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第3話 見せるための制度

 紙職人街を出て運河を一本渡ると、糊と湿った紙の匂いが薄れ、石造りの役所が並ぶ通りへ入った。災害補償院は、火事や水害で被害を受けた人へ補償金を支払う役所だ。二人が着いた時、午前の鐘はすでに二度鳴っていた。


 エマの鞄には、三人の署名をそろえた支払い票が入っている。カルドの外套には契約書の控えがあり、十四日のうち、記録と関係者の話を集める前半七日はもう始まっていた。


 建物は、役所の記録をまとめて保管する中央記録院より小さい。それでも待合には長椅子が八脚あり、六脚まで人が座っていた。杖を膝へ立てた男、腕を布で吊った若者、眠る子を抱いた母親が、同じ形の番号札を持っている。


 壁には三枚の案内があった。一枚目は申請に必要な紙。二枚目は審査にかかる日数と、確認できた分だけ先に払う仕組み。最後の一枚には、災害の記録を見る手順が書かれている。


 エマは迷わず番号札を一枚取り、カルドへ番号を見せた。顔を知っている受付職員には、会釈だけをする。


 長椅子の端が空いたが、エマは壁際に立った。杖の男が立ちやすいよう、通路側を空けている。


 窓口では、年配の女性が紙を押さえていた。右手の中指が薄い板で固定され、束を持ち直すたび顔がこわばる。


「修繕を頼んだ証明が、一枚足りないそうです。また最初から並ぶんでしょうか」


 受付職員は手引きを開き、女性の申請番号を確かめた。そこへ、院長室から出てきた男が足を止める。


 院長のアーベル・サルガンだった。四十九歳で、小柄な体を少し丸めている。短く刈った髪には白いものが混じり、砂色の上着を着ていた。


「足りないのは、屋根の修繕分だけですか」


「はい。生活費の紙はそろっています」


 アーベルは申請書の裏を受付職員へ向けた。


「受付日は今日のまま残せます。そろっている生活費の分は先に支払いへ回してください。屋根の分は、証明が届いてから同じ番号で審査できます」


 職員は手引きの同じ箇所を見つけ、頷いた。申請を二つに分け、両方へ同じ受付番号を写す。生活費の方へ今日の日付の印を押した。


「番号はそのまま使えます。二番窓口で、先に生活費を受け取れます」


 女性はアーベルへ頭を下げた。


「ありがとうございます。屋根の分は待てます。でも、今週の食費は――」


「二番窓口へこの札を出してください。支払い時刻も、そちらで分かります」


 アーベルは礼を最後まで待たず、行く窓口をもう一度指した。順番を早めたのではない。止めなくてよい金を、決められた手順で先に渡しただけだった。


 ほどなく二番窓口に同じ番号が出た。女性は折れていない方の手で札を持ち、何度も表示を確かめながら席を立った。


 エマはその様子を珍しがらなかった。番号が呼ばれる前に、支払い票と契約書を鞄から出している。


 女性が二番窓口へ向かうと、エマの持つ札が表示板に出た。


「エマさん。今日は年ごとの残高確認ではないんですね」


 受付職員は彼女を知っていた。それでも本人確認の紙を受け取り、台帳の名と一字ずつ照らした。


「父の調査を頼みました。この支払いを登録したいです」


 三人が署名した支払い票が窓口へ置かれた。


 職員はエマの署名、ヨハンとリイサの登録、受取人の名、金額、何に使うかを順に見る。調査の料金と、記録の取り寄せなどに使う金が、別々に書かれていることも確かめた。


「受取人の署名をお願いします」


 カルドは受取記録へ署名した。職員が登録印を押し、この支払いを帳簿から探すための番号を示す。カルドはその番号を、自分の契約書へ写した。


 エマには、予約した支払いを引いたあとに使える残高を記した紙が渡された。まだ送金前だが、予約した分はもう自由には使えない。工房で読んだ通り、元の額のおよそ三割が残っている。


 彼女は初めの桁から最後まで読み、紙を契約書へ重ねた。


「まだ送金前だな。取り消す場合はどうなる」


「送金前なら、支払い票へ署名した三人の取消署名が要ります。送金した後は、契約で決めた返金として同じ口座へ戻してください」


 エマは頷き、取消用の紙は求めなかった。


 次にカルドは、前半七日で集める資料のうち、ヘルマンの死亡補償をどう審査したか、その記録を見たいと申し出た。灰橋火災に関する記録の場所も尋ねる。


 契約書と、エマが調査を任せたと分かる署名、補償金が彼女のものだと示す管理証を出すと、職員は三枚重ねの申請票を持ってきた。


「一枚目は受付に残します。二枚目は、お二人の控えです。三枚目は閲覧通知です。誰がどの記録を求めたか、今の保管先か、以前持っていた部署へ知らせます」


「通知先が二つある場合は」


「受付で三枚目を一部写します。原票と写しを、それぞれの部署へ回します」


 誰でも見られる資料だけなら、通知は出ない。だが、死亡補償の詳しい記録や、別の役所へ移した閲覧に条件のある資料では、誰が何を求めたかを残す。


「その手順で頼む」


 職員は知人のエマにも手順を省かなかった。通知先には、別の役所から来た記録を扱う中央記録院の移管資料係と、災害補償院長室を書く。三枚目を一部写し、原票は中央記録院行きの籠へ、写しは院長室行きの籠へ入れた。


 支払い登録と閲覧申請が済み、二人が窓口を離れた時だった。


「今年の残高確認には早いと思ったが、ずいぶん動かしたね」


 背後から、アーベルが声をかけた。


「アーベルさん。こちらがカルドさんです。父のことを調べてもらいます」


 慣れた相手へ話す声だったが、父と言う前に一度息を入れた。


「アーベル・サルガンです」


 差し出された手には、筆記具が当たる場所のたこがあった。その下にも、古く固くなった部分がある。カルドは握手を返した。


 院長室には書棚が二つと、来客用の椅子が三脚あった。机には処理を待つ書類籠が三つ並び、窓際の小さな台に湯差しと砂糖壺が置かれている。


 アーベルは受付から届いた支払い票と閲覧通知を受け取った。束を机の縁へ二度当て、角を揃えてから一番上の紙を読む。


「ヘルマンの死亡原因と、灰橋との関係まで調べるのか」


「はい。依頼したのは私です」


 エマが先に答えた。アーベルは彼女の署名、十四日の期間、費用の上限を確かめた。


 父を亡くしてから八年、エマは毎年この部屋で補償口座の残高を確かめてきた。


「茶を出そう。エマ、砂糖は二つだったね」


「今日は一つで」


「そうか」


 アーベルは一つだけ杯へ落とした。エマは両手で杯を受け取り、すぐに砂糖を混ぜ始めた。


 カルドが硬貨を一枚出すと、アーベルは机の脇から、院の決まりをまとめた薄い冊子を取った。


「申請者と代理人への茶は、院の費用に入っている。ここだ」


 カルドは示された行を読み、硬貨をしまった。


「補償金の大半を調査へ使うと、先ほどの票で分かった。工房の仕事と住まいは、この先も続くのか」


「続きます。給金もあります」


「残る額も見た?」


「自分で計算しました」


 アーベルはリイサとヨハンの署名をもう一度見た。


「調査に使わなくても、父親を裏切ることにはならない。服や道具に使ってもいい金だ」


「分かっています。でも、私にはこの調査が必要です」


 エマは杯を置き、アーベルをまっすぐ見た。


「三人で残る額を確かめ、上限も決めている。なら、私が止めることではないな。必要な記録の探し方は説明する」


 アーベルはそれ以上、金の使い方を説かなかった。


「父とは、長かったんですよね」


「十六年、同じ現場へ出た。私は確認できた分を早く補償したかった。ヘルマンは原因を固める前に処理を進めるなと言った。よく言い争ったよ」


「承認待ちの書類の上に図面を広げた話も、その頃ですか」


「そうだ。片づけてくれと言ったら、先に図面を見ろと言われた」


「二時間、動かなかったんですよね」


「私の仕事も二時間止まった」


 エマは、聞き慣れた話に少しだけ笑った。


「やり方は合わなかった。それでも、被害を受けた人を置いたままにしたくないのは同じだった。私が支払いを急ぎ、あいつが原因を追った」


 アーベルはヘルマンを「あいつ」と呼び、冷めかけた茶へ口をつけた。困らされた話をする時の方が、声はやわらかかった。


 三人の杯が半分ほど空くと、アーベルは席を立った。書棚から、誰でも見られる灰橋火災の被害一覧を持ってくる。表の上段に、被害の数が一度ずつ並んでいた。


 被害は、死亡十九人、負傷四十一人、焼失や倒壊で補償の対象となった建物三十七件だった。


 エマは杯から手を離し、十九の数字を見た。


「この十九は、死亡の申請件数か」


 カルドが読み上げると、アーベルが首を振った。


「亡くなった人が十九人だ。支払いを受けた遺族の世帯や申請の数は、それとは別になる」


 カルドは帳面の見出しを直した。


「この院にある記録は、どこまでだ」


「被害の申請、本人や建物の確認、審査、支払いまでだ。発火原因や、当夜に人をどの道へ流したかという記録は、ここにはない」


 同じ火災の記録は、三つの系統に分かれていた。


 補償院には、誰がどんな被害を受け、何を支払ったかという記録がある。事故調査と危機対応の記録は中央記録院へ移され、発火調査、当夜の経路、現場からの報告が入っている。


 もう一つは、旧裁定部の公開索引だった。旧裁定部は、告発や役所の決定への異議を扱っていた部署だ。公開索引を使えば案件の有無は探せるが、中身を見るには別の条件がある。


「一冊を見れば済む話ではないんですね」


 エマが三つの欄を目で追った。


「火災の直後は、遺族が誰の判断をどこで見ればいいのか分からなかった。書類があっても、見る手順がなかったんだ」


「今のように、記録を見せる仕組みは、あなたが作ったのか」


「私一人ではない。私を含む八人で、一年かけて作った」


 アーベルは、壁の案内と同じ三つの区分を紙へ書いた。誰でも見られる資料、被害を受けた本人や遺族が見られる資料、代理人が正式に頼む資料だ。


「見せれば済むわけでもない。別の家の診療や暮らしまで開けば、その人をまた困らせる。見せる範囲と、伏せる範囲を決めた」


 カルドは、第三者の生活に関する部分を求めないと申請票へ書き足した。


「公開集計とヘルマンの審査、それに、移された記録の番号だけでいい」


「その範囲なら受けられる」


 カルドは三つの記録の行き先を帳面へ写し、先ほど出た図面の話へ戻った。


「ヘルマンがここへ持ってきた図面は、何の図面だった」


「河岸の建物か、周りの設備を描いた物だったと思う」


 アーベルは記憶だけで図面を決めつけず、そこで言葉を止めた。


「私は配置なら読める。どこに何があり、人をどう流すかは分かる。だが、梁や固定部、古い扉や橋をつなぐ設備の仕組みまでは分からない」


「当時の担当は」


「当時は、この町の役所を束ねる自由市同盟の都市危機管理室にいた。災害対応を決める部署だ。担当は経路統制で、火事の時、人をどの道へ流すか決めた。被害後は先に払う補償の手続きもまとめたが、設備を動かす技師ではない」


 カルドは今日の日付を書いた。その下へ、当時の所属と担当、配置と人の流れは分かること、固定部と設備の仕組みは分からないという説明を、そのまま残す。


「そこまで書くのは、アーベルさんを疑っているからですか」


 エマの問いは、少し早かった。


「責めていない。あとで図面や記録と合わせるために、分かる範囲を聞いた」


「アーベルさんは、父と十六年働いていました。父が説明もせず図面を置いていくことも知っています」


「だから、本人が今日答えた範囲を残した」


 エマは納得しきらない顔で茶へ口をつけた。アーベルは二人の間へ入らず、中央記録院へ出す用紙を開く。


「ヘルマンが火災で何を疑ったか、結論まで聞いたか」


「そこまでは聞いていない。ただ、制度ができる前の記録も見られるようにしろとは、何度も言われた」


 アーベルは書棚から番号表を取り出し、どの欄へ火災名と年を書くかを示した。自分の名で話を通すとは言わない。カルドたちにも、ほかの申請者と同じ用紙を使わせた。


 院長室での確認を終え、二人は受付へ戻った。閲覧申請の控えは、すでに用意されていた。


 通知先には、中央記録院移管資料係と災害補償院長室が並んでいる。別の役所へ移した記録を探すための移管番号が三つあり、それぞれに記録の名が付いていた。


 一つ目の先には「灰橋倉庫群火災・事故調査総合記録」がある。二つ目は「灰橋地区・危機対応本部記録」へ、三つ目は「灰橋関連・旧裁定部公開索引」へつながっていた。


 カルドは番号と記録名を契約書の控えへ写した。


 院を出る頃、正午の鐘が鳴り始めた。待合の席は着いた時より埋まっていたが、年配の女性がいた場所は空き、二番窓口では次の番号が呼ばれている。


「アーベルさんは、父のことで嘘をつく人じゃありません」


 石段を下りながら、エマが言った。


「嘘だとは言っていない」


「でも、まだ信じていませんよね」


「今日あの人が女性を助けたことは、確認できた。八年前のことは、残った記録で確かめる」


 エマは返事をせず、一段先へ下りた。


 石段の下で、カルドが控えを開く。三つ目の移管番号の横だけ、件名の代わりに「旧裁定部関連案件、一件」と記されていた。


 提出者も処理結果も、補償院の控えにはなかった。カルドはその一行に印をつけた。誰が提出し、どう処理されたのかを確かめるため、二人は中央記録院へ向かった。


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