12 サイカイ1・遺跡
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ほの暗い闇の中で、真っ白な身が翡翠の光を纏い、浮かび上がっている。
四方を取り囲む濃厚な闇の先は際限があり、ないものだった。明かりは自身の放つ霧に似た光だけ。
その場には、"彼"と、足元にうずたかく積もった赤茶けの砂、それ以外はなにもない。"彼"の髪を揺らす風も駆け回る素足に心地よい野原の優しく柔らかい草も。ゆるゆると冷気を纏い漂う霧も、"彼"の背を遥か超える黒々と美しく広大な森も。喉を潤す薄紫に染まった湖も。
そんなものは、ずっとずっと昔、まだ"彼"が自由に山野を駆け回っていた頃の、遠くおぼろな記憶の中に全て解け消えたものだった。"彼"は、その自由気ままな生活から、ある魔術師に契約を乞われ、応じた過去を持つ。
その魔術師は、美しい波動を持つ者だったと、"彼"はそっと、その長い睫を伏せた。
今は赤茶けた岩に豊かな緑が溢れていた頃。おぼろげになってしまった記憶に残る者の姿は、"彼"の中ですでに、声も、そして姿さえもあやふやだったが、"彼"に齎されたもののどれもこれもが美しく、今でも誠実さに満ちている。
後にして思えば、彼女は、"彼"が住処としていた森の近く、"彼"が居るためにその怒りを買うのではないかと恐れ、広大な森を切り開くことができない村人達に乞われてやってきた、"彼"を封じる役を負った魔術師だったのだろう。
しかし彼女は、"彼"に手荒なことはせず、ただ、"彼"の主人として、その身を"彼"に差し出した。
微笑む魔術師の、白魚のような手のひらから落とされる美しい赤。
波紋を描き、"彼"を縛ったその鎖は酷く優しい。娘が正確になんと言ったのかは、すでに"彼"の記憶から消えうせていたが、彼女は生涯、その一生を終えるまで、"彼"を裏切ることはなかった。
ただ一度きりの純潔を"彼"に捧げた黒髪の乙女。
霞のかかったちりぢりの映像においても尚、美しい、美しい娘の記憶にまどろみ、"彼"はその翡翠にも似た一対の瞳を茫洋と、遠くに馳せる。澄んだ泉よりも静寂の支配するあさぼらけの湖畔よりも鮮烈だった存在を、探すように四方を取り囲む底なしの闇に視線をさまよわせ、ふ、と諦めては足元の赤い砂に目を落とした。
美しい娘との契約に繋がれ、支配されている状態は、"彼"にとって心地よいものだった。永久にとこしえにと、魔術の契りを結んでからの眠りは幸福という言葉と等しく、安寧の時は何物にも代えがたい。
契約者の存在がすぐ近く、いついかなるときも傍にある。人と"彼"とのはざまにある者の寿命ゆえ彼女が死を迎えても尚、魔術師はその心を赤く美しい石に宿して眠り、"彼"の傍を離れることは、なかった。
彼女と共にある幸福な眠りの中にあっては、何人がこの黒い棺に触れようと、怒りさえ覚えない。それは心優しき娘との契約の中で取り決められた彼女のお願いだったけれど、その些細な願いに応じるほどのものを、"彼"は彼女に感じていた。
幸せだった。
"彼"の主人となった娘は、"彼"に力を望まず、"彼"を使役するというよりは諌める役に徹していた。魔術の波動で稀有な薬草が取れる場所に居を構え、"彼"と契約している所為で他に割けない魔力の代わり、薬草を煎じて生計を立てていた。
物静かな人物だった。
"彼"は、そんな彼女、契約を結んだ魔術師と共に、大人しく眠っていただけだというのに。
べたべたと棺を触られる不快感は肌を触られるそれに近しい。無遠慮な声が"彼"のまどろむ神経をじくじくと突き、消えていった。幾度かそんなことがあるたび、"彼"は抗いがたい怒りを娘との契約を重んじて無理やり抑えてきた。
しかし。
静寂と静謐、深く霧のかかる湖畔のような静けさに、波が立つ。風は強くなり木々はゆれ、深い霧はあっという間に払われて不機嫌な雨音に次ぎ、雷が鳴り響いた。抗いがたい怒りが、自身では制御さえできない苛立ちが"彼"に理性を失わせる。
何故、いにしえの住人が、"彼"の怒りを買うことが怖いがためにわざわざ遠い都にいる魔術師を、依頼する側の精神の強さを認められなければ貸し出されない魔術師を乞うたのか。
魔術師は無償で事を成す。しかしその無償は、無償であって無償ではなかった。魔術師とは人ではない、人に近しくある者。彼らは良心で事を成すが、その良心は彼らの心を動かす動機と意志を持った者にしか向けられない。
また、仕事を引き受けても、その後のケアをせず去ってしまう魔術師もいないではなかった。魔術師の機嫌を損ねれば、それこそただ死ぬより酷い目に遭わされることは、周知の事実。
それを重々知りながら、森を切り開きたい村人達は"彼"の怒りに触れるより、魔術師を呼ぶことを選んだ。
それだけ、"彼"の怒りが恐ろしいということを知っていた。
白い足の下、ただただ積み上がるは赤い砂。
かつてこの場所が森だった頃、泉の底に沈んでいた赤い砂と同質なものが"彼"の足元に築かれている。
彼を怒らせたものは、泉に沈むのだという。赤い赤い、血のような色の砂となって、澄んだ泉の底に溜まってゆく。
今は、砂を濡らす水こそないものの。
娘が居たならば悲しみ嘆くだろう行為を、"彼"は今、愉悦さえ抱いて行っていた。しなやかに首を振れば、"彼"の前にたちまちほの暗い光を伴って幾つもの光景が展開される。
無数にある映像は、時も場所も登場人物も、その年齢や性別でさえバラバラ。唯一つ、映像の中心人物は皆苦しみ嘆き、絶望しているということだけが共通している。そして、その映像の中で彼らの苦悩は晴らされることがない。
救いがない。
白で統一された美しい部屋の中、ベッドに腰掛けて虚ろに微笑む女性がいた。ゆるゆると伸びた美しい栗色の髪をベッドにまどろませ、酷く凝った白のドレスに身を包み笑う女性は、目元をヴェールで覆われて尚、狂気を滲ませている。
数多浮かんでくる映像の中でも一際、すでに輪郭が崩れかけている彼女の姿を認めると、"彼"はほの暗い炎を瞳の底に宿し、ほくそ笑んだ。
あれは、もうすぐ堕ちる。
まるで果実が熟し落ちるときを見守るような目の色で、映像の中、栗色の髪を持つ小柄な女性を見ている。
"彼"の、本来澄んでいてしかるべき翡翠の瞳は、すでににごり、醜い光に塗れていた。そんな"彼"を諌めるものは今。
"彼"の目の前に展開される映像の中、緩く波打つ、長く美しい栗色の髪は、すでに先の方からぼろぼろと赤い砂となって崩れはじめている。その砂は"彼"の足元のそれと少しずつ、同化していった。
その娘が堕ちるのを皮切りに、次々と足元の赤い砂は増えてゆくだろう。
"彼"はそう、自身の望んだ結果を前に低い声で笑う。
思い知らせてやるのだ。
その感情が暗くよどみ、"彼"の内を支配していた。かつて心優しき善なるものを主といただいていた"彼"は今、憎悪と憤怒とに主人の座を明け渡している。
思い知らせてやるのだ。
思い知らせ
と。
ふと、遠くに破裂音が数回響いた。
その音に瞬時、目の前に展開していた映像をかき消し、"彼"は音の鳴った方に注意を向ける。様子を窺おうと四方を取り囲む闇の先、首を向け、翡翠の眼を凝らした。
闇の中にゆっくりと浮かび上がってくる映像には、これといって変わったところはない。
赤茶けた岩肌を闇が濃厚に包み込んでいるかつて黒髪の乙女が暮らしを立てていた空間、そして"彼"の自由に駆けていた森のあった場所は、今、赤い砂に覆われた砂漠となっていた。乙女の住居も別の手によって改築され、"彼"と、彼女とは常に、暗い闇の中にいるようになって久しい。その間に、いつの間にか風化して見るも無残な土くれの壁がむき出しになった、その場所のどこにも、可笑しな異変はない
。
少し前に何人かのやかましい者達がつけた傷跡もそのまま、何も変わったところはなかった。
気のせいかと、"彼"は気を緩め、白い光を腹の辺りに感じる。
何が起こったのか。
音ともつかないほど大きな振動が耳鳴りを起こす。じん、じんと疼く白い腹は、焼けたように熱く、徐々に赤子の泣くような痛みが襲ってきた。
足元には、"彼"の作ったものとは違う赤い砂と同色の赤がとめどなく滴り落ち、砂に染みてゆく。
辺りを包んでいるのは"彼"が今までいた闇ではなく、暗い、ただの闇。白い体の光で見える床の四方に、棺と定めた岩の色によく似た石が酷く散らばっていた。
白い光とは別の、火の明かりが視界の端にある。
そちらを向けば。
耳朶の痛みは間近で聞いた爆発音だったと、白く浮かぶ空間にほの暗いランプを掲げて立つ子供の姿を認めたとき。
"彼"は不意に、自分は裂傷を負わされたのだと、気づいた。
赤い砂の砂漠の入り口、『千の花』という名をいただく国からは随分と離れた場所にある安全と評判だった遺跡、その最奥と思われていた部屋よりさらに奥の部屋は今、真っ白な光を受けてほの暗く照らし出されている。
昼間でもまず光の望めない奥の部屋の壁を壊した先の、どう見ても故意に封じられていた部屋の入り口に立つ蒼い衣装に身を包んだ子供は、右手を硬く握り直し、外見より遥かに厳しい表情でもって目の前を凝視していた。
彼の左手に持たれているのは、質素でいて頑丈さの窺える作りの鉄製、使い込んだ古いランプ。
その橙の穏やかな光以上の白さが、遺跡の中の空間を、いっそ神秘的に照らし出している。
茶けた四方の壁に囲まれた、横に長い部屋の面積はおよそ八平方メートル。天井と床の合間は二メートルあるかないか。
そんな部屋の真ん中、入り口に立つケルッツアと対峙する形で真っ白な馬が佇んでいた。正に、国立図書館最上階展望部屋で眠るソフィレーナを見ていた馬そのもの。
黒い石を壊されたために実体化せざるを得なくなった"彼"は、荒ぶる感情を体現するように、地にとぐろを巻くほどに長く優美な尾も、ほとんどその白い四肢を覆うほど長いたてがみも、ゆらり、と不可視の力で逆立たせている。額から伸びる美しい乳白色の角を下方に突き出し、白い馬、ケルッツアの知っている呼称では眠り馬と呼ばれる異世界のモノは、威嚇の態度を隠そうともしない。
その威圧感は人の呼吸を簡単に止める。
言葉どおり、対峙するケルッツアもまた、酷い息苦しさを覚えていた。
しかし、彼が"彼"の呪いにかかることはないと、知恵者は知っている。古い手帳の筆跡には、黒い石は眠り馬の棺にして、空気中の魔力を集め貯める役も担っていることがあった。力の源であることも。
その石を壊した今、馬にその力が残っているはずはない。
馬の見事に白い腹から滴り落ちる赤に眼を留めると、ケルッツアは厳しい顔を少しだけ、安堵とも言うべき余裕に崩す。
この遺跡が手榴弾の爆発に耐えられるだけの強度を持っていることは、偶然の産物ではあったが過去の調査で判明している。そして、古い古い記憶と異世界に持っていった小さな黒い手帳の書き込みから、ケルッツアは眠り馬の捕らえ方もおおよその推測をつけてこの場に立っている。
一体、異世界での騒ぎの中双子に庇われながらそんな捕縛劇を観察、メモしていた己もどうかと彼自身心のどこかに思うものもない訳ではないが、何度同じことに遭遇しても同じ行動を取るだろうとそんなことを思いながら。
彼が見返したメモに書かれていたことは。
"眠り馬の棺斜め左前破裂音五回。その間に石の四方を取り囲む者は四人。距離は石から半径二メートル。魔術師詠唱開始。五秒後、棺壊れる。破裂音から十秒余り。破壊して一秒、眠り馬出現。"
ケルッツアに魔術など使える訳もなかったので爆竹と手榴弾を代用としたが、思惑通り彼にも、黒い石を壊し対象を出現させることができていた。
要は音とタイミングが肝心なのだろうな、と。改めて地に伏してしまいそうな過度の重力の中、ケルッツアは怒りのあまり前足で砂を蹴っている眠り馬に焦点を定める。
ここから先、過去、異世界での正当なやり方では四方を囲んだ魔術師が網のようなものを張り、眠り馬を捉えていた。
その網は結界に近く、しかしこちらの世界では代用の効かない代物。
この世界には、物理的なもので相手を束縛する術はあれど、不可視の力を束縛する術も、封じる術も発見されていない。民間伝承にそれらしい記述もない訳ではないが、その道のプロでなければできないものと相場は決まっており、ケルッツアに実践できるものは何一つとして。
しかし、知恵者には眠り馬を捕らえておく必要などそもそもない。向こうの世界で眠り馬を捉える際、結界を張るのは馬に逃げられないためである。
眠り馬は、居場所が他にも確保できるから逃げることができる。
眠り馬に限らず、精神体とはそういう性質をもつものだ、と。ケルッツアの中で、黒髪の幼子の厳しい顔が蘇った。黒いマントに身を包んだ、小さな双子の魔術師は、彼の差し出すロザリオを涙をたたえて尚凛々しくあろうとする顔で受け取ったことを、彼はよく覚えている。
双子の言葉を考えるならば、精神体は他に居場所が確保できるので逃げる。
それは裏を返せば、確保できなければ、逃げることができないということ。
そして、こちら、魔力の少ないと言われている世界で、棺である黒い石を壊された今、眠り馬には他に居場所を見つけることはできない。
眠り馬は、逃げない。
ケルッツアに馬を捕らえる必要はない。
ケルッツアのすべきこと。それは。
異世界で仕入れた知恵と、体験という二つの武器で苦しい息の中、彼は大きく口を開ける。
【ッイン! ズィーベシュテーエンニヒトッ!】
力のある言葉が、空間に大きく響いた。
魔力と呼ばれる不可視の力とは関係なしに、ただ相手の存在を強く否定するだけの意味を持つ言葉。
あちらの知識によると、呪文は空気中の魔力と共に紡がなければ意味がないが、存在の否定だけはその限りではない。
精神体は、実体のない不安定な存在であるからこそ、縋るものがなければ存在できないものだった。
その縋るものを壊し、存在を強く否定することは、否定された精神体の消滅に繋がる。実体のあるものには効かないが、精神体に近い物ほど屈服するという、その誰にでもつむげる言葉は、魔力の薄れた世界にあって尚、ケルッツアに比べれば圧倒的に力を持つだろう眠り馬の目を不快に歪ませた。
同時、知恵者の持っていたランプのガラスが粉々に砕け散り、炎は一瞬にしてかき消える。
人であるケルッツアには、本当に魔力を集める素質がない。
その代わり、彼としてみれば代わりでもなんでもないが意思が異様に強かった。否定の言葉は、それを発するものの意思の強さに効果が左右される。ケルッツアは異世界訪問も、そしてその先で術をかけさせることも、全て何の後ろ盾なし、自身の意思で実行せしめている。
運を引き寄せる、と向こうで絶賛され、あるいは恐れられたその意思の強さでもって、彼は飽くことなく、魔力を持たない分を埋めるかのように否定の言葉を発し続けた。
ノイン ズィーベシュテーエン ニヒト。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。
あちらで、過去千も万も唱えて相手を退かせた心情よりさらにさらに厳しく強い表情でもって、ケルッツアはひたすら、その言葉だけを眠り馬の目を見据えながら紡ぎ続ける。
知恵者を押しつぶさんとかかる圧力は徐々に強く重くなっていった。
動かせない口角をしかしほとんど意地で動かし、片膝をついた格好を取りながらもひたすら、それしか言葉を知らないとでも言うようにかつて彼を若返らせて今の状態にした双子の魔術師に教えられた払いの言葉を、その意味を、ケルッツアは寄る辺のないものに向け続ける。
お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。お前はいない。
無謀とも言える策には、一つだけ、確かな勝算があった。
彼の記憶でも、メモの中でも。眠り馬は棺を壊すときにできる裂傷を瞬時治している。その力、生物の治癒という稀有な能力のために、眠り馬とはあちらの世界でも非常に珍重されるものだとメモには残してあるが、今、目の前で彼を屈服せしめんと躍起になっているものの傷口からは、相変わらず血が流れ出ている。
それは、何を意味するか。
眠り馬の本来持つべき力が、こちらの世界で発動する鎖によって弱まっているのか、単に、魔力が得られにくい場所と聞いたことのあるこちらで眠り続けていたために栄養不足で弱っているのか、そんなことは知恵者には判断できず、また、判別の必要もない。
対象が弱っている。
その事実だけが、ケルッツアの勝算を勝算たらしめる。
実質それだけで、彼には十分。
その一点を勝算とする意志の強さで、ケルッツアは白い馬を屈服せしめんと攻撃の手を、否、口を休めない。
ノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒトノイン ズィーベシュテーエン ニヒト
のしかかる圧力は半端なものではなかった。骨という骨が軋み、奇妙にねじれる感覚は、痛覚というよりもはや灼熱に近い。
今にも拉げそうな感覚を上手く四方に流しながら、ケルッツアは尚も潰れそうになる眼球を凝らし眠り馬を見据えている。言葉は紡げずとも、意思だけは折れない。音にはならずとも、眼光に、相手に対する存在の否定を滲ませて、彼は否定の言葉を心の中ででも唱え続ける。
眼球が潰れたら、その痛みでさらに精神を統一しよう。今地べたに膝を着く足がひしゃげたら、その痛みでさらに頭は覚醒する。起こった障害は全て後で考えればいい。脳は硬い頭蓋骨に守られている。背骨と首と、そこさえ無事なら、後はなんとでもする。
遂げるべきことはなにか、それだけを考え幾度言葉を唱えたか。
どれだけ体に負担をかけたか。
気の遠くなるような時間は、あるいはそれほどではなかったのかもしれない。
重いものが地に落ちたような音が響いた。
一瞬の後、彼にかかっていた一切の圧力が消える。
思わず前のめりに崩れ落ちたケルッツアは、息も絶え絶え、しかし崩れ落ちるその瞬間も片時も、眠り馬から視線を外さなかった。幸いにして軽い出血と節々の、尋常でない痺れと痛みが体に残っただけで、眼球は潰されることなく済んでいる。
彼の視線の先には、とうとう膝を折って動けない様子の眠り馬が、眼光だけは鋭さこそないものの、憎々しげにケルッツアを、自身を屈服させた子供を睨んでいた。その息はケルッツアのものよりも数段荒く、いまだ、抉り取られた白い腹からは出血が止まらない。
うっすらと、馬の姿は背景に透けている。
その様を認め、子供は覚醒したように目を瞬かせる。力の入らない四肢に無理にでも命令を送り、起き上がろうとして、がっくりとまた地べたの赤い砂に顔を押し付ける。背やら肩やら肘やら、腰やら、関節の節々が悲鳴を上げていた。それでも、諦めずにもがき、一度、二度。よれよれとうつ伏せた状態から上半身を起こし、その勢いのまま立ち上がろうとして、足元を掬われたように、また、あっけなく地面に倒れこむ。
強か打ちつけた箇所は余計に痛い。
しかしその瞳は鋭い光を湛えて、立ち上がろうと四肢に力を入れなおしていた。一度目が駄目ならば、二度目はもっと強く。二度目で駄目ならば三度目はもっと上手に。三度が駄目なら四度目は。
悠長にそんなことをしている子供を目の前にしても、眠り馬に反撃の兆しはない。どころか、益々と色を薄くし、衰弱していくばかり。
「ふッ、っ…」
やっとのことで立ち上がったケルッツアは、いまだしっかりしない膝を踏ん張る。酷く乱れた息を上手く抑え、一歩。
彼は、ゆっくりと眠り馬に近寄った。
一歩、二歩。
今にも倒れそうな足取りで、しかし歩を確実に刻むように。その弱りきった白い肢体を眼下に捕らえ、見下ろす瞳にある種の憐憫さえ湛え。
とうとう、馬の眼前すぐ近くまで辿り着いた知恵者は、ゆるゆるとした慎重な動作で、赤い砂に執拗に塗れた白い布、しかし蒼い衣装の懐から、おもむろにシルクでできた袋を取り出す。その袋の口を開け、器用に中身を、直接触ることなく袋の布を上手く持って外気に晒した。
微笑むのは、赤い。
ケルッツアの掲げるものに、翡翠の目は大きく見開かれる。ほとんど透明となって尚、馬はその石に懸命に鼻先を近づけようと、幾度か立ち上がろうとして、また蹲るということを繰り返した。
シルクに包まれた赤い石は人の親指大の大きさ。滑らかな楕円の表面は優しく、眠り馬の発する、今は弱弱とした光に照らし出されている。
帰してください。帰してください。と。今回の遺跡調査でリーダーとなった学者の妻が、夜に昼に聞いていた声があった。あの方の元に帰してください。後生ですから帰して。静かに嘆く女性の声が、どこで何をしていても聞こえる。
ケルッツアがグルラドルンに頼んだ聞き込みで、遺跡に行っていないはずのその婦人まで様子がおかしい、そのことで知恵者の前に明るみに出た事実は、なんとも情けなく、怒る気も失せるほど馬鹿らしいものだった。
『わ、私が見つけたものなのだッ!!! 無能な者達に代わり! この!! 私がッ!!!
何が悪い!?!!? 私が見つけたのだ! 何が』
『あ・の・さー……。
遺跡ってのは、国のものだって今日日の学者サマはならわないんでちゅかー。何? 小学からやり直してくる? なんなら手続きしたげよっか? ほんっと図体だけはでかくなってもさー……。
五十三号遺跡は確かにこの国だけのものじゃないよ?
勿論、誰のものでもないいわんやあんたのもんでもない。
さて、罪状は何がいい? 窃盗? 反逆罪? 大量殺人未遂? なぁーんでも揃えてあげるからブタ箱ン中で反省文でも書いてなさい』
事の真相を突き止めたグルラドルンと、遺跡の物を勝手に持ち出していた学者との間では、こんな会話が交わされたとか交わされたとか。
いやになるような事実に呆れる心は押し込めて、ケルッツアは、切れ切れの息を落ち着かせるべく、ゆっくりと、息を吸い、吐く。
折角立ち上がった膝を折り、うずくまる白い馬に視線を合わせ、シルクの触れる赤い石を馬の目の前に差し出した。
「……同胞が、これを貴方から取り上げたことは、同胞に代わり、お詫びする」
静かな言葉と共に差し出した血のように赤い石を、布を下に敷いてそっと眠り馬の正面に置く。
帰してください、帰してください、と嘆く声は、この石の中から聞こえるのだ、不気味だからとっとと持っていってくれ。今回の騒ぎの原因となった学者、の妻が、グルラドルンの部下にこれを半狂乱に投げつけたというその石は、今は、少なくともケルッツアが所持していた半日は、何も言葉を発さずにいる。
馬の正面に置かれた赤い石は、そ、と。発光菌の放つに似た優しい光をわずかに湛えた。
馬は、その赤い石にゆっくりと顔を近づけ、鼻先でより一層引き寄せると心地よさそうに、あるいはどこか切なげに、その切れ長の翡翠を細める。くるる、と甘えたような声を小さく出して、それ以上動こうとはしない。
その消沈した白い馬の様子を見、ケルッツアは立ち上がった。
静かな視線を寄越す馬の翡翠の瞳を見返し、宣言する。
「けれど、貴方の呪いは、この世界にあってはならないものだ。そして僕は、貴方の呪いを、貴方ごと否定する術しか知らない。……すまない」
馬を見据える灰色の瞳には、ありありと、確固たる意思と同居した苦渋が滲んでいる。
精神体、眠り馬にとって否定されることは存在の消滅と等しい。あちらの世界で退けたものは、もともとあちらの世界の生き物であるから、あちらの世界の別の場所に存在を移すことができる。
しかし、あちらの世界の生き物である眠り馬が、こちらの世界の拠り所としていた棺を壊されたとき、こちらで別の拠り所を探すことは、できない。
すむ世界が違う。あるいは、眠り馬が生存していた環境と、今の環境は変わりすぎている。
彼の古い記憶の中で、金髪の見目美しい幼子はそんなことを双子の黒髪の兄と、異邦人に語っていた。そのこともしっかりと書きとめてある。
元はといえば遺跡の物を好奇心に負けて、非公式に、勝手に持ち出すという愚行を犯した手前勝手な学者に非がある。
グルラドルンからその経緯を聞かされたケルッツアは呆れてものが言えない。
遺跡内のものは、オーパーツ、向こうでいう魔法の封じ込められたものであることが多い。そのため、厳重な注意と、幾人もの慎重な判断の上ではじめて持ち出しが可能となるものと相場は決まっている。
それを個人の判断で勝手に持ち出し、飾って眺めていたという学者は頭がおかしいのではないか。
眠り馬は、怒って然るべきことをされた被害者だった。そう思うだに、知恵者はとかく申し訳なくなる。
しかし、このモノをどうにかしないと呪いは解かれない。どころか確実に死者が出る。
ソフィレーナが、死ぬ。
ケルッツアは、彼にとってどうにも譲れないものを選んだに過ぎなかった。
一度眼を閉じて、開くと、彼は改めて眠り馬を視界に捕らえる。その瞳にすでに迷いはない。
一つ、息を吸い込んで、吐き出すと共に。
【ノイン ズィーベシュテーエンニ】【ノリス ダスウォルトイストウンツーレスィヒ】
知恵者の発した言葉は。
その言葉を無効とする、という意味の、もっと発音の良い響きにかき消された。
夜の闇に声を与えたならまさしくこんな響きだろうと誰もが思うほど、低く、静かに通る声は、辺りにゆっくりと染みてゆく。
彼らの耳朶には、涼やかな音が触れていた。




