓶から落ちる液は、前掛けの染みと同じ薄茶色をしている。


 ハーゲンは水へ薬を落とした。瓶には古い量の線が残っていたが、今はそれより少ないところで止める。


「今の決まった量ですね。ご自分で勝手に減らした分ではありませんね」


「分かっている」


 グレーテは杯の量を確かめ、木板へ印をつけた。そこには薬を飲んだ時刻と、翌日の予定が並んでいる。


「明日の夜にも予定があるのか」


 カルドが訊くと、グレーテは板を隠さず答えた。


「裁定を扱う役所から通知が届きます。封印の期限が近いので、今の住所と本人であることを確かめる知らせです。受け取るには、ご本人の署名と封蝋が要ります」


「夜九時半から九時四十分の便だ」


 ハーゲンは右手を開いた。爪に残る赤は、その封蝋を押す練習で付いたものだった。震える手でも受領の印を押せるよう、今日も試したという。


 薬を片づけたグレーテは、書斎の方を見た。


「今日は机の表面まで拭いてよろしいですね」


「構わない」


「右下の引き出しは、いつも通り触りません。私は鍵を預かっていませんから」


 カルドは半分開いた扉の向こうを見た。居間からは鍵穴が見えるだけで、中は見えない。


「書斎へ入らない日もあるのか」


「年に一度、十一月十八日の午前だけは、書斎へ入らないよう言われます」


 グレーテはハーゲンの顔色を確かめてから続けた。


「その日の午後、机の周りに赤い封蝋の細片が落ちていることがあります。私が見たのは細片だけです。何を開けたのかは見ていません」


「十一月十八日は、灰橋火災の日だ」


「私用だ」


 ハーゲンはそれ以上を答えなかった。カルドは、引き出しの場所、グレーテが鍵を持たないこと、彼女が見た物を別々に記録した。引き出しに手紙があるとは書かなかった。


 薬が効くのを待ってから、カルドは最後の確認へ移った。


「封印の期限が来ても、自動では公開されない。今の担当者がもう一度理由を調べる。分かっているな」


「承知している。あと四か月、体を持たせたい。公開を私が決めるためではない。再審査が始まるところを見届けたい」


「今でも、封印した理由の説明を足せる。解除した方がいいという意見も出せる。私信も、自分の意思で提出できる」


「どれも可能だ」


「だが、今するとは言わない」


 ハーゲンは否定しなかった。四か月を待てば、役所が改めて判断する。その時まで生きることを望みながら、自分から決める責任は先へ送っていた。


「あなたには四か月でも、父の言葉には八年です」


 エマの声は大きくなかった。


 ハーゲンは暦へ手を伸ばした。四か月先まで引かれた線を指で消そうとして、途中で止める。


「その数え方が正しい」


 帰り際、ハーゲンは杖を使って玄関まで出た。エマの目元を見てから、すぐ視線を外す。


「目元が父親に似ている。私はあの人へ、訂正できる機会を返さなかった」


 謝って許しを求める言い方ではなかった。自分がしたことを、別の言葉へ逃がさず置いただけだった。


 カルドは、四七番の記録と検案作業紙五番を別の役所へ照会中だとは伝えなかった。必要なら、もう一度話を聞くとだけ告げた。ハーゲンも何を調べているか探ろうとはしなかった。


 門を出ると、坂の下に運河と紙職人街の屋根が見えた。カルドは帳面を開き、確認したことを声に出して分ける。


「封印できる理由はあった。八年を選ぶ必要はなかった。命令ではなく、ハーゲン自身の判断だ。私信はハーゲン宛てで、告発とは別に扱われた」


「内容と、今どこにあるかは分からない」


 エマが続きを言った。


「そうだ。次は、手紙を自分から出すよう正式に求める。封印を早く見直せないか、今の担当にも相談する。火災と父親の死を結ぶのは、四七番と五番の返事を見てからだ」


 坂へ足を向ける前に、エマが訊いた。


「明日も、ここへ来ますか」


「来ない。先に書面を出す」


 カルドは坂を下り始めた。


 足音が一つ足りないと気づいて振り返ると、エマはまだ門の外にいた。邸の煙突と、書斎がある側の窓を見上げている。


「エマ」


 呼ばれて、ようやく彼女は邸へ背を向けた。


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