17 ハイチ4・真実
声の掠れ方に、彼女は思わずと目の前のケルッツアを見た。
なぜそんな芝居を打つ必要があるのか。数瞬考えて、それでも生きたい意志が頑張っているのか、と。しょうがない子供を見るような顔で"幻"の慌て具合を見ている。
ソフィレーナは、言葉を続けた。
「…⋯こうして、首を切った私が生きていることが、こっちが現実と信じる根拠です。
何をそう慌てるの? もう全部、わかりきっているじゃない。
……でも、幻だって、分かっていても、あなたは本当の、ケルッツア・ド・ディス・ファーンみたいでした。……思わす、丁寧語になっちゃったくらい」
心底微笑ましく笑うソフィレーナに、灰色の瞳は一対、これ以上ないほどに見開かれ零れ落ちそうに揺れている。
足元のない様相で、彼女自身、幻と分かっていても心の痛む酷い焦燥と絶望を湛えて、目の前の流民は皇女に手を伸ばした。
よたり、よた、と近づいてくるケルッツアの姿に、ソフィレーナは動かない。
動かないまま、困った顔を哀しげに歪めて、駄目よ、と。
「駄目よ。……本当に、あのひとが困っているみたいな顔を映し出すなんて、止めてちょうだいな。
……いいこ、だから」
語りかける声にも、声は返らない。
ただ、求めるように近づいてくる知恵者の幻を、助手は悲しげに見つめている。
酷く弱りきった、よく知っている顔に、その記憶はどこから来ているのかと頭を浚い。
ふと、彼女は彼の格好を思考に入れた。
目の前の幻は、白い布地に深い蒼を纏う衣装を着込んでいる。
それは優しい夢の中、助手は悪夢を見ているという知恵者が、砂漠に向かった格好に良く似ていたがしかし、頭に巻かれた布に胴のそれに、微かに赤茶けた砂埃が付着しているという相違がある。
その違いに、わずかだけ、彼女のうちが違和感を訴えた。
今目の前にいる幻の格好は正に、今砂漠に居る知恵者が目の前に現れたかのような。
実際、砲丸投げの要領でベッドに放り落とされる前一瞬香った匂いは、過去遺跡調査灼熱常ニ嗅イデイタ……?
ソフィレーナは慢性的な頭痛に視界を揺らしつつも、目の前の流民の姿を捉え続ける。
ケルッツアの、一等陶酔し、これ以上はないと定めたあのひとの、驚愕に歪む顔。
哀願を突きつけられている錯覚に陥る光を宿した灰色の眼。伸ばされる褐色の手。
『なんて無茶な事をッ!!!
ソフィーレンス君!? ソフィーレンス君!! 大丈夫かッ!』
ソフィレーナの頭に、声がこだました。目の前のケルッツアに重なるようにして、酷く切羽詰った様子の彼が彼女を覗き込んでいる。
なんて無茶な事を。慌てた声には驚愕と絶望がない交ぜで響いた。
無茶な事とはなんだろう、と、彼女は。
アノヒトヲ受け止メタ衝動デ背中がイタイ。
濁った赤が動き出す予感は、真綿で締め付けられる頭が上げる悲鳴に良く似ている。
かすむ視界には何よりも焦がれる知恵者の姿。
青ざめた褐色の顔。
切羽詰ッタ声。
伸ばされる腕、身体ガばらばらニナッテシマイソウ肺ノ空気ガポンプの要領で口カラ。
苦しいそんな顔をしないで。幻でも胸が痛む。息ガ上手ク。
身体二掛カッタ温カナ重ミ受ケ止
酷い頭痛に、幾度と思考がかき乱されていた。自分が立っているのか座っているのかさえ思い出せない混乱と吐き気を押さえつけて、しかしソフィレーナは記憶の断片を掴み取ろうと意識を集中させる。
縋りつくように近寄ってくる幻の知恵者は、時折、唇を震わせて単語らしきものを呟いていた。受け入れがたいものに直面し、そのことで悔しさよりも先に狼狽を見せる取り乱しようは、ソフィレーナの心を深く抉る。
”幻”だと分かっていても。己の作り出した精巧なまやかしだと知っていてもなお。
頭の痛みと呼吸の苦しくなる胸の疼きから逃げるように、彼女の思考は別の糸口に、その服装に逸れていった。
どうして私……黒い衣装を着ているこのひとを、幻の映像として、選ばなかったのかしら?
震える褐色の指が伸びてくる様を見つめながら、ソフィレーナはぼんやりとそんなことを考える。
鈍痛に軋む胸の叫びで麻痺した神経の中、ゆっくりと瞬きを一つ。
……ケルッツア・ド・ディス・ファーンには……黒いコート姿でいてほしい、なぁ…………
恐る恐ると頬に伸ばされる褐色の手に、白い指先を向かわせ、それに呼び方も、と首をかしげた。
助手君、がいいな。ソフィレーナ・ド・ダリル、って、さっき呼ばれたけど。でも。
本当は
「ソフィレーナ…さん」
指先が重なり、ついで掴むような鋭利さで白い手が褐色の手のひらに覆われる。
かかる圧力はわずかにソフィレーナの痛みを増幅させた。
しかしその痛みは頭の痛さとも、胸のうちをえぐるそれとも似つかないほどどこか甘みを含んで届く。
神経を突きさす頭痛は、酷く重く早く深くなってゆく。
褐色の手は、焼け付くように温かかった。
血に塗れて生ぬるくなったそれではなく、わずかな汗の湿り気を伴って尚、熱く、痛い。
なぜ幻に触れるんだろう、そんなことを考えたソフィレーナは、ああこの感覚さえも、触ったと思う錯覚なんだ、と痛みに腫れた思考を巡らせた。
ソフィレーナの手を握ったまま、”幻”のケルッツアは苦しそうに一つ息を吐き、そのまま、白い花の撒かれた白い絨毯に崩れ落ちる。酷い呼吸の乱し方で、肩を上下させていた。
握られる手は温かい。その温かさにそっと、ソフィレーナはもう片方の手を添えた。
温かい。
温かさが消えない。
本当に触られているみたい。縋るように頬を摺り寄せようと身を屈めて。
「馬鹿をいうな」
その声に。動きを止める。
見下ろす先のケルッツアは、ソフィレーナの足元に視線を固定させたまま、もう一度同じ言葉を繰り返した。呟く声は脅迫に駆られ。
「馬鹿を……馬鹿を言うな。エルヴィンは手遅れになると言ったんだなら、なら、それはまだ手遅れになってないという事だろ? ソフィレーナさんは、死んでないって。死んでない。生きて…首を掻っ切…傷、
……そうかそうだ…馬の契約者の治癒………。じゃあ…――――………――………。
タイミングが、合った、んだ」
聞き取れる言葉と聞き取れない言葉が、知恵者の口からつむぎ出される。
声は確かに聞こえているはずなのに歪曲して聞こえる可笑しさに、ソフィレーナは不可解を覚えた。
脳を巡る血流が、膨張し、拡張し、頭蓋骨を締め付けている。痛い。痛い。痛い。
痛みで霞む視界を瞬きで散らし、ソフィレーナの見つめる先。
漸く顔を向けたケルッツアの頬は、湿っていた。
褐色の頬の上をまた一つ、眦から零れた涙が伝ってゆく。
知恵者の泣き顔など見たことがなかった助手は、目を見開き、愕然と。
私このヒとが泣ク姿なんて見タコト、ナ
破裂する痛みと同時、強く腕を引かれて抱きしめられる。
クリアな視界。
霧の晴れた思考のさなか与えられる抱擁は、両肩の関節が外れるのではないかと思うほどの軋みを伴っていた。
耳元では轟きが。
「君は!! ッ君はなんて馬鹿なことをしたんだ!!!! 僕は生きているって言ったッ!! 大切なナイフだって! 僕が一体何のために君のところへ置いていったとッッ
ッ自殺させるためじゃ…ッ君が死ぬためじゃないんだぞ!?!?
指輪を預けてくれたのだって……帰ってきて欲しいって……僕は、僕は君の言葉が嬉しかったのに。君があそこで待っていてくれるならって、早く帰ろうと……なのにッッッ!!!
自殺だって?! 首を掻っ切るだって!?! そんなの、そんなのは、酷すぎるじゃないか……
どうして……僕は生きているのに……どうして僕を信じてくれない……!!!!!
ソフィー……ッッ! ソフィレーナぁああ!!!」
揺すぶられ、乱暴に力を与えられるその通りに身体を捩れさせながら、ソフィレーナは理解に泣いた。
綺麗に晴れ渡った頭の中が、確かな実感を伴って現実を教えている。
一番端的な根拠としては、と。
ソフィレーナは解析する。
今おのれを抱きしめている知恵者が彼女の作り出した幻ならば、黒いコートを着て、ソフィーレンス君、と助手の事を呼ぶはずだ。
その姿を一等助手が好くものだと彼女自身のエゴが雄弁に語る以上、その光景が約束されて然るべきであると。
幻ならば、記憶か、そのエゴに忠実でなければ可笑しい。
自分は確かに首を切った。そして命を落とすはずだったのに。
どんな原理かは分からないが、今助手を抱きしめているのは確かに本物の知恵者で、助手は、まだ生きているのだと。
涙に塗れた高く可愛らしい声が、失敗しちゃった、と。本当に小さな響きとなって喉の奥から零れ出た。
その声を聞きとがめたか、ケルッツアは抱きしめる腕の拘束を少しだけ緩め、肩を震わせ、流民の衣装を生ぬるく濡らしているソフィレーナの顔を見る。
「……ぃ、れーな、さん?」
ケルッツアの問いかけに、ソフィレーナは微笑んだ。
彼女の前には、彼の、涙に濡れた顔がある。
その褐色の頬を伝う静かな涙を白いドレスの袖口で拭って、助手は。
「ソフィーレンス、って、呼び方がいいです。
ケルッツア・ド・ディス・ファーン……。
あのね、私は…あなたの助手です。どんな姿になっても、それは変わらない。
だから。
ずっと、ずうっと傍に置いてね」
優しい弦楽器の調べのような声が、知恵者に語りかけた。
涙を拭うドレスの滑らかさに困惑したケルッツアは、ソフィレーナの目を見、そこに正気が宿っていないことに気づく。
一瞬の彼の隙をつき、すばやく立ち上がった白いドレスの身は軽やかに裾を持ち上げ彼を飛び越え姿見へと。
「何をするんだッ!!」
「やああっ!!!!」
咄嗟気づいた流民に押さえ込まれ、無様にも白い絨毯へと強か身を打ちつけた。手荒く両腕を拘束され、知恵者に馬乗りになられる形、花びらの散った白い絨毯に押さえ込まれる。
圧し掛かる彼の、逆光で見えない顔に恐怖を覚えるより先に、彼女は酷く暴れて解放を強請った。
白いドレスを乱し、手を足をとめちゃくちゃに振り回そうと躍起になり。
離して、離して、という声は悲痛と駄々に満ちている。
半狂乱で暴れるソフィレーナの、思わぬ力強さを何とか両手に押さえ込んで、知恵者は彼女の手首に痕がつくのも構わず怒気を吐き出した。
涙で歪んだ褐色の顔のどこにも、余裕など見当たらない。
「何をする気だった!? 姿見のところなど用はないはずだッッ!
また馬鹿なことをするつも」
「馬鹿な事なんかじゃないッッッ!!!!」
怒号には、さらに悲痛な悲鳴が返る。
高く引き攣れた叫びは湿り気を含んで切情に染められ、聞くものの耳を打った。
組み敷かれる形で押さえこまれたソフィレーナは、悲願にぐしゃぐしゃとなった顔をさらに歪めて、乱れた白いドレスの隙間から、声帯の奥の方から、震えた、震えて引き攣れた怒号と嗚咽交じりの声で訴えた。
「馬鹿なことなんかじゃないですッ! 馬鹿なことなんかじゃないぃッ!!!
お、てッッッ! おいて逝ってしまうじゃない!
あなたは、脳が劣化したらッ――ぉ、わた
私をおぃ、てッ! 自殺してしまうじゃないぃッッッッ!!!
だから私も同じ痛みで死ぬの! そう願う事がどう馬鹿なんですか!? おいて逝っちゃうくせに!!
おいて逝くんだから、だから、私にも同じ痛みを下さいッ!! 同じ痛みで死なせて下さい!!!
そのくらい、赦してくださいぃぃいいい!!!!!」
しゃっくりと鼻水と涙とよだれと。泣き叫び懇願する助手の姿に、言葉に。
彼は過去に一度だけ、頭を鉄製のパイプに近しいもので殴られたことがある。まだ流民生活を送っていたときの出来事で、酷い痛みこそあれ、そのときの傷で脳が劣化したり、後遺症が残るなどということはなかったが。
その痛み、さながら。
音でも立ったかというほど、酷い衝撃に頭を殴りつけられた。
「…そ…んなこと、で?」
意識せず零れた言葉に、下から強いまなざしが返る。
烈火のような視線は、怒りに染まっていた光をほらね、と言わんばかり、諦めと絶望に揺らしていた。
悲痛に笑う声を聞いて初めて、彼は零した言葉が失言だと。
「なたは、……きっとそういうと思ってました。ほらね。ほらね……!
変わらないって、わ…ってたから、せめ、同じ痛みで、死なせて、い、ったの。
の、が……ほこ、りが、なくな、ら! 首、きっちゃう、て…おい、ちゃう! って!! 知ってた、ぁ、ら!!!」
ヴェールを乱し整えてあった髪を乱し。ソフィレーナはそういってせせら笑う。
絨毯に押し付けられたまま笑うその声は、喉が裂けているのではないかと思うほど痛々しく、息ばかりが引き攣れて吐き出されていた。
がんがんと、鳴り響く衝撃の中、ケルッツアは組み敷いたソフィレーナを見下ろし、驚愕と混乱に揺れ動いている。
脈打つ心臓の音に混じって、唐突に、声が蘇った。
『あのね、あのね、どくたー・ケルッツア。
あそこに、黒くて大きい石があるでしょう? もし、あれに触っちゃったら、ぼくたちに教えてください。
あそこにはね、眠り馬が眠っているの。触ったら、起こされたことを凄く怒って、呪いをかけられてしまう。
眠り馬の呪いは、掛ける人の不安を増幅させます。
呪われた人は、眠り馬の夢を見た後に、悪い夢ばかり見るようになるの。毎日毎日、自分が、一番不安に思っていることを、ずーっと、見せられます。
呪いをかけられた人は、そのうち眠れなくなっていって、弱って、死んでしまう。
それを治すには、眠り馬を、力を持った魔術師に、払ってもらうか、不安に思っていることを、誰かに強く否定してもらわないといけない……』
『そして、私達の"くらいあんと"よ。
貴方は解決できる事は、なるべく自分で解決したいと仰います。
けれど、眠り馬に、睨まれたものは、自分では決して不安の否定を行えない。
元より、不安の否定は、成功するより失敗する方が多いのです。……不安を取り違えて否定しても、元を分からずに否定しても、もっと悪くなるから……
……わたしたち二人なら、合わせてだが、父上と同じくらいの力をだせます。
だからもし、あの石を触ってしまったら、どうぞ、私達に教えてください』
昨日の展望部屋で掴み損ねた夢の内容が降ってくる。
眠り馬の呪いを払うには、呪いを掛けられたものが不安に思っていることを、否定すればいい。
しかしその行為は、相手の不安の核を分かっていないと、意味がない。どころか、もっと。
頭のどのスイッチを入れたのか、引き出されるように別の記憶が、比較的新しい記憶が蘇った。
『あなたは、首を掻っ切って…自殺するのでしょう……?』
『そう。それは前に話したよ。でも、それだけの情報しか与えていない。
首を掻っ切るにしたって幾つか方法がある。例えば傷口一つ取ってみた所で、もしその夢の映像が君の想像ならば、どこを切るか、確定のものが無いなら、差異が出るはずだ。そして僕が選ぶ方法は、作法の一つ一つを決められた一般的ではない方法。
でも現に君は、僕が取るだろう自殺の手順を間違いなく、しかも詳細にその口で再現した。
そしてね、よしんば仮に、その自殺様式を君が知っていたとしても。
…………一つ、僕の中だけでしか確定していない事項を、君は僕の前で語っているんだよ。
君は確実に、僕が取るであろう手順を踏んで、選ぶ自殺方法を夢で見ている』
そう古いものではない。昨日の午後に紡がれた、知恵者と助手の会話の一つ。
助手が本来知恵者が説明しづらい事象を未来視と例えたことに乗った、彼自身の発言だった。
眠り馬の呪いの本質の説明としてはあながち間違っていない喩え話。
嘘などついていない。本当に上手い、たとえ話だったそれ。
ここ、が。
やっと、ケルッツアに実感を伴った理解が齎された。
助手の言動に対し、幾度か考えてはみたものの、あまりに荒唐無稽、馬鹿げたものだと却下していた要素が、実は本当の、ソフィレーナの悪夢の核。
知恵者が助手の呪いを悪化させていたことに、ケルッツアは何とも言えず、から笑いを零した。
まさかこんなことを、と思う彼のうちは、驚愕とある種の失望、暗い歓喜に湧いている。
それに、疑問も生じた。
驚きから一歩足を退かせて、ケルッツアは息をつく。ちらりと半壊した姿見を見、押さえつける助手の、酷く乱れた様子を見。
例えるならば白いキャンバスの上、見事な栗色の長髪は艶やかに乱れて白い花の上でまどろんでいる。
乱されたヴェールの白から覗く興奮覚めやらぬ顔は頬を紅く染め、唇はより一層濃い薔薇色に濡れて、光っていた。
露になり、脈を見せ付ける青白く細い首にはいまだ鮮明な赤が消えない。
白い絨毯にもわずかに血が落ち、元からボタンの外れていた襟元はさらにはだけて覗くまろやかな双陸の谷間は忙しなく上下運動に揺れ。
上気した肌の柔さは、なまめかしい。
向けられる一対、夕空色の虹彩は涙に潤み。
暴れたために熱を持った息が、扇情的に耳朶を擽りすぎていった。
辛うじて視界にはないものの、先ほど無闇に宙を掻いていた脚は捲くれあがったドレスの裾から覗いていることだろうと。
ケルッツアは、腕の力を緩めないまでも硬く眼を閉じ、深く自身を落ち着かせる。
「……。判った。理解した。それと共に、疑問も浮かんだ。
僕としては冷、静、な。
話し合いの席を設けたいのだけど。
君は――――…応じる?」
知恵者の言葉には、疑問、と掠れた小さな助手の声が返る。
その響きに、ケルッツアは深く頷いた。
暫しの沈黙に、しゃっくりの音が混ざっては消えてゆく。
やがて、ソフィレーナは。




