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第11話 二十一時三十九分

朝一番の鐘が鳴ると、夜間便取扱所の女が奥の戸を開けた。


「中へどうぞ。棚は昨夜のままです」


 指先のない毛糸の手袋をはめた手で、ハドリーと保安局の記録係を招き入れる。表の受取口には、夜勤を終えた配達人が濡れた革鞄を返しに来ていた。開いた戸からは、役所通りを進む荷車の音と、近くのパン窯から流れる煙の匂いが入ってくる。


 女は棚の前で足を止めた。扉には細い紙帯が渡され、夜番の責任者と保安局の印が封蝋に残っている。


「先に封を見てください。切るのはそのあとです」


 ハドリーが破れや剥がれを確かめ、記録係が印を見比べる。女は二人の確認が終わるまで鍵に触れなかった。


「急いでいますが、急がせるつもりはありません。いつもどおりにお願いします」


「助かります。急ぐ方ほど、途中を飛ばしたがるので」


 女は封を切り、分厚い原帳を棚から下ろした。机へ乾いた布を敷き、その上に置く。


 表紙の番号と綴じ紐を確かめたあと、昨夜の頁が開かれた。女は頁の端を無理に押さえず、木の重しを二つ置く。


「二十一時三十四分よりあとです」


 記録係が指で時刻を追った。河岸の倉庫から医療施設へ送られた修理依頼の次に、ハーゲン邸から出た便がある。その下には、宿屋から駅馬車組合への忘れ物の連絡が続いていた。


 受付番号は三件とも順に並んでいた。該当する行だけ筆跡や墨が違う様子もない。綴じ紐をゆるめた跡はなく、頁を削った傷も見つからなかった。


「読みます」


 記録係が姿勢を直した。


「受付、二十一時三十九分。差出元、ヴィルヘルム・ハーゲン宅。届け先、アーベル・サルガン宅。用件の要旨、ヘルマンの件で、今夜中に来てほしい」


 ハドリーは受付者の印と、配達を担当した者の革札番号を確認させた。女は該当行だけではなく、前後の二件も写すよう求めた。


「あとで順番を確かめるなら、そこまで要るでしょう」


「お願いします」


 写しができると、女は原帳と一行ずつ見比べた。最後に取扱所の印を押し、原帳を棚へ戻す。


「原物はここから出しません」


「それで構いません」


 ハドリーは新しい紙帯へ立会いの印を押した。


 


 保安局へ戻ると、前夜の丘回りを担当した夜間使いが、聴取室の前で立ったまま茶を飲んでいた。


 二十歳を少し過ぎたくらいの青年だった。配達用の外套は乾ききっていない。椅子の背へ掛けかけたが、裾が床につくのを見て、また腕へ戻した。


「その外套は壁へ掛けていい。座ってください」


 ハドリーに言われ、青年は空になった杯を窓際へ置いた。カルドはすでに壁際の席に来ており、濡れた黒髪を指で後ろへ払った。


「昨夜、ハーゲン邸で手紙を預かりましたか」


「はい。丘回りの途中で、門の中から呼ばれました」


「相手はハーゲン本人でしたか」


「本人です。前にも役所便を二度渡しています。杖を持っていました」


 青年は、両手で杖をつく真似をしかけ、片手だけだったと思い直したように右手を下げた。


「顔色までは分かりません。門の灯りはついていました。疲れているようには見えましたが、立って話していました」


「家の者が代わりに出てきた可能性は」


「ないです。門を開けたのも、手紙を渡したのもハーゲンさんでした。声も前に会った時と同じでした」


「何を聞きました」


「届け先を聞き返しました。アーベル・サルガンの家だと答えたので、住所と名前を復唱しました。用件も読み返しました。直すところはないと言われました」


 青年は腰につけた革札を外した。裏側には小さな時計がはめ込まれている。


「受け取った時刻は二十一時三十九分です。受付時刻の数字は二度見ます。前に九を七と書いて、確認のため丘を二往復したことがあるので」


「昨夜は戻って確かめていないんですね」


 ハドリーが念を押した。


「はい。時計を見た時に二度確認しました」


 受領控えも出された。宛先にはアーベル本人の印がある。


「誰へ渡しましたか」


「アーベルさんです。玄関を開けて、自分で受け取りました」


「そのあと、家を出るところを見ましたか」


「見ていません。印をもらって、次の配達へ行きました」


 ハドリーはそこまでを書き、カルドへ目を向けた。


「一つだけ。手紙を渡した時、家の中へ入ったか」


「いいえ。私は外です。アーベルさんは開いた扉の内側にいました」


 青年は少し考え、付け足した。


「扉が閉まる前に、私はもう門へ向いていました。そのあとのことは分かりません」


「十分です」


 ハドリーが聴取を終えると、青年は外套を肩へ掛けた。裾が床につかないことを確かめてから、ようやく部屋を出ていった。


 カルドは認証された写しを手元へ寄せた。


「二十一時三十四分に、ハーゲンは通知へ署名した。その五分後に、自分で使いを呼び止めた」


「ええ。宛先も用件も確認できています」


 ハドリーは写しを戻すよう手を出した。


「アーベルが受け取ったところまでは確認できました。通用口と予備鍵は別に調べます」


「混ぜるつもりはない」


「なら、本人の話を聞きましょう」


 廊下から控えめなノックがした。受付の保安吏が、アーベルの到着を告げた。


 


 アーベルは砂色の上着の下に、補償院の執務用ベストを着たままだった。聴取室へ入ると、待たせた職員へ先に頭を下げた。


「仕事の引き継ぎに手間取りました。申し訳ありません」


 ハドリーは椅子を勧め、昨夜の行動を早い時間から尋ねた。


「二十時三十分過ぎにハーゲン邸を訪ね、二十時五十五分頃に正面から帰った。ここまでは以前の確認どおりですか」


「はい。帰宅後は家にいました」


「夜間便を受け取りましたね」


「受け取りました」


 認証された写しが机に置かれた。アーベルは眼鏡を外し、内ポケットの布で拭いてから読み直した。写しを返す時、ずれていた角を机の端に合わせる。


「私が受け取った文面と同じです」


「ヘルマンの件で呼ばれる理由に、心当たりは」


「ありませんでした。ハーゲンさんには、古い判断へ今から説明を加える方法や、資料を提出する手順を話しました。ただ、ヘルマンが何を調べていたかまでは聞いていません」


 ハドリーは一度筆を置いた。


「手紙を読んだあと、ハーゲン邸へ戻りましたか」


「戻っていません」


「『今夜中に』と求められているのに、戻らなかった理由を聞かせてください」


 アーベルは膝の上で両手を組んだ。


「最初に訪ねた時、ハーゲンさんはひどく疲れていました。あの状態で、夜中にまた二人だけで八年前の案件を話すのは避けた方がいいと思いました。朝なら補償院の職員を連れていけます。資料が出ても、その場で受け取った控えを残せると考えたんです」


「朝まで待つと決めたのは、あなたですか」


「私です」


「そのことをハーゲンへ返しましたか」


 アーベルの手がほどけた。


「返事は出していません。朝に行けば間に合うと考えました」


「受け取ったあとは、どこにいました」


「自宅です。翌朝に持ち出す資料を選んでいました」


「一緒にいた人は」


「いません」


「訪ねてきた人や、あなたを見た人は」


「思い当たりません」


 ハドリーは筆を取り直し、今の答えを記録係へ復唱した。


 カルドは許可を得て尋ねた。


「今は、朝まで待った判断をどう思っている」


「間違えたと思っています」


 アーベルは写しに触れずに答えた。


「あの時、そう判断したのは私です。ハーゲンさんの死を知ったあとで、手順の方が大切だったとは言えません」


 ハドリーは顔を上げた。


「確認します。呼出状は受け取った。しかし、邸へは戻っていない。それがあなたの供述ですね」


「はい」


 アーベルはまっすぐ答えた。


 


 昼前のヴァルク写本工房では、エマが干し紐から紙を外していた。温めた糊の匂いが残る中、留め具を外すたび、乾いた紙が軽く鳴る。


 カルドが入ると、エマは手にしていた一枚を台へ置いた。


「何か分かったんですか」


「ハーゲンは昨夜、アーベルを呼んでいた。二十一時三十九分だ」


 奥で帳簿をつけていたリイサも手を止めた。


「用件は、ヘルマンの件で今夜中に来てほしい。手紙は本人へ届いている」


 エマは紐に残った留め具を握ったまま、カルドを見た。


「ハーゲンさん自身が出したんですか」


「使いは本人を二度見たことがある。昨夜もハーゲンが門を開け、宛先と用件を答えた」


「夕方に倒れたあとで、そこまで動けたんですね」


「少なくとも、その時は立って話せた」


「アーベルさんは行ったんですか」


「戻っていないと言っている」


「呼ばれたのに?」


「朝、職員を連れて訪ねるつもりだったそうだ」


 エマは留め具を籠へ放り、前掛けの結び目へ手を回した。


「本人に聞きます」


 紐を引く前に、その手が止まった。


「……会いに行くなら、一緒に来てください」


「今日は会わない」


「では、何をするんですか」


「家からハーゲン邸まで歩く。戻れる道があったか確かめる」


 リイサが壁の時計を見た。


「乾燥紙は、あと二束です。昼の交代までに戻れますか」


「戻す」


 カルドが答えると、リイサはエマの前掛けを受け取った。


「外で紙埃を払ってから入ってください」


 


 アーベルの家がある通りには、補償院や役所へ通う者の家が並んでいた。昼の市場へ向かう人が増え、軒先では店の者が朝露で濡れた看板を拭いている。


 カルドはアーベルの家の前で立ち止まらず、そのまま運河の方へ曲がった。


「呼び止めないんですか」


「さっき聴取が終わったばかりだ。今押しかけても、保安局で話したことを繰り返すだけになる」


 運河沿いは魚籠と濡れた縄の匂いが強かった。荷車をよけながら進み、石段の多い丘へ入る。店が減るにつれて、通りの声も遠くなった。


 坂口では薪を積んだ荷車が道をふさぎ、二人は石壁へ寄って通り過ぎるのを待った。夜なら荷車は少ないが、街灯の下を通る人影はかえって目立つ。


「アーベルさんは、父が死んでから毎年、補償口座を見てくれました」


 坂を上りながら、エマが言った。


「私が書類を読めない時も、分かるまで説明してくれたんです。あの人なら、父の名前で呼ばれたら行くと思っていました」


「親切だったことは疑っていない」


「でも、行ったかは疑うんですね」


「本人の話だけでは決めない」


 正面の坂は広く、仕立屋や宿屋の窓が道へ向いている。夜でも街灯が並び、人に見られず歩くのは難しい。


 裏坂へ回ると、道は細くなった。家と石塀の間を折れながら上がり、角を曲がるたびに前の道が見えなくなる。夜番人が巡回していても、一人で坂全体を見ることはできない。


 二人は急がなかった。それでも、アーベル宅からハーゲン邸の裏手までは、夜のうちに十分歩ける距離だった。


 通用口の見える公道で、カルドが止まった。保全中の敷地へは入らない。


「グレーテが帰る前、あの扉の掛け金は下りていた。朝には外れていた」


「アーベルさんが外したんですか」


「まだ分からない。予備鍵の記録も届いていない」


 エマは細い裏坂を振り返った。


「ここを歩けた。それだけですか」


「今確かめられたのは、それだけだ」


 カルドは敷地から離れ、工房へ戻る道へ向いた。


「次は?」


「ハーゲンが夜のうちに話したかった、ヘルマンの件を追う。四七番の管理記録に名があるダリスだ」


「いつ会いますか」


「保安局から返事が来てからだ。工房へ知らせる」


「分かりました」


 昼の鐘が鳴る前に、二人は運河沿いまで下りた。エマは歩きながら袖についた石壁の粉を払い、工房へ戻ると、残っていた二束の紙をリイサから受け取った。


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