15 ハイチ2・白い部屋
夢見心地で眼を開けたソフィレーナは、視界の白さに絶望し、は、と己を嘲った。拍子に零れ落ちた幸せな夢の残滓は、惨めに耳朶へと冷たい線を描いていく。
彼女を、否、彼女の横たわるベッドを取り囲むレース製の天蓋は、窓からの秋風に優しく揺れ動いていた。
色づいた木々のざわめく音はたおやかに聴覚を撫で、おおよそ、喧騒とは無縁の静寂が辺りを支配している。
幾度も繰り返される、もう数えることさえ馬鹿らしい光景に、ソフィレーナは諦めともつかない笑みを。
馬鹿になる景色だわ。
響かせたつもりの音はどこにも生まれえず、視界は意思によって塗り込められた。
いつからだったろうか。優しい夢から目覚めたあとに、ただ白く、陰影だけが唯一の飾り物であるのっぺりとした天井を見るようになったのは。
辿ろうとした脳は酷い疲弊を訴え、仕事を放棄する。それでもソフィレーナはゆったりとした呼吸に合わせ、記憶を辿った。
いつからだろうか。幾千幾万と繰り返された知恵者の亡くなる場面や、その後の葬式を。
見ナク思い出さなくなったのは。
知恵者の死んだ世界が、そうでない世界、愚かな助手の生み出した想像による夢と同様に時間の継続性を持ったのはいつからだったか。彼女の中で答えは。
アノヒトガ砂漠ヘいつだったかしら。
いつから、知恵者が自殺した場面を見ることがなくなったのか。
ソノ場面ハ体験は幾度となく思い出す記憶の蒸し返しだろうか、それとも、知恵者の生きている世界で言われている、悪夢の中の出来事だろうか。
それともやはりそう思うことこそが、知恵者がすでにいないという現実からの、逃避行為に他ならないのか。
こっちが悪夢か、あっちが夢か。
割れるような頭の痛ささえ、ソフィレーナは虚ろに受け止めている。
真実を探ろうと頭を働かせるたびに浮かび上がる答えは、言葉半ばで全て霧に覆われて思い出すものは初めのそれと違えられていた。
かといって、真っ先に浮かび上がる思考の断片さえ、どのような意味を持つ意思の下で生み出された言葉なのか。
今のソフィレーナには聞こえていても、何も、受信ができない。
コノ景色ノ中デ強ク思ッタコトガ違和ガ
そんなふうに神経を研ぎ澄ますことすら、酷く億劫。
白く清潔に保たれたシーツに埋もれたまま、ソフィレーナはゆっくりとした動きで、青白く、所々血管の透けて見える喉に手をやった。
勢いよく掻き切った首筋の、喉笛のどこにも傷はない。
当然、苦しくもなければ痛くもなく、ひう、と、気管から直接空気が漏れた音さえしなかった。
確かに切り裂いたと思った喉笛が健在ということは、その行為が実際には行われていないということ。
また、人体に極度の、生命維持が不可能と脳が錯覚するほどのショックを与えれば、人は本当に死ぬことができるということも、彼女はちゃんと知っている。
ソフィレーナは首を切った。その体験をした。
それでも死なないというのは、つまりそれが死に至るショックではなかったに相違ない。
首を切って死んだ感覚は、己の生み出した生ぬるい妄執だと、そう、聡明にして愚鈍な助手は結論付けていた。
まして頸動脈を切り裂いて死したはずの先の意識が、こうも長々とあるなど流石に考えられない。ならばやはりあちら、知恵者が生きている世界の方が浅はかな願望に過ぎなかったのだ。と。
やっぱり、あのひとはもう、どこにもいない。
ソフィレーナは嫌悪と憎悪、そして耐え切れないほどの悲しさに顔を歪めた。
人が死ぬのは一度だけ。首を掻っ切って、そのまま意識が途切れてくれたならまだ、あちらが現実だったと希望を抱けたのに。
そんなことを切願と抱きしめ、死んだ時点で意識が途切れると一方で思う傍ら、死した後の意識に救いを求めているという矛盾に気づくこともなく、ゆっくりとした動作で、今まで埋もれ横たわっていた真っ白なベッドから身を起こした。
虚ろな顔の両端から長く重く掛かり落ちる長髪を、乱暴に一房つかむと、引っ張る。
紙のように白い顔に苦痛はない。
深い絶望を取り巻くように、残酷な風が穏やかに部屋へと吹き込み、出て行った。
風に撫でられた睫をゆっくりと震わせ、彼女は瞬きを、ひとつだけ。正体なく、外の陽光の高さを視界に入れる。
日差しは幾分柔らかに降り注ぎ、彼女の目を焼ききることはない。
白で統一された美しい、尖ったものが一切排除された部屋の中、ソフィレーナの腕力ごときでは割れない作りの、頑丈な窓から木々のざわめく音が聞こえてくる。
ゆらゆらと揺れる木立の影。蒼く透き通った空に、少し肌寒いだろう風が、冷たい温度を持って頬を撫で過ぎていった。
『そふぃーれんすくん』
辿られた頬は赤い熱を思い出す。鈍い血潮に湿った温もりが触れてから、すでに。
彼女における時刻の判別は、外の様子と屋敷の中央にある柱時計からの鐘でなされていた。
その鐘が、今、密やかに音を響かせる。
一つ、
二つ、
三つ、
四つ。
五つ、
六つ、
なな…
八つ、
九つ。
なな。
ねん。
唐突に、彼女の目の前に、重い、重く冷たい実感が降ってきた。
誰の口の端にももう、ケルッツアの話は上らない。彼に関する研究は続けられているものの、目ぼしい発見もすでになく、彼女に齎されていた報告も、ここ二年音沙汰がなく。
世にも稀なる知識を有した知恵あるものが自ら命を絶ち、すでに七年が過ぎている。
ぱた、とシーツに落ちた涙を皮切りに、両頬から雫が伝った。
声は出ず、姿勢が崩れることもなく。
ソフィレーナは泣いた。泣いているというにはあまりに無機質な顔で、もう七年も生き続けているのだと、そのことに抉られた傷を胸に、ただ。
鏡が欲しいといった、あの言葉の真意をどうして、ママは知っているの?
尖ったものを生み出すことのない部屋。元より尖ったものがないのは勿論のこと、加工してさえも尖らせることのできないもの達で構成された部屋は、明らかに、彼女の目的を知り、阻止する意図を孕んでいる。
そのことにソフィレーナは数瞬疑問を覚え思考をめぐらせたが、すぐにその動作を放棄した。
頭の割れるような痛さが、水底に染みる光のように緩やかに体を支配する。脳の血管が膨張してゆき、真綿で締め付けられるに似た優しい息苦しさが思考を取り巻いた。
窒息するのではないか、と。霞む視界の中、彼女は緩慢に瞬きをする。こんなもので死ぬのは嫌だと乱暴に首を振り、頭痛をやり過ごした。
彼女の手足は自由である。
死が目的であるならば。
方法は、いかようにでもある。
しかし、知恵者の助手は、そんな命の落とし方を選ばない。
刃物を受け入れるべき首筋を指先で辿り、壊れた皇女は花の蕾にも似た、可憐を瑞々しい憧憬に浸した笑みを明るい白の中で闇に咲かせる。
緩やかに染まる頬は幸福にも染まっていた。その幸福の中身が虚しいものだと知っていても、ソフィレーナの中ではもはや、胸に抱く行為でしか知恵者に近づくことができない。
七年、彼女はこんな生活を続けていた。美しく誂えられた白いドレスとヴェールを纏い、毎日洗濯され、美しく保たれたベッドで眠る。
小鳥よりわずかに多い量を食すだけといっても、彼女に対して一銭もお金がかからない訳はなかった。生活の維持費、衣装代、食費諸々、ソフィレーナは立派に、ダリル家の経済状況を圧迫させている。
そうなるように彼女自ら振る舞っていた。
いかなダリルの資金とはいえ無尽蔵ではない。私財は必ず尽きる。
ダリル皇女の葬式といったところで、王臣より外されている者の葬式など内々に済ましてしまうことも十分に可能。
ソフィレーナを生かしておくより、安く上がるのは自明の事実だった。
また、王臣としてその役目を破棄されている者は皇女として他家に嫁ぐこともなく、生産性という意味で無に等しい。無より悪いことにマイナス値をたたき出している。
そして死後、身が切られようがサンプルにされようが、もはやソフィレーナに頓着はない。
彼女が頓着した相手はすでに七年も前に亡くなっているのだから、絶対記憶脳持ちの亡骸を所有するものが誰だったとしても、サンプル自身には何の感慨も湧かなかった。
ソフィレーナの命ある限りは絶対に手を出さないという彼女の身内が出した条件の上で成り立った、亡骸を人体解剖組にサンプルとして譲るという誓約書にも、サインはすでに済んでいる。
それを全て承知していても尚、娘に生きていて欲しい母と、死にたい娘の根競べが始まって、優に七年。
聡明にして愚かな彼女の、母であるマリアーナ・ド・ダリルは、娘一人のために家を傾かせるほど酔狂ではない。
まして、その娘は強い切願を抱いていた。その状況を作り出せば簡単に自殺してくれる望みを。
だから、本当に家の財政が危なくなったときは。
ダリルのお家が私を捨てるとき、私に鏡が与えられるのね。
ナイフでは、あまりに目的があからさま過ぎるから、だから、鏡だ、と。
ソフィレーナは優しく笑む。鏡ならば、凶器ではない。
たとえそれを与えられた者が凶器を作り出したところで、麗しく賢明なダリルの元当主も現当主も、悲しみというヴェールで下賤な世間からの追及の手をかわすことなど易いだろう。否、頭の可笑しくなった末の子が死にたがっているなどとは、周知のことであるのかもしれない。だったら、追及すら。
ゆっくりと視界を閉じる末皇女に、秋の陽が透明に降り注いでいた。閉じた視界の闇の中で、彼女はほのかな笑みを浮かべ続けている。ざわめく木々の音は緩やかに流れ、日差しは穏やかに。
静かな、ノックの音がひとつ。
ゆるやかに瞼を上げたソフィレーナの視界には、黒いヴェールに顔を隠し、黒いドレスに肌を隠した、年老いて尚麗しいダリルの元当主、マリアーナの姿が映りこんでいる。
「ソフィーちゃん。……お支度を、しましょうか」
響いたのは、涙の気配が滲み消えない、慟哭に等しい音。
ソフィレーナが零したのは、陽だまりにとろける極上の笑み。
静々とソフィレーナに近寄るマリアーナの背後では、侍女が二人、大きな姿見を運び入れていた。
***
ママ。そんな格好で鏡を渡しに来たら、ばれてしまうわ……?
いいの? と。白く白く美しい衣装を纏った娘が、豪奢なレース製のヴェールで覆われた顔を少しだけ傾けて、栗色の髪に櫛を入れては小さく白い花弁を丁寧に咬ませ、散らしている母親に囁きかける。
椅子に座っているソフィレーナは、立っているマリアーナを見上げていた。白いヴェールから覗く頬からあごにかけての輪郭は、瑞々しい柔らかさを帯びて先ほど浴びた湯の気配に輝いている。
その中ほど、淡い薔薇の色が刷かれた唇は、彼女を包む純白の衣装に上品な色を添え、たおやかさと無垢を引き立てていた。
マリアーナは手を止め、侍女の手で部屋の床という床、ベッドの上、鏡の外された鏡台の上と振りまかれた小さく可憐なダリル家の象徴花、ロームエッダの白い花に囲まれて緩やかに微笑むソフィレーナを、いまだ涙の乾かぬ眦を細めて眩しそうに見遣る。
一度、二度、老いて尚しわの形も美しく形の良い唇を震わせ、言葉を飲み込むように微笑むと、そっと、娘の柔らかな頬に頬を寄せて、白いヴェールに覆われた耳朶に、いいのよ、と囁き返した。
滲む慟哭は果てもなく、年老いて細くなった指先は、慈しむように白いヴェールごと、整え流した栗色の髪を撫でている。
「本当は、ママも白い服を着なくちゃいけないのだけどね、そんなこと、とってもできなかった……。
あなたを一番奇麗にする日なのに……できなかったのよ。
駄目なママね。ごめんなさ、……ッ……。
ごめんなさい。ソフィーちゃ……ん。
私の、可愛い、ッ……。っ……ソ、フィ……レーナ」
そう、砂を嚙むような苦悶に悲しさを溶いた表情で吐き落とし、恐らくは人生で一等奇麗な、それは腐っても皇女、などと末皇女をあだなし嘲笑していたものをも黙らせる程の美しさを身に纏っているソフィレーナに縋るようにして、果てもない哀しみを嘆いている。
何も変わらぬ秋の風が、はらはらと、色づいた葉を震わせ、祝いと忌みとの混在している白い部屋を撫で過ぎてゆく。
侍女によって振りまかれたロームエッダの白い花びらが、二、三、吹かれて舞い、また、無数の花弁へと落ちていった。
大きな楕円形に切り取られた鏡面を美しい金と銀細工で縁取った姿見には、シンプルながら豪奢な衣装を身に纏った花嫁と、それを覆うように抱きしめる、カラスの濡れ羽色のように闇に解ける色合いの、喪に服すためのドレスを着込んだ麗人が映っている。
黒く慟哭に打ちひしがれ縮こまった麗人の背に、白いレースの手袋を嵌めた指先が、ゆっくりと掛けられた。
マリアーナが顔を上げると同時、緩やかに、しかし絶対的に、ソフィレーナの首は横に振られる。
ママ、と。か細い声が、年老いた麗人の耳朶に。
「ありがとう……。ママ。
わがままばかりで、ごめんね」
白に包まれた無垢な花嫁は笑う。
微笑んだソフィレーナ自身、何に対してのありがとうなのか、よくわかってはいなかった。
ここまで育ててくれてありがとうなのか、奇麗な花嫁として死者へと送り出してくれる、滑稽な儀式を行ってくれるありがとうなのか、今まで大切に守ってくれたことに対する感謝なのか。
その全てなのかもしれないが、それぞれの比重はわからない。眦から零れ落ちる涙の訳も、崩れた視界の先にいるマリアーナの美しい顔が、ぐしゃぐしゃに歪んでいることも。
緩んで潤む視界の理由も。
悲しいことではないはずなのに、と。ソフィレーナはそれもまた可笑しく、笑みを深めた。
年老いた母親の声が小さく、響く。
「いいえ。……いいの。…………いいのよ……ッ、……。
あなたの、ぁ、し……っ。……ッ。
幸せを、願います」
泣き出してしまいそうな哀しみを笑みに押し込めて、マリアーナは、絞り出すようにして祝福の言葉を紡いだ。
ソフィレーナの頬に流れる涙をハンカチで拭い、少しだけ、娘の乱れた化粧を直して泣く前の状態に戻し、静かに、その姿を見つめている。
見つめ、ひとつだけ、息ともつかない細い心を零し。
目を閉じてきびすを返すと、麗人は部屋を辞した。振りまかれたロームエッダの無垢な花と香りの中、黒い貴婦人は白い扉から、緋色の絨毯が敷かれた廊下へと出る。
控えていた侍女二人を伴って、マリアーナは午前の回廊を静々と、否、悲しみをこらえるべく早足で、身を切り崩すような慟哭と共に去っていった。
一瞬、背後からくぐもって尚鋭い音が聞こえたが。
止まりかけた身は振り返ることなく。
目に映るものの焦点が、決して走っている訳ではないのに定まらない。そんな彼女の視界に、回廊の白に浮かび上がる黒が映りこんだ途端。
マリアーナは両手を伸ばし駆け、崩れるようにその黒へと、人へと縋りついて崩れ落ちる。抱きとめた黒い服の中で、嗚咽を隠すことなく泣き叫んだ。
彼女と同じく喪に服したマリアーナの夫、そしてソフィレーナの父親でもあるティセランは、麗しい妻の慟哭に重ねるようにして、膝を折ると眼を閉じている。
彼にも、彼女にも。そして傍に控える黒服の侍女にも。
ソフィレーナの軟禁されている部屋から聞こえた酷い破壊音は届いているはずだが、誰一人として、音の発生源を調べるものはいない。
高く酷く割れ落ちる、ガラスが砕けるに似た音は、すぐに消えていった。
振り上げた椅子を投げつければ、あっさりと鏡は割れ落ちる。酷い破壊音の中その瞬間を確認したソフィレーナは、満面の笑みに顔を歪ませ、割れた鏡の破片へと手を伸ばした。
鏡の破片を受け止めるロームエッダの白い花は、まるで荷の隙間に詰める綿花、シロツメクサの成れの果てのようにゆっくりと潰れていく。
鏡の上半分が破損し、割れ落ちて黒々とした金属を覗かせる姿見の下半分、割れ残った鏡面に、腰を折って鋭利な破片を取り上げる花嫁の、狂った横顔が映り込んでいる。
ソフィレーナが浮かべているのはその場にそぐわないほど瑞々しい笑み。歓喜も隠しきれずに歪む口元を押さえ、それを見た。
これなら、という声は、誰に聞かれるでもなく彼女の中だけに響く。
やっと。
禍々しい、枯れた花のような笑みを純真な微笑みに昇華させ、頬を流れる涙に視界をぼやけさせて、ソフィレーナは指先を胸元に這わせると、徐に詰襟を留めるボタンを一つ二つと外していった。
中から銀鎖を持ち上げ、その先にある指輪と。
指輪? ソレハ確カ私知恵者ママからの、加護だわ。
頭の痛さを抑え、銀でできた小さな鍵の中央、嵌め込まれた蒼色の粒を指腹で撫でて、そっと、キスを。
と。
「ソフィレーナさん」
二度と聞くことのないはずの、声がした。
気がした。
その音質に、たとえ幻でも生まれ得た真摯な響きに、ソフィレーナは眼をこれ以上ないというほど大きく見開き、ゆらゆらと、光を反射するだけの虚ろな瞳を揺らしている。
しばし、身体が、否、脳が動くことを拒否していた。
衝撃と、浮かび上がり暴力的に彼女を支配せしめんとする幾つと分けることのできない感情とに塗れ、やがてソフィレーナは小さく、本当に小さく、息を。
哀しみにも、遣る瀬無さにも愚かさにも、それでも隠し切れない喜びともつかない苦笑を、声に。
「ドクター。
そんなふうに呼んじゃ、やです」
響きは虚空に解け消えて、あとには虚しさだけが残る。誰に宛てての声なのか、意見なのか。
ふと、今の助手の姿を見た知恵者はどう思うだろうか、と。壊れた助手は思考を巡らせ、すぐに今となってはどうでもいいことと諦めた。ケルッツアが生きているならばいざ知らず、かの人はもういない。と。
あるいは、死者の国というものがあるのなら、こんなことをする私に、彼は、どんな言葉をかけるのだろう。叱られてしまうだろうか。呆れられてしまうだろうか。君がここに来る必要はなかった、と。
けれど、彼女の中の憤りは止まりそうもない。助手は苦笑を零し、知恵者に不満を。
不満と狂想と哀しさと、喜びを、陶酔に溶いた声に紡ぐ。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン……。
もうすぐ、同じです。
だって、あなたに近づけるのは、この行為だけなんだもの」
声は虚空に消え、誰も受け取り手のいない感情は、言い訳は、祝福された者に与えられるはずのロームエッダの、甘く清々しい香に解けていった。
風が過ぎる。
ソフィレーナは、狂気と正気を瞳に宿して、破片の断面を当てた。
これが、本当の。
「おいて逝っちゃったんだから…………。だから。
このくらい、赦してください……」
いっきに。
「きゃあ!!」
実行より一瞬早く、両の手は乱暴に捻り上げられた。
したたか与えられた手首への刺激に痛みと判ずるより先、血のついた破片が指先から滑り落ちる。
「っみは!」
背後から両手首を拘束していた手は瞬時解かれ、瞬く間に腰に回って荒く抱え込まれ。
瞬間、埃っぽい、砂の匂いが彼女の鼻腔を掠めた。
「な、にを!」
声と呼べない強い音が、ソフィレーナの耳を乱暴に突き刺す。力強い息が首に伝わったと気づくより早く。
「やッてるんだッッッ!!!」
足が床から離れた。振り子のように振られ、右回転の反動で投げられたと理解するより早く乱暴な衝撃が身体を飲みこむ。レースの天蓋を襲った悲劇と布団の空気が抜ける間抜けた振動が、一瞬遅れて音として感知され。
己のものでない乱れた息が、聴覚を縛った。
捻り上げられた手首は気づいたように痛みを主張し始め、押し付けられた温もりともつかない力の残滓として、腰の周りが引き攣れた鈍痛に疼いている。
砲丸投げの要領で勢いよく投げ落とされたベッドの上、舞い落ちるロームエッダの白い花弁の中。
己を睨み据えている者の目を、ソフィレーナは見つめていた。
蜜など湛えていない、氷河のように冷やかな灼熱を持った視線。
刺すような灰色の、一対の三白眼を。




