13 サイカイ2・魔術師
13
耳の奥底から感じる涼やかな振動は、徐々に音としてその場に認知される。
さら、さら、と。
金属の触れ合う音よりは柔らかく、水の流れる音よりは硬質。
鈴の音に似て、それとも違う響きは夜の底から忍び寄る深淵とも近く、霧の静寂を纏っていた。
眠り馬の発光で白く染まっていた遺跡の壁は、今や薄青い色を帯びてさらに神聖さを増している。
満月の月光に似た明るさが、ケルッツアと眠り馬を等しく染め上げ。
その中において拭いきれない深淵の狭間から、ゆるり、と夜が姿を現した。
否、夜が人の形を取ったと言わんばかりの、優麗な静謐を纏った者がその場に音もなく現れた。
肩口から地面まで、その体の一切を覆う漆黒より尚暗く広い闇を溶かし込んだようなマントは、全ての光を吸い込み反射を返さないままに音もなく揺れている。
マントと同色か、尚暗い短髪、ケルッツアの髪よりわずかに長い黒髪は、優雅に光を弾き、月光の下で眠る百合の白さに似た肌を晒す首筋にわずか掛かっていた。
まさに白と黒。
黒い髪に切り取られる小作りな白い顔には、左右対称に眉と目が形よく並んでいる。
その柳のように美しい眉の線に、閉じられた睫は一対、その長さを誇るかのように頬に影を落とし、小作りな顔の中央には形よく通った鼻筋、その下、薄い唇は今、頑なに噤まれていた。
無駄のない輪郭、性別の判断をつけ間違えるほど中性的な顔立ちは、そのわずかな骨格の形でその者の性別を男性へと、辛うじて傾かせている。
髪の色と、纏う大振りなマントとその美貌が、彼の佇む姿を明けることのない夜そのものと見せていた。
不可視の力でゆらゆらと揺れていた漆黒のマントの裾が落ち着いた頃、まどろみから覚めるように、麗しい夜はその瞼を持ち上げ、深い紫のリラの蕾のような虹彩を露にした。
目の前の光景に、まさしく鳩が空気銃を食らったような顔のケルッツアを認めると、ふ、とその色を親しみからくる苦笑に変えて、唇を動かした。
響いていた静寂の音は、いつの間にか消えている。
「お久しぶりです。ドクター・ケルッツア。
――――いにしえの取り決めに従い、メンテナンスにと参じました」
夜に通る月光のような声と、向けられる控えめな笑み。
目の前にいるすらりとした美丈夫の顔と古い記憶の中の、彼に術をかけた幼い双子の魔術師、その片割れ、黒髪の兄の顔がふと重なった途端、ケルッツアは眼を丸くした。
次いで、驚きを懐かしさに変えて破顔する。
なるほど、確かに子供特有の柔らかさこそ削げ落ちたものの、生真面目そうな眉の辺り、よく似ているではないか。
「エルヴィン君。……エルヴィン=シュトラウス=シュルゼ=フォン=バヴィン君か!
懐かしい顔だ。
そうか、この状況は君達のいにしえの契約事項に、相当するんだね?」
意を得た、と感心するケルッツアに、エルヴィンもその整った顔を懐かしさに浸して頷いた。
黒々とわだかまる闇のようなマントをわずかに払い、その隙間から、白く優美な指先を覗かせ、ゆっくりと屈んで地面にめり込んだ、少しひしゃげたランプの柄に触れる。
形容しがたいほどに美しい音が、辺りにさら、と鳴り響いた。
「はい。もっとも若干召喚の意図がずれていますが。
ドクター、ご無事で何よりです。
術をかけた以上、三度までその術のメンテナンスを行うことは私達魔術師の義務とも言えるもの。
術をかけられた者の危機的状況に、術をかけた魔術師は三度だけ、術をかけられた者を……否、かけた術のメンテナンスを、術をかけられた者の許可なく自動で行います。
けれど、そんな取り決めの上でも、私は貴方と再び見えたことが純粋に嬉しい。
覚えていてくださって、光栄です。ドクター」
白くほっそりとした指に持たれて、ランプは穏やかな光を灯している。そのどこにもひしゃげた跡はなく、四方を囲むガラスは、年季の入った曇りをわずか湛えていた。
魔術での、物質の修理は結構簡単なんだったっけ。差し出されたランプを受け取り、ケルッツアはひとつ息を吐く。そして記憶の中では小さかった目の前の彼に、少し残念そうな色を含んだ厳しい視線を向けた。
「うん。僕も嬉しいよ。こんな場面じゃなければ酒を飲み交わすこともできただろうに。
済まないね。結構切羽詰っているんだ。悪いが、メンテナンスなら後に」
とがめるような眼差しと硬い声を、通った夜の響きが打ち消す。
「いいえ、クライアント。今この場においては強者と弱者の立場が逆転しています。
私は今、貴方を止めざるを得ない。
我等が世界の貴重種である眠り馬を消滅させることは、何人たりとも許されません」
言葉の硬さとは裏腹に、エルヴィンの顔はどことなく気安く、声にも本格的な不快の色はない。
闇を切り取ったかのようなマントの裾は優雅に払われた。中から現れた服装は、きちんと留められた襟元、長袖長ズボンの色はお揃い、という、どう贔屓目にみても、水色のパジャマとしか形容しようのないもの。
堂々と振る舞おうとするエルヴィンの顔は少々赤らんでいる。
そういえばあちらの時間の流れはこちらのこの国の周期より五時間早かったな、と銀の懐中時計こそ懐から出さないものの、ケルッツアは宙に思考を求めた。
遺跡に入ったのが七時半。中の準備で十五分くらい。正味諸々合わせて今が八時と少しと考えると。向こうでは。
「就寝前で悪いけど……君が封じてくれる?」
苦味を笑顔で潰して問うケルッツアに、異世界の魔術師は情けない笑みを押し込めて頷く。
「ええ。お恥ずかしい出で立ちですが、そのために私はここに。
この生物は今こちらにあってはならないモノです。私達としましても、今のこちらの世界で人が赤い砂になるなどという奇怪な現象が起こるのは芳しくない。
元々、その生き物は我が民の忘れモノです。
以上の点から、貴方のメンテナンスいかんより……。
私は早急に、"彼"の身柄確保と解呪とを遂行したい」
堅苦しい言葉にそぐわぬ水色のパジャマ姿のまま、エルヴィンはケルッツアを見ている。
そんな馴染みの顔に、知恵者は苦笑をとっとと昇華させた、心からの感謝で微笑んだ。
「ありがとう。僕ではどうしても殺すことしかできないからね。
お願いするよ」
夜を纏った麗人が今、可笑しな方向に手足を伸ばして奇怪な格好をとっていることにも、就寝前の格好ということに触れる気もなさそうな元・依頼人の様子に、エルヴィンは清々しい笑いを返した。
「話が早くて助かります。お任せください。クライアント」
魔術師の右手は右方向上八十五度に上げられている。左手は左方向に水平のまま停止。首は前に倒し、片足は不自然な形に曲げられて辛そうな高さで保たれ。
さら、さらと。美しい音が鳴り響いていた。
エルヴィンの至って真剣な呪文の声に合わせて、白い馬を囲む四方に、光の壁のようなものが立ち上がる。光は頂点で結ばれ、その幅を狭くしてゆき。
ふわり、と突如、エルヴィンの作り出した光の中に、背の辺りまで黒髪を流した女性が現れた。質素なドレスに身を包んだその女性は、馬の正面に膝をつくと、立ち上がれない馬の首に両手を回して抱きしめている。
そんな様を見やりながら、ケルッツアは疲労でその場に尻をついて座り込んでいた。
ぼんやりと、今エルヴィンの取る可笑しな格好の根拠を思い出すと、魔術師も大変、と疲れた息を吐く。
魔術師は、魔術師のいない世界には行きたがらない。
過去、そんなことを異世界からの異邦人に、幼い金髪の子供は語っていた。
その訳を知らなかったのか、黒髪の、エルヴィンはそのとき大層愕然と己の手足を眺めている。
『だってね。変なかっこうしないと、じゅつがつかえないんだ。とくに、どくたーのいるせかいは、とっても、くうきちゅうのまりょくがすくないの……。
だから、手とか、足とか、頭とか、体のあちこちをね、そのまりょくのほそい帯にふれさせて、じゅつをつかわなくちゃならないからね、どうしてもね、へんなかっこうになっちゃう』
あの金髪の子の名前は、確かエリアス君だったっけ。彼は元気だろうか。
ケルッツアの疲れた視界の中、空気中の魔力を辿っているらしいエルヴィンは、影遊びのとき全身で鳥を形作る体勢に似た姿勢を取っていた。
眠り馬を捉える美しい紫色の光の壁の中では、黒髪の女性が馬の首に両手を回して、何事か話しかけている。
ケルッツアの位置からは女性の顔を窺うことはできないが、仕草といいその肩の線といい、なにやら優しげに語りかけている様子が窺える。
と、ゆっくりと馬と女性とが立ち上がったと同時、眠り馬の姿は一瞬にして消え去った。光の壁に囲まれた空間の中には、女性が一人取り残されている。
その彼女は、振り向くと、エルヴィンとケルッツアのそれぞれを見つめ、深くお辞儀をした。途端、しゃらしゃら、と。今響いている音とはまた違った音が、ケルッツアの耳朶に届いて消える。
気がつけば、彼のあれほども痛んでいた関節や酷い倦怠感は、どこにもない。
さら、さらとエルヴィンが呪文を唱えている間中響いていたもう一つの美しい音も消えていた。
「迷惑を、かけてしまった、お詫び、だそうです」
術を終えたエルヴィンは、平然とした顔でケルッツアに笑いかける。その息が不自然に少々弾んでいるのは、無理な姿勢をキープしたまま呪文を唱え続けていたからか。
ケルッツアはすっかり痛みも疲れも消えた手や足をしげしげと眺めていたが、その目をエルヴィンへと向け、そして。
「じゃあ、もう呪いも?」
果たして。異世界の魔術師の秀麗な顔立ちは困惑に彩られた。その顔は知恵者の予想の範囲内だったが、生真面目な麗人は消沈した様子で言葉を紡ぐ。
「いいえ。眠り馬の呪いとは、眠り馬を鎮めたからといって、解けるものではありません。
眠り馬の契約者は、その治癒の力を、呪われた者全員と貴方に施して、消えましたが……彼女は死してすでに精神体となっている身。
元の性質であった治癒は使えても、呪いを解くことはできないと、そう私に伝えて行ってしまいました。
これより、解呪に移ります」
厳かに宣言するなり、今度は猫が背を伸ばすような格好で呪文を唱えはじめている。
頼む、と口の中でつぶやいて、ケルッツアは辺りを見渡した。
さら、さらと流れる美しい音は、魔術が行使される際に流れるものであるところからして、魔術の音なのだろう。
異世界では聞いたことのないその音はこちらでの"ルール"なのだろうか。そんなことを考え、ぼんやりと浮かび上がる影に目をやる。
月光のような光の只中、見遣る部屋の中に幾つかの、否、幾十かのぼやけた岩のようなものが所狭しと姿を現しはじめた。
輪郭は徐々に鮮明になり、岩らしきもの一つ一つが半透明の、座り込んだ人間の姿になる。その中の見知った顔は、ケルッツア自身、電話口でグルラドルンに読み上げたリストの中にいる者達に間違いはない。そんな顔を幾人か認め。
彼のいる場からもっとも離れた部屋の隅、壁に凭れかかるようにして。
ケルッツアは思わずとその名を呼びかけて、エルヴィンの呪文が耳に入ると言葉を飲み込んだ。伸ばしかけていた手も、駆け出そうとしていた足も、そっと元に戻す。
戻すときに意識なく宙を掻いた褐色の指先が、彼はどうにも情けない。
栗色の短髪をその赤茶けた遺跡の壁に凭せかけて、虚ろな顔の助手は地面にへたりこんでいる。
その服装は彼が今朝見た助手の格好ではなく、少しふわりとした柔らかい生地と色合いの、普段着と見受けられるもの。
見える夕空の虹彩は、暗く夕闇に沈んで底が見えない。この場に現れたどの人物よりも透明度高く背景が透けて見えている、とは観察眼を得意とする学者の見解だった。
さら、さらと。不快でない音は徐々にひいていきこそすれ、消える気配はない。
その中で、ふ、と。ケルッツアは自分以外の嘆息を聞いた。そちらに顔を向けると、疲れた様子のエルヴィンが息を切らせている。
「呪いに掛かった者の、精神を、呼び寄せ、ました。
あとは、ひとりひとり、解いていく、だけ。……少し、休んでも、宜しいか…………」
言うなり壁に寄りかかって座り込む魔術師の息は荒い。ケルッツアは部屋の入り口に転がしておいた荷物の中から水筒を取り出すと、美しい夜に差し出した。
その水筒をお辞儀と共に受け取って、夜はわずか喉を鳴らす。
彼の疲労を心配に思いながらも、知恵者は、己の助手へ意識を割くことを止められない。
魔術師の休んでいる間中、知恵者の灰色の瞳には壁際で座り込む助手の姿が映されていた。
気づけば同じところに目をやっていることをどうしようもなく思いながら、ケルッツアはしかし、視界の焦点を別の場に移すことができない。
逸らしてもすぐに元に戻してしまう。エルヴィンを急かすのは酷だろう。けれど彼女を一刻も早く楽にしてやりたい。かといって、事態は己の手を離れている。何もできることがない。
どうにも整理のつかないジレンマに圧されて、その三白眼は時折、斜め下手を眇め睨んでは、焦燥を湛えてソフィレーナを捉えている。それの繰り返し。
しかし、じりじりと続くかと思われた知恵者の焦燥の時間は、彼も予想すらしなかったほどあっけなく終わりをつげた。
彼の逆恨みともつかない情念に圧されたか、単にエルヴィンという魔術師の回復能力が高いのか、隣で不機嫌になっている元・依頼人のことなど知らず、エルヴィンは水を飲んでから幾らもたたないうちに静かに立ち上がった。
拍子抜けしたような顔のケルッツアを不思議そうに見るその息は、すでに切れていない。
「もう、いいのかね?」
随分短い休憩だったと逆に心配げな声で問う知恵者に、魔術師はけろっとした、美しい夜の静寂を漂わせて、是と応じる。水をいただけたのが幸いした、力の源です。と水筒をケルッツアに返し、その美しい顔に厳しさを湛え、時間がない、と、早口で漏らした。
「あそこで壁に寄りかかって座り込んでいる女性。あの方は危険です。かけられた呪いが成就しつつある。
解呪しなければ、おそらく明日までに、否。
あと一時間待たずして砂になります」
闇に通る静けさの声は硬く、その美しく細い指先は一点を指し示していた。
その指を追うより先に、ケルッツアは夜の示した者が誰か、わかる。
虚ろな目をした、栗色の。
ケルッツアが声を出すより早く、エルヴィンは彼女の元へと駆け出していた。
エルヴィンは走りながら何やらケルッツアに説明していたが、当のケルッツアは半ば呆然とその黒いマントを追いかけるだけ。
魔術師が、何を言っているのか、知恵者にはわからない。否、わかっていても、認めたくなかった。
あと一時間もしないうちに、砂になる。砂になるとは、死ぬということだ。眠り馬の呪いで死ぬと赤い砂に。死んだものは赤い砂にソフィレーナさんが、砂に。
彼女が真っ先に死ぬって?
あれ、ほど?
あれほど、楽しそうな声で笑っていたのに呪いだって僕は僕の一番大切な誇りであるナイフまで彼女に持たせてきているのに?
なんで、一番最初に……?
支離滅裂な感情は、唐突に落ちた静かな声にかき消された。
ケルッツアの目の前、背景の透けたソフィレーナの側に片膝をついたエルヴィンは、驚愕を悲壮に崩した顔で彼女の頭に手を置いている。これは、なんと、酷な、と。切れ切れの言葉が形の良い唇から零れ落ちた。
異世界の魔術師は何故そんなにも驚き、哀しげなのか。
ケルッツアが問うより早く、エルヴィンは吹っ切るように頭を強く振り、彼女の顎に手をかける。栗色の前髪をそっと払うと、現れた額に開いたてのひらをかぶせて短い呪文を唱え、覆っていたてのひらを退けてその場に顔を寄せ。
後頭部からつんのめった。
事態の飲み込めない魔術師は、己の視界が遺跡の天井を捉えていることに気づくと、苦しい首に手をやりながら、マントの引っ張られている方向に眼を移す。
「何をなさるか」
「君こそ、彼女に何を!?」
夜を溶かし込んだマントの裾をこれでもかと両手で手繰り寄せ、まるで海に沈めた網を船の上に引き上げるような格好、ケルッツアが仰向けに転げたエルヴィンの顔を見ていた。
褐色の耳朶は赤く、子供の顔には明らかな怒気と不満、加えて困惑が入り混じっている。
苦しいからマントを離してほしい、という魔術師の訴えを受け入れても、斜め下手を眇め睨んで不機嫌を隠そうともしない。
自由になったエルヴィンは、特にむせもしなかったが喉の辺りを摩ると、黙り込んだ知恵者の様子に困惑顔で説明を。
「私が行おうとしているのは解呪です。額は精神への入り口ですから、そこに言葉を送り、仕上げに口付ける。
何をそんなに気難しげになさるのです」
咎められることなど一つも。そう言いたそうなリラの瞳は、急に合わされなくなった灰色の三白眼に戸惑いを隠せない。
そんなエルヴィンに、ケルッツアは、至極素直な感情を無言に代えた沈黙の後、ぽつり、と。
「……額じゃなくたって良くはないのかね。
…………………………………………………………………………………………。たとえば、て、とか」
ごねた響きに、エルヴィンは目の前の元・依頼人が何故不機嫌なのかを悟った。
悟り、絶句以外のなにものでもない沈黙ののち、どこか呆れた声で答え返す。
「……。
この女性とあなたはお知り合いとお見受けいたしますが。
クライアント、口付けは額へのものです。唇へのものでは」
ないんだから耐えてくれ、と。そこまで魔術師が説く間もあればこそ、灰色の三白眼どころかその顔は、ぷい、とそっぽに向けられる。
魔術師の契約事項に則って真面目に了承を得ようとするエルヴィンに、無言で明後日の方向に顔を向け、視線にいたってはさらに明後日の斜め下手を眇め睨みつけたまま、ケルッツアは無言を通すばかり。
子供は時折リラの目を見やるが、その温度は。
「黙りこまれても困ります。そんな強い嫌悪の意志を持って、私を見ないでいただけるか」
刺さり圧し掛かるような無言の圧力にとうとううな垂れた、エルヴィンはしかし譲らない。
知恵者とて魔術師がやろうとしていることの真意を十二分にわかっている。解呪を、しないとソフィレーナは死ぬ。そして、解呪のやり方を知っているのは異世界の魔術師しかおらず、できるのも。
そこまでわかっていて尚、彼はこの場でどうしても不機嫌を隠さなかった。
その根拠は一点。解呪など、魔術師はケルッツアの意思とは無関係に遂行してしまえるはずである。
知恵者の自由を奪う術などエルヴィンはいかほども知っていると、知恵者は理解している。しかし、その方法が取られていない。
つまりエルヴィンは甘い。
そんなことを頭の隅で考え、恐らく同じような場面に公の場で当たっても顔色一つ変えないだろう自覚がある分、ケルッツアは、己の性質に少々あきれ返ってもいた。
流民からしてみれば額は特別な場所でも、この国でも、そしてあちらの世界でも額はそれほど重要な意味を持っていない。
ソフィレーナとて、親愛の情として幾度も額に、家族や友人から口付けられているだろう、口付けているだろうことは彼の想像に難くなく、額、に拘るケルッツアの想いは完全なエゴでしかない。
まして、エルヴィンはその心の大半を良心に染めて、この国の人々の解呪を行ってくれているということも、知恵者はわかっている。
どちらが正論を唱えているか、両者ともに一目瞭然、わかりきっていた。だからだろうか。
せめてと溜息というにはあまりにも嫌悪感まるだしの息の吐かれる音が、魔術師の耳に届く。
「……。………………わかった。すまない僕が大人気なかった。
僕はあっちを向いているから早々に済ませてくれ」
早口で告げられた言葉にエルヴィンが顔を上げると、彼のいる場から三歩ほど後退したところに、背を向けて立つケルッツアの姿がある。
少し痛み始めた胃の辺りをパジャマの上からさすりさすり、生真面目、否、くそまじめ過ぎのきらいのあるエルヴィン=シュトラウス=シュルゼ=フォン=バヴィンは、何も悪いことはしていない、と思いながらももやもやした気持ちで解呪の残りを行動に移そうとし、いやに引っかかる知恵者の方向をちらちらと見ていた。一応、了承は得た。耐えて貰うしかないだろう。
後ろ向きになった子供の背中はややもすると、怒りにか、悲しみにか、震えながらちぢこまっていく。
今にも、くっ、などと聞こえてきそうな元・依頼人の様子に、エルヴィンは正体のない罪悪感で胃痛を無視することができず、半透明なソフィレーナの顎に、手をかけられずにいる。
時間はじりじりと削り取られる。
このまま、目の前の娘を放っておくことも魔術師にはできることだった。
赤い砂となった人間に纏わる記憶を全て消し去ることも、途轍もない労力を必要とするが、彼一人でもできないことではない。
しかし、それではあまりにも救いがないと。エルヴィンとは、幸か不幸かそこで逡巡できる甘さと、良心を持った者だった。
ので、彼は正直今泣きたい。
そのごねている時間の分あなたの想い人らしい女性の苦しみも延びているんですよ! いい加減折れてください。折れるにしてももう少しうらみつらみなくおれてほしい。あなたは彼女の苦しみをそのエゴで延ばすのですか!! 渦巻く感情を言おうと開けられた形のよい唇は。
「………………………………。あの」
結局、逃げの言葉しか紡げなかった。
「なんだね? 済んだの?」
背後から聞こえる声は冷たい。その冷たさに、もうどうとでもなれ、と。そこまで思いはしないものの、少々でなく切なくなったエルヴィンは、正直あまりの切なさに、匙を投げて逃げ出したくなった。
ので、完全に投げ出すことは己に許さないまでも、本当に少しだけ、逃げた。
「いえ。まだです。……。
解呪、やってみますか?」
「! なんだって!?」
提案を聞くなり素早く振り返ったケルッツアは、眼を丸くしている。
ケルッツアには、解呪自体はエルヴィンしかできないものという認識がある。解呪のやり方として"額に"口付けるという方法が気に入らないだけで、別のやり方でやってくれ、などと圧力をかけていたに過ぎない。もっとも別のやり方でも、彼にとっての"額"以上のことをするならばまた止める腹積もりだったが。
後ろを向いていたのは、別のやり方がなくともエルヴィンには一応の許可を出しているのだから、そこでいくら魔術師の良心が痛もうが、それは魔術師の甘さだ。と、いう自他共に認める拗ねた心境からの行動だった。
勿論、ソフィレーナの額に、誰かがキスしている場面を目撃したくなかった、という心理も働いている。
魔術師が術の過程で彼女の額に口付けることに一応ケルッツア自身了解は出しているので、当然、それが遂行されたところで文句を言うつもりはない。権利すらない。
しかし、知恵者にも解呪の可能性があるとなると、話は違ってくる。
真剣な顔で寄ってきたケルッツアに、提案者、否、圧力からの逃避者は小さく息をついた。
相手にやらせてみて、無理だと悟らせてからやる。その方法は、いらない時間がかかって効率が悪いのだが、魔術師間で取られないこともない。あまり芳しくはないが、確実な方法といえばそうだった。
初めからこうすれば良かった、と少しやつれた麗しい夜は胸中で反省している。
知恵者に自覚があるかないか、実体のない魔術を扱う者である、つまり厳密には人間でないエルヴィンにとって、ケルッツアの向ける強い負の感情はあまりに、きつかった。
「可能性は限りなく低いのですが……あなたは己でやってみないと信用なさらない方と、記憶しておりますから……。
時間がない。
あなたの呼びかけにこの女性が反応を示せば、あなたでも呪いを解くことができましょう。
反応がない場合は、少々強引な手を取ってでも速やかに、私に任せていただきます。
その際、うらみ、つらみは、な・し! です。よろしいですね?」
そこでもごねたら遺跡から追い出す。冗談と取れない眼光で冷たく睨みつけるエルヴィンに、答えたケルッツアは満面の笑み。
「わかった。ありがとうエルヴィン。感謝する」
脅しとも取れる言葉に裏表のない笑顔を返され、拍子抜けした魔術師は、その顔を呆れからくる苦笑に変えた。
怒りにあからさまな肯定と感謝で答えられると、それほど悪く思えないのは何故か。いっそ可笑しな清々しさに見舞われながら常夜はマントを再び体に纏わりつかせ、静かに、横へと逸れる。
「……いえ。では、呼びかけてみてください」
その声につられるようにしてケルッツアは足を踏み出し、半透明なソフィレーナの真正面に立った。
そして。
やってみる、とはいったものの、エルヴィンにせよケルッツアにせよ、ここまで、呼び寄せられた精神体をすり抜けてたどり着いていた。現に、彼の左足は、見知らぬ者の右腿を踏み抜いているが、彼にはそんな感覚はなく、また、踏み抜かれたものの顔にも何の変化もない。
しかしエルヴィンは確かにソフィレーナの顎に手をかけて、彼女の顔を少しだけ上向きにしている。
もしや、魔術師でなければ触れないのでは、と。そんな懸念を否定するためか否か、ケルッツアは恐る恐る、彼女の頬に褐色の手を伸ばした。
半透明ということを抜いても青白く生気のない、栗色にわずか隠れたまろやかな輪郭の頬に、ゆっくりと、震える指先を伸ばし、確かに柔らかいものが指腹に当たった感覚に一瞬歓喜を浮かべ、次にはその顔を、驚愕と憐憫、憤怒に崩した。
触れるソフィレーナの頬は、温度がない。
それは外的な温度によって齎されたものではなく、内から凍えるような、死の世界に旅立ったものが残した器が持つ冷たさそのもの。その温度にあっては柔らかいほうが不自然な、血の通わぬ物体としての体温だった。
手遅れ。と一瞬だけ、知恵者の頭をその言葉がよぎる。
思わず力の抜ける両足を踏ん張り、慎重に両膝をつくと、ケルッツアはソフィレーナのその半透明な顔に顔を寄せた。
息のかかるほど近くに見る彼女になんら変化はない。その長い栗色の睫の先が震えることも、眼を見開くことも赤面することも。柔らかく持ち上がった唇から感情も零れず、どころかよく見れば、息の動きや音すらない。
手遅れならば赤い砂になる。精神体だったという馬とともに消えた女性は、もっと透き通っていた。
それでも、そのことだけを頼りに、ケルッツアは彼女の青白く冷たい両頬を、ガラス細工を扱うような力加減でてのひらに包みこみ、焦点の定まらない夕闇の瞳の奥の奥を、見据える。
ともすれば鼻先の触れるほど近く、震える唇から紡ぐ、声は。
「ソフィレーナさん」
はっきりとした音が響き、再び沈黙が訪れる。
傍で見ていたエルヴィンは一連の流れに赤面、よっぽど咳をしようと握った手を口に近づけたり離したりしていたが、嘆息した。
精神体に触れることができるのは、魔術師を除いてはその精神体が本当に心を許した者に限られる。
その点元・依頼人は見込みありかと思ったが、そう甘くなかったようだ。そんなことを頭の中で思いながら、固まったようなケルッツアの肩に手を置く。
「……落胆することではありませんドクター。本来は私達のようなものでなければ触ることさえできないもの。この方にとってあなたは特別な存在です。
では、約束は守って」
そこで、エルヴィンは思わず息を飲んだ。
彼の見る前で、褐色の手の甲に、ゆっくりと、色の抜けた指先が添えられてゆく。
その指先はそっと、褐色の甲を撫で、半透明な白いてのひらにケルッツアの温度を包み込んだ。
全体を見るためだろう少し離れた元・依頼人の顔の影、半透明の女性は、濁りのない笑みを浮かべている。
濁りがないからこそ、禍々しく不気味な微笑みは枯れた薔薇の美しさに似て滴り落ちる狂気を孕んでいた。
背景の透けた唇がゆるやかに震え、今にも泣きそうな声が。
「ドクター。
そんなふうに呼んじゃ、やです」
響く音は、竪琴の旋律に似て柔らかい。
言葉を失っていたエルヴィンは、次の瞬間には彼らの額に両手を乗せていた。
低く呪文を唱え、ケルッツアの額を軽く圧すと、子供はふ、と前のめりに崩れ落ちる。
ぺったりと両腿を地面につけた格好で座っているソフィレーナに寄りかかって気を失ったケルッツアは、そのままずるずると体勢を崩し、彼女の膝の上に少しターバンを乱したまま、頭を落ち着かせた。
ソフィレーナのやわらかな色合いの質素なスカートに、ケルッツアの灰色の短髪が乱れている。
残された魔術師はその様を直視することもできず顔を赤らめて、ちらり、ちらり、と見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
リラの瞳が見遣るのは、半透明でも尚美しく光を弾く栗色の。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン…」
女性の唇は、狂想に塗れた美しい音を発していた。
もうすぐで同じになれる、と心底嬉しげに弾む音は、エルヴィンにはひたすら禍々しいものと感じられる。
しかし、と。彼は女性の膝に頭をうずめた状態のケルッツアに視線を移した。これで良かったのではないか。少なくとも自分では解呪はできても彼女の、呪われていた間の記憶に干渉することはできない。思慮深げな顔でひとりごち、厳しい顔で名も知らぬ女性を見ている。
納得せぬまま事態が収まれば、そこでどうして納まったかの疑問、歪が生じる。普通の者ならば少々記憶をぼかせば事足りるが。
いかんせん、ここまで呪いの進行を早めたのは、この女性自身のせいでもある。呪いの間違った否定につけ込まれた思考は忘却という手段を取れないことによって。
優麗なかんばせを憂いに沈めて、魔術師はソフィレーナの背の辺りに目をやった。
宙に手を伸ばし、何かに触れるような仕草をして、弾かれたように白く長い指を引っ込める。
その指腹には、軽い火傷のような赤さが生まれていた。
「何故………こんな手違いが」
呟いた夜に通る声は、誰に聞かれることもなく彼自身の魔術の音にかき消されてゆく。
エルヴィンはふと、弟の信じる説を思い、また思案を巡らせた。忘れモノもあった。
確かにこの世界はどこよりも彼らの世界に近く、そして不自然にも遠い。それは。
今は別の世界で研究に明け暮れる気弱なかんばせを浮かべ。
魔術師は強く頭を振る。
この女性とも、いつの日にか再び見える日が来るかもしれない。
そう、頭の片隅で悟り。
エルヴィンは他の者の解呪に取り掛かっていった。
そんな魔術師の存在など知らず、ひそやかにひそやかに、息が零される。その音は深く、どこか甘みを含んで綿菓子のように響き、死んでいった。
さら、さらと流れる魔術の美しい音の狭間、竪琴の声は誰に拾われることなく、生れ落ちては消えていく。
含まれ織られた、滴り落ちるほどの狂気はそのままに。
「おいて逝っちゃったんだから…………。だから。
このくらい、赦してください……」




