14 ハイチ1・展望部屋
※自傷、自死描写があります。
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国立図書館展望部屋。その部屋を照らし出す月光は、うっすらと積もった雪のように白く、暗い。
下方を見渡す嵌めガラスの、展望部屋という名の由来である透明な壁にかかる暗幕が夜に開いていることはなかった。
時折部屋の主である知恵者がその布の合わせ目や、その端から顔を覗かせて夜空を眺めることはあっても、隙間は最低限に留められすぐに閉まってしまう。
その黒い暗幕が、今、広々と開かれている。
普段は差し込まない光を深く蒼い絨毯に落とし、その黒々とした毛足が銀に色を変えている様を、肩を震わせて見ている者がある。
輝く髪は揺らめき、美しい栗色も濃く艶やかに。開いて脇に寄せた暗幕に身を寄せる小柄な体躯は、月光に見出されて尚、半身は闇に解けていた。
何が可笑しいのか、柔らかな生地と色合いの服を纏うソフィレーナは、一等上質な濃い紫水晶色に下のほうから淡く栗色を煙らせた特徴的な虹彩を、猫のように細めて宙を見る。
青く照らし出された光と闇の狭間で、暗幕に寄りかかり立つ彼女が大事そうに抱いているものは、月を受けさらに輝きを増した抜き身のナイフ。
流れるような金細工の柄。柄に青く煌めく宝石が嵌め込まれたほとんど短刀に近い大きさのそれは、緩やかに反った刃にさめざめとした青さを舐め、危うげな美しさを纏っていた。
部屋には、彼女の他に人影はない。
夕食を食べてから少し、眠くなった、と大人しく知恵者お気に入りのソファーに横になり、安らかな寝息を立てるソフィレーナに、姉のティアレーヌは心配を隠そうともせず二十分余り付き添っていたが、緩やかな呼吸が深くなったことにすっかり安堵して、少しだけなら、と今、席を外していた。
自分が国立図書館に来てから、妹が魘されずにいる眠りがなかったわけではない。決して数は多くなかったけれど今もきっとそれなのだわ。
そんな心境で座っていた背もたれのない椅子から本を持って腰をあげたティアレーヌの眼に、妹が後生大事そうに抱え込んでいる金のめっきかはたまた本物か、光り輝くナイフが留まる。
鞘に納まっているその中身が本物だと、ティアレーヌは少し抜けかけの刀身を目撃したことで知っていた。咄嗟危ないものと取り上げようとして。
『いや! 返して!!!』
取り上げようとするたびに強く反発するソフィレーナの、その悲痛な顔を思い出し、止めていた。
目覚めたとき、それがないことを知ったら妹は悲しむだろう。その姿が忍びなく思えて、ティアレーヌはソフィレーナから、知恵者に預けられたというナイフを取り上げることなく、時計の針が八時を指したと同時、この場を去っている。
穏やかな顔が作り物であるとは気づきもせず。
静かなドアの開閉音から、秒針が一回り、二回りした頃。
軽い息を吐いて闇の中に起き上がったソフィレーナが、自身の考えた幼稚な作戦の成功に密かな笑いを零し、ふわり、と。まるで羽でも生えたかのような軽やかさで素足を絨毯に乗せることなど、考えもせずに。
儚くも身軽に立ち上がったソフィレーナは、巨大な嵌めガラスを覆う暗幕の開閉装置のある場へと踊るように近づき、ざぁ、と青白い光を絨毯へと落とした。
光は展望部屋の絨毯を瞬く間に銀に染め、わずか、彼女の視界を眩しくさせる。
その様に眼を細め、ソフィレーナは赤子を抱くように大切に抱いていたナイフの鞘と柄とにそれぞれ手を掛けて。
誰の邪魔も入らないその作業はあっけなく終わりを告げる。
今の彼女にとっては何よりも尊く美しく、焦がれる白刃を空気に晒した。
そして、抑えきれない愉悦を音として零している。
知恵者に弦楽器の響きと思わしめた柔らかなそれは、壊れた機械から再生される音のように鳴り響いていた。
くすくす、くすくす。くすくす、くすくす。
くすくす。くすくす。
くすくす。
くすくす。くすくす。
くすくす。
くすくす。くすくす、くすくす、くすくす。くすくす。くすくす。くすくす、くすくす、くすくす。くすくす。くすくす。
嬉しくて、嬉しくて、ソフィレーナはどうしても、零れる笑いを収められない。誰にも邪魔されず、ここまで事を成しているという今の状況が、彼女にはどうしようもなく滑稽に映る。
零れ落ちる冴えた月光に、星の光がよかったのに、と不満を覚えたのもつかの間、あれも星といえば星と、暗闇に笑みを溶いた。
ソフィレーナには、今しかなかった。
この機会を逃せば、あとは朝まで彼女の姉が彼女に付きっきりでいることなど誰の想像にも難くない。
約束した以上、知恵者は明日にも帰ってくる。
その約束は反故にされないと、指輪を渡したのだから大丈夫だと。ソフィレーナには人の死期が当たるに似た、背筋の凍るような確信があった。
知恵者は帰ってくる。そうしたら、ナイフを返さなくてはならない。そうしたら、もし、この先あのひとの脳が損傷したときに。
だから、返す前に。
いつの間にか彼女の中では、鋭く光を反射する刀身が溢れんばかりの自信を湛えて彼女を見つめる、灰色の瞳と重なっていた。
『これが君の手元にある限り、僕は自殺していない』
言い置いて皇女の元を去った流民の声に、ソフィレーナの笑みはますます深くなる。流れるような仕草で刀身に顔を寄せると、ドクター、と、囁き、そのまま頬が切れるのも構わず緩やかに頬擦りを繰り返した。
慈しむように白い刃に這わせる指先から傷つける頬から青く暗い色に染まる赤が流れ落ち、儚い頬の線はたちまちずたずたになったが、傷つけられ血を流す頬に緩やかに差してゆく赤の色が変わらないように、痛みや湧き上がる熱にさえ、彼女の笑みは止まらない。
ソフィレーナはナイフの先端、緩やかに反った白刃の先に、そっと、口付けた。
唇に熱い冷たさが触れ、一瞬の後に離れる。離した唇の急な温度変化をなれない様子でちろり、と舌で辿り、流れてきた赤が舌に乗ると少し驚いた様子で、また哂った。
彼女にとって、物質への口付けはなくさないためのおまじない。なら、何をなくさないために口付けたのか。
頭はとうに痺れ落ち、自身の行動の意味さえ彼女には。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン」
零して響かせたその音だけで、視界は緩やかに奔流していく。
ナイフを胸に佇むその足は、湧き上がりくる歓喜に掬われてすでに感覚がない。
歓喜と、それを押す圧倒的な苦しさに呼吸の仕方でさえ忘れてしまいそうなほど。
『このナイフは、僕の育った民に伝わる自殺の正当なやり方に必要不可欠なものだ』
生ぬるい朝日を背にした知恵者の差し出すナイフから受ける印象は、正に"ケルッツア"そのもの。
冴え冴えと強靭に宿す光は、展開する論の有無を言わせぬ説得力と切れに通じる。
少し反った滑らかな刀身には賢そうに首を傾げて相手を見るときの余裕を窺わせ、光を揺らめかせる刀身は冷たく、しかし奇妙に安堵感と、彼女には甘さがあるように感じられた。
柄の流れるような金の細工は細かく、所々に茶目っ気が含まれている。輪郭の柔らかさこそ、学者としては温厚という人柄を写し取ったよう。
柄に嵌め込まれた蒼き宝珠は、その意思で物事を好転させる強い眼差しと、頭の頂から地に向けて一本垂直に、しなやかに通った誇りとが、姿を取ったのだと。
ソフィレーナにとってその短刀はすでに、一等尊敬し陶酔している者と同一の存在。
そのナイフが自身の手に吸い付くように馴染むことが、彼女は嬉しい。
まるで、自分が彼に許されているかのような強い錯覚は、容易とソフィレーナの平衡感覚を失わせてゆく。
口付けは、なくさないためのおまじない。
知恵者のナイフは、ケルッツアそのもの。
ソフィレーナはケルッツアを胸に抱いて、口付けていた。
本人にその自覚がなくとも、血の流れる指先で、てのひらでいとおしみ、肌に刃がさらに食い込む痛みさえ甘美と、かけがえのないものと抱きしめている。
なくしたくなかった。
向けられる笑みを、声を。その灰色の瞳を。
なくしたくない、と。傍にいてほしいとぽろぽろと零れ落ちる涙は止まることなど知らない。
けれども、それはなくなってしまうものだと。いつかは消えてしまう有限のものだと、賢くも愚かな助手はわかっていた。
物事には限りがある。生物を肯定する絶対の概念は死だと、そんなことは誰だって知っている当たり前のこと。
でも。
でもそうだからこそ。
いつかは消えてなくなってしまうものだからこそ、と。
彼女のエゴが、泣き叫ぶ。
『これが君の手元にある限り、僕は自殺していない』
「うそつき」
涙に混じって落ちた言葉が正しくないと、知恵者の優秀な助手は知っていた。しかしソフィレーナはうそつき、ともう一度刃に口付ける。涙交じりの口付けは少しだけ長い。
知恵者は助手に嘘をついていない。ソフィレーナの手元にナイフがある限り彼は自殺しない、それはまさしくケルッツアが守り抜くかけがえのない約束だと、そんなことなどとっくに彼女は。
「うそ、つき」
ソフィレーナは静かに、その冴え冴えと光を落とす刃を当てた。それだけで陶酔に膝が笑い、ふらつく足元は気力で耐え。
幾千も、幾万も見せつけられた知恵者の亡骸と血に濡れたナイフ。それがどういう手順を踏んで彼女の目の前に晒されたのか、彼女の内で想像はあまりに易い。
傷口の位置から、その深さ、手の動き。知恵者の辿ったであろう一連の動作は、助手によってすでに解き明かされている。
柄を持つ指先に伝わる血は生暖かく、腕に袖にと伝い、とたとたと蒼い絨毯に落ちていく。
一瞬、ソフィレーナの脳裏に驚愕に揺れる灰色の瞳が過った。つられて真っ先に自分の亡骸を見つけるだろうティアレーヌの泣き叫ぶ声や、今は国立図書館から離れているレティシアをはじめ職員の顔見知りたち、実家の家族、遠く離れてしまった友人の姿が蘇り。
研究室の、幾つものシャーレ。冷たいそれは、きらめくせかいを――――思考をよぎったものは、わからない。
ソフィレーナは、危うい白さを持った笑みを浮かべる。
彼女はもう、止まれなかった。
浮かぶ顔に心を痛めこそすれ、ダリルの末姫は虚ろに瞳を輝かせ、頬を瑞々しい薔薇色に染めている。
『…いいじゃないか教えてくれたって……。
…僕が君を解剖するときは、ちゃんと教えるよ……?』
ソフィレーナの奥に声が蘇った。
去年のレウィナ流星群観察の夜。流れ星を待っていた助手と知恵者の間で交わされた会話の、ひとかけら。
『何故見たものを忘れないでいられるのか、とか、主に頭の回線…情報量に関しての限界とか……
ああ、あくまでも自然死の場合だけだから。生きている間にどうこうはないよ…?
勿体無いし。
そんな顔をしなくても、もしそんなことが起こったら大丈夫。…全部僕一人でやるつもりだ。
他の連中には触らせない。……君は、不思議だもの』
「してくださいね」
星闇の中で向けられた、容赦のない知識欲に塗れた灰色の優しい漆黒に、夕空は焦がれを隠すことなく時を経て言葉を返した。
滑り出た思考は唇を伝い、裂いた首筋の肌に痛みを走らせる。
自然引きつる頬の筋肉は奇妙に純粋な喜びに歪められ、奇怪な、壊れた微笑を作り出した。
解剖するときだって、刃物で体内を奇麗に切り分けてゆく。その刃物を持つ手があのひとだというなら、このナイフを身に受け入れることとなんら。
高鳴る胸の鼓動は苦しくも甘い。
その苦しさと甘さに、痺れた思考が巡ってゆく。翌朝十時に送信するようセットされた、助手から知恵者へのメール。その文面を理解したケルッツアを想い、さらに、ソフィレーナは歓喜とも言うべき陶酔で瞳に光を蕩けさせた。
そのメールをもって助手の遺体は知恵者の所有物となる。
あのひとは嘆くだろうか、怒るだろうか、悲しみ、私を罵倒するかもしれない。
でも、最後にはいつくしんで見てくれるでしょう?
ソフィレーナは哂った。これ以上どう歪めればいいのかわからないほど醜悪に美しくほほえんだ。
知恵者は、助手の申し出を断れない。
恐ろしく並外れた、"絶対"記憶脳に、温厚なバケモノとて興味があるのだと、ソフィレーナはレウィナ流星群での会話を言質としてケルッツアに絶対の懇願を押し付ける。
ホルマリンに浸けられて、最終的に部屋の片隅、小瓶に納まるのだとしても、それでも彼女は良いのだと妄執は消えない。
知恵者はサンプルをいつくしみ、あいするのだとは、彼女が学生時代に世話になった臨時教師の言葉。
その言葉に偽りがこれっぽっちも含まれていないことを助手は、焦がれ、時に宇宙の塵にすら嫉妬するほど。
絶対記憶脳がサンプルとなれば、必然、知恵者はそれをいつくしみ、あいするのだと。
そしたら私にも、あなたの底がはじめて。
ソフィレーナはうち震える歓喜に花の蕾がほころんだような、可憐な微笑を向けた。
流れ落ちた流れ落ちた涙は乾き、後には苦い血の匂いと、静謐に降り注ぐ美しい月光があるばかり。
知恵者は強情だった。強情で、自身で納得せぬ限り梃子でも考えを変えない。
助手に対して折れるのは、ケルッツアが納得しているからだと、面白がって折れているのだと、ソフィレーナはよく知っている。
彼の選んだ、選ぶ結末は、己の介入が容易でない深さの心理にあることも。
『……そのことを、レーナは知恵者殿にちゃんと訊いてみたの? あなたがどう思っているかなんて、知恵者殿だってわからないはずよ。そのことを伝えた上で、きちんと、訊いたのかしら……?』
思考を邪魔するように、あるいは最後の正気が囁くように、数時間前、確かに彼女が希望を抱いた言葉を再生させた。
しかし、その響きですらも張りぼてに等しいと、今のソフィレーナはゆるく否定する。対話ができたなら、これほども素敵なことはないだろうけれど。覚めた心地でひとりごち。
人には誰だって、譲れない部分がある。そして知恵者の自殺は、彼の心の奥の奥、譲れないもの、絶対といえるものに深く関わっている。
脳の劣化が許せなくて、単身異世界へと渡った原動力に。
科学大国に囚われて尚、流民だと周囲に認めさせる威厳に。
あるいは、近しい幅で知恵者の気に掛けている事柄を持ち出したなら考慮の機会が設けられるかもしれないけれど。と。
知恵者の有能な助手は、どれだけ思考を巡らせてもそんな事柄に心当たりがないことに自嘲を刷いた。星も、植物も、他の研究も。
あのひとにとっては、その脳があってこそ。
どうあがいても悪夢の結末は変わらない。
どっちにしてもこれから先、悪夢は現実になるという、彼女の結論も。
だったら、さきに。
「おいていっちゃうんだから……」
音となって世界に生まれ落ちた言葉は、丁度知恵者と助手の間で日常繰り返される戯言に、親愛に塗れた非難の響きによく似ている。
だってドクター。あなたタマネギ嫌いじゃないですか。ピーマンも駄目だし。せめて、野菜ドリンクは飲んでいただかないと。
場違いなほどに軽く冗談めいた声で。
「おいて逝っちゃうんだから。
このくらい、赦してください」
一気に、意志を貫いた。
灼熱が襲う。燃えるような感覚の中からひきつけを起こしたような赤子の泣き叫ぶに似た痛みが踊り狂い、背から足からと一瞬にして力が抜け、気づいたときは絨毯に転がっていた。
苦しい。痛い。あつい。
これが、と無意識に動いた唇。がんがんと鳴り響く頭痛には眩暈と吐き気が相乗して自身がどういう状態にあるのかもわからない。
その中で、しかしソフィレーナは笑んだ。
心からの喜びは顔の筋肉を奇怪に歪ませ、到底笑みとは呼べない醜い表情を作り出す。しかしそんな醜悪も助手にとっては知恵者に向ける、朝露を纏う花の蕾が、ゆるやかに咲きほころぶに似たやさしいほほえみを浮かべたに等しい心境で作り出されたもの。
ソフィレーナは、嬉しかった。
これが、最期あのひ と が
溺れる感覚は何に溺れているというのか。
痛みに酔うは何が感じられるためか。
言い得ぬ歓喜と至福に押され、思考があやふやになってゆくに従って意識は速やかに遠くなる。狭まる視界はついに解け落ち。
と。
「ソフィーレンス君」
一等、彼女の焦がれてやまないものの声がした。
目の前には鮮明に、甘く蜜を湛えて笑む褐色の、よく見知った顔がある。
優しく手招く、彼女のものより少し大きい褐色の手。
細められる灰色の三白眼にはソフィレーナだけを映し込んで、優しい光にゆらゆらと揺れている。
手招いていた指先は、じれたようにソフィレーナへと伸ばされ。
ナイフを手放した白い指先が一瞬だけ動いた。色をなくした唇は、何がしか、言葉を。
響くことの無い想いは闇に解け、誰にも、生み出そうとした本人にもその名を明かさない。
ぬばたまの奥の方で、遥か、枯れて風に揺れる葦原の音が。
『ハイチ2・白い部屋』は10月15日(木曜)の21:40に更新します。




