第16話 五番を外した人
その日の夕方になっても、医療施設の待合は静かにならなかった。
壁際の机には、三号棟から運ばれた資料が並んでいる。ダリスの衣服を入れた袋、搬送中の記録、二台の荷台を描いた図。どれも受け取った者の名と時刻を確かめてから、別々の棚へ移された。
ミリアは川側の荷台を描いた図を受け取り、検案室へ戻った。手元の記録板では、死因の欄が空いたままだった。
四七番の捜索票にも、まだ印のない場所が残っている。ハドリーは交代で来た保安吏を連れ、待合から見える場所、職員だけが使う部屋、馬車の内側を示した見取り図を順に見せていた。
「三号棟の門は、夜番と一緒に確認してください」
ハドリーは交代表へ夜番の名を書き加えた。
「三号棟では、縄の内側に入らないでください。検査員が来るまで封も触らないで」
保安吏が表を受け取ると、ハドリーは次にカルドを見た。細い金属縁の眼鏡の奥に、一日の疲れが残っている。
「エマさんを工房まで送ってください。今夜はこちらへ戻らなくて構いません」
「分かった」
エマは待合の端で、若い作業員に一度頭を下げた。相手が返すより先に歩き出さず、顔が上がるまで待ってから玄関へ向かった。
医療施設を出ると、川風が薬湯の匂いを外套からさらっていった。
カルドと並んだエマは、いつもより半歩遅れていた。普段なら先に曲がる市場裏の路地でも、そのまま直進しかけて足を止める。前掛けの横で右手を握り、何も持っていないことを確かめるように開いた。
カルドは急かさず、エマが曲がるのを待った。
「工房へ戻ります」
「そうしてくれ」
写本工房に着くと、ヨハンが戸を開けた。エマの顔を見て、次にカルドを見る。何があったのかは聞かず、奥の作業台へ目をやった。
「途中だった写本はヨナスに頼んだ。今夜は休め」
リイサはエマの外套を受け取り、火のそばに置いていた器を運んできた。豆と根菜を煮た匂いが湯気に混じっている。
「食べられる時でいいから、ここに座っていなさい」
エマは椅子へ座ったが、すぐには匙を取らなかった。まくった袖をいったん下ろし、また肘まで上げる。空いた両手を前掛けへ置いてから、カルドを見た。
「明日の連絡は、俺が持ってくる」
「はい」
「今夜、調査のことで外へ出るなら、先に知らせろ」
「出ません。今日は、ここにいます」
エマはそう答え、ようやく匙を持った。カルドが工房を出るまでに口へ運んだのは、一度だけだった。
翌朝、カルドが医療施設へ着くと、ハドリーは三号棟から戻ったところだった。
灰色の上着の裾と革靴に、倉庫の白い埃が残っている。脇に抱えていたのは、夜間の見張りが門と四つの持ち場を確認した書面だった。
待合の机には、四七番の捜索票、ミリアの検案記録、三号棟と写本工房へ出した照会の控えが離して置かれていた。四七番の所在には空欄があり、七日分の記録もまだ届いていない。検案記録では、どの傷が死へつながったのか、もっと早く運べば助かったのかという欄も空いていた。
ミリアが検案室から出てきた。袖は左右同じ高さまで上げられている。
「昨日の図を、もう一度借ります」
ハドリーが川側荷台の図を渡すと、ミリアは死因欄を見て首を横に振った。
「死因は、まだ書けません」
図と記録板を抱え、検案室へ戻っていった。
中央記録院の使いが来たのは、その直後だった。革の書類入れから出された返書には、マルテンが原本管理の部署へ送った照会と同じ番号がある。末尾には、ヘレナ・レント本人の印が押されていた。
ヘルマンの検案では、遺体を調べながら使う作業紙が一番から六番まで出されていた。だが、正式な検案書類からは五番だけが抜け、内容も行き先も分からない。そのため、中央記録院から原本を管理する部署へ問い合わせを出していた。
返書は短かった。検案作業紙五番について自分で説明すること、本日なら応じられることだけが書かれている。五番の内容も、今どこにあるかも書かれていなかった。
ハドリーは照会の控えと番号を見比べ、使いに受領の印を渡した。三号棟の封鎖確認票は夜番から交代した保安吏へ、捜索票は医療施設に残る保安吏へ渡す。検案の連絡先はミリアの名のままにした。
「エマさんへ知らせてきてください。戻ったら、ヘレナさんの所へ行きます」
カルドは返書の番号と本人印だけを帳面に写し、医療施設を出た。
写本工房では、エマが作業台の端で筆を動かしていた。
昨夜の器は片づけられ、途中だった写本の束も別の台へ移されている。エマの前には新しい一枚があったが、書き終えた行は普段より少なかった。
「ヘルマンの検案から抜けていた五番のことで、ヘレナから返事が来た。今日、話すそうだ」
エマは筆を置いた。
「私も行きます」
「ハドリーは認めなかった」
「どうしてですか」
「エマの聞き取りがまだだ。先にヘレナの話を聞くと、自分で覚えていたことと、あとから聞いたことが混ざる」
エマは筆についた墨を、壺の縁でゆっくり落とした。
「私の時刻が決まったら、すぐ教えてください」
「知らせる」
「ヘレナさんが話したことも?」
「終わったら、分かったことを話す」
エマはしばらくカルドを見ていたが、前掛けを外さなかった。椅子へ座り直し、乾きかけた筆先を水へつける。
「行ってください。私はここにいます」
エマは筆を持ち直し、書きかけの行へ向き直った。筆先を紙へ下ろすまでには、少し間があった。
調薬工房は、診療棟の裏手にあった。短い渡り廊下の先で、中庭を挟んで白い壁が続いている。
戸を開ける前から、煮出した薬草の苦い匂いがした。中へ入ると、中央の作業台には小さな秤と薬包紙が並び、奥では湯気を上げる器が石の台に載っていた。乾いた薬包を置く棚は、熱を使う場所から離れている。
入口の右には、出来上がった薬を渡すための低い台があった。左の壁には札の付いた棚が並び、乾いた葉や根が色の違う袋へ分けられている。奥へ行くほど空気は暖かくなったが、高い開口部の下だけは川風が通っていた。
ハドリーは入口の内側で立ち止まり、カルドと記録係も同じ場所に残った。床には作業する者が歩く線が白く引かれている。誰も中央の台へ近づかなかった。
濃紺の作業上着を着た女が、器の上へ手で蒸気を寄せて匂いを確かめていた。黒髪には灰色が混じり、襟足で低く束ねている。片方の袖口だけが、何度も熱い器へ近づけたせいか薄くなっていた。
医療官のヘレナ・レントだった。
ヘレナは来訪者を見たが、すぐには作業台を離れなかった。
明るい茶色の短い髪を布で覆った娘が、屋上へ続く狭い階段から下りてきた。耳には短い鉛筆を差し、片手に点検用の小さな帳面を持っている。
「高窓の外に、葉も煤もありませんでした。時刻は今でいいですか」
「リナ、下りた時刻を書いて。鍵も戻して」
リナは壁の鉤へ鍵を戻し、帳面へ大きな字を書いた。作業台の湯気は、高い壁の開口部へ寄って外へ流れている。薬草を焦がした時の煙も、同じ所から外へ抜ける。屋上の通路は、その外側を掃除する時に使うものらしい。
リナが時刻を書き終えると、ヘレナは数字を一つ読み返させ、屋上へ持っていった布が戻っていることも確かめた。リナが早口で報告しても、聞き流さず最後まで待った。
リナが点検帳を置き、熱い器へ手を伸ばした。
「その器は乾いた台へ。手袋を外すのは置いてから」
「はい。置いたら火も落とします」
ヘレナはリナの手袋と、熱い器が乾いた台へ移ったことを確かめてから、ようやくハドリーへ向いた。
「今朝の返事を受け取りました。五番について、話を聞かせてください」
ハドリーが返書を見せると、ヘレナは末尾の自分の印を確かめた。
リナが当日の調薬記録を、壁際の机へ運んでいた。机の上には新しい紙が重ねられ、下には浅い引き出しがついている。リナは記録を外側の棚へ収めたが、鍵の掛かった引き出しには触れなかった。
ヘレナは返書をハドリーへ戻した。
「この台のそばでは話せません。隣の記録室へ行きましょう」
リナへ火元と器をもう一度見させ、作業を止めた印を帳面へ付ける。自分でも薬包紙が熱い台から離れていることを確かめてから、ヘレナは工房を出た。
戸を閉める前、ヘレナは振り返った。
「リナ、次の材料は量らないで。戻るまで、今の器だけ見ていて」
「蓋をして、時刻だけ書きます」
リナはすぐに答えた。ヘレナはそれ以上言い直さず、戸を閉めた。
渡り廊下の途中で、川からの風が薬草の匂いを薄くした。
少し遅れて、火を落とし、器に蓋をして時刻を書き終えたリナが、工房の戸を閉めて記録室前へ来た。
記録室では、ハドリーと右肩を固定した記録係が机の片側へ座った。筆記は一緒に来た保安吏が受け持ち、カルドはその後ろ、書面が読める位置に椅子を置く。
ヘレナは向かいへ座った。リナはまだ呼ばず、廊下で待たせている。
ハドリーは今朝届いた返書と、二枚の認証写しを机へ置いた。一枚は検案の作業紙を出した時の帳面、もう一枚は正式な検案結果へ付けた紙の一覧だった。
「五番の欄にある担当印は、あなたのものですか」
ヘレナは印の形を見た。
「私の印です」
「五番は、一枚でしたか」
ヘレナは記録室の棚から未記入の作業用紙を二枚取った。机の上で重ね、一枚目の右上を指す。
「一枚ではありません」
二枚目を少しずらした。ヘレナは一枚目の番号欄で五の形をなぞり、二枚目の同じ場所でもう一度なぞる。その隣には、続きの紙に使う小さな印の欄があった。
「五番は、こうして二枚使いました」
書記役の保安吏が、紙の枚数を二枚と書いた。右肩を固定した記録係は、書いた文を読み上げさせ、発行簿の一件と現物の二枚を別の行へ分けさせた。
「その二枚を、検案結果の束へ入れましたか」
ヘレナの指が、重ねた紙の端で止まった。
「入れていません」
「誰が外しましたか」
中庭から、荷車の車輪が石を踏む音が聞こえた。ヘレナは二枚を揃え直したが、棚へは戻さなかった。
「私です。二枚とも外して、白い封筒へ入れました」
書記役の手が一度止まり、紙の上で筆先が浮いた。右肩を固定した記録係が、今の言葉をそのまま書くよう頼む。ヘレナは訂正を求めず、重ねた未記入用紙を見ていた。
「誰かに、外すよう言われましたか」
「いいえ。私が決めました」
ハドリーはその返事を書かせてから、カルドを見た。
「一つ、いいか」
「どうぞ」
カルドは両手を組み、ヘレナへ尋ねた。
「二枚目には、何を書いた」
「遺体を見ていて、転落だけで生じたと言い切れないものがありました」
「どこに、何があった」
ヘレナの指が、二枚目の端に残った。
「今は言えません。覚えている形や場所が、紙と違ったらいけない。五番を開いてから答えます」
カルドは帳面に、「五番を見てから」とだけ書いた。
書記役は「未確定の観察あり」とだけ記した。その下は空いたままだった。
「正式な検案票には移しましたか」
「いいえ。二枚目に残したままです」
ヘレナは未記入の二枚を棚へ戻した。指先には薬草の薄い色が残っている。布で拭こうとして上着の腰へ手をやり、工房へ置いてきたことに気づいて、そのまま手を膝へ下ろした。
「なぜ外したんですか」
ハドリーの声は変わらなかった。
「結果はいつ出るのか、遺体はいつ返せるのか。何度か問い合わせが来ていました」
ヘレナは窓へ目をやった。中庭を白衣の職員が横切っていく。
「分からないことを正式票に書けば、引渡しも補償も止めてしまうかもしれない。そう思ったんです」
「引き渡しや補償が止まると、誰かに言われたんですか」
「いいえ。私がそう思っただけです」
書記役が筆を止め、ハドリーを見た。
「届いた連絡には、何と?」
「結果はまだか、と。それだけです。紙を外せとは書かれていませんでした」
カルドはハドリーへ目を向けた。許可を得てから、もう一つ尋ねる。
「あとで確かめるつもりなら、なぜ八年置いた」
ヘレナは膝の上で手を握り直した。
「遺体を返してから、もう一度調べるつもりでした。最初は次の週に。それが、仕事が落ち着いてからに変わりました」
「訂正書は出しましたか」
「一度も出していません」
「その封筒を、最後に見たのはいつですか」
「今年の書類整理です。毎年、その時に見ていました。捨てることも、出すこともできませんでした」
ヘレナは膝に置いた両手へ目を落とした。薬草の色がついた指先を、親指でゆっくりこすっている。
ハドリーは認証写しの五番へ指を置いた。
「訂正したら、検案の仕事を失うと思いましたか」
ヘレナは薄くなった袖口を親指で押さえた。
「はい。もう検案を任せてもらえなくなるのが怖かった。自分の署名まで疑われるのも」
ヘレナは言い終えると、薄くなった袖口から手を離した。膝の上には、薬草の色が残った指だけが見えている。
ハドリーは書記役がまとめた供述を、ヘレナに読み聞かせた。ヘレナが訂正はないと答えたところで、用紙を閉じた。
ヘレナを廊下へ出し、代わりにリナが呼ばれた。作業用の布を外した明るい茶色の髪が、耳の横ではねている。短い鉛筆は、まだ耳に差したままだった。
「五番の紙について、知っていることはありますか」
「五番が何を書いた紙かは、今日まで知りませんでした」
「封筒を見たことは?」
「あります。一階の保管机で、古い記録を入れ替えた時に」
「開けましたか」
「開けていません。引き出しの中は先生が扱います」
リナは、工房で記録をしまった机の形を手で示した。日々の帳面を置く外側の棚は使うが、浅い引き出しには鍵が掛かっているという。
「どんな封筒でしたか」
「白い封筒で、表に大きく五と書いてありました。先生の字です。いつもの調薬記録と一緒に置きかけたら、そこへ戻すように言われました」
「中に何枚あったかは?」
「知りません」
「八年前から同じ封筒だと分かりますか」
「分かりません。私が見たのは、封筒と、五の字だけです」
書記役が記録を読み返すと、リナは最後まで聞いてうなずいた。
「それで全部です」
ハドリーは質問を終えた。
廊下で待っていたヘレナが戻る。今度はリナも室内に残った。
「五番を、保安局へ出してもらえますか」
「出します。今夜中に、私が渡します」
ハドリーは返事を急がず、提出する時刻の欄へ「今夜中」と書かせた。受領時刻と受け取った者の欄は、まだ空白のまま残す。
リナが耳の鉛筆へ手をやった。
「先生、戻ったら夕方の薬を始めますか」
「いいえ。封筒を出すのが先です」
ハドリーは机の鍵からヘレナへ目を戻した。
「今は、どこにありますか」
ヘレナは上着の内側から、小さな鍵を取り出した。記録係と書記役に見えるよう、机の中央へ置く。
「一階の保管机です。鍵の掛かる浅い引き出しに、未記入の検案用紙とは分けて入れています」
記録係は机上の鍵を確認し、封筒の受領欄は空けた。カルドも帳面に「未受領」と書いた。
「お二人は、ここで待っていてください」
ハドリーは戸口にいた保安吏を呼んだ。
「先に調薬工房へ行ってください。入口で待ち、中へは誰も入れないでください」
保安吏が出ていくと、ヘレナは机上の鍵へ指を置いた。
「リナ。工房へ戻っても、保管机には触らないで。入口で待っていて」
リナは耳から鉛筆を外し、持っていた点検帳の上へ置いた。
「夕方の分は、五番を出してからにします」
窓の外では、午後の光が中庭の半分まで移っていた。渡り廊下の向こうにある工房の高窓からは、先ほどと同じように薄い湯気が流れている。
先行した保安吏が中庭を渡り、工房の戸口で止まった。
ヘレナは鍵を握り、椅子から立った。ハドリーが先に記録室の戸を開ける。右肩を固定した記録係と書記役の保安吏が続き、カルドも帳面を閉じた。
一行は、まだ中を確かめていない白い封筒を受け取るため、薬草の匂いが残る渡り廊下へ戻った。




