第15話 二つの落下痕
記録係が最初の名を書き終えたころ、倉庫組合の装置検査員が門へ着いた。
三号棟の作業は止まったままだった。閉じた門の外には荷車が並び、事情を聞く御者たちの声が川風に流されている。いつもなら倉庫の奥まで響く鎖の音も、荷を受ける掛け声もなかった。
戸口近くでは、右肩を痛めた記録係が椅子に座っていた。保安吏が書いた人名を左手で一つずつ確かめている。その向こうでは、倉庫側の責任者が作業員を受付の横へ集め、勝手に持ち場へ戻らないよう見ていた。
エマは門の隙間から、医療施設へ続く道を見ていた。
「一人で馬車を追うな」
カルドが半歩前へ出ると、エマは門へ掛けていた手を下ろした。
「ここを見終えたら、ハドリーに移動の許可を取る。俺も行く」
「あの若い人は、まだ向こうにいますか」
「待合に残っています。先に行かせた保安吏も一緒です」
ハドリーは死亡通知の添え書きを畳みながら答えた。
エマは門から離れ、カルドの横へ戻った。前掛けを握った指には、工房の墨が薄く残っている。
検査員は油染みのある短い上着を着て、巻き尺と紙筒を提げていた。すぐには倉庫へ入らず、戸外から大枠を見上げる。作業員が入れた仮の支えを責任者と確かめ、柱へ手を当てて揺れがないかも見た。
縄の向こうでは、川側と壁側の荷台、主操作部、入口側の支柱に一人ずつ見張りが残っていた。誰も機械へ手を伸ばさず、検査員が来るのを待っている。
「中へ入れるのは、私と検査員、補助の保安吏だけです」
ハドリーが縄を上げる。三人が中へ入ると、責任者は問われた時に答えられるよう入口の内側へ残った。カルドとエマは白線の外から動かなかった。
検査員は川側の荷台の手前で足を止めた。
五つの木箱が、食い込んだ縄に締めつけられている。荷台の下では一箱が割れ、布包みが床へ飛び出していた。朝の光が当たるたび、裂けた板のささくれが白く見えた。
「上がる前は、何箱ありましたか」
「六箱だ。積み込み表にも残っている」
責任者は入口から答えた。
見張りが床の箱へ近づこうとすると、ハドリーが手を上げた。
「動かさないでください。今ある場所を先に残します」
検査員は荷台の脇へしゃがんだ。縦の枠には深いへこみがあり、張った縄は枠側へ引かれて木箱の角へ食い込んでいる。
補助に入った保安吏が、荷台の五箱と床の一箱、深い痕を同じ図へ描いた。ダリスの肩が当たった枠と、若い作業員を押し込んだ柱も加える。ハドリーは出来上がった写しを、医療施設へ送る書類の上へ置いた。
カルドは帳面に、落下前は六箱、今は荷台に五箱、床に一箱と書いた。
エマは割れた木箱を見ていなかった。ダリスが運び出された戸口へ顔を向けたまま、前掛けから手を離さない。
検査員が立ち上がり、荷台の大枠に沿って壁側へ歩いた。そちらには箱が一つもない。空の荷台は片側を下げたまま止まり、外枠には斜めの擦れが走っていた。床のへこみも、川側の深い痕ほど大きくない。
「同じ図へ入れますか」
保安吏が紙を押さえて尋ねた。
「新しい紙へお願いします」
ハドリーが答えた。
空荷台が枠へぶつかった位置と、床へ当たった跡が別の図へ移される。カルドも帳面の隣の頁に、傾いた荷台の形だけを描いた。
エマは川側の木箱から壁側の空荷台へ目を移し、斜めの擦れを上から下まで追った。
壁側の外枠を見上げていた検査員が、そのまま主操作部へ向かった。操作腕には触れず、留め金を外して外板を開く。
中には、腕の動きを荷台へ伝える細い棒が通っていた。全員が退いた時につけた印と、棒の位置は重なったままだった。周りの埃にも、新しくこすれた筋はない。
「ここで壁側を下げたなら、この棒も動きます。印はずれていません」
保安吏が位置と埃を図へ残す。検査員が外板を戻すと、保安吏は留め金へ新しい封を掛けた。
カルドは見届けた者の名を添え、主操作部の印に変化なしと書いた。筆を置いた時、検査員は入口側の支柱まで戻っていた。
「そこは、サルガン院長が手をついた場所です」
ハドリーが示した所には、掌ほどの蓋がついている。支柱の中を通る部材を見るため、点検の時だけ外すものだった。
検査員が蓋を外すと、縁の塗装が小さく欠けていた。下の出っ張りには欠片が一つ残り、その下から出た金属に赤い錆は浮いていない。
補助の保安吏は欠けた場所を描いてから、残っていた欠片を採った。紙には採った時刻だけを書き、塗装が欠けた時刻は空けておく。
「上も見てきます」
検査員は保安吏を連れ、上部の通路へ向かった。ハドリーは下で待ち、カルドとエマを縄の外から動かさなかった。
二人が戻ってくると、検査員は紙筒へ収めずに持っていた図を広げた。
「荷台を上で止める鉄の受けに、明るい傷がありました。古い黒い擦れとは、向きが違います」
作業員が受け爪と呼ぶ部分だった。上の傷を写した図は検査員が、支柱から採った塗膜の欠片は保安吏が、それぞれ記録係へ渡した。記録係は二つを別に受け取り、傷の時刻と使われた道具の欄を空けた。
エマは点検蓋へ目を戻した。掌ほどの小さな蓋が、開いたまま朝の光を受けている。
カルドは蓋の縁と、上にある鉄の受けを帳面の別の行へ書いた。
検査員が道具を片づける間、戸口の記録係は図の箱数と場所を読み上げてもらい、左手で確認した。右手はまだ胸元で固定されている。責任者は外の作業員を振り返り、全員が残っていることを数え直した。
窓から伸びた光が、止まった二台の荷台の間まで届いていた。
「記録係から、受付の小部屋へ来てください」
ハドリーが声を掛けた。
受付脇の小部屋へ入ったのは、ハドリーとカルド、それに呼ばれた証人一人だけだった。戸は開けたままにし、エマはそこからカルドの姿が見える場所に立つ。残る二人は、答えが聞こえない所で保安吏と待った。
記録係は椅子へ座ると、痛む右腕を身体へ寄せた。
「最初の荷台が落ちたあと、鞄の何を確かめましたか」
「外の留め具です。鞄を胸の前へ回して、指で触りました。中は開けていません」
「封をした袋を、最後に見たのは?」
「保守区画で鞄へ入れた時です」
記録係は一度息を整え、左手で膝の紙を押さえた。
「さっきは、中身を出した人はいないと書かせました。あれは直してください。転ぶまで鞄は身体から離れていません。でも、そのあとは中を見ていません」
「戸口で転んだ時、どこを見ていましたか」
「右肩です。院長が紐を頭から抜いて、蓋を押さえたところまでは見ました。立ち上がる間は、手元も鞄の中も見えていません」
ハドリーは先ほどの記録を読み直し、本人の言葉に合わせて訂正した。記録係は左手で印をつけてから、席を立った。
受付の男は、交代で入ってくると椅子には座らなかった。
「院長が鞄を外したところは見ましたか」
「外し始めたところまでは。でも、記録係を起こして院長が立つまでは、二人の身体で手元が隠れていました」
「そのあとは?」
「院長が責任者へ鞄を渡しました。責任者が肩紐を掛けるところも見ています」
受付の男は戸口の方角を指し、二人がいた位置も伝えた。ハドリーは指された場所を記録し、そこで質問を終えた。
三人目に入った応援の保安吏は、帽子を膝へ置いた。
「あなたが着いた時、鞄は誰が持っていましたか」
「倉庫の責任者です。肩に掛けていました。記録係へ返すまで外していません」
「到着する前は?」
「見ていません」
短い答えのあと、保安吏は自分が門へ着いた時刻を告げた。
三人目の応援保安吏が小部屋を出ると、ハドリーは三人の証言を時刻順に一枚へまとめた。カルドは、アーベルが鞄を外してから責任者へ渡すまで、手元を見ていた者がいないと帳面に書いた。
入口を調べていた保安吏が、膝の埃を払いながら小部屋へ来た。
「敷居と外の石畳まで見ました。袋も封蝋の欠片もありません」
「荷車の下は?」
「まだです。動かさないよう見張りを残しています」
ハドリーが報告を書き加えたところへ、医療施設の使いが戻ってきた。公用馬車は、倉庫から川岸まで一度も止まっていない。保全の書面が届いてからは、アーベルも御者も若い作業員も施設を出ていなかった。
現地では馬車の客室と普段使う収納、待合から見える所まで調べたが、封緘袋は見つかっていないという。
「着いてから、書面が届くまでのことは?」
ハドリーが尋ねた。
「まだ全員分を確かめていません。馬車の内張りと、職員だけが入る部屋もこれからです」
四七番を入れた封緘袋は、まだ見つかっていなかった。
「まだ、ないんですか」
開いた戸の外から、エマが尋ねた。
「はい。馬車の内側と職員用の部屋は、現地の保安吏が続けて調べます」
ハドリーは確認が済んだ場所と人の動きを返書へ書き、未確認の三項目は空欄のまま使いへ渡した。
倉庫には保安吏一人と責任者が残り、四つの持ち場の見張りも続けることになった。ハドリーが医療施設へ移ると告げると、エマは先に門へ向かわず、カルドが帳面を閉じるのを待った。
右肩を固定した記録係も加わり、一行は川岸へ歩いた。正午の鐘が鳴る前に、医療施設の白い壁が見えた。
若い作業員は、待合の一番端にいた。作業着には倉庫の埃が残り、廊下で足音がするたび、膝の間で両手を握り直している。少し離れた所には、倉庫から先に来た保安吏が立っていた。
待合には薬湯と濡れた布の匂いがこもっていた。窓が開くと川風が入り、壁際に干された白い布が細く揺れる。
エマを見た若者は立とうとしたが、足に力が入らず座り直した。エマは何も聞かず、その隣へ腰を下ろした。
倉庫で処置に当たった医療官は、記録係の右肩を固定し直した。アーベルが待つ別室の向かい側、診察室前の椅子へ案内する。そのまま近くの机で、搬送中の記録をまとめ始めた。
ミリアは奥の検案室から出てくると、若い作業員の前へ椅子を運んだ。上着の袖は、左右同じ高さまで上げられている。カルドはエマと若者が見える場所に立ち、ハドリーの質問を待った。
「ここへ着いてから、誰と一緒にいましたか」
「医療官と院長です。保安吏が来てからは、あの人がずっといました」
若者は廊下の端を指した。
「倉庫を出る前、ダリスさんは返事をしましたか」
ミリアが搬送記録を開く。
「エマさんが呼んだら、『聞こえてる』って」
「馬車の中では?」
「一度、目を開けました。でも返事はありませんでした」
若者は握った両手へ目を落とした。
「自分で身体を起こしましたか」
「いいえ。起きていません」
ミリアは倉庫での返事と、馬車で目を開けた時刻を別々に書いた。
搬送記録には、川側の荷台が落ちたあとから、ダリスが右脇腹をかばっていたことも残っている。手は冷たくなり、顔色が悪くなった。呼吸は浅く速くなり、言葉は途中で切れた。馬車へ乗ってからは、呼びかけへの反応も弱くなっている。
「壁側の荷台が落ちた時、新しく身体へ当たった物はありませんでした」
ハドリーが現場図を差し出した。ミリアは搬送記録と照らし、ダリスの衣服も別の封筒へ収めさせた。
ミリアは記録板に、脇腹の内側の出血を調べる項目を加えた。死因の欄は空けたままにし、致命傷が生じた時点と、もっと早く運べば助かったかについても書き込まなかった。そこで筆を置き、ハドリーから川側荷台とダリスが枠へ当たった位置の図を受け取った。
カルドは帳面に、返答、右脇腹、反応低下と分けて書いた。検案室の原記録にも、奥へ運ばれた遺体にも触れなかった。
エマは若い作業員の隣で、握られた手を見ていた。若者が手を開こうとして、また握る。エマも膝の上で前掛けを離した。
カルドはハドリーの許可を受け、アーベルが待つ別室へ入った。エマは若い作業員のそばに残る。
アーベルは砂色の上着を着たまま、机の前に座っていた。現地の保安吏が本人の同意を得て、上着と持ち物をすでに確かめている。封緘袋は見つからなかった。
ハドリーが向かいへ座ると、アーベルは開いた戸の向こうにいる記録係を見た。
「肩は、ひどくありませんでしたか」
「固定して休ませています。鞄を外した時のことを、順に話してください」
「留め具が外れていたので、蓋を押さえました。肩を動かさないよう、紐を頭から抜きました」
アーベルは自分の頭の横へ手を上げ、紐を抜いた時の動きを示した。
「そのあとは?」
「立ち上がって、倉庫の責任者へ渡しました」
「立つ時、右手を支柱につきましたか」
「はい。記録係を起こすために、身体を支えました」
搬送中は医療官に言われたとおりダリスの身体を支え、馬車の揺れから守っていた。医療官、御者、若い作業員が残した記録も、その話と合っている。
ハドリーは記録係を助けたこと、鞄を持ったこと、入口側の支柱へ手をついたこと、搬送を手伝ったことを、起きた順に記録した。読み返された内容に、アーベルは訂正を求めず署名した。
聴取が終わると、ハドリーは事故前七日分の記録を保全する書面を用意した。
三号棟へは、来訪控え、搬入口の当番表、荷揚げ機の点検記録を求める。写本工房には、同じ七日間について、職人と見習い全員の外出と使いの記録をそのまま保管し、写しを出すよう求めた。
ハドリーは二通の書面を持ち、カルドと待合へ戻った。待っていた保安吏へ渡し、三号棟と工房へそれぞれ届けるよう頼んだ。求めた記録は、まだ一つも届いていない。
書面を持った保安吏が出ていくと、若い作業員の隣にいたエマが顔を上げ、ハドリーへ尋ねた。
「私が答えるのは、いつですか」
「倉庫と工房の記録が揃ってからです。時刻が決まったら、カルドさんにも連絡します」
エマは小さくうなずいた。若い作業員へ一度頭を下げ、カルドの隣へ椅子を寄せる。
診察室前では、記録係が今日集まった資料を分けていた。川側荷台の図には一つ目の番号を、壁側荷台と入口側支柱には二つ目を、四七番を入れた鞄の受け渡しには三つ目をつける。点検蓋から採った塗膜と、上の鉄の受けにあった明るい傷の図も、同じ包みには入れなかった。
最後の番号が読み上げられるまで、エマはカルドの隣を離れなかった。




