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第4話 欠けた番号

 災害補償院を出た時、正午の鐘はまだ鳴っていた。


 カルドとエマは役所通りを北へ進んだ。紙職人街の糊や革の匂いが薄れ、濡れた石の匂いに変わる。運河から雲が流れてきて、細い雨が落ち始めた。


 エマは鞄を外套の内側へ入れた。中には、補償院で受け取った三つの移管番号がある。別の役所から中央記録院へ運ばれた書類を探すための番号だ。


「今日のうちに、三つとも見ますか」


「見られる範囲はな。十四日の前半は、記録と証言を集めるために使う。番号だけ持ち帰っても、集めたことにはならない」


 中央記録院は、役所の古い記録を集め、守る建物だ。扉の脇には雨具棚があり、床には靴の水を吸う砂が敷かれていた。


 二人は、ほかの役所から移された書類を申し込む受付へ向かった。三つの番号を出すと、閲覧係は補償院からの知らせが届いているか、一枚ずつ確かめた。


「灰橋関係の箱は、六日後に奥の保存庫へ移します。移動前の資料ですので、今日は担当主任が立ち会います」


 受付の奥には木箱が床から離して並んでいた。箱ごとに温度と湿度の札が付く。客が勝手に棚へ入り、箱を開けることはできない。


 やがて、背の高い男が箱を載せた台車を押してきた。細い身体は肩から前へ傾き、青灰色の上着は左右の袖口だけ色が違う。茶髪を革紐で束ね、首から骨製のページナイフを下げていた。


「移された記録を整理して保存庫へ送る仕事をしています。マルテン・ロークです」


 名乗った直後、マルテンはカルドの手元を見た。


「その指で、箱の中身を書いた目録へ触らないでください。まだ雨が残っています」


 挨拶より紙が先だった。カルドが渡された布で指を拭く。マルテンも自分の指を拭いてから、最初の箱を台へ置いた。


 箱に付いた目録カードは、右下の角が裂けていた。ほかの記録へつながる番号も、末尾の二文字が紙ごとない。


 これでは、補償院で見つけた「旧裁定部関連案件一件」が、どの一覧に載っているのか確かめられない。


「直せますか」


 エマが訊くと、マルテンは椅子にも座らず、窓から入る光の向きを見た。


「元の字を想像で足すのは、直したことになりません。残っている物から絞ります」


 ページナイフで破れた角を少しだけ持ち上げる。書類を受け取った時の印が、裏まで薄く染みていた。マルテンはその丸みを写し、隣の番号、箱蓋の文字と順に合わせた。


「印で候補が二つに減ります。隣の番号で一つに絞れる。でも、箱蓋の文字まで合わなければ、元の番号とは言えません」


 エマは作業台の反対側へ回り、マルテンと同じ角度から紙を見た。


「三つとも合っています」


「ええ。悪い、もう少しだけ持ち上げるぞ」


 最後の言葉は、傷んだカードへ向けられていた。マルテンは周りの声を忘れたように手を動かし、戻した二文字を記す。番号は、補償院で受け取った三つ目と一致した。


 だが、箱の封を解こうとした指が、綴じ紐の結び目で止まった。


 同じ年代の箱は紐まで煤けている。だが、灰橋の箱だけ色が薄く、毛羽立ちも少ない。新しく見えても、いつ、なぜ交換したかは決められない。


 マルテンは結び目の上へ、箱を運ぶ日を書いた札を重ねた。壁の予定表では、この一組は六日後に保存庫へ入る。


「箱の状態は」


 カルドが訊くと、マルテンは予定表を見たまま答えた。


「記録では、ここへ運ばれた時の点検は済んでいます。それを受入検査と呼びます。先月二十六日に受け入れ、今は二区の四段目です。点検した職員の印もあります」


「記録の話は分かった。今、現物を見てどう思った」


 マルテンは綴じ紐へ目を戻した。


「開封に立ち会います。先に閲覧者欄へ署名してください」


 現物については答えなかった。カルドは、紐が同年代の箱より新しく見える、とだけ書いた。時期も理由も、触れた者も分からないままにした。


 箱が開くと、乾いた紙と古い煤の匂いが立った。


 閲覧係が、火事の流れをまとめた事故調査総合記録を開いた。カルドは帳面を、時刻、逃げ道、結果の三列に分ける。


 エマは灰橋地区の地図を上下逆に置き、時刻表の番号と地図の印を合わせていった。


 二十時五十七分、灰橋倉庫群の南三号棟から出火した。


 旧関税地下道は、この時点では閉じられていた。地下道は倉庫街から北側の冬季穀物庫へ抜ける。煙と火を、町の冬の食料を蓄える倉庫へ通さないための閉鎖だった。


 二十一時十五分、災害対応をまとめる本部は、灰橋と河岸回廊を逃げ道に決めた。エマの指が、地図の倉庫街から川沿いの細い回廊へ動く。


 その十六分後、二十一時三十一分。人が集中した河岸回廊が重みに耐えられず崩落した。


 死亡者名簿には十九人の名があった。全員の死因が、回廊の崩落となっている。火そのものによる死者はいなかった。


 エマは十九人の名を指で追い、最後まで数えた。補償院で写した「死亡十九人」の横へ、河岸回廊崩落、と書き足す。


「地下道が開いていたら、ここへ集まらなかった人もいますよね」


「いたかもしれない。ただし、最初に閉じた時は穀物庫を守る理由があった」


 カルドは二十一時十五分と三十一分の間へ線を引いた。


「結果を知った今なら、いくらでも別の判断を選べる。調べるのは、この十六分の間に状況が変わり、それを知らせる記録が届いていたかどうかだ」


 次に、本部へ届いた知らせを時刻順に書く「受信簿」を開いた。


 その十六分間だけ、受付番号が一つ飛んでいる。前後の紙に破り跡はない。番号の一覧には欠番が残り、保管先の欄には、別の部署にも写しがあることを示す印があった。


「書き間違えて、番号だけ飛ばした可能性はありますか」


 エマの問いに、マルテンは前後の欄を指した。


「前後で、届いた時刻も職員の印も続いています。書き間違いと決める前に、別の部署の写しを探すべきです。この印は、送った側にも同じ内容を残した時に使います」


 何の知らせだったかは、ここでは分からない。それでも、別の場所に控えが残る可能性には根拠があった。


「この箱を最初から調べ直さないのか」


「まず、印が示す部署へ写しを出すよう頼みます。欠番が一つあるだけでは、同じ組の箱をすべて止められません」


 マルテンは帳面の背を片手で支え、写しを頼む番号を書いた。欠けを見つける手は速かったが、壁の予定表の日付には触れなかった。


 閲覧係が次に運んできたのは、旧裁定部で使われた元のカードだった。旧裁定部は、役所の決定への不服や、職員への告発を扱った部署だ。今はなく、見せてもよい情報だけがここに残る。


 マルテンが直した番号と、カードの番号は一致した。閲覧係は、いつ誰が封印を決めたかを書く紙を重ね、見せられる表側だけを開いた。


 提出者はヘルマン・ノールト。


 件名は「灰橋火災における避難経路指定手続きについて」。告発を受け取った当時の裁定部副長は、ヴィルヘルム・ハーゲンだった。


 処理結果の欄には、長期封印とある。封印を決定した欄にも、ハーゲンの署名があった。


「この人の名前は知っています」


 エマは原カードを見たまま言った。


「火災後の責任を調べた副長です。父の補償審査にも名前がありました。でも、父の告発を受け取った人と、封印した人が同じだとは知りませんでした」


「本文は読めますか」


 続けて訊くと、閲覧係は首を横に振った。


「本文は封印箱の中です」


 閲覧係は、表に出ている欄を指でなぞった。


「当時は、関係のない人の情報や、証拠を受け取った流れに問題が残る場合、副長の判断で長く閉じておけました。ただし、案件は消せません。件名、出した人、封印した人、期限は、誰でも見られる一覧へ残します」


 封印する期間は八年だった。封印を決めた紙の日付は、火災の約四か月後になっている。八年はその日から数えるため、期限まであと四か月だった。


「期限が来たら、本文も公開されるんですか」


「勝手に公開されません。今の裁定担当が封印した理由をもう一度調べます。解除するならその決定を、続けるなら新しい理由を記録しなければなりません」


 八年で自動的には開かないが、理由を示さず閉じ続けることもできない制度だった。


 告発と一緒に出された物の一覧には、本文と記録の写しに続いて、「個人宛私信 一通」とあった。分かるのは、手紙が一通あったことだけだ。宛先も内容も、今どこにあるかも分からない。


 別の受付用紙には、ヘルマンが死の十二日前、告発がどうなったかを尋ねた記録があった。返事は「受理済み。以後は裁定部判断」とだけ書かれている。封印まで本人へ伝えたかは分からなかった。


 エマは告発の日と父が死んだ日を書き写し、日数を指で数え直した。


「父は、結果を知らないまま死んだんでしょうか」


「今見えた紙から分かるのは、告発を出し、その後に封印されたことまでだ。ヘルマンが封印を知っていたかは、まだ分からない」


 カルドは、ハーゲンの二つの署名を別々に控えた。


「本人なら、なぜ封印したのか、添付された私信をどう扱ったのか説明できる」


 ヘルマンの補償審査には、ほかの書類のありかを示す紙が付いていた。そこから、さらに二つの記録が見つかった。


 一つ目は、死亡の九日前に出された申し込み用紙だった。ヘルマンは、当時の灰岸地区警備班長ダリス・フェルクが管理する記録を見せてほしいと求めている。書類の名は「保守札四七番 貸出・返却記録」だった。


 元の貸出簿は、ホルン旧昇開橋の保守資料にある。だが、四七番が何の札か、誰が借りたのか、今どこにあるのかは、この紙からは分からない。保守資料も、六日後に保存庫へ移る予定だった。


「ダリスの名は知っていたか」


「公開されている火災記録で見ました。警備をまとめていた人です」


 カルドは答えを記し、二つ目の帳面を開いた。


 こちらは、医療官ヘレナ・レントがヘルマンの遺体を調べた記録だった。遺体から死因や死ぬ前の様子を調べることを、検案という。


 作業に使う紙には、この帳面で一枚ずつ番号を付けていた。一番から六番まで続いている。


 しかし、正式な検案結果に付いた一覧には、一番、二番、三番、四番、六番しかない。五番だけ、保管先が空白だった。


 紙を管理する帳面には、五番を作った日付と職員の印がある。最初からなかった紙ではない。保管先には取り消し線も直した印もなかった。いつ束から外れたのかは分からず、医療記録なので中身も読めなかった。


「ヘレナ・レントも知っていたな」


「父を検案した人です。補償書類に名前がありました」


 カルドは、手紙、四七番、五番に関する三枚を、机の上で離して置いた。


「三人の名を知っていたことは分かった。私信、四七番、五番が、父親の死の前後に並ぶことも知っていたか」


 エマは三枚を順に見た。父の名がある日付を一枚の紙へ写し、首を横に振った。


「それは今日、初めて知りました。別々の書類に名前があるところまでです」


「三人について、以前どこまで調べたかは答えていない」


「契約の時に言っていた、関係する行動を話す義務ですね」


「そうだ。まだ答えていないと記録する」


 エマは言い返さなかった。書き写した日付の紙は鞄へ入れず、手元に置いた。


 カルドは三人の名を同じ印で囲まなかった。ハーゲンは告発を受け取り、封印した。ダリスは警備記録と保守札を管理していた。ヘレナは検案を担当した。


 三人が別の立場で記録に現れたことは事実だ。しかし、同じことをした証拠にはならない。


「今あるのは、三つの入口だけだ。何が隠れているかも、誰の判断で欠けたかも分からない」


「分かっています」


 エマは答え、日付の横へ三人の役職を書き足した。名前だけを一つにまとめることはしなかった。


 閲覧が終わると、マルテンは紙を元の順へ戻し、箱の一覧と合わせた。


 手紙は一覧に名があるだけで、今の場所は不明だ。四七番の貸出簿は別の資料にあり、五番は作られた記録しかない。どれも、この箱で実物を見つけたわけではなかった。


「新しい綴じ紐と、受信簿の欠番がある。箱全体を調べ直せないか」


 カルドが訊くと、マルテンの手が止まった。


「もう一度、最初から点検するなら、同じ組の箱を全部止めます。再開は早くても七日後です。保存庫へ移すのは六日後なので、箱はその間、この仮置きの部屋に残ります」


「止める権限はあるのか」


「あります。私が理由を書き、私の名で作業を止めます」


 マルテンはそこまで答えたあと、箱の角へ浮いた紙を指でそっと戻した。


「紙を守るために、温度の安定した保存庫へ予定どおり送るのも私の仕事です。欠番には別部署の控えを探す手が残っています。紐だけでは、全体を七日止める理由に足りません」


 紙を傷ませたくないから、箱を止めない。その判断には筋がある。同時に、自分の名で遅れを残さずに済む判断でもあった。


 カルドは、綴じ紐について書いた一文を消さなかった。マルテンも直せとは言わず、同意もせず、閲覧に立ち会った印を押した。


 箱を台車へ戻す直前、彼の目がもう一度だけ新しい結び目へ落ちた。それでも留め具を外すことはなく、台車を受付の奥へ押していった。


 四七番の貸出簿と検案の五番については、元の書類を持つ部署へ申し込みを出した。返事を待つ間にも、確かめられることはある。


「封印した理由を、今すぐ説明できる人はいますか」


 エマが閲覧係へ訊いた。


 閲覧係は、公開されている一覧の署名欄を指した。それから退職者の連絡先を調べる。ヴィルヘルム・ハーゲンは、市の西側にある丘の家で暮らしているという。


 カルドは住所を帳面へ写し、閉館時刻と明日の訪問予定を並べて書いた。


「今日はここまでだ。明日の朝、ハーゲンに会う」


 窓の外では、細かった雨が運河の水面を白くするほど強くなっていた。八年前、ヘルマンの告発を閉じた本人に、なぜ封印を選んだのかを直接確かめることになった。


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