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第10話 二つの原因

市の医療施設へ着く頃には、夜の雨が細くなっていた。


 石造りの廊下には薬湯の匂いが残り、壁際の窓を雨粒がゆっくり流れている。検案室の隣にある記録室は、四人で机を囲めば身動きが取りにくいほど狭かった。


 ハドリーは、詰所で作った二欄の紙を机へ広げた。左に夕方の第一危機、右に翌朝の死。グレーテの証言と、二十一時三十四分の受領記録の写しも、その下へ重ねる。


 ミリアは上着の袖を左右同じ高さまで上げた。現場記録、検案記録、検査の進み具合を記した紙の順に並べ、灰眠草の販売帳だけを脇へよけた。


「これは購入の記録です。身体へ入った証拠ではありません。医学の資料と同じ束には入れません」


 白柳滴の瓶と杯は、まだ検査が続いているという。中から何が見つかるか決まる前に、症状と死因を一つへまとめない。ミリアはそう言って、左欄から見直し始めた。


「カルドさんは、検案の説明に限って同席です。遺体、検体、原記録には触れないでください」


 ハドリーが出席者欄へカルドの名を入れさせた。


「触る予定はない。医療の判断をする予定もない」


 カルドは黒い外套を椅子の背へ掛け、両手を組んだ。まず必要なのは推測ではなく、夕方にハーゲンのそばにいた者が何を見たかだった。


 ハドリーは廊下にいた保安吏へ、休憩室で待つグレーテを呼ぶよう頼んだ。


 記録室の外では、夜勤の職員が濡れた靴で行き来していた。遠くで湯を沸かす蓋が鳴り、診察を待つ者の咳が一度だけ聞こえた。


 


 グレーテは温かい茶を飲んだあとだった。頭巾の下へ編み込んだ灰色の髪に乱れはないが、生成りの前掛けは朝から替えていない。椅子へ座ると、腰の鍵束を鳴らさないよう膝の横へ置いた。


「責任を決めるための聞き直しではありません」


 ハドリーは最初にそう告げた。


「夕方に身体がどう変わり、どこまで戻ったかを、医療官が順に確かめます」


 ミリアの質問は短くても、答えを急がせるものではなかった。白柳滴を用意した時から、一つずつ前へ進めていく。


 グレーテは、以前より少なくなった現在の処方量を用意し、ハーゲンが飲むところを見た。飲み終えた杯も空だった。瓶はいつもの薬棚へ戻し、自分で鍵を掛けている。


「返事が遅くなったのは、そのあとですね」


「ええ。杖へ手を伸ばして、右手が落ちました。名前を呼んでも返事がなくなって、息は浅くなりました」


「息が止まった時間はありましたか」


「ありません。近くで数えました。間は長く感じましたが、途切れてはいません」


 グレーテは外套を取り、医療官を呼びに出る支度をした。その間に胸の動きが少しずつ戻り、ハーゲンは目を開けた。自分で水を持って飲み、しばらくすると息の速さも普段に近くなった。


「夕食は、どのくらい食べましたか」


「半分ほどです。遅かったですが、自分で食べました。私が話せば返事もしましたし、そのあと書斎へ移っています」


「あなたが家を出る時は」


「まだ疲れてはいました。でも、呼んですぐ返事がありました。息がまた浅くなった様子もありません」


 それは二十一時十五分頃だった。その十九分後には、配達人の前で本人確認の通知に答え、自筆で署名し、封蝋までしている。


 グレーテは膝の上で前掛けの端をそろえた。


「あの時、私が医療官を呼んでいれば」


 言い終わる前に、声が細くなった。


 ミリアは慰めの言葉で押し戻さなかった。記録板へ最後の返事の状態を書き、それから顔を上げる。


「呼ばなかったことは、起きた事実として残します。ただ、それだけで朝の死因を決めることはできません。今あなたが話した回復の順も、同じように必要です」


「役に立つんですか」


「はい。反応がなくなった時だけではなく、そのあと何ができたかが分かります」


 夕方の状態は、灰眠草を含む、強い眠りを起こす薬草の作用と合う部分がある。ただし、持病による発作もまだ消せない。販売帳に名があるだけでは、薬草が身体へ入ったとも決められなかった。


 ハドリーは左欄へ三つの行を足した。薬草の作用と合う。使用は未確認。回復後の行動あり。


「最後に一つ、よろしいですか」


 カルドがハドリーへ聞いた。許可を得てから、グレーテを見る。


「家を出る直前、返事の遅れは残っていたか」


「いいえ。少なくとも、私が二度呼ばなければならないことはありませんでした」


 カルドはその答えだけを帳面へ書いた。グレーテが見ていない退出後の状態まで尋ねず、ハドリーもそこで聴取を終えた。


 ミリアは休憩室へ戻るよう勧めた。グレーテは腰の鍵束を持ち上げたあと、机の左欄へ目を落とした。


「見ていたことを、もっと早く話すべきでした」


「今日は順番に話せています」


 ハドリーは記録係の紙を確かめた。


「抜けがあれば、こちらから聞きます。今は休んでください」


 グレーテは小さく頭を下げ、雨音の残る廊下へ出ていった。


 


 扉が閉じると、ミリアは右欄へ検案記録を重ねた。


「ここからは、翌朝に確認した身体の状態です」


 大きな外傷はなく、部屋にも争った跡はなかった。口の内側には小さな傷があり、顎から首には薄い色の変化がある。どちらも死亡確認をした朝に記録された所見で、新しい傷が見つかったわけではない。


「持病のある人が急に亡くなることはあります」


 ミリアは、消せない可能性から先に話した。


「ただ、持病だけで、この二つの変化までまとめるのは難しいです。強い眠りを起こす薬草なら、夕方の反応の低下や浅い呼吸は説明できます。しかし、そのまま切れ目なく朝の死へ続いたと考えると、合わない事実が残ります」


 意識を失って倒れた時に、口の中を傷つけた可能性もある。だが、口内の傷と首周辺の変化が同じ一度の転倒でできたなら、身体にはぶつけた場所が分かるような大きな打ち身が残り、近くの家具にも乱れが出ると考えられる。現場には、どちらも見つかっていなかった。


「転倒などの偶然を、完全に消すことはできません。ただ、今ある二つの小さな変化は、それだけでは一つにまとまりにくいです」


 指先が、二十一時三十四分の受領記録へ移る。


 ハーゲンはその時刻に顔を見せ、問いへ返事をし、自分で署名して封蝋した。


「この記録から確認できるのは、その時刻に生きていて、通知に応じる力があったことまでです。完全に回復していたか、その後も助けられる状態だったかは分かりません」


「では、翌朝の死について、最も疑っている原因は」


 ハドリーが尋ねた。


 ミリアは検案記録の二か所をもう一度見た。


「息の通りか、息をする身体の動きが、外から妨げられた可能性です。口の内側と首周辺の変化、それにほかの記録を合わせると、今はそれを最も強く疑います」


 記録係が筆を止め、言葉を待った。


「公的な書き方では、首周辺への外力を伴う機械的窒息です」


 狭い部屋に、ペン先が紙をこする音だけが続いた。


「確定ですか」


「現段階の最有力所見です。自然死や灰眠草だけでは説明しにくい。ですが、追加の検査と検案記録の見直しは続けます」


 外から力が加わったという言葉だけで、誰かが故意に行ったとは決められない。ミリアは、偶然の可能性も残るからこそ、確定ではなく最有力所見と書いた。


 ミリアが言えるのは、身体に何が起きた可能性が高いかまでだった。誰が関わったのか、どうやって家へ入ったのか、何時何分に亡くなったのかは、身体の所見だけでは分からない。


 ハドリーは紙を自分の前へ引き、二欄を書き直した。


 左には、夕方の第一危機。強い眠りを起こす薬草と合う。灰眠草の購入記録あり。使用と混入は未確認。


 右には、翌朝の死。外力を伴う機械的窒息を最も疑う。行為者と時刻は未確定。


「契約上の整理を確認する」


 カルドは医学の言葉を言い換えず、左欄の下に置かれた販売帳の写しを指した。


「エマの購入と未報告は左に残る。午後の再訪も消えない。ただ、それだけで二十一時三十四分より後の右欄まで説明したことにはならない」


「その通りです」


 ハドリーは煙草を指で一度転がし、紙へ書き足した。


「エマを疑いから外す記録ではありません。最終死因については、二十一時三十四分より後に接触できた者を別に調べる。誰かを除外するのは、その記録を取ってからです」


 ハドリーは二つの欄を一つに戻さなかった。カルドも販売帳の写しを左欄に残し、右欄へは動かさなかった。


 カルドの親指は、組んだ手の上でゆっくり一度回った。


 


 翌朝、朝一番の鐘が鳴る少し前に雨は上がった。保安局詰所の窓から、濡れた屋根の上に薄い光が落ちている。


 小聴取室へ来たエマは、昨日と同じ仕事着だった。栗色の髪を後ろで結び、墨の残る指を膝の上へ置いている。隣のリイサは帳簿袋を持ったまま座った。工房を出る前に、朝の仕入れを書きつけてきたらしい。


「今日は新しい自白を求める場ではありません」


 ハドリーは、共有できる範囲だけを先に区切った。


「翌朝の死には、夕方の反応低下とは別の身体原因があった可能性が高い。首周辺へ外から力が加わったことを最も疑っています。関わった者と時刻は、まだ決まっていません」


 リイサはエマを見ず、ハドリーへ尋ねた。


「昨日、確かめた三つの事実はどうなりますか」


「購入、単独での再訪、カルドさんへ報告しなかったことは変わりません。灰眠草が使われたか、何かへ混ぜられたかは未確認です。翌朝の死については、その後の接触を調べます」


 机には、原記録ではなく説明用の二欄だけが置かれていた。エマは右側を見たあと、視線を左へ戻した。


「夕方の方は、消えないんですね」


「消えない」


 カルドは契約書の控えを閉じたまま答えた。


「購入の目的も、邸で何をしたかも答えがない。未報告による契約違反も残る。ただし、それを朝の死因として扱うこともしない」


 エマは机の下で両手を組み直した。


 ハドリーは、検案の結果を聞いても前日の回答を変えないか、一度だけ確かめた。灰眠草の用途、薄い紙の中身、瓶や杯への接触について、エマは少し間を置いた。


「今は答えません」


「回答なしとして残します」


 質問は繰り返されなかった。


「次に来る時刻は、前もって知らせてもらえますか」


 エマが尋ねた。


「急ぐ場合でも、工房へ使いを出します。今日は戻って構いません。市外へ出る時の連絡だけは守ってください」


 カルドは契約書を机に置いた。


「もう一つ。勝手に動くな」


「私を見張るためですか」


「それもある。関係者に会う時や、事件に関係する場所へ行く時は先に知らせろ。許可が出れば、俺もなるべく行く」


「仕事や買い物も含みますか」


 リイサが尋ねた。


「調査に関係する時だけだ。保安局の許可が要る場所は、ハドリーに聞いてからだ」


 カルドは組んだ親指を一度回した。


「黙って動かれれば、何か起きても止められない。お前を守ることもできない」


 エマは少し黙った。


「分かりました。次は先に知らせます」


 立ち上がったエマは、扉へ向かう前にリイサを見た。


「乾燥紙を返すの、昼の鐘の前でしたよね」


「その前に、昨日止めた一束を二人で数えます。昼食は鐘が鳴ったら取ること。仕事の区切りを理由に遅らせないで」


「分かりました」


 声も足取りも軽くはならなかった。リイサは廊下へ出る前に帳簿袋を開き、最初に数える一束の番号をエマと確かめた。二人は作業の順を話しながら詰所を出た。


 


 ハドリーは記録机へ戻り、夜の時刻線を開いた。


 二十時五十五分頃に、予定されていた公務の訪問者が正面から退出した。二十一時十五分頃にはグレーテが家を出ている。そして二十一時三十四分、ハーゲン本人が通知へ応じた。


 前の二人が出た時刻は、生存確認より早い。その訪問と退出を調べ終えたわけではないが、朝の死へつながる外力を考えるなら、まず基準時刻より後の接触が必要だった。


「人、物、便を分けて調べます」


 ハドリーは記録係へ指示した。通用口の掛け金と予備鍵の記録は継続し、すぐ原帳を確かめられるものから始める。


 夜間便取扱所の受付は、役所が閉じたあとも夜通し急ぎの書類を預かる。一方、原帳を保管し、閲覧の求めに応じる記録窓口は、朝一番の鐘で開く。発送控えには、差出元、受付時刻、届け先が記される決まりだった。


「ハーゲンは、私信を翌朝に渡すと決めていた」


 カルドは時刻線の最後を見た。


「それでも夜に誰かへ連絡していたなら、翌朝を待たずに伝える必要があった内容がある。連絡があったか、誰に送ったかは帳面で確かめる」


 ハドリーは記録窓口が開く前に、原帳を動かさず保全するよう公的な連絡を入れた。調べる範囲は、二十一時三十四分より後、ハーゲン邸を差出元とする便だった。


 やがて朝一番の鐘が鳴った。ハドリーは夜の時刻線を閉じ、記録係は照会書の控えを鞄へ入れた。二人は発送原帳を確かめるため、夜間便取扱所へ向かった。


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