第2話 父の金
翌朝、宿の一階へ下りると、エマが受付の脇に立っていた。栗色の髪はもう仕事用に束ねられ、前掛けの紐も結んである。カルドを見つけると、小さく手を上げた。
「昨日お話しした、父が遺した図面と書き付けを、今から見てもらえますか」
「見る。依頼を受けるかは、そのあとだ」
「はい。資料を見てから決めてください。ヨハンとリイサには、今日カルドさんに資料を見てもらうと伝えました」
エマは先に戸を出た。朝の紙職人街では、乾燥棚から下ろした紙が次々と運ばれていた。白い束を抱えた人を避けながら、昨日より少しだけ歩幅を落としてカルドを案内する。
工房へ入ると、ヨナスが高窓の下にいた。昨日と同じ踏み台へ乗り、紙を光に透かしている。紐の近くへ影を見つけるたび、手を止めてヨハンを呼んでいた。
カルドとエマは作業場を抜け、奥の帳場へ入った。朝食を終えた四人掛けの卓には、塗りの剥げた木箱、家計帳、数枚の書類、ヨハンの印章が並んでいる。
リイサは残っていた皿を重ね、卓の端を布で拭いた。薄い壁の向こうでは、裁断台の刃が一定の間を置いて鳴っていた。
「先に区切る。今日は木箱の資料を確認する。受けるとは、まだ決めていない」
エマは木箱の留め金に触れたまま頷いた。
「では、先に値段を聞いてもいいですか」
「何をどこまで調べるかで変わる。今は出せない」
向かいに座ったヨハンが、印章を手元へ寄せた。まだ押すつもりはないらしい。
「費用の額と、補償金を使う手続きは、俺とリイサも確認する。俺たちはエマの後見人だ。ただ、頼む内容は本人から聞いてくれ」
そこで口を閉じ、エマが自分で話すのを待った。
「まず、補償金の口座と支払いの手続きを確かめる」
エマが箱を開け、一番上の書類を出した。それは、父が公務中に死んだあと、エマ名義で作られた補償金口座の管理証だった。表紙には、正式名の「補償金信託管理証」とある。
八年前の日付の下に、ヨハンとリイサの印が毎年一つずつ増えている。
「父が死んだ時に出たお金です」
リイサは家計帳を閉じ、管理証の一行を指した。
「この口座では、十六歳を過ぎれば、何に使うかは本人が決められる。ただし、生活費として決められた額を超える時は、本人と登録された後見人二人の署名が要るの」
次に出した紙には、受取人、金額、何に使うかを書く欄があった。正式には記名式支払指図票というが、リイサは支払い票と呼んだ。三人が署名して、補償金を扱う役所へ出せば、口座から受取人へ直接払われる。
「契約が成立したら、俺を受取人にしてこの票を出す。その役所で受理されれば、この口座から俺へ直接支払われる。そういう手続きか」
「そう。受取人はカルドさん、依頼人はエマだよ」リイサは支払い票をエマへ向けた。「私たちが署名するのは、この口座から大きな金額を出すため。調査の答えを決めるためじゃないよ」
カルドは管理証の日付と、別紙の残高を見比べた。八年間に使われた分も、残った分も、同じ口座の中で追える。
「この金を、父親の死の調査に使うのか」
「はい」
エマは残高の数字を初めから読み直した。読み終えると、箱の留め金を一度押す。
「父が死んだ時にできた金です。父のことに使いたいです」
ヨハンもリイサも答えを足さなかった。カルドは管理証をエマへ返し、木箱を見た。
「中を見せてくれ」
エマは箱の中身を一つずつ卓へ出した。
補償金に関する書類、二つ折りの覚え書き四枚、短くなった筆記具二本が並ぶ。最後に、何度も開いた跡のある大判図面が一枚出てきた。
覚え書きの紙は、四枚とも違っていた。厚い端紙、役所の書式を裏返した紙、罫線のない薄紙。書かれているのは数字と短い記号ばかりで、続けて読める文章ではない。
「これは、どこにあった」
「父の机の引き出しです。こっちの二枚は、上着を入れていた箱に」
カルドは答えを各紙の包みへ記した。どの紙が、どこから出たかを混ぜないためだ。
「父は、この町の役所をまとめる自由市同盟の事故調査部に勤めていました。父が死んだあと、勤め先が仕事の資料を回収したんです。返してほしいと頼んでも、公の仕事で作った記録なので、家族には渡せないと言われました」
「ここにあるのは、家に残った物だけか」
「私が持っている父の資料は、これで全部です」
ヨハンは何も言わず、図面を広げる場所を空けた。リイサは傷んだ折り目の下へ、柔らかい布を差し込む。
カルドは番号が正面に来る向きで図面を開いた。建物の外形に、細い水路と検査した場所が重ねてある。手で写した控えらしく、線の濃さにはむらがあった。
「ここが排水路です。縮尺は下。検査番号は右上にあります」
エマは向かい側に立ったまま、上下が逆の字を迷わず読んだ。
カルドが図面を半回転させると、彼女の目が一拍止まる。エマは首を傾け、自分から元の向きへ戻した。
「逆の方が読みやすいのか」
「父がいつも、自分の方へ向けて広げていたので」
エマの指が、図面を押さえる布の上を滑った。
「夕食の時もです。皿を端へ寄せて、卓の真ん中に図面を置くんです。私は向かい側だったから、ずっとこの向きで見ていました」
「家でも、そんなふうに仕事をしていたのか」
「皿より図面を優先するくらいには。誕生日も二回忘れました。二回目は、卓の焼き菓子を見て、誰のお祝いだって聞いたんです」
「それで、すぐ許したのか」
「次の日までは、まともに口をききませんでした」
エマは少し笑ったが、すぐ図面へ目を戻した。
「でも、仕事のことを訊けば、最後まで答えてくれました。線の意味を訊いた時も、九歳の私が分かったと言えるまで、冷めたスープを置いたまま説明してくれたんです」
「これは、父親が自分で写したのか」
「父が手で写した控えです。元の図面は仕事の資料だったと思います」
カルドは短い筆記具を持ち上げず、長さと削れ方だけを見る。図面の番号を写し、四枚の覚え書きに同じ記号がないか確かめた。今のところ、一致するものはない。
図面を朝の光へ斜めに向けると、裏に浅い筋が浮かんだ。表の線とは向きが合わない。
「そこに何かあるんですか」
「浅い跡がある。上に別の紙を置いて書いた時の押し跡か、しまっている間についた傷かは、まだ分からない」
「読めますか」
「今は読まない。位置と向きだけ残す」
カルドは別の紙へ、筋の場所を写した。強くなぞれば、この図面に新しい傷をつける。光の角度も書き添え、図面はすぐ卓へ戻した。
「これは借りない。次から図面や覚え書きを動かす時は、誰が持ち出し、誰へ返したかを記録に残せ」
「昨日の古文書と同じですね」
「あとで一枚足りないと分かっても、順番がなければ、いつ消えたか決められない」
エマは図面を受け取り、折り目の布をずらさないよう手元へ置いた。
「父が、なぜ死んだのか調べてください」
「『なぜ』に何を含めるか、先に決める」
カルドは新しい紙へ三本の線を引いた。
「まず、死因と、転落するまでに何をしたかを調べる。次に、灰橋の火事と関係があるか、死に関わった者と、その者が何をしたかを確かめる」
三つ目の欄には、報告書と書いた。
「最後に、分かった事実と根拠、分からなかったことを分けて渡す。三つとも要るか」
「要ります。父が落ちた理由だけではなく、灰橋を調べていたことと関係があるのか知りたいです」
「父親に不利なことも、お前に不利なことも書く」
エマは大判図面の端を、薄い布で包み直した。
「父が間違えたなら、それも知りたいです。立派な人だったと書いてほしいわけではありません」
カルドは調査の期間を十四日と書いた。
ヨハンが初めて契約の紙へ身を寄せ、その数字を指した。
「なぜ十四日だ。それで足りるのか」
「前半の七日で、残っている記録を集め、関係者に話を聞く。七日目に、確認できたことと、まだ足りない資料を報告する」
カルドは、十四日の真ん中に線を引いた。
「後半の七日で、記録と聞いた話の食い違いを確かめ、報告書にまとめる」
「役所の返事が間に合わなかったらどうする」
「七日目の報告で、延長が要る理由と追加の費用を出す。続けるかは三人に決めてもらい、もう一度書面で同意をもらう」
「延長しなくても、そこまでに分かったことは報告するんだな」
「報告する。望んだ結論にならないことを理由に、放り出しはしない」
ヨハンは十四日の文字を指でたどり、それ以上は聞かなかった。
カルドは金額の欄を二つに分けた。一つは調査そのものへの固定の料金。もう一つは、役所の記録を取り寄せたり、市内を移動したりした分だけ使う実費だ。
「使わなかった実費は、最後に口座へ戻す。端数が硬貨一枚でも返す」
リイサは家計帳を開き、支払う場合の残高を計算した。使える上限まで出せば、口座に残るのは今の三割ほどだった。
「住む所と食事は工房で出せる。でも、服と職人道具、それに病気で働けない時の備えは、この額から出すことになる」
リイサは死因だけを頼んだ場合の数字も、余白へ小さく書いた。
「ここまで範囲を狭めれば、もう少し残る。ただ、灰橋との関係と、関わった人までは調べられないよ」
エマは二つの数字を見比べた。指で一桁ずつ追い、もう一度、上限まで使った時の残額へ戻る。
「三つともお願いします」
リイサは説得を重ねず、計算に使った紙を残高票へ重ねた。
「事故だと分かれば、事故と書く。誰かを犯人にしてから証拠を集めることはしない」
「殺されたと分かったら、どうなりますか」
「根拠と一緒に書く。役所へ告発したり、争いを裁く場で弁護したりする仕事は、この依頼に入らない」
エマは報告書と書かれた欄を見た。
「その紙を読めば、ほかの人も確かめられますか」
「どの記録をどこで見たか、預かった紙のどこを見たかを分けて書く。俺の言葉だけを信じなくていい形にする」
カルドは、資料についての条件も加えた。借りた資料を変えず、借りた日と返した日を残す。エマには、関係する紙だけでなく、会った相手や自分の行動も話してもらう。
「犯罪や、誰かの命に差し迫った危険を見つけた時は、お前たちの許可を待たず、町の治安を預かる保安局へ知らせる」
エマが頷くと、カルドは次の行へ筆を移した。調査で知った名前や居場所を、脅しや人を傷つけるために使わず、証拠も壊さないと書く。
「分かった相手を、自分で罰するために使う気はあるか」
エマはすぐには答えなかった。木箱の留め金を押し、少し浮いた蓋を枠へ戻す。
「この契約で初めて知ったことを、私が自分で罰するためには使いません」
答えは、カルドが書いた範囲より狭かった。
カルドは、資料と行動を開示する一行を指で押さえた。
「契約を結ぶ前にしたことでも、調査に関係するなら話してもらう」
「父の資料なら、私が持っているものは全部出しました」
エマは資料のことだけを答えた。ヨハンの太い指が、印章の上で止まる。リイサも畳んでいた布から顔を上げた。
何かを避けたことは分かる。何を避けたのかまでは、三人とも分からない。
「昨日の古文書を見て、俺を選んだのか」
「はい。触った人と、原因を作った人を分けたからです」
カルドは返事を急がず、開示の範囲をもう一度書き直した。今は分からない行動まで、契約に書くことはできない。それでも、関係する行動を隠せば契約違反になる。
契約書は同じ内容で二通作った。依頼人の欄に入るのは、エマの名だけだ。ヨハンとリイサは調査の答えを指図せず、支払い票へ同意する後見人として署名する。
エマは先に契約書を取った。エマ、と書き、ノールトの最初の一画で手が止まる。
父の死で作られた金を、自分の名で使う。残高の数字を読んだ時より長く息を置き、それから姓を最後まで書いた。
カルドも二通へ署名した。一通をエマへ渡し、もう一通を自分の帳面へ挟む。
ヨハンは、費用の上限と十四日の文字をもう一度指で追った。
「この額を越えて使わないな」
「越えない。延長する時は、その前に報告する」
「それなら、署名する」
リイサは支払い票の残額欄をエマへ向けた。
「払ったあとに残る額を、もう一度読んで」
エマは数字を声に出して読み、管理証の残高から自分で引いた。同じ額になる。
「これでお願いします」
エマが署名し、続いてリイサ、最後にヨハンが名を書いた。受取人はカルド・ヴェイン。固定の料金と調査に使う実費を合わせても、口座残高の七割は超えない。
ヨハンが印章を押すと、赤い印の縁がゆっくり紙へ移った。
「使わなかった分は、この口座へ戻るんですね」
リイサの確認に、カルドは返金先の欄を示した。
「内訳を最後の報告につける。十四日で終えるなら、その日に精算する」
エマは自分の契約書を折らず、木箱へ入れた。大判図面も布を挟んだまま収め、留め金を両手で閉じる。
カルドは大判図面を借りていない。手元に残したのは、浅い筋の位置と向きを写した紙だけだった。
「最初は、父が落ちた橋へ行くんですか」
「いや。転落した場所だけを見ても、なぜそこへ行ったかは分からない」
カルドは補償金の管理証を開いた。
「死ぬ前に何を調べていたか。その記録を誰が持っているか。まずそこから見る」
「この補償金を出した役所にも行きますか」
「支払い票の登録が要る。灰橋の記録も、どこにあるか確認できる」
「そこなら、毎年、残高を確かめに行っています」
カルドは管理証の印を写し、その下へ、災害の補償金を扱う役所の名を書いた。
父の死によって支払われた補償金は、どんな審査を経たのか。父が追っていた灰橋火災の記録は、今どこにあるのか。
その二つを確かめるため、次に訪ねるのは災害補償院だった。




