第17話 消したはずの火
渡り廊下へ戻ると、午後の光はもう中庭の端に寄っていた。
白い壁の下に、細長い影が伸びている。洗った布を運ぶ職員が向こうの棟へ入り、廊下には一行の足音だけが残った。風が吹くたび、調薬工房から染みついた薬草の匂いが流れてくる。
ダリスの検案と四七番の捜索は、医療施設と三号棟に残った担当者が続けていた。新しい返事はまだ届いていない。
工房の戸口には、先に行った保安吏が立っていた。ハドリーを見ると、閉じた戸から半歩離れて報告する。
「私がここへ着いてから、戸を開けた者はいません。中庭を通った職員が二人いましたが、二人とも廊下の向こうへ行きました」
書記役の保安吏が、先行した保安吏の名と到着時刻を書いた。右肩を布で固定した記録係は、その紙を横から読み、うなずいた。今日は鞄を持っていない。
ハドリーはリナへ向き直った。
「記録室へ来る前、工房に誰か残っていましたか」
「誰もいません。最後に出たのは私です。戸を閉めてから、記録室へ行きました」
ヘレナは上着の内側から、小さな鉄の鍵を出した。
「保管机の鍵です。引き出しを開けるまでは、私が持ちます」
ハドリーは鍵の形を見たが、受け取らなかった。
「中へ入るのは、ヘレナさん、リナさん、カルドさんと私です。三人はここに残ってください」
右肩を固定した記録係と書記役が、戸の脇へ移った。先行した保安吏は、廊下から中庭へ出る道を空けて立つ。
カルドは閉じた戸を見た。戸板の合わせ目に割れはなく、鉄の取っ手も外れていなかった。
ハドリーが戸を開けた。
表の戸は先行した保安吏が見ていた。だが、外階段から屋上保守通路へ出る鉄扉もある。ハドリーは敷居を越えず、まず入口右の壁を見た。
鉄扉を開ける木札付きの屋上鍵は、リナが戻した鉤に掛かっていた。書記役は戸外から鍵と鉤の位置を書き、カルドも帳面へ写す。ヘレナが持つ保管机の鍵とは、形も木札の有無も違っている。
誰も屋上の鍵には触れなかった。
ハドリーが先に入り、ヘレナが続いた。リナとカルドは、入口から数歩の所で止まった。
工房の中は静かだった。
さっきまで湯気を上げていた器には蓋が載り、石の火床にも炎はない。中央の作業台には、使い終えた秤と折りかけの薬包紙が残っている。高い排気口から入る風が、棚に下がった乾燥葉をわずかに揺らしていた。
リナは胸元の小さな点検帳を受渡し台へ置き、耳の後ろの鉛筆を帳面の紐へ挟んだ。
壁側の保管机は、中央の作業台を回った先にある。ヘレナが先ほど記録を置いた机だった。上には紙も封筒もなく、下に横長の浅い引き出しが一つついている。
ヘレナが机へ向かった。ハドリーはその一歩後ろを歩く。カルドとリナは、受渡し台のそばに残った。
「この引き出しです」
ヘレナが浅い引き出しを示す。鍵穴は右端にあった。
ハドリーが机の上と床を見てから、ヘレナへうなずいた。
ヘレナは右手の鍵を持ち直した。先端が鍵穴へ届くより前に、カルドは顔を上げた。
乾いた薬草の匂いに、苦い臭いが混じっていた。鍋底を焦がした時よりも鼻に残る。
「焦げた臭いがする」
カルドが見た先で、薄い灰色の筋が下りてきた。
熱を使う石台の上ではない。もっと高い所だった。壁の上にある排気口の辺りから、細い煙が室内へ戻り、奥の棚の前で広がっていく。
リナが蓋をした器を見た。器の周りに火はなく、火床にも赤い光は見えない。
「火は消しました。あの器にも蓋をしました」
煙は一度天井へ寄り、それから作業台の方へ流れた。ヘレナが鍵を握ったまま、保管机から離れる。
ハドリーは奥へ行かなかった。入口を振り返り、まずリナを指した。
「リナさん、外へ出てください」
リナは点検帳を受渡し台から取り、戸口へ向かった。
「ヘレナさんも、リナさんの後へ」
「引き出しは開けていません」
ヘレナは鍵を見せた。引き出しは閉じたままで、鍵穴にも何も差さっていない。
「その鍵を持ったまま出てください」
ヘレナは机へ戻らず、入口へ歩いた。
カルドは、閉じた引き出し、ヘレナの右手、煙が見えた高さを順に見た。奥の様子を確かめに行かず、二人の後ろへ続く。
「カルドさんも外へ。私は最後に出ます」
ハドリーは作業台の脇に残り、室内に誰も取り残されていないことを見ていた。
戸外にいた保安吏が、リナの姿を見ると廊下の中央を空けた。
「リナさんを中庭へ連れていってください」
ハドリーの声が工房から飛ぶ。先行保安吏はリナの肘へ手を添えたが、引っ張らず、歩調を合わせて渡り廊下の外へ連れ出した。
右肩を固定した記録係は、書記役と一緒に中庭の風上へ移った。走ると肩に響くのか、歯を食いしばって歩いている。
次に出てきたヘレナは、自分の足で敷居を越えた。二歩進んだところで咳き込み、廊下の柱へ左手をつく。右手には、保管机の鍵を握ったままだった。
カルドがその後ろから出た。
「ヘレナさんを、リナさんとは離れた場所へお願いします」
書記役がヘレナのそばへ行き、中庭の石壁際まで付き添った。
ハドリーは最後に戸口へ下がった。顔は工房の中へ向けたままで、奥へ戻る者がいないことを確かめてから敷居を越える。
煙は戸口の上まで広がり、薬草の匂いを押しのけていた。
「戸の前を空けてください。誰も中へ入らないで」
先行保安吏が入口の横へ立ち、近づこうとした施設職員を止めた。
その時、工房の高い所で、金属の板が跳ねるような音がした。
一度だけ、重い音が壁へ響く。
天井近くの上側にあった口が開いた。室内に溜まりかけていた煙が持ち上がり、そこから外へ流れ始める。白い壁の上に灰色の煙が現れ、風に押されて屋根の向こうへ薄くなっていった。
リナは目元を袖で押さえながら、高い壁を見上げた。
「上の排気口です。煙が増えた時に開く方が、今、開きました」
「普段の排気口とは別ですか」
ハドリーが聞く。
「はい。いつもの排気口より上にあります」
煙が上の排気口へ流れ、戸口から出る量が減ったところで、ハドリーは先行保安吏に戸を閉めるよう指示した。保安吏は敷居を越えず、外から取っ手を引いて戸を閉めた。
ハドリーは、閉じた戸の前に残った保安吏を見た。
「中庭の当番に、医療担当を呼ぶよう伝えてください」
保安吏が近くの職員を使いに走らせる。
「屋上へ上がる道にも、人を立たせてください」
別の施設職員が、屋上へ続く外側の階段へ向かった。
書記役は中庭から名前を読み上げた。先行保安吏、記録係、自分の名に続き、リナとヘレナを別々に呼ぶ。
「リナです。ここにいます」
リナは壁に背をつけず、自分の足で立って答えた。咳を一度した後、もう一度息を吸う。
「ヘレナ・レント。聞こえています」
ヘレナも自分で答えた。柱から手を離していたが、息の終わりに短い咳が混じる。
カルドが返事をし、最後にハドリーが自分の名を告げた。
書記役は七人の名を指で追い、全員が工房の外にいることを書き留めた。
医療担当が来るまで、誰も工房へ戻らなかった。
煙は上の排気口から外へ抜けていたが、閉じた戸の前にはまだ焦げた臭いが残っている。先行保安吏は入口を見張り、施設側の職員は外階段の下に立った。屋上へ向かった者はいない。
白い上着を着た医療担当が二人、中庭を急いできた。一人はリナの前へしゃがみ、もう一人は数歩離れたヘレナのそばへ行く。二人を同じ場所へ集めず、それぞれの返事と呼吸を確かめた。
リナの目は赤くなり、頬には煙をぬぐった跡がついていた。ヘレナの掌には、強く握っていた鍵の輪が赤く残っている。外へ出て歩けたことは見て取れたが、二人ともまだ煙の臭いをまとっていた。
リナは名前と、工房から自分で歩いてきたことを答えた。目の痛みと咳があり、医療担当はその場を離れず様子を見るよう伝える。
ヘレナも名前を答え、入口から柱まで自分で歩いたと話した。返事の途中でまた咳が出た。医療担当は胸の音を聞き、中庭の反対側に用意された椅子へ座らせた。
医療担当は二人をその場に残し、もう一度、呼吸と目の状態を見始めた。
ハドリーは、まずリナの所へ行った。書記役には少し離れた位置から記録させる。
「火を最後に見たのは、いつですか」
「記録室へ行く前です。炎が消えたのを見てから、火を落とした時刻を書きました」
「器の蓋は、その前ですか、後ですか」
「後です。火の時刻を書いて、器に蓋をして、もう一つ時刻を書きました」
リナは点検帳を開いた。煙の中でも手放さず、胸元に抱えていたものだ。
「煙が出てから、屋上の鍵に触れましたか」
「いいえ。工房へ入る前、入口右の壁で見たのが最後です」
書記役が書き終えると、ハドリーは点検帳へ目を落とした。
「この帳面を預かります。該当する頁を開いたまま、書記役へ渡してください」
リナは屋上点検、鍵返却、火元停止、器の蓋の四行が見えるようにして差し出した。
書記役は表紙の番号と四つの記載を読み、記録係にも聞こえる声で確かめた。空の封筒を一つ出して、点検帳を一冊そのまま入れる。封筒の表には、受け取った時刻と自分の名に加えて「点検帳一冊」と書いた。封蝋を押すと、右肩を固定した記録係が横から割れのないことを見た。
ハドリーは次に、椅子へ座ったヘレナの所へ移った。
「引き出しは開けましたか」
「いいえ。鍵を差す前でした」
「白い封筒を見ましたか」
「見ていません。机の上にも出していません」
「保管机の鍵は持っていますか」
ヘレナは右手を開いた。小さな鉄の鍵が、汗ばんだ掌に残っている。
「落としていません。これです」
「一時、預かります」
ハドリーはヘレナの掌から、保管机の鍵だけを受け取った。
書記役は用紙に「保管机の鍵一個」と受け渡した時刻、二人の名だけを書いた。ヘレナの前で鍵の長さと歯の形、紐も木札もないことを見てから、小さな包みに入れて封蝋を押す。右肩を固定した記録係が封を見てうなずいた。
書記役は鍵の包みだけをハドリーへ渡した。五番の受領欄には、まだ何も書かれていない。ハドリーは包みを上着の内側へしまった。
カルドは中庭の端で帳面を開いた。入口、受渡し台、保管机を三本の線で描き、煙が見えた時にいた四人の位置へ丸をつける。
「煙を見た時、ヘレナさんは机の前。ハドリーはその後ろ。リナと俺は受渡し台のそばにいた」
書記役が見取り図へ同じ位置を書き入れた。
「鍵は、まだ鍵穴に入っていなかった」
カルドは見取り図の端に時刻を書き添え、鉛筆を止めた。
日がさらに傾き、中庭の石が冷え始めた。
高い排気口から出る煙は細くなっていた。閉じた工房の戸から少し離れた所に、保安吏が二人立った。外階段の下にも施設職員が残っている。
工房へ入る直前、屋上の鍵は壁の鉤にあった。煙が出てからは誰も中へ入っていないが、今も同じ所にあるとはまだ言えなかった。
ヘレナは医療担当の許可を得て椅子から立った。数歩だけ歩き、ふらつかないことを見てもらってから、工房の方を見た。
すぐに戸口へ近づこうとはしなかった。医療担当が立つよう示した場所で止まり、保安吏二人の向こうにある保管机の壁を見ている。閉じた引き出しは外から見えなかった。
「中へ入っていいと担当の人が決めたら、私も立ち会わせてください」
ハドリーは、焦げた臭いの残る戸口を見た。
「先に、火元と空気を調べてもらいます。それが済むまでは、保安吏も入りません」
「分かりました。預けた鍵で引き出しを開けてください。私がいる前でお願いします」
ヘレナは一度咳をし、息を整えてから続けた。
「白い封筒があれば、今日のうちに五番として提出します」
ハドリーは書記役へ、事故対応の職員が来たら到着時刻を書き、すぐ自分を呼ぶよう伝えた。
カルドは、ハドリーの上着に収まった鍵の包みと、保安吏が閉めた工房の戸を順に見た。屋根の上へ流れる煙は、最初よりも薄くなっている。
ヘレナは医療担当が示した場所に立ったまま、戸の向こうにある保管机の壁を見ていた。右手はもう空だった。
白い封筒を入れたと話した引き出しは、鍵を差されないまま工房の中に残っている。ヘレナは今日中に提出すると話したあとも、その戸から目を離さなかった。




