第12話 返さなかった四七番
三号棟の戸口から、木箱の角が勢いよく出てきた。
カルドはエマの肩を引き、荷車が通るまで壁際へ寄った。車輪が深い轍を鳴らし、麻袋から舞った埃が午後の光に浮かぶ。運河沿いのグラーフ倉庫街には、濡れた縄と木材、それに水の匂いがこもっていた。
保安局から指定された時刻より少し早く着いたが、倉庫の前に人を待たせる場所はない。荷車が一台出ると、次の一台が川側から入ってくる。エマはカルドに続き、作業床を示す白い線の外側を歩いた。
「入口で止まってください」
先に来ていたハドリーが、鎖の音に負けない声で呼んだ。
三号棟の作業床には、川から運ばれた樽と木箱が列を作っていた。二階の張り出し床では、受け取る側の作業員が身を乗り出さずに下を見ている。床の端では別の男が数取り板を持ち、荷が一つ動くたびに印を足していた。
高い梁の下で、荷台がゆっくり下りてくる。太い腕の男が片手を上げ、作業員へ合図を送っていた。日に焼けた首は太く、短く刈った髪には白いものが多い。汚れた作業着の袖は、機械へ触れない長さに折って紐で留めてあった。
荷が床へ着く前に、若い作業員が鉄枠と木箱の間へ手を入れた。
「手を抜け」
男の声が飛んだ。
若者が慌てて腕を引く。荷台が床へ下りきると、男はすぐそばまで歩き、手袋を外させた。
「何ともありません。触ってもいません」
「指を曲げろ。一本ずつだ」
若者が親指から順に動かす。男は手の甲と指先を確かめてから、鉄枠の横へ立たせた。
「次はここを持て。荷が止まるまで、内側へ手を出すな」
自分の手を置いて見せ、もう一度やらせる。若者が正しい位置をつかむのを見てから、男は別の作業員へ合図役を任せた。
「上の床、次を受けられるか」
二階から返事が落ちてくる。男は作業床に人が残っていないことを見回し、次の荷は待たせたまま、こちらへ歩いてきた。
「待たせたな」
額の汗を腕で拭い、ハドリーの前へ来る。
「ダリス・フェルクさんですね」
「そうだ。質問は奥で聞く。ここでは声が通らん」
休憩を兼ねた記録室は、作業床の端にあった。壁一枚を隔てても、鎖が動くたびに吊り下げた器具が小さく震える。机の端には作業員の杯が伏せてあり、壁の釘には予備の手袋と、昼までに動かす荷の札が掛かっていた。
ハドリーは、カルドとエマの同席を先に説明した。カルドは契約調査との関係で許可した質問だけを行い、エマはヘルマンの遺族として同席する。
「ノールトというのは、ヘルマンの娘か」
「はい」
エマが答えると、ダリスは「そうか」とだけ言った。二人を順に見たあと、椅子ではなく窓際の長机へ腰を預ける。
「仕事を止める時間は短くしてくれ」
「そのつもりです」
ハドリーは、原本を保管する部署から届いた回答を机へ置いた。
「先に確認します。四七番は、帳面や道具につけた番号ではなく、現物の札に刻まれた番号ですね」
「そうだ。旧橋の保守設備を扱う作業員へ、一時的に渡す真鍮札だ。誰へ渡し、いつ戻ったかは帳面につける」
「ヘルマン・ノールトは、亡くなる九日前に、あなたが管理していた『保守札四七番 貸出・返却記録』を照会しています」
「四七番を調べるのか」
「それと、八年前の警備配置です。原本に、正式な訂正印のない書き直しが見つかりました」
ダリスは、回答の冒頭にある原本番号を確かめた。
「だから娘まで来たのか」
「遺族として同席を認めています。質問は、私が許可した範囲に限ります」
ダリスはエマへ一度だけ目を向け、回答を机に置いたまま読み進めた。
「俺が直した」
記録係が顔を上げた。ハドリーはすぐに次の質問へ進まず、ダリスが窓の外を見るのを待った。
「誰の名を消しましたか」
「それは言わん」
「変更した理由は話せますか」
「若いのが一人、指示を待たずに動いた。このまま残せば、そいつ一人の規律違反にされた」
「そこで、自分が命じたことにした」
「班長は俺だった。俺の名を置く方が早かった」
外で木箱同士がぶつかり、鈍い音がした。ダリスは窓へ身を乗り出す。
「角を合わせろ。押すな、先に縄を緩めろ」
作業員たちが箱の向きを直すのを見てから、机へ戻った。
「本当に、あなたの命令だったのですか」
ハドリーが尋ねた。
ダリスは腰の布で手の汚れを拭いた。親指の爪に入った黒い筋だけは落ちなかった。
「違う」
「誰か別の者が命じたのですか」
「誰も命じていない。若いのが先に動いた」
「どこで、何をしたのか話してください」
「そこは言わん。今もそいつの名を出すことになる」
ハドリーは質問を書き留めた。その横で、記録係がダリスの回答をそのまま復唱する。ダリスは訂正しなかった。
「では、なぜ正式な訂正をしなかったのです」
「訂正を出せば、何があったか最初から調べられる。そいつは処分される」
「あなた自身も調べられますね」
ダリスは腰の布を机へ置いた。
「班長なのに、部下が勝手に動くまで止められなかった。そこを調べられれば、俺の指揮も問題になる。職を失うと思った。家に食わせる者もいた」
「記録を変えた時、どちらを先に考えましたか。若い部下の処分か、自分の職か」
「そんなふうに分けて考えてはいない。名前を書き直せば、二人ともその場を切り抜けられると思った」
記録係のペンが動き出した。
エマは膝の上で両手を握っていた。父が使った照会の日付を見たあと、ハドリーへ目を向ける。
「質問してもいいですか」
「どうぞ」
「父にも、今の話をしなかったんですか」
ダリスはエマの顔を初めて長く見た。
「しなかった」
「父は一度だけ来たんですか」
「三度だ。最初は変更した場所を聞いた。次は、消した名を聞いた。三度目も同じだった」
「三度とも、仕事中に?」
「そうだ。待てと言っても帰らなかった。俺が荷を見に出れば、外で待っていた」
「何と答えたんですか」
「記録にあるとおりだと」
エマの指がゆるみ、すぐまた組まれた。
「父は、それで帰ったんですか」
「最後は怒っていた。廊下まで声が聞こえたと、あとで事務の者に言われた」
「それでも、答えなかった」
「ああ」
「父が何を調べていたか、聞かなかったんですか」
「四七番の貸し出しと返却だと言っていた。それ以上は話さなかった。俺が何も答えなかったからだろう」
エマはダリスから目をそらさなかった。ハドリーが次の資料へ手を伸ばすまで、部屋では外の鎖音だけが続いた。
扉が二度叩かれた。若い作業員が顔を出し、次の荷をどちらへ回すか尋ねる。ダリスは立ち上がりかけ、窓から荷札を見た。
「奥の床へ回せ。さっき手を挟みかけた奴は、どこにいる」
「本人は平気だと言っています」
「今日は数取りに回せ。荷には触らせるな」
若者が返事をして戸を閉める。ダリスは椅子へ座らず、窓際へ戻った。
*
ハドリーはもう一枚、照会票を取り出した。そこには「保守札四七番 貸出・返却記録」とある。
「返却を確認できない札があります。四七番です」
ダリスはすぐに答えなかった。窓の外では、荷台が二階の高さへ上がり、作業員が下から合図を送っている。
荷台が上で止まり、鎖の音が途切れた。ダリスはそこでようやく窓から離れた。
「なくしたわけじゃない」
「では、どこにありますか」
「返さなかった。古い保守道具と一緒に、箱へ入れた」
「処分はしていない?」
「していない」
「誰かへ渡しましたか」
「渡してもいない」
ハドリーは箱の場所を尋ねた。ダリスは三号棟の保守区画だと答える。稼働中の作業床を通り、上の通路から入る場所にあるため、荷を動かしている間は取りに行けないという。
「八年前から、そこへ置いたままですか」
「箱ごと移したことはある。中身は出していない」
「最後に四七番を見たのはいつですか」
ダリスは眉を寄せた。
「正確な日は覚えていない。箱を移した時に、中を上から確かめた。それが何年前かまでは言えん」
記録係が日付不明と書く。ダリスはのぞき込まず、続きを待った。
「なぜ返さなかった」
カルドがハドリーの許可を得て尋ねた。
「あとになって、若いのへ全部押しつける話が出た。そうじゃないと示せる物を、一つは持っておきたかった」
「何が違うと示せる」
「四七番だけで何もかも証明できるとは言わん。古い資料と一緒に見れば、調べられることがある。そこから先は、物を見てから聞け」
ダリスは窓の外を見たまま答えた。
「ヘルマンには見せなかったのか」
カルドが続けると、ダリスの肩が少し下がった。
「見せれば、警備配置を書き直したことまで調べられる。三度目も逃げた」
エマは膝の上の手をほどいた。
「父の時も、消した人の名前は伏せたまま、札だけ見せられたはずです」
ダリスはすぐには答えず、机に置いた腰布を取り上げた。黒く汚れた端を親指で折ってから、また置く。
「できた。俺がしなかった。札を出せば、書き直したことも追われると思って怖くなった」
ハドリーは照会票を机へ置いたまま、記録係が書き終えるのを待った。
「若い部下の名前を今ここで答えることと、四七番の現物を確かめることは分けます。名前は回答を拒んだと残します。札は保安局と倉庫側が立ち会い、そこにあるかを先に確認します」
ダリスは原本管理部署からの回答をもう一度見た。
「書き直したことは、もう見つかっている。俺も認めた。なら、札まで隠す理由はない」
「今から箱を確認できますか」
「無理だ。今止めれば、吊っている荷を全部下ろして、作業床を空けることになる。明日の最初の荷を上げる前なら開けられる」
「何時ですか」
「朝一番の鐘から半刻後だ。記録を取る者も連れてこい。箱を開けるところから見せる」
「今日の作業が終わってからではいけませんか」
「片づけが終わる頃には暗くなる。保守区画の灯りだけで、八年前の物を探したくない。明日の朝なら、最初の荷を出す前に通路を空けられる」
ハドリーは倉庫側の責任者を呼んでもらい、保守区画へ入る戸を今夜まで使わないことを確認した。作業が終わりしだい、保安局と倉庫の印を入れた紙帯を戸へかける。翌朝は双方の立会いで切ることになった。
呼ばれた責任者は、腰の鍵束から保守区画の鍵を選び、今夜の作業予定を確認した。ダリスは戸の近くに残っている道具を挙げ、それだけは封をする前に出すと伝える。ハドリーは、取り出す時にも倉庫側の者を立ち会わせるよう求めた。
責任者は入口に立つ者と道具を運ぶ者をその場で決めた。二人がそろうまでは鍵を自分の腰から外さず、作業後は保安吏を呼ぶと答えた。
「カルドさんとエマさんも、箱へ触れない条件で立会いを認めます」
「触るつもりはない」
カルドが答えた。エマも黙ってうなずく。
「中に四七番があるかは、明日見るまで未確認です」
ハドリーが念を押すと、ダリスは立ち上がった。
「箱に入れたのは本当だ。今もあるかは、明日そろって見ればいい」
*
記録室を出たダリスは、先ほどの若い作業員が重い木箱へ近づくのを見つけた。
「お前は荷札だ。そっちは持つな」
「もう痛くありません」
「痛むかどうかは明日の朝に聞く。今日は戻れ」
若者に数取り板を渡し、代わりに自分が木箱の横へ入る。持ち場の者へ手の位置を確かめさせてから、次の荷を動かす合図を出した。
「そこは俺が持ちます」
別の作業員が声をかけたが、ダリスは首を振った。
「お前は上を見ろ。受け取る側がそろうまで、次を呼ぶな」
二階の作業員が受け取りの合図を返すまで、ダリスは次の荷を動かさなかった。
倉庫の外へ出ると、川風が麻袋の埃をさらっていった。エマは三号棟の戸口を振り返った。
「父は三度も来たのに、何も見せてもらえなかった」
「明日、箱を開けるところから見る」
エマは作業場を見た。ダリスは数取り板を持たせた若者へ、荷札の読み方を指で示している。声は先ほどより低く、鎖が動き出すたびに話を止めていた。
若者が数取り板を抱え直すと、ダリスはその手を見て、板を反対側へ持たせた。エマは作業場から視線を戻し、翌朝の集合時刻を確かめた。
「集合は朝一番の鐘から半刻後ですね」
「少し前に工房へ行く」
ハドリーも戸口から作業場へ声をかけた。
「ダリスさん。明日は最初の荷を上げる前です」
ダリスは若い作業員を荷台から下がらせ、自分で縄の位置を確かめていた。仕事の方を見たまま、片手を上げる。
「分かっている。遅れるな」
鎖が鳴り、次の荷がゆっくり上がり始めた。ダリスはその下から若者をもう一歩離し、荷台が二階へ着くまで顔を上げていた。




