11 ユウケイ
11
赤銅の風が辺りを撫でてゆく。
赤い砂に覆われた大地は無数の起伏を緩やかに描き、無造作に置かれた岩は辺りを取り巻く砂に半ば埋もれていた。
牧草の化けたような葉を茂らせる植物は、丸く鎮座して低く地を這う。
風の音は緩く、嘆きに暮れる婦人のようなか細い音を奏でていた。
晴れ渡る西の空は夜と昼の境に相応しく血をぶちまけたような色。
その中央、地平にとっぷりとうずくまる落陽は今にも熔け落ち、地上を舐め焼くかと揺らめいている。
遥か遠くに群れをなして見える雲を絶妙な赤に染める空の色は、中天に昇るにつれ薄っすらと紫を纏い、東の端には夜の暗鬱を引き連れていた。
気の早い星の光は一つ、二つ。
極彩色の絵のような風景の中、ッ、と、場違いだろう、厭に軽い電子音が生まれた。今まで風に乗っていた声帯の声とは違う不自然さを残し掻き消えた音にも、その場の様相は変わることがない。
そのことにわずか安堵しながら、乾いた風が頬を嬲る感覚を痛くも懐かしいものと眦を細め、ケルッツアは今しがた連絡をし終えた"千の花"という名をいただく国の王都方面へと視線を向ける。
幾つもの砂丘の先、霞む遠くの景色に山脈だろう連なりが見えている。山脈は大陸の端、彼が砂漠に入るルートとして選んだ海沿いまで途切れることなく、実質、砂漠と王国とを、そして他国とをも隔てる頑丈な砦の役割を果たしていた。
広大な土地の三方を山脈にぐるりと囲まれた国。山脈の始まりだろう辺りには緑も多くそれなりに民家もあることを知ってはいるが、彼の比較的良い視力をもってしても、遺跡からその様子を窺うことはできない。
海路でこそ王国と遺跡とは短距離での移動が可能だったが、陸路からでは車を使っても三日はかかるだろう場所。
彼が恐らくという言葉を使うまでもなく、生涯を閉じるその国に一つ瞬きを送って、ケルッツアは特に何の感慨もなく、あっさりと、視線を王都からみて西側へと転じた。
《え! ちょッ! ケルズまだロークとか挨拶も言ってないってか電報でも今時そんな短いのなッ!》
視線を転じる直前、先ほどの通信を切るときに聞こえた友人の焦りと嘆きの声が一瞬耳を掠めた気がしたが、気のせいだろう。
大した意識も割かずに、持たされた、王都連絡用の携帯電話のボタンを押していく。
連絡内容が足りなければ折り返しの電話がかかってくる。それもないところを見ると責務は果たしたようだ、と。
良心と友情という名の意識の一端がそんなことをうそぶき、それ以外の心理が折り返し連絡の間を持たせることなく、彼の、携帯電話のボタンを押す指を動かしていた。
『ディス・ファーンは現在遺跡正面にいる。準備が済み次第突入決行。以上』
あらかじめ用意していた言葉を通話開始と同時に言い放ち、携帯電話を持たされた本来の目的はわずか十秒にも満たない時間で済ませたケルッツアは、今、大量に余った、否、故意に余らせた電池を消費すべく再び耳朶に押し付けた受話器からの無機質なコールを聞いている。
ワンコール。………ツーコール。
コールを数えながら北に位置する王都の西側、風景の霞む先へと、そして、知れず視線も想いも馳せた。
溶岩のような赤さと夜を引き連れる紫のヴェールが、西の上空に曖昧な帯を描いている。その光の屈折の妙を視界に入れ、彼は。
スリーコール。………フォーコール。
耳が拾うのは物悲しい風の、尊ぶべき死者の声と無機質な電子音ばかり。
………ファイブ、コール。
…………シックス。
…………セブン
…………エイト
…………ナイ
《大変お待たせいたしました。国立図書館最上階、展望部屋です》
突如脳髄を揺るがせた声に、彼は、呆けていた眼を大きく見開いた。
咄嗟、喉の奥が詰まって声が出せない。積み重なるコール数の多さに通信を諦めかけていた脳は、目当ての音程が響いたことを一瞬の間を置いて理解し、同時に沸き上がる顔の緩むような、歓喜にも似た気恥ずかしさと驚きで反応が取れずにいる。
休日以外は毎日聞いているだろう声が、ひどく懐かしい。今朝方も聞いているはずの普段よりも元気のない声に、呼吸まで苦しくなったのではないかと錯覚しながら、嬉しいのか切ないのか、思わずと眦を細めた。
そういえば、連絡を取って何をしたいのか、考えていなかった。それより、もっと。
ようやくそんなことを思考の端に掛けたところで。
《ロークローク?》
知恵者の感慨が電話越しの相手に伝わる訳はない。案の定、彼の助手からは不審な声音が返ってくる。
しかしその声に大して慌てるでもなく、むしろその声を呼び水にして、知恵者は滑らかに話し出した。
「ロークローク。僕だよソフィーレンス君」
《っ! ド、クター? あ、今、どこに》
にこやかに話しかけると、途端、不審を取っ払った高く可愛らしい声が驚きとわずかの困惑を返す。
相変わらず元気が足りないことが彼の心配を堪らず掻きたてたが、それでもそんなソフィレーナの声でも、ケルッツアは聞けることだけで嬉しかった。
半日も離れていないだろうその時間は、すでに千秋とも等しい。
電話に出たときの声は事務的なもの。その声と今の声との差異に、声だけでなく心まで弾ませている。
「遺跡の入り口の前。携帯電話持ってるんだ。
本当はもっと早くに連絡を取りたかったのだけど、電波が入らなくて……。
眠っていたかね?」
電話口で数秒無言だった説明は故意に外して、先ほど王都に取った連絡とは似ても似つかないほど丁寧に柔和に、ケルッツアは今己のいる場所と、連絡手段を簡単に伝えた後、引っかかっていたことを問う。彼女の貴重な体力温存時間を潰してしまうのは良くない、と。
言葉の最後の方はやや低くなった知恵者の声に、答える助手は困惑を混ぜて控えめだった。
《い、いいえ……丁度、起きたところです》
その返答に覇気はなかったが、ケルッツアの顔はそれでも輝く。
彼は、こんなに晴れ渡った夕空の下、理不尽な白昼夢によって、あるいは体力温存のために処方される睡眠薬によって眠りに囚われていない、たとえ起きたばかりでもソフィレーナの意識があるときに携帯電話の回線が繋がったということが本当に嬉しかった。
思わず王都への連絡を短くしてよかった、などと、少し間違った、勢いの殺せない歓喜を押し出してさらに。
「本当!? それは良かった! ところで、そこから夕日はみえそうかね?」
ある意図を持っての問いに、助手からは、ずっと薄曇りで見えそうにありません、と、半ば彼の予想通りの答えが返る。
北西に群れている雲の質から、曇りだろうことは想像できていたが、あるいは、と聞いた答えはあるいはではなかった。
さらに少し沈んだソフィレーナの声音にもケルッツアの心は沈みかけたが。
砂漠、故郷に戻ってきているからか、ケルッツアは今、随分とおおらかな気分だった。
懐かしい風の音は物悲しくも時に優しく、もう二十年近く塗れることのなかった赤い砂は容赦なく足元を掬ったが、その感覚でさえ、彼にとっては嬉しいもの。
灼熱は肌を焼き、それは決して生ぬるいものではなかったけれど、己の原点に立ち返った心地は不快や苦痛とは無縁である。
砂漠を、美しき原色の故郷をその肌で直に感じるたび、ケルッツアの中で眠ってこそいないものの、少々まどろみかけていた流民としての誇りや、意識が研ぎ澄まされていった。
メッシュメ イニャ メイディス マザロ ラ クォシス.
僕は蒼き流砂の使徒だ。
自然、記憶の深く、最近では去年のレウィナ流星群観察の夜とその周辺くらいでしか浮かぶことのなかった故郷の言葉さえ口にしてしまいそうなほど、開放感に満ち溢れ、有体に言えば頭のネジが二、三本抜け落ちている状態だったので。
「そっか……。残念だな。こっちはとってもよく晴れ渡っているよ」
気持ちに任せて、普段ならば絶対に言わないだろうことをいとも簡単に。
「今見ている空がね、君の目の色みたいで……とっても、奇麗だ……」
臆面も恥じらいも何もなく、素直に、ケルッツアはソフィレーナにそう伝えた。
そうすることがまるで自然なように、伝えた後は耳朶の痒みさえ気づかずに充実した、満足げな笑みを零している。
彼のその発言における要因は、電話という通信手段を取っていた、相手の顔が見えなかったことにも、そして今彼の目の前にある空の色が本当に美しく、その色に喚起されて普段見ている助手の、特徴的な瞳を思い起こしたことにもあるのかもしれない。
似たような夕空にソフィレーナの瞳をこっそり重ねていたという心理的な下地も一枚噛んでいた。
ともかく、彼女の目の色は夕空の色。
この発言は、彼の中では何も不自然ではない。
答える彼女は。
《ケルッツア・ド・ディス・ファーン……?》
ケルッツアは本当に嬉しかった。
もう二度と足を運べないと思っていた故郷に戻っていることも、そこから電話が助手へと通じることも、助手の目の色に近い夕空に囲まれていることも故郷の風を感じていることも、ソフィレーナと今、砂漠で会話を交わしているということも、全て。
「ん?」
だから、少々おおらかになりすぎ、舞い上がりすぎていたのかもしれない。
《…………本当に、あなた、ですか……?》
受話器から響いた湿り気のある声と不安に、ケルッツアの、胸をあれほども占めていた歓喜は一瞬にして立ち消えた。
思ってもみなかった受け答えに鳩が空気銃を食らった顔をした後、困惑、さらにその発言を導き出すだろう助手の思考を推し量り、思い至ると、思わず視線をさまよわせてともすれば頬を膨らませ足元の砂に落書きをしてしまいそうなほど、ケルッツアは不機嫌になる。
"本当に"あなたですか、とはなんだ。本当の僕以外に、何がいるって。
あれほど。
「……まだ、僕の生死を疑っているの?
約束は違えない。あのナイフがない限り、僕は自殺しないって、言ったじゃない……」
呆れとわずかに怒りさえ籠めて応える知恵者は、悪夢じゃなくてもっと別のものを信じてくれ、と。悪夢に置かれた者ができないことを無意識に思っていた。
しかし。
《だって、おかしいんです……》
いやに気を大きくして機嫌を損ねている知恵者の心境に思考を割くだけの余力もないか、電話越しの助手は彼の言葉を呑まずに、こうのたまう。
《その、携帯電話って、王都への……連絡用でしょう? なのに、わざわざ私にかけてくれるなんて……私に、都合が良すぎます……。
それから……夕焼けの色が……私のめに、にてる、なんて……あなたに、私い、……言われた事ないですし、まして、き、れいだなんて……。
そんなこと、あなたが言うの、……ばかげてる》
困惑して泣きそうに引き攣れた笑みの声は、ケルッツアの頭をかちん、とこさせた。
彼としてみれば、いつも思っていることをただ素直に、彼女に伝えただけのこと。それをその言葉や今取っている行動が知恵者らしくないと、助手は嘆き不安がっている。
ということは、彼女の中には彼に対するこうあるべき、という思い込みが存在するということに他ならない。
そして今の彼は、ソフィレーナの中にあるケルッツア像から大幅に外れていると。そんなケルッツアは本物ではないと。あまつさえ馬鹿げていると。
翻訳するとこう取れる発言に、はらわたの煮える音を聞きながら、件の知恵者は一つ吐き出す息と一緒に、言葉も落とした。
「なら問おう。今君と話している僕は何?」
落とされた言葉の乾いた響きに、湿って引き攣れた声が重なる。
《私の……下らない、想像に過ぎない。……もうぜんぶ、わかっているの。
私は、今、白昼夢の中に、いるんでしょう?》
可愛らしく覇気のない、どころか自棄の響きさえ内包した声は、ケルッツアの意志も行動も、想像、白昼夢という領域に沈め落とし、完全に否定していた。
絶句とも言うべき一瞬にしては少々長い沈黙の後、怒れる知恵者は怒れる感情のままに声を出す。
一瞬だけ、助手の中では夢と現実の認識が逆転しているのかもしれない、との心配が頭を過ぎったものの、それとは全く違ったもっと身勝手で乱暴な気持ちがケルッツアを半ば支配する。
そしてその圧倒的な苛立ちは勝手に、彼の頭の中、故郷の言葉へと変換されていった。
リィフムウエオウィアイレットゥンペリィムルン.
どうせ意味なんてわかる訳ないんだ。
少々暴走ぎみの思考と共に、淡々と紡ぐものは。
「………………………………。そう。
なら、今から君に問題を出そう。これから僕の言うことを翻訳せよ君の想像の中の僕が言うことだもの答えなんて簡単に出るだろういくよ?」
早口でまくし立てた知恵者に、助手は驚きの声をあげかけたが、彼は答えず。
「ソ,ムウレィム.イニャンアイツークシャダットトトメルラタルナトーヴファ・ファウンルシャン.
メッシュメサリスダラ,シスメルラミルアイフォオロ.
ダッツ.
ダレスサリスダレス,エオウィイークトインメルパルク.シャシャ,クイフィルアラパル.
ソフィレーナ.メッシュラファ・ファウンティフィス,ダットメルリッツ.
クイフィルアラ アレム,パーツリィサメローシュラ ルン.」
彼の故郷の言葉であるムータ語を、流民に対する発音のままで、その言語を全く知らないソフィレーナに使った。
当然、使われた彼女は意味どころか単語を聞き取ることすらままならない。
《……そむうれぃむいにゃんあいつーくしゃだっとととめるらたるなとーヴふぁふぁうんるしゃん?》
間抜けて響いた声。不安とはまた違った種で考えあぐね沈黙した助手の様子を推して、ケルッツアはおもむろに、首にかけて大切に服の下にしまっていた麻の紐を引っ張り出す。
麻の紐の先、通された小さな布袋を開けて、中から黄色に煌めく小さな宝石が嵌め込まれた指輪を取り出した。
『待って! 待ってください!! これッ!』
今朝、展望部屋を出ようと扉に手を掛けたところで、ケルッツアは悲壮のような強い声に呼び止められた。
思わず振り向くとソファーから身を乗り出した状態のソフィレーナが胸元のボタンを忙しなく外しているところ。
胸元からは銀鎖に通されたいつか彼が渡した鍵と、銀色の指輪がまろび出た。
咄嗟驚きの声と共に勢いよく顔を背け、眼を瞑ったので、彼女がその後何をしたのか、想像はできても正確なところはわからないが、これ、と差し出されたらしい物を見るべく恐る恐る視線を向けると、先ほど、見えてはならないだろう領域一、二歩手前だろう白い柔肌が見えていたワイシャツの胸元をきちんと閉じ、顔を赤くした彼女が、銀色の指輪を両手に支えて彼に突き出していた。
顔は赤いながらも真剣に、前髪の影に目元を隠すこともなくケルッツアに向けられている。
『これは、私の、とっても大切なものです。
……これを、あなたに貸します。……絶対。
絶対、無事に戻って来て、返してくださいね?』
そう言うと、わずか俯いて指輪を口元に引き寄せ、確かな眼の光と共に差し出しなおした。
彼女が己の所有物を口元に引き寄せ、口付けるのは、失せ物防止のおまじないなのだと、知恵者はかつて助手自身から聞いたことがある。
母から教えて貰ったのだ。公共のものにはしないが、自分のものだとついついやってしまう。癖みたいなもの、と。持参された論文雑誌に口付ける仕草を見て問うた彼に、彼女は照れ笑いでそんなことを返している。
今から二年ほど前の記憶か、定かな時期はわからない助手のそれに比べれば笑ってしまうような曖昧な思い出。
ケルッツアはソフィレーナから預かった指輪に改めて見入った。
繊細な銀色の指輪は、少し力を入れただけで壊れてしまいそうなほどに細い。
リングの中央に一つだけ嵌め込まれた宝石はリングの細さよりも横幅がなく、お世辞にも大きいとはいえなかった。
しかし宝石の放つ淡い黄色の光は幾重にも複雑に折り重なり煌めき、小さな面積に巧みなカットが施されていることが窺える。
リング部分も銀ではなく恐らくプラチナ製で、よく見ると裏面には繊細な模様が施されていた。
質素ながらも手の込んだ作りの良いその指輪を、見つめるケルッツアの眦は次第焦がれるように細くなる。
空の色は刻々と変わってゆく。
一瞬とも言うべき夕空に眼差しを向けて、彼はおもむろに。
そのとき、なにを考えていたかは、彼自身定かでない。
失せ物防止のおまじないだとすれば、助手が知恵者に寄せた思いが失われないように、それ以外のものならば、衝動で。
ケルッツアは貸し出された指輪にそっと口付けた。
もしかしたら、指輪と同じ場所に去年渡した自室の鍵があったことも、また。
一瞬の後に離すと微かな音が生まれる。片手で受話器を耳に当てたままの仕草だったので、当然。
《……ドクター? 何の、音ですか?》
受話器に拾われた音は彼女の耳にどう響くか。
ソフィレーナはただでさえわからない問題に混乱。彼女の中では幻の、知恵者の意図に、それを考え出す己の意図に困惑していたが、言葉についで生まれた微かな音にさらに、この電話における疑問の度合いを深めた。
受話器から聞こえてきた音は、どう、一度絶対記憶に刻まれたものを何度頭の中で再生しても、ちゅ、としか。
そんな彼女の声にみる動揺を知らないふり、件の彼は冷めた調子で斜め下手を眇めやる。
「さあ? でも、この電話は全部、君の想像の中の出来事なんだろう?
なら、君の中にしか答えはない。……簡単なことだと思うがね?」
冷たい声には、どこかふて腐れた色が含まれている。
その色を感じ取ったが、助手はわずかの沈黙の後、少しの確信を持って問いかけた。
《……拗ねてらっしゃる?》
高く可愛らしい声には、先ほどの不安や揺らぎがない。声質の変化に、急に、悪夢に侵される前のソフィレーナと話している錯覚を覚え、ケルッツアは心を浮かせて眦を少し切なげに細める。このまま、拗ねたといえば、どういう反応が返るだろう。軽口が飛んでくるだろうか。
「まさか!
周りは夕焼け一色で……君の目の中にいるようだからどこに視線を逸らせばいいかわかりかねているし、足元にはなにやらキューの字が書かれているけど……拗ねてる訳ないじゃない」
思いを滲ませず、確かにわだかまっていた感情と行動を前面に押し出すと、電話の相手は少しの間の後。
《……ほっぺたは?》
その言葉と声にケルッツアは、用意していたものを意気揚々、しかし声はそっけなく返す。
「うん? 電話切れたら膨らむ」
拗ねたときに取って助手に注意される行動を三つ、実際にやっていない、やる一歩手前で気づいて止めた動作を臆面もなく伝えると、長い沈黙が返ってきた。
その沈黙に、彼は期待半分、諦め半分で彼女の言葉を待っている。軽口を叩いてくれるか、それとも今の彼女にはそんな気力もないだろうか。覇気のない声で、また想像だなんだと言うか。でも。
でも、もしかしたら柔らかな声で。
弦楽器の高音部分を弾いたときに生まれる、高く澄んだ音で。
《…………。
やだ……ケルッツア・ド・ディス・ファーン、それって……》
果たして。彼の耳朶に触れたのはやわらかな笑い声だった。
風の止んだ砂漠の中、ぽろり、ぽろ、ぽろ、と。
その響きは水面に雫の落ちる音にも似て酷く優しい。
流民時代では立ち寄った街のどこかで、学生時代では学祭の日に、そして知恵者として国立図書館に入ってからは、ラジオから時折流れてくる弦楽器での演奏曲の。
その音、特に高く水の滴るような透き通った響きは、時に人の歌う声にすら聞こえる。
その音によく似ていて、それよりももっと柔らかに温度を持って響く、ソフィレーナの笑ったときの声。
彼はその音が一等。
《ふふ……ん、ふ、……ん
ど、どうしよう止まりません……やだ……あ、ははは、ふふ、ごめんなさい……ん、……や、ふふ》
納まりのつかない可笑しさを無理に押さえ込もうとして、声を殺し、殺しきれずに、助手は小さな音を零している。
「……ソフィ、ぃ、れんす君……」
受話器から脳を揺らす声に、嬉しいのか切ないのか、どっちつかずの心を持て余して、ケルッツアは一言だけ、またしても本名ではなく、あだ名を、ひとひらかすれた響きで空気に乗せた。
その響きを咎めと取ったか、なおもおかしそうな彼女は笑った音を滲ませて、小さな謝罪と共に話を変える。
《いえ、……いえ、もう、大丈夫。ごめんなさい。
……あのね、ケルッツア・ド・ディス・ファーン……》
彼が意識せずに出た優しい声で先を促すと、先ほどまでの覇気のなさなど嘘のように楽しげに、助手然と落ち着いた声が届けられた。
《今朝、渡したものは……私を、守るためのものなんです。
だから、ないと……とっても困るの》
少しの茶目っ気を含んで、かわいらしい響きはそんなことを伝えてくる。
その言葉に、声に、電話の先で微笑んでいるだろうソフィレーナに、ケルッツアは思考の大半を持っていかれていた。
息が、詰まるほどではないが、密かに苦しい。耳朶は熱を持って痒く、その感覚がはがゆいながらもどこか甘い気がするのは何故だろうと眼を閉じて、内側から湧き上がってくる波の発生源を確かめようとする。
しかし、彼の観察眼をもってしても、その発生源はよくわからなかった。ただどうしようもなく浮かび上がり、鼓舞される衝動は。
「うん。必ず返すよ…………約束」
帰りたい。
本来砂漠こそが彼の故郷であり、帰る場所であると、ケルッツアは確かにそう思っている。それは今でも変わらない。
誇りある流民は砂漠で散るもの。その考えは彼の奥底にあり、消えることはなかった。
しかし、帰りたい。
そう自身で思うこと自体、知恵者は不思議でならない。
居心地の整えられた、この機会を逃せば二度と出ることの叶わない檻に再び舞い戻ると、国立図書館に囚われる生活をまた続ける前提で故郷に足を踏み入れている己の行動が。
エルグへの、王への義理。"千の花"という名をいただく科学大国所有の遺跡を使って異世界に行かせて貰った、そのときの約束で囚われる彼は、実際、己の行動がそれだけの代償を被るものだと自覚していた。
しかし、好きで囚われている訳ではない。
彼の中にはその思考が渦巻き消えることはなかった。肝に銘じるべきではあっても、望んだ訳ではない、と。
突拍子もない祝い事で恩赦でも出て、囚われるべき理由が消えたなら、とっととこの国を後にして流民生活に戻っているだろう。
以後、たまに立ち寄ることはあろうが必要以上の長居は無用。
詰まるところ、ケルッツアの中で異世界訪問に際して交わした契約は、義務以外の効力は持たない。
それでも今、自発的に帰りたいと、彼に自然と思わせてしまうものは。
美しく光を弾く栗色の短髪が、向けられる夕空を映し取ったような一対の瞳が高く可愛らしい声が、その、彼を知ろうとする、心が。
ケルッツアに、このまま行方を眩ませるという選択肢を絶対に選ばせない。
そうさせる何かの名に一つだけ、彼は思い当たるものを見出していたが、それはあまりにも傲慢極まりない発想だったため浮かんだ途端に却下された。
先ほどのムータ語で使ってしまった気もするが、伝わらなければ意味がない。
所詮は、恐れ多く、また大それた戯言に過ぎないだろうと。
そんなことを極めて短時間で考えあぐねている知恵者に、助手からの声は明るい。
《はい。必ず。
ドクター……》
呼びかけられてそちらに意識と声を向けると、消え入りそうな感謝の言葉が、滲んだ声で伝えられた。
その響きに彼は一瞬の違和感を覚え。
「シャ,クイパルイークペレィマスゥ.」
そんな言葉いらないから早く元気になってよ。と、素でムータ語を使って抗議する。
助手の感謝の声は酷く湿っていて、知恵者に今まで話していた内容が全て虚言だったのではないかという錯覚を起こさせていた。
そうであってたまるか、と発した抗議は、当然使われる言語を知らない助手に意味がわかる訳もなく。
彼女は彼の名を呼びかけ。
《? ケルッツア》
ッ、と。
なんの予兆もなく軽く、回線は途切れた。
一瞬驚きに灰色の三白眼を大きく見開いたケルッツアは、次の瞬間には事態を飲み込み、視線を斜め横手に寄せて眇め睨みきれないでいる。
ケルッツア、と。そこで通話が切れたタイミングが嬉しいのか惜しいのか。
携帯電話からは回線の途切れた音が虚しく鳴っていた。
通話終了のボタンを押して、懐から出した銀の懐中時計の蓋を開ける。思った通りの針の位置に一つ嘆息。携帯電話を電源ごと落として荷物の中に入れた後、布の巻かれた後頭部に手をやって、彼は無意識、そこにできている皺をわずかに掻いた。
話しすぎた、と自覚のある彼は、明日の連絡分だけの電池に困り顔半分、開き直り半分。
日はすでに沈み落ち、辺りは急速に薄闇に支配されていく。
中天を見上げれば、心を捉えて止まない星々の世界。ほぼ半年振りだろう結界越しでない夜空に眼を輝かせ、しばし眺めた後、何を感じたか、ケルッツアは視線を戻し、両方の耳をてのひらの中に包み込んだ。
無風だった砂漠に、再び風の音が鳴り響きはじめる。
砂漠を渡る風は死者の声。先人の言葉は尊ぶべきもの。
砂漠を渡る民の守り神、サロ神の教えは彼の原点に等しい。当然、ケルッツアの思想でも死者の声は尊ぶべきものに変わりない。
耳朶に触れていたのは、柔らかな笑い声。
より、尊く思えたものをてのひらに包み込んだまま、彼は遺跡の中へと消えていく。
日の影は、もはやどこにもなかった。
暗い展望部屋の中、ソフィレーナは唐突に切れた電話に唖然として、くしゃり、と顔を歪めた。耳に押し当てていた受話器を縋るように抱きしめ、名残のように、トーンの音を受話器から微かな振動として胸に響かせている。
探った胸ポケットにあるライト付きの腕時計を見やれば、時刻は七時と少し。
ウィークラッチ島の結界が発動する時間を指す時計を見ているだろうソフィレーナの顔は、美しい栗色の前髪に覆い隠されて、周囲からは窺うことができなかった。
栗色の髪は疲れ果てて尚奇妙に艶を湛え、より一層妖しげに、暗闇に沈み落ちている。
きい、と。ほとんど無音といっていい展望部屋に明確な音が生まれる。
応接室の扉から伸びた明かりはパソコンを守るための衝立にさえぎられて、絨毯の上に崩折れている彼女へと届くことはなかった。
光に照らされぬ者に、かけられる声は美しいソプラノの響き。
「レーナ? そろそろ電気を点けたほうがいいわ。……本当、曇りの日は日の暮れるのも早いわね。
……お電話、誰からだったの?」
暗い部屋に光を零した主は、逆光で切り取られたシルエットさえ麗しく、光の伸びる先、闇に塗れた衝立の辺りを窺うように声をかけた。
ソプラノは展望部屋に不安になるほど響き渡り、消えてゆく。
沈黙。
ティアレーヌがその秀麗な顔立ちを不安に歪め、もう一度呼びかけようと口を開きかけたところで、応接室の照明が二、三、瞬いた。
声がする。
「そうね。もう真っ暗ね。
お電話は、ドクターのお友達の方からだったの。……いないと伝えたら、随分驚いてらっしゃったわ……。
お夕食、私も手伝おうか?」
明かりに満ちた展望部屋にわずか眼を細めたティアレーヌは、ついで、にっこりと笑った顔で衝立から姉を窺っている妹の姿を見つけ、ほ、と緊張を緩めた。
柔らかな衣服に身を包んだソフィレーナは、今朝ティアレーヌが来たときより少しだけ、元気のように見える。
ティアレーヌはソフィレーナが泣き疲れて眠りに落ちるまで抱きしめていた感覚を思い出すと、今の妹の様子を見、自然頬を緩ませた。私でも、少しはレーナの役にたてたかしら。と。彼女は花のような笑みを浮かべる。
「あ、ううん。いいわ。レーナは待ってて。……うん、っと美味しいの、作ってるから。お楽しみよ?」
少々茶目っ気を出して、思わず意味はなく持ってきてしまったままのお玉を軽く振る。
そんな姉に朗らかな笑みを向けて、ソフィレーナは。
「……そう? じゃあ、甘えるね。楽しみに待ってようかな。
でも、その前に、仕事だから、雨戸閉めてくる」
少し手を振ると、衝立の陰に引っ込んだ。
「うん。……気をつけて」
ぱたぱたと遠ざかる元気の良い足音に、ティアレーヌもまた応接室の扉を閉める。
かちり、と音を立てて閉まる青い木製のドア。
ふいに、彼女はもう一度、展望部屋を覗こうとドアの取っ手を動かし。
その行動に気づくとびっくりした。
応接室は明るい。展望部屋も明るい。ソフィレーナも明るさを取り戻したようだ。
どこにも不安の種などないと、そう思って尚取れない違和感は、ティアレーヌを苛んでいる。
ひっきりなしに流れ落ちる水の音に混じって、嘔吐物の悪臭と、苦しげにえづく音が響いていた。
幾つか並ぶ洗面台の一番右、入り口に最も近いその洗面台に覆いかぶさり、あるいはそのまま縋りつくようにして、ソフィレーナは苦しげに肩を上下させ、真っ白な洗面台の中に胃の中のものをぶちまけている。
背は引き攣れるように痛みを訴えていたが、構っているだけの余力がない。
胃液の苦い味が口内に広がり、ぼやけた視界と苦しい息に目眩が酷かった。眼を閉じ視覚を遮ってみても、瞼の裏にチカチカと赤やら青やらのフラッシュが瞬くばかり。
雨戸の開閉作業など、助手の仕事にはない。
どうしようもない吐き気を笑顔で押さえつけ、逃げ込んだ八階お手洗いの中、彼女は湧きあがりくる嫌悪に吐くことを止められなかった。
苦しみや目眩より何より、彼女は自分が許せない。こうまでして貰っているのになんで止まれないんだろう? そう感じるだに、そんな己への拒絶反応で堪らない吐き気に襲われる。
あんなに優しい声で、こんなによくして貰っているのに。
結局、わたしは。
水道のコックにかけられた手は白く、指先には血の気がない。
流している水道の流れに、一つ、二つと、塩辛いだろう水滴が加わり落ちる。
鳴り響く耳鳴り。湧き上がるどうしようもない嫌悪感。罪悪感。嘔吐感。
薄暗い八階のお手洗いに、微かな声が生まれては、誰に聞かれることもなく消えていった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
最低で最悪だと、そう思い苛む心とは裏腹、思考の加速は止まらない。止まってくれない。止めることが、ソフィレーナにはもうできない。
ごめんなさい。ごめんなさい……ごめん、な、さい……ごめんな、さい…………ッ
――――だけど、私はね…………? ケルッツア・ド・ディス・ファーン………。
吐くものもない吐瀉塗れの嗚咽の中、しゃっくりあげる動きに従って、緩みきった顔から涙や鼻水が、清らかな水の流れに混じっては、胃の内容物同様に下水道管の中を流れていった。
洗面台にしがみ付いて尚体重を支えることもできず、ずるり、とだらしなくお手洗いの床にへたり込んだソフィレーナは、酷い顔を拭いもせず、瞳に虚無と底なしの絶望を湛え、虚ろな笑みを零している。
《うん。必ず返すよ…………約束》
愚かな白昼夢の中、伝えられた言葉が耳を掠った。よだれか涙か鼻水か、汚れた、彼女の半開きの口元が引きつったように二、三痙攣する。
夢幻ともわからない都合のいい場面の中、届けられる音はケルッツアの声を正確に再現していた。それが本当に起こったことでも、自身の想像でも、彼女の決心は変わらない。
もう、変われないところまで来ている。
優しく真摯な声に、ソフィレーナが心の内で返す言葉は、絶対の絶望に塗れていた。
やくそく。はい。ドクター……約束です。
あなたはきっと、その約束は守ってくださるでしょう。
でも、あなたは、きっと。
虚ろな笑みを湛えて、壊れた助手は虚空に目を向ける。
咄嗟のことで貸して貰った金細工のナイフを持ち出すことができなかったことに思い至り、正気のない顔を苦渋に歪めた。
せっかくの、チャンスだったのに。と。己の間抜け加減を彼女は許せない。
だってね、ドクター……。どっちにしたって同じなんです。
だから。
ソフィレーナの中ではもはや。
ケルッツアの本当の生死など、どうでもいい。
《口に出さないだけで奇麗な夕空を見るたびいつも、その色が奇麗な君の目に似ていると思っているよ。
その色に囲まれて僕は今幸せだ。
けど、
そんなものより元気になった君に会える方がずっといい。早く、元気になってほしい。
ソフィレーナ、何者にも代え難い僕の夕空よ。
貴女の元へ無事帰れますように》




