16 ハイチ3・取り違え
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無残に引き裂け半ば破れ落ちたレース製の天蓋の隙間から、真っ白な、そしてケルッツアが見たこともないほど繊細で優美なドレスを着たソフィレーナの姿が覗き見えていた。
首から鎖骨の下辺りまで、また、両肩から肘にかけて一部透かしを入れただけの極力肌の露出を抑えたドレスは、白く滑らかな光沢をもって彼女の細い胴の線をしなやかになぞる。
絞られた上半身に反して腰の辺りから大きく膨らんだ布地は、白い花の撒き散らされた白いベッドの上、幾重にも皺を描いて柔らかく蟠っていた。
詰められた造りの襟はボタンが胸元近くまで外れ、さらに彼女が前かがみでこちらを見ているため、隙間から柔らかな影を湛える柔肌と、銀鎖がわずか零れ見えている。
目の可笑しくなるような部屋の中、頭の天辺から鼻先までを一面に覆い隠す真っ白なレース製のヴェールのせいで酷く白く見える顔、その中で一点、唇に刷かれた薔薇色はいやおうなしに見るものの視線を惹きつけた。
顔を覆うものとはまた違った柄のレースで出来た薄いヴェールを被った、この場でのもう一つの色、普段から美しい髪の栗色は腰の辺りまで緩やかに波打ち、滑らかさと艶を湛えてより一層輝く。
その色の合間には白い花のようなものが綺麗に散りばめられ。
総じて全て、常ならざる助手の、麗しい、という形容詞に相応しい姿をこれ以上なく引き立てている。
その首筋から襟元から真っ赤な血が滲んでさえいなければ、息を呑み耳朶二つ高揚に染め上げ、言動さえ怪しくなっただろうケルッツアは、しかし、麗しいと形容できるソフィレーナを前にした今、怒鳴り声を飲み込んでいた。
今、知恵者が対峙しているのは、彼の気持ちを知っていながら自殺を図ろうとした、愚かな助手。
彼自身、向ける視線が酷く尖っていることの自覚はある。
乱暴以外のなにものでもないやり方で投げつけた真っ白なベッドの上、両手を前について少し前かがみに乗り出し、顔を彼に向けたまま動かないソフィレーナからは呆けている様子だけが伝わってくるばかりで、その目元はヴェールの白さにかき消され、ケルッツアにはよく見えない。
冷たい視線のまま、ちらりと、知恵者は足元に眼を落とし、助手の血に塗れた鋭利な破片を見やった。その刃についたくすみの幅で傷口の深度を測ると、無言から低く。
「傷は浅い。何を呆けているの? 早く止血しなさい。
救急箱は?」
静かな声は無感動に響く。
冷静な態度の、その内に潜むやり場のない激情や憤り。それらはすでに渦となって久しく、ケルッツアの中で出口なく逆巻き狂い荒んでいる。
そしてそのあまりの力に彼自身、その渦をどう外に出したものかと判断を付けかねていた。
視界に在る薔薇色の唇が、わずかに震え。
声はない。
「もういい」
反応の薄い助手に見切りをつけ、知恵者はくるりと踵を返すと、半壊した姿見の近くに置かれた鏡の部分が外された鏡台へと向かう。がたがたと引き出しを開け、中を物色した。
背後の助手に動きはない。
ケルッツアは、やり場を見出せないほど強大な感情の渦を、澱を、もてあまし、斜め下手を眇め見る。
そして、苦虫を噛み千切るような顔でここに来るまでの経緯を思い返した。
両手のひらに大切に押し包んだ頬は雪のように冷たく、見慣れた助手の顔には、姿には、背景が鮮明に透けて見えていた。
異世界の力で奇妙に光を帯びた遺跡の最奥、世話になった双子の魔術師の片割れが見守る中。
ケルッツアが息のかかるほど顔を寄せても、ソフィレーナに反応はない。
反応どころか半透明に透けた彼女からは、息の音すら聞こえない。
そのことに絶望した彼は、それでも、手遅れではない、という魔術師の言葉と、助手の精神体とが砂になっていないことを支えに彼女の名を呼び、目の前のかんばせが花のように綻んだことに希望を見出した。
今まで何やら言っていたエルヴィンの両手が、己と、ソフィレーナの額に置かれたことまでは、ケルッツアの記憶にある。
す、と。上に引っ張り上げられるような、地に吸い込まれるような感覚の後、気づけば手足すらないのではないかと思うような闇の中に放り込まれ、次いで眩しさを通り越してのっぺりとした白に頭から突き落とされ。
気づけば見知らぬ部屋にいた。
天蓋付のベッドの近く、開かれた窓からの風は少し肌寒く、辺りは一面白一色。白い絨毯、白い壁。白い天井に白いベッド。振りまかれた、否、敷き詰められた茎や葉の取られた小さく白い花花。
白を色と数えないならば正に色の抜け落ちた部屋の中、これまた色の抜け落ちた衣装を着込んだ女性が、彼に背を向けて立っている。
わずか首を傾げ、鋭利な刃物を首筋に当てている様は、どう見ても髪を切り落とすなどと言う生易しい光景には見えない。
なぜこんな処に来たんだ、エルヴィンは? 彼女は? とは思ったものの、女性の物騒な行動を止めようと口を開きかけ。
白く薄いヴェールに覆われた、腰まで緩やかに波打つ栗色の髪が、はらりと揺れる。
ケルッツアは、大きく眼を見開いた。
彼は、四十数年生きてきた中で、助手の髪ほど美しい髪を見たことがない。普段でも鮮やかに揺れる栗色は短髪でも周囲の視線を集める。
後姿だけならダリル家の姫君に相応しい、などとは一体誰の言葉だったか。
そんな言葉に半分だけ同意して、ケルッツアは時折、どうというきっかけもなくソフィレーナの髪が風に揺れるさまを視界に入れているときがあった。
その、時折魅入る髪と瓜二つの輝きをもつ長髪の女性が、彼の目の前で自殺を図ろうとしている。
突然、目の前の女性のドレスに長髪という格好に二重写しで短髪の助手が重なった。
そもそも自分の目的は彼女だったエルヴィンは解呪を僕に任せるといったその彼が額に手を額は精神の入り口彼女の額にも手をその後ここへ。
ふ、と何かが一本に繋がったとき。
ケルッツアは、声より先に。
回想から浮上して、知恵者は苦笑をひとつ。
あのとき自分を支配していたのは、純粋な動揺だっただろうか。驚愕だっただろうか。
思い返しても全く特定できないと、全て、急速に膨れ上がり渦巻いた憤怒に取って代わられた、と。
苦い心地で三つ目の引き出しを浚う。
覚えていた激怒は助手への失望に変わり、今は、やり切れぬ切なさと深い落胆へと移ろいはじめていた。
乱暴に引っ張り出し、中をさらった後は音を立てて閉めていた鏡のない鏡台の引き出しへの扱いは、明らかに三つ目から丁寧に、否、覇気をなくしている。
五つ目、最後に空けた引き出しの中に救急箱を見つけると、彼はその蓋を上げ、納まっている包帯を取り出そうと褐色の手を伸ばして。
弦楽器の音に似た、笑い声を耳にする。
初め空耳かと眉を顰めたケルッツアは、次いでその音がいまだ消えずに実感を持って聞こえることに酷い驚愕を覚えた。
見開いた眼のまま恐る恐るベッドを振り向き、今度こそ、言葉を失くして立ちすくむ。
ソフィレーナが、笑っていた。
白い白い、破けた天蓋が掛かり落ちるベッドの上、口元に手を当て心底可笑しいと、滑稽だといわんばかりに柔らかな音を立てて笑っていた。
くすくす、くすくす。くすくすくすくす。
くすり。くす。ふふふ。ふふ、ふふふふ。くすくすくすくすくすくすくすくす。
朗らかな声は優しく空気を震わせる。
だのに、彼はその一等好きなはずの声を聞いても顔を強張らせるばかり。
「……何が可笑しい?」
搾り出す不可解さに彩られた声には、だって、と軽い音が重なる。
「可笑しいわ。ばかみたいだもの」
たおやかな響きには酷い自嘲が混ざっていた。驚きか失望か怒りか感情を特定できないケルッツアを尻目に、心底滑稽な喜劇でもあざ笑うかのように、ソフィレーナは、彼女にとっての正論を挙げつらっていく。
「まず、第一に。あのひとはどこにもいない。死んで、もう七年も経っている。
なのに。
ケルッツア・ド・ディス・ファーンはもう、どこにもいないのに。良く似た人物が私の企みを止めているのよ。
偉大なる知恵者様は死んだ。これは分かりきっていること。
なら、私を止めようと、目の前に現れたあなたは何? 問うまでもないわ。私の作り出した幻。
じゃあなぜ、そんな幻が生み出されるの? それは、私の中で死に迷いがあるから。
いやだわ。迷いなんてない。ずっと望んできたことだもの。……七年も生かされて、家族にほだされでもした? 馬鹿みたい。あのひとに対する最大の冒涜よ。
いらない。
消えろ。目障りだ」
白い顔に一点浮き上がる唇は、刷かれた薔薇色を刺々しく不機嫌に、どこか魅惑的に歪めている。
白いヴェールで隠された一対の夕空の瞳は、彼の視界に入らないまでもこの上ない冷たさを持って彼を拒絶していた。
消えろ。目障りだ。
向けられる絶対的な拒絶に、ケルッツアは確かに抉り取られる。
明度の落ちた視界が語る自身の衝撃の大きさにも驚きながら、彼は胸の突かれるような感情の名前を探し、己の脳が劣化したことを認めた心地に良く似たそれは喪失感という名で呼ばれるに相応しいと定義、それでも拾いきれない切なさに呼吸も苦く飲み込むしかなかった。
知恵者は今まで、助手にそんな表情を向けられたことはない。
しかしソフィレーナは、"ケルッツア・ド・ディス・ファーン"を拒絶している訳では、ない。
一旦明度を落とした視野は、すぐに正常な明るさを取り戻す。知恵者は落ち込んだ心と同じ幅で浮上し、それよりわずかだけ、心を浮き上がらせてもいることを不思議に思った。
確かに傷ついているはずなのに心のどこかは、馬鹿みたいに、恐ろしいほどの歓喜を訴えている。
先ほどソフィレーナの語った言葉の文脈から判じるに、助手は目の前の知恵者を、彼女が生きようと思う意志の見せる幻だと捕らえているよう。
なれば、今だってソフィレーナ自身は、ケルッツアを拒絶しているわけではない。本物と幻を取り違えているだけ。
なぜ、助手が死を選ぼうとしているのか。なぜ、死を選ぶ思考の対極に、彼を据えて考えるのか。
目の前に現れたケルッツアを幻だと捉え、強く否定する。その行為は取りも直さず、目の前に現れた"幻"に、彼女が否定するだけの意味を、否、危機感を、見出しているということに他ならない。
その危機感は、覚悟していた死に戸惑うことへのそれであり、裏を返せば、彼女は彼の一言で自殺を止めると。
そもそも。
彼女が頑なに死を望む原因の、あのひと、が何を指しているか。
だからこそ余計、知恵者は助手の思考が、あるいはそう思考を導いた呪いが、否、そんなまやかしに落ちているソフィレーナこそに、殊更、これ以上ないほどにはがゆさを掻き立てられた。
本物を偽者と言い切り、譲らない彼女の強情さ。
それを、どうしようもない苛立ちと、その奥に流れる心理を汲み取っての喜びで、もてあましている。
どうして。
あれほど僕は。
はがゆさ、もどかしさに押されるケルッツアは、どうしてもソフィレーナに、目の前にいる己こそが本物だと認めさせたかった。
無意識に睨み眇めた斜め下手には、清清しい香を振りまく白く小さな花が無数に散らばっている。
その香の匂いは彼に、薄青に染まる、とある大学の学花としても有名な花の香を思い出させた。混乱を鎮める青の花。英知という言葉を頂く。
何が必要?
驚愕、懇願失望落胆、怒りに歓喜と焦がれ、いいえぬじれったさ。もてあます感情に歪んでいた褐色の顔は一拍の後に全て覆い隠され、冷静へと塗り変わった。
助手の間違った理論をつき崩す準備を頭の中で整え、知恵者はいっそ優雅とも見える動きで、幾つか浮かんだ解決策のうち、ベッドから腰を上げたソフィレーナに視線を固定して、半壊した姿見を背に対峙する道を選ぶ。
「邪魔だわ。退きなさい」
凛と高く澄んだ声は、厳冬の大気に似た痛みで大気に突き刺さる。
被るヴェールから光の加減で透けて見えるソフィレーナの一対の眼は、まっすぐ目の前の”幻”に向けられていた。
傷つけた首筋に止血を試みた跡はなく、流れ落ちる血は真っ白なドレスに花のように染み、彼女の胸元を元からの模様のように赤く染めあげている。
胸の悪くなるような光景。その助手の、幽鬼のような姿を灰色の三白眼に映して、なぜ、と。
ケルッツアは低く切り出した。
「何故、ケルッツア・ド・ディス・ファーンが死んだと結論付ける」
切り出された声は囁かれるほど小さく、否が応でも彼女の耳に滑り込む。
声を潜めて相手の気を引く手法。
それは知恵者が時折用いる議論の導入方法だったと気づいた助手は、不快に心を跳ねあがらせ、同時、自身への嘲りに口元を歪めた。
正確な記憶、しか持たない絶対の記憶媒体が作り出す幻の材料は願望と記憶だろう。
よって、本物に極めて近しい仕草を、外見を有するものが出来上がるのだ、と。
そう理解した彼女は、益々目の前の"幻"に優しげな栗色の眉を吊り上げる。
ケルッツア・ド・ディス・ファーンはもういないのだ。
何度も思い知らされているはずの自分がよりによってなぜ死んだと結論付けるだなどという言葉を紡ぎだしているなんて。
滑稽にもあのひとのフリをして。
本物に叶うはずがないと知っているのに!
「……馬鹿な真似は止めなさい! 自分が恥ずかしいと思わないのソフィレーナ・ド・ダリル? 浅ましいにも程がある。
即刻消えうせなさい!!」
「……答えになってない」
はき捨てるような彼女の怒気を塗り替えたのは、冷徹な声。
彼女を唖然とさせた声の主は、ひた、とソフィレーナを見据えていた。
睨むでもなくどの感情も込めずに、ケルッツアはソフィレーナを見つめ、静かに、問う。
「感情論は聞いてないよ。
今一度問おう。ソフィレーナ・ド・ダリル?
知恵者が死んだと結論付ける、根拠を述べよ」
灰色の三白眼は揺るぎなくむけられている。
ソフィレーナはあっけにとられた後、目の前の幻を、その強い眼差しを今初めてといったように見、凍てついた瞳の光をほんのわずかだけ、揺らした。
似て、る。
七年経っても尚彼女の中で色あせぬ灰色の三白眼の記憶は、彼女が愚かしくも優しい夢の中で胸に抱いた金の柄のナイフと同じ鋭さで今、目の前にある。
否、ナイフの輝きなど褪せてしまうほど目の前の"幻"が持つ冴え冴えとした瞳の鋭利さは、鮮明だった。
「……ぁ」
彼女の許可無く、喉が音を零す。その間抜けた声に気づけぬほどソフィレーナは。
心臓が、ゆっくりと収縮の速度を上げていった。息を忘れた喉は苦しく、思わず手をやっても何故苦しいのか分からない。
向けられる灰色の瞳は揺るぎがない。
冷徹に、絶対的に。
それは幾度と、両手を二往復しても足りないほどの回数、議論に引っ張り出されたときに向けられていた瞳と寸分たがわぬ、否、やはりそれ以上の鋭利さ、聡明さを以て、確かに目の前にある。
錯覚だとは到底思えない感覚で彼女に訴えていた。
もしかして私は、とんでもない間違いを犯しているのでは。
吹雪に聳え立つ氷壁のように頑なだった心の内に、困惑と疑惑という熱が逆巻く。
絡まっていたはずの視線を逸らしたのは、ソフィレーナが先。
逸らされた視線に関わらず、ケルッツアは静かに彼女を見つめ続けている。
「……こっちが、現実だから、よ」
絞り出した弱弱しい彼女の声には、揶揄する彼の声が返った。
「こちら、とは、あちら、の対義語だ。君の言葉だとあちらが、現実でないもの、ということになる。
仮に、現実でないものを夢と定義するとして。
ならなぜ、現実はこちらで、夢はあちら、と君は決めているの」
言葉の挑発とはうらはら、相変わらず灰色の三白眼には冷徹以外の光はない。
ひぅ、と。知れず、ソフィレーナは息を飲み込んでいた。
眦は見開いていると感覚で分かる。
一旦は逸らした視線は、またいつの間にか絡まり、今度は逸らせなかった。
目の前に立つ幻は、本当に幻だろうか?
氷壁の中で逆巻いていた熱がさらに大きくうねりを起こす。
もしかしたら私は、とんでもない、本当にとんでもない愚かな間違いを犯しているのでは?
不安は恐れとなってソフィレーナの身体を小刻みに震わせていた。
鋭利な眼は彼女を捕らえて離さない。
沈黙だけが、やけに痛々しく蟠っていた。
やがて、彼女の目の前では、褐色の頤がゆっくりと。
ケルッツアは緩やかに顎を上げ、小首を傾げて見せた。賢そうな子供の顔は、しかし面白くなさそうに口元すら歪まない。
細められる眦には冷徹に混ぜた、圧倒的な不機嫌さが覗いている。
急速に細まった一対の眼に、ソフィレーナは彼の不快を知った。
「……いつまで待たせるつもりかね。よもや、答えがないなどということはないだろうね?
ソフィレーナ・ド・ダリルはケルッツア・ド・ディス・ファーンと約束を交わしているはずだ。
展望部屋で待っていて欲しいと乞うた知恵者に、助手は物品を交換して応えた。
……その出来事を夢と捉える根拠が知りたい」
静かな声は、暴力的なまでの絶対さを持って彼女に染み渡る。それはあまりに私に都合がいい出来事だったから、私が喜ぶことだったから。ソフィレーナは何とか唇を開き、喉の奥につっかえた息をこわごわと出すついでに、言葉をつむげない。
視線は相変わらず縛られ、身じろぎすら容易に出来るとは、彼女には思えなかった。
灰色の瞳はそれが漆黒にそまりやらないのが不思議なほど、強くソフィレーナを見ている。
背筋を駆け上がる悪寒と、酷い陶酔とがない交ぜになって、彼女の脳髄に揺さぶりをかけていた。
コノヒトハ、本当ハ?
一歩。幻と決め付けたものが距離を縮めたことに、ソフィレーナは酷く両肩を反応させる。
冷たい予感の恐怖と、わずかの歓喜で、彼女は文字通り後退も前進も出来ない。
このひとは本当に幻だろうか?
本当は、本当ノホントウハ。
しかし、そんな揺さぶりの中においても、彼女は自身で覚えた首の痛みを忘れられなかった。
死ぬつもりで掻っ切った頚動脈からは、確かに、もしあれが本当の体験ならばショック死は確実なほどの鮮血が流れ出している。
けれど、ソフィレーナは今もこうして、怠惰な時を生きている。首に、切り裂いた後はない。
彼女の中では、それが現実だった。
どんなに目の前の知恵者が本物のように思えても、首の痛みと目覚めたときの喪失感とが、ソフィレーナの、ゆらゆらと、ぐらぐらと揺れ動く感情を強く否定する。
目の前の知恵者は、幻に過ぎない。
あのひとはもう、どこにもいないの。
そう判っていても、目の前の"幻"は、ソフィレーナにはあたかも本物のケルッツアのように見える。
あまりに、あまりに似ている知恵者の幻に、彼女はとうとう焦がれるような顔を覗かせ、緩みそうになる涙腺を耐えて、微笑んだ。
「……本当に、本当に、ケルッツア・ド・ディス・ファーンが目の前にいるみたい。
凄く、よく出来てる。
自分が作った幻なのに、もう一度あのひとと話しているって、思えるぐらいだわ」
ひとりごちる声は柔らかく湿り気を帯び、機械仕掛けの人形のように綺麗な涙の線を頬に描いた。疑惑と不安に揺れていた夕空の瞳は凪いで、諦めを宿している。
声は生まれる。
「でもね。……幻のドクター? 私がなぜ、こちらが現実で、あっちが、夢と、思うか…お答えします。
私は、もう…この白い部屋と、展望部屋と。どっちが本当のものなのか、分からなかったんです。
だから…あなたに貸してもらったナイフで、頚動脈を切りました。
……そこで意識が途切れれば、あなたは生きているって、事になる。現実がどっちかはっきりします。命は一つだけだもの。
私、おいてかれなかった、って、ことになるの。
そうやって、実験したんです。
でもね、結果はわたし」
語りかける口調は、そっと耳に忍び込んできた驚愕に中断される。
「ッ…な、……ん、…だって?」
『ハイチ4・真実』は、10月22日木曜21:40更新です。




