10 シンソウ3・姉姫
10
そんな彼女を抱きかかえ、せめてと絨毯の上に座らせる手がある。小豆色の薄いショールを纏ったそれはたおやかに彼女を抱き起こし、そっとそのワイシャツに覆われた両肩へと乗った。
「レーナ……? どうしたの? 具合悪い?」
こんな所で眠ったら、風邪をひいてしまうわ。曇天の中にあって尚眩い光を弾く蜜色の髪は幾筋か天より流れ落ち、深く蒼い絨毯に金色の小川を作っている。地味な小豆のドレスは淑女の着るものより格段年老いて見えるが、現れた白い顔はこの国の建国神と並ぶほどに麗しい。
この国の者に相応しく透き通る、きめの細かい柔肌、卵形の小さな顔、中央に品よくあつらえられた形よく筋の通った鼻に、左右に嵌め込まれた一等上質な紫水晶の濃さを写し取った虹彩には、下のほうから栗色がほんのりと薫っている。
黒目がちの眼を縁取る蜜色の睫は繊細にして長く、わずかに垂れ目気味の眦、流麗な眉の線と合わせてもそこだけですでに至上の美を兼ね備えている。
紅を差さずとも赤く潤う唇もまた申し分などあるわけもなく、その微笑だけで老若男女問わず天に昇れるという、かつてのダリル美姫、その若い頃に瓜二つと評判の、ソフィレーナの一番手の姉、ティアレーヌ・ド・ダリルは、絨毯に座り込む妹の顔を心配そうに覗きこんでいる。
憂いに揺れる女神の眼差しは大層貴き光に満ちていたが、比較的慣れているダリル末姫には特に眩しいとも映らなかった。
否、映ったとしても、そこに感情を割くだけの余力がない。
「……ティー……」
女神に抱き起こされた、見目はまあ比較的いいだろう末姫は、虚ろに女神、己の姉の愛称を口の端に乗せる。
半ば焦点の合わない妹の夕色の両眼に、ティアレーヌはそっとその小首を傾げ、憂いの眼差しを思案に寄せた。
「ここに常駐のお医者様のところへ行く?」
第七館長のところへ行くか、という姉の問いに、妹はゆるく首を振っただけ。
気分が悪い訳ではないの、と付け足された小さく掠れた声に、しかし女神の憂いが晴れることはなく、しきりに手を添えた妹の両肩をさする動作を繰り返している。
「そう。でも体が冷えているわ。ソファーのところへ行きましょう? ドクター・ワイズの残しておいてくださったコートを使わせてもらって少しでも……でもその前にもう少しゆったりとした服に着替えた方が良いわね。
……あの人たちにはお引取り願ったからもう大丈夫。空気の入れ換えもそろそろ良い頃合いだと思うの……。
レーナ。先に着替えを済ませておきたいのだけど……どうかしら?」
生気の抜け落ちたかのようなソフィレーナを抱きしめ、その栗色の髪に頬を埋めて、まるで幼子をあやす様に言葉をかけるティアレーヌは、抱きしめた体の冷たさに密かに震え、それと解らないように気をつけながらも己の生気を分け与えるように、妹の、今はワイシャツと茶色いベストに包まれた背を撫でていた。
ティアレーヌ・ド・ダリルは、劇団で取れた、たまの休み中に母から妹の様子を見てやって欲しい、との連絡を受け、たまには会いに行こうか、と半ば驚かせる腹積もりで変装までして国立図書館を訪ねてきていた。
電話越しに、ソフィレーナの元気がない、とは聞いていたが、風邪でもこじらせたものと簡単で栄養価の高い料理、そして前自分が使ってよく効いた市販の風邪薬を持って、半ば物見遊山、うきうきしながら臨時だという朝一よりも早い便でウィークラッチ島行きの船に乗ったのである。
しかし、何ともいえない物々しい雰囲気を纏った私服姿の、軍人だということを隠しもしない団体一組、文化庁のお偉い方五人と居合わせ、島に着いたら着いたで船着場で待っていた流民の子供が物々しい面に取り囲まれる、という奇怪な現象に出くわし、件の元気のない妹は、もはや元気ではなく生気のない妹、だったことに、正直驚きを、表面上は隠していても心の中では隠せなかった。
とりあえず事態は己の思っていたよりも深刻らしい。
気分を切り替えて妹から聞いた一連の出来事を知るに、この頃劇団でも引きこもりがちの役者は、そういえば記念に、と一般参加を求めた遺跡の調査に出向いていた。
知恵者は流民の子供の姿でいるという。
じゃああの船着場の子供がドクター・ワイズで、休みがちの役者も知恵者がその原因を何とかすれば出てくるのかしら。
レーナも良くなるのかしら。
取りとめもないことを思っていると、妹の状態を調査したい、との愛想笑い、無害な笑いを浮かべてはいるがその実何をしでかすか解らない私服の団体が訪ねて来て知恵者のいない隙にと妹を連れ去ろうとしていたことが発覚。
それからひと悶着、余計な横槍を全て排除し終えた今、それでもティアレーヌの顔は晴れない。
あまり愉快でない面々と話し合い、病人の傍でタバコを吸うなんてなんてはしたない、などと思いつつ表面上はおくびにも出さずその面々を追い返した、その一部始終、別の場所に保護していた妹の存在感のなさは、今、ティアレーヌの腕の中であっても消えることがない。
抱きしめていて尚、ソフィレーナの体からは体温が抜け落ちてゆくよう。
そのとき、不意に細い声がした。
「……てぃー……?」
どんどんと冷たくなる肢体、まるで死に逝く間際のような妹の声に、ティアレーヌは半ば泣きそうな心境で、なあに、と優しく答える。
「……ありがとう…………。ティアレーヌ、おねえちゃん……」
その声はどこにいるティアレーヌに向けたものだというのか、彼女の妹の声は酷く茫洋としていて遠く、おぼつかない。
ソフィレーナの存在は確かにここにあるはずなのに、蜃気楼のような揺らぎと危うさが消えることはなく。
「……いやだ、ソ、……レーナったら……たまのことなんだから、たくさん、おねえちゃんに甘えていーの」
私はこの場にいるのに、と。思わず幼少期に呼んでいた妹の愛称を呼びそうになるほど混乱、不安に駆られながら、正体の危うくなりつつあるソフィレーナの唯一生きている証だろう心音にひたりと耳をつけて、ティアレーヌはそう、言葉尻だけなら軽口だろう言葉を軽口にすることもできず、ただ、腕に抱くものの体温をかき集め、抱きとめている。
そんな感謝などいらない。それより早く、元に戻ってほしいと、元気になって欲しいと切に願いながら。
しかし。
如何に女神のごとき麗しさを持って生まれたティアレーヌ・ド・ダリルが貴き光に満ち溢れていても、所詮女神であるべくもない。
祈るだけで事態が急変するなどということはなかった。
時間が経つにつれ正体を、目を見開きながらも失う時間の多くなっていったソフィレーナは、背の打撲に関する触診を終えた今、寝巻きと普段着の中間のような、ゆったりとした服に着替えて知恵者のお気に入りである青く大きなソファーに臥し、眠っている。
ティアレーヌが着替えを手伝ったとき、ソフィレーナは、その細い首元にある銀鎖に通された銀色の鍵を、そっと握りしめていた。
まるで縋るように。
昼食を一緒に摂ったとき、あるいはティアレーヌが老婆の変装をして下階へ本を借り、返しに行った帰り、そのわずかな時間でも、ソフィレーナの意識がここではないどこかへ飛んでいる時間が非常に多いことは、もはや誰の目にも明らか。
臥せってる同僚のみんな……こんなに、酷かったかしら……?
ソフィレーナと同じく、つい最近催された遺跡調査の一般枠で参加した劇団のメンバー、彼らを見舞ったときを思い浮かべながら、ティアレーヌは落ち着きなく妹の眠るソファーから少しはなれた場の絨毯を行ったり来たりしていた。
ソフィレーナと同じ現象に苛まれているティアレーヌの劇団筋の知り合いは、確かに顔色は随分と優れないものの白昼夢を見るということはなかったと記憶している。
何より、夢の内容はおぼろげで、けれど自分が一番起こってほしくないことを見ているというだけの自覚はあり、寝覚めが厭に悪い、もう寝たくない、でも疲れてしまって結局眠ってしまう、と言っていたことがティアレーヌには印象的だった。
しかし、妹は違う。
『う……ううん。……私、は……夢の内容も、ぜんぶ、おぼえてるの』
友人たちの状態から恐らく妹も覚えていないのだろうと、ティアレーヌの掛けた問いに、しかしソフィレーナは小さく言葉を返し、視線を外すように俯いた。
その仕草は明らかに絶対記憶脳絡みだと示しており、妹自身よく思っていないことがわかるもの。ティアレーヌは少し無遠慮な己を恥じたが。
うなされるものの原因がわかれば、解決も早いだろうと、覚えているのならばどんな内容なのかをソフィレーナに尋ねた。
そんな第一皇女に、末姫は青白い顔を途端赤々と染め、頭を緩く振って前髪の中に目元を隠すという反応を見せたものの、だんまりを決め込んだようで答えは返さない。
ただ、胸元に手をやったあと、金細工のナイフを抱きしめる腕に手にと力を込めるばかり。
『ごめん……ティー……。恥ずかしいから、聞かないで』
その恥らう態度から察するに、とは思うものの、こんな事態に自分の知識欲を満足させるべきではなかろう、とティアレーヌはそれ以上を、たとえば懸想しているらしい相手は誰か、そういったものを押し留め、突っ込まないようにしていた。
もっとも口をつぐんでいるのは、聞いたところで、妹とその懸想相手の甘い物語など聞けそうにない、との判断も働いたためである。
どうせ聞くなら、楽しい話、のろけの話のほうがいい、とは、普段悲劇を扱うことの多いトルコネリア劇団の一員としてはどうかなどと彼女自身思いはするが、趣向まで染まる必要もないだろうと。
どうでもいいだろうことをつらつらと考えつつ、あてどなく動き回るその足を止め、否、自然止まってしまうという解釈の方が似合うだろう停止の仕方をして、気づけば一つ二つ、溜息を落とした後に。
ティアレーヌはソファーの上で魘される妹の声に、姿に、その美しい眦を痛く細め、不安と心配に秀麗な顔立ちを崩した。
近寄ってその手を取り、悪夢の除去に専念しても一向に効果が見られない。
その手をきつく握り込むたび、指にはまった母からの守護リングが食い込んで少しの痛みを訴えるばかり。
この一日で、もはや両手ではきかない数そうしてきたティアレーヌは今、歯嚙みしたい気持ちでソフィレーナから離れ、こうして打つ手もなく己の焦りやら不安やらを解消するべく歩き回っている。
何より、手に取る妹の小さな手は、手首は、脈も酷く弱く、亡骸一歩手前の冷たさ。
そのことに、おののき、このまま亡くなってしまうのではないかという恐怖にも似た心境で、ソフィレーナの近くにいられない、そんな心理もまた、働いている。
両親に助けを乞おうとも、折しも入ってしまった緊急の公務で抜けられるわけはなく、その場に当主として参加しているサラフィーネは論外。弟に至っては、軍事演習とかで連絡もつかない。
また、事が公になることは極力避けるように、との母の言葉と、国立図書館第七館長の助言もあり、ティアレーヌはどこにも助けを求められなかった。
彼女にとっては八方塞がり。
いかに、容姿が揃わなくとも、絶対記憶脳保持者であろうとも、ソフィレーナはティアレーヌにとっては可愛く幼さの残る末の妹である。
一時期その、何でも忘れない、ということに気味の悪さを感じたものの、そんな感情は一時のもので、可愛さと思い出の前にもはや完全に敗れ去っていた。
そして、ティアレーヌには母であるマリアーナが公務で家を離れるときなど、よくソフィレーナの面倒を見ていたという経歴もある。
早くから当主の才を見込まれ、母と一緒に家を離れることが多かった一番手の妹サラフィーネより、双子でありながら、幼くして軍事学校に入った弟のクラウェンドより、思い入れも手塩に掛けた時間も勝っている分、ティアレーヌはソフィレーナが兎角、心配で堪らない。
しかし、何ができるという訳でもない。
なにもできない。
「…………。これで、妹の苦しみは和らぐのですか?」
だから、かも知れなかった。
少し西日に差し掛かった頃、ティアレーヌは妹の背の打ち身の診察以外の目的で展望部屋を訪れた第七館長、そして彼女いわくこの島唯一のお医者様、ウェルリス・ド・メルマニーサに、ぽつり、とそんな言葉を投げかけた。
言葉を耳で聞き取った途端、ティアレーヌは咄嗟口を噤むが、言葉は取り消さずに沈痛な眼差しを彼に向け、佇んでいる。
彼女の手には末皇女によって飲み干された空のコップが携えられており、ガラスでできたこれといって美しい模様のあるわけではないコップの底には、わずか、白い澱が縁に向かって三角州にも似た筋を描いて蟠っていた。
そんな、老婆の着るような小豆色のショールとドレスを纏い、溢れ出る蜜色の髪も豊かに不安を隠そうともしない美姫に、第七館長ウェルリス・ド・メルマニーサは少しばかり驚いたものの、年齢に相応しい落ち着いた格好で小柄な背をさらに丸め、助手用の背もたれのない椅子に腰掛けて出された茶を嗜み、薄い茶色の髪を特に気にした風でもなく。
「今度の上演は、悲劇、でしたな」
そう、うそぶいた。驚き反応の取れないティアレーヌに構わず。
「トルコネリア劇団のお得意でしょう。私も、お恥ずかしながらよく見に行くのですよ。悲劇、否、勿論喜劇もこの王都否否大陸中で、トルコネリアに敵う劇団はおるまいと、思っておりましてね……。
そういう劇の一幕で、必ずと言っていいほど出てくる台詞がありましょう。……陳腐ながら私は、その台詞でもってしか、貴女に答えることができません。
『お気持ちはわかります。そう、気を、落とされますな』
と、ね。
まず、無理な相談なんですが……」
そう言って苦く笑うと、少しの間、口を閉じる。
沈黙を言葉の最後と取ったティアレーヌは口を開きかけ。
「その質問に、自信満々答えられるのは、ディス・ファーン君、……いえ、私は一時期彼を教える立場にあったものですから……この呼び名が抜けなくてねえ。失礼しました……。
知恵者殿ぐらい、でしょう」
続いた言葉に自身の声を飲み込んだ。そして、不安の消えない眼差しをウェルリスの顔へと注ぐ。
その視線に何を感じたか、何も感じずにか、ウェルリスは彼女にといわず、どこか茫洋とした響きで言葉を続け。
「私も、末皇女、ソフィレーナ姫の状態に、思う所がないわけではありません……。
ディス・ファーン君が、彼女をよく、第七図書館へと派遣してくれる誼、とでも申しましょうか……。不安定な末姫を見ているのはこれでなかなか、堪えるものがあります…。
しかし……。
私には、言葉がないのです。
『私に任せておけば、大丈夫です』と、言えれば、いいのでしょうがね……。
私に、できることは……こうやって、末姫に睡眠薬を処方し……姫の体力を温存させること、くらいです。
ですから……。
どうぞ、彼は、知恵者殿はそう末姫を放っておける男ではありません。
……ディス・ファーン君を、信じてやってくれませんか……」
言葉の前半は、ウェルリスに限らずどの医者にも言えることだった。事情を知っているウェルリスは知恵者に託す言葉を付け足せたものの、後の医者や精神科医などは、正に今この瞬間にも己の無力さを嘆いている。
老いた口元に浮かべる柔らかな笑みと、寂しげな目元。ウェルリス・ド・メルマニーサはそんな顔で第一皇女を見上げていた。
何もできないのは、結局同じだと。
言外に語られる言葉に、ティアレーヌは不満と焦りで一際酷く顔を歪めたが。
それも一瞬のことで、胸元にきつく両手を組み合わせ握り、平静な顔で、その実胸の内が裂けそうな思いをそっと、吐き出す。
「知恵者殿が……恨めしいわ……」
言葉はどす黒く、今にも展望部屋の絨毯をその黒で禍々しく染めるかのよう。しかしその憎悪にも似た焦燥は、すでに彼女の中で消去されつつあった。
禍々しいものもウェルリスにうつることなく空気に霧散し、すぐに消えていく。
ソフィレーナは相変わらず、苦しみの中で眠っている。
今の状況はティアレーヌがケルッツアを憎んだところで、何も変わりはせず、あるいは第一皇女が知恵者とはいえ流民を憎むという構図にも置き換えられる事態は、もっと最悪の事態を呼び込む危険性を跳ね上がらせた。
知恵者を邪魔に思うものは決して少ないとは言いきれず、また、彼らの情報網がざるであるとは限らず、逆恨みという衝動が暴れださない保証はない。
知恵者に、感情に任せて逆恨みをぶつけることは得策ではない。なら、何をすればいいのか。
ティアレーヌの頭はゆっくりと巡り始め、その速度に合わせ、女優としての、そして皇女としての彼女が言葉を紡ぎだす。
「……プロフェッサー・ウェルリス、貴重なお時間に感謝します。途中ご無礼などなければ宜しいのですが……?」
別人のように華やかさと気品を取り戻した第一皇女、現在のダリル美姫に、ウェルリスは彼の矜持に障った言葉に対し、大して気にしていないことを穏やかに告げた。
それを受け、にっこり。この世の花の全てが恥じらい思わず蕾んでしまうような優美にして壮麗な笑みを浮かべ、第一皇女、そしてソフィレーナの姉であるティアレーヌは会話に結びをかける。
「安心いたしました。
……私も、己に何ができるのか…僭越ながら考えてみたいと思いますわ」
ウェルリスが立ち去った今、ティアレーヌは妹の冷たい手を握り締め、温めることを続けながら自身にできることを考え、考えた。
身の回りの世話は勿論のこと、妹に元気になって欲しい、その一心で、第二皇女より足りない頭を極限まで動かし、途中目眩が起こるほど考え、考え、考えて。
静かに何の音も兆候もなく、ソフィレーナは瞼を開き、一等上質な紫水晶の濃さに下の方から淡く栗色の煙る両眼を外界に現した。
濡れた眼球の表面には展望部屋の天井と、彼女の目覚めに気づいたティアレーヌ、そして外からの光で淡く暗い展望部屋の青が写り込んでいる。
一つ、二つ、彼女が緩慢に瞬きをする度、ぼろ、ぼろと音でも立ちそうなほど大きな水滴が栗色に隠れた両の耳朶に吸い込まれていった。
ソフィレーナの眼球には、その麗しい顔を憂いと心配に曇らせ歪ませた第一皇女が唇を動かし、妹の手に縋りつく様が映し出されている。
しかし、眼球に反応はない。彼女はただ一点を見つめているだけ。
否、見つめるというほど焦点は定まっておらず、どこをみているのか、覗き込んだティアレーヌにはわからなかった。
美しいソプラノの声ばかり展望部屋にこだまし、虚しく消えてゆく。ティアレーヌに答える声はない。答える瞳も、否。
答える、者すらないように。
酷く絶望に打ちひしがれながらも、ティアレーヌは己の妹に話しかけることを止めなかった。呼びかけても何の反応も示さないソフィレーナに、喉の奥で詰まりそうになる言葉を必死に押し出し、極力明るく穏やかに、声をかけ、話題を振る。
たとえ何の反応も見られずとも、その妹の瞳に、正気の光が灯っていなくとも。
レーナ、レーナ。気分はどう? 何か欲しい物はある? 体が冷えているから、そうね、あなたの好きなココアを淹れましょうか。
ミルクたっぷりで、ふわふわの美味しいやつ。
ココア粉もね、劇団での貰い物なの。小さなビンに入れて持ってきちゃった。ちょっとだけしかないけど、でも凄く美味しいんだから。
私ね、今日は一日お休みを貰えているのよ? ずっと傍にいるわ。夕食はなにがいい? 沢山食材を買ってきたから、何でも言ってちょうだい。何でも作ってあげるわ。これでも一人暮らしは長いもの。大概のものはつくれるんだから。
冷たい妹の手を己のてのひらで包んでさすりながら、彼女はソフィレーナの細い息を頼りに話しかけ続けた。
それがどのくらいの間だったのか、彼女は時計を見ることも忘れていたので定かではないが。
と。
「…………ティー……」
静かな静かな声が、ティアレーヌの耳を掠る。
彼女はその声に朝日に濡れた夜露もかくやに顔を輝かせ、ソフィレーナを覗き込んだ。
目を開いたままのソフィレーナは、ゆっくりと瞬き、ついで己の姉に視線を向ける。彼女の姉は、その美しく整った女神のような顔立ちを、驚愕と苦悶に崩していたが、ソフィレーナは何も感じなかった。
実のない声で、夢の中の不確かさで、浮ついた響きで。
「ティーにもね、感謝してるのよ…………?」
そう、おっとりと笑う。その表情から何が零れ落ちているのか、紡ぐ彼女自身は気づきもしない。
微笑む瞳には、正気の光がない。
三日月形に歪められた両の目と口元のあまりのおぞましさ、あるいは壮絶なまでの倒錯に、愕然と、ティアレーヌは気おされ、悪寒を覚えた。
仮面のような空虚な、なんの感情も籠らない笑みは底なしの狂気に塗れている。
思わず言葉を失うティアレーヌに、ソフィレーナは静かな声で、嬉しさを装った空洞の声を投げかけた。
「ココアを淹れてくれるのでしょう?」
虚ろな笑みを以て応ずる妹の顔は、えもいわれぬほどまがまがしく、また、そうであるからこその美しさに満ちている。
その顔は、その雰囲気は、大女優と言わしめたティアレーヌの先輩ですら、容易にできるものではなく。
つまり、本物だった。
ティアレーヌの喉はいまにも恐怖で息を潰しそうだったが、その悪寒をも無理やりに嚥下し、押しとどめ。
女優は、息をつく。
「ええ。すぐに淹れるわ。
そういえばね。私、今朝、知恵者殿と会ったのよ。これほど美しい方もいない、って、褒められちゃった」
柔らかでいながら魅惑に満ちた笑みを浮かべ、夢見心地、うっとりと頬を染めて、麗しさの評判高きダリル美姫は妹にそう話しかけた。
「……ぇ?」
ゆら、と。正気のない瞳が暗く驚愕に動いたさまが、ティアレーヌの眼に映し出されている。
ソフィレーナがただでさえ悪い顔色をさらに悪くし、喉の奥から搾り出したかのような声を出しても、否、出したことに浮かべる笑みを優越の滲むものに変えながら、美姫はさらに言い募った。
「うふふ、知恵者殿って、照れると両方の耳が赤くなるのねぇ。ママも言ってたわ、ロザリオを渡すとき、とっても耳を赤くしていてびっくりしたって。
……ねぇ? 知恵者殿って、目元が涼しくて、とっても凛々しいお顔立ちをしているのね。ちょっと拉げているところがあるけど、でも鼻筋も通っているし
……あの聡明な瞳で見つめられたら、私……
……私ね、レーナ……あの方と、お付き合いしてみようと思っているの……」
恋の炎に胸を焼かれ、焦がれる姫君同様、美しいティアレーヌの目の中には冗談の滲む余地すらない。
そんな美姫の目の前で、相変わらず光のない眼は一対、絶望に見開かれている。
ソフィレーナは、いつの間にか震えていた指先を硬く握り締めて、次の瞬間には感情を投げ出していた。
「や、やだ! だめ!!」
今の彼女のどこから出てきたのか、大きく響く高くかわいらしい声は懇願と哀願に塗れている。
そんなものを発した彼女自身も、何故こんなにも己が焦っているのか、わからない。
しかし、姉の言葉に深く重く、胸の奥が痛んで苦しいということだけは分っていた。
その苦しみは知恵者に与えられるものとは格段、重みも苦さも度を増して酷いということも。
今にも泣きそうな様子の、あまり容姿に恵まれなかった末姫に、飛び切りの魅惑に毒を塗りつけた笑みでティアレーヌは小首を傾げてみせる。
傾げた途端零れ落ちる柔らかな金髪は肩口にかかり優美な流れを描いた。
その仕草すらも計算ずく、全身に己の勝利を滲ませながら、女神はまるで同情するように、少しその秀麗な眉を細め。
「……あら? どうして? 私が誰を好きになったって、私の勝手。
レーナには関係ないことだわ。恋愛は自由だもの」
気品ある笑みは、ダリルの第一皇女に相応しく神々しい。
同時に、女神に微笑まれてなびかない者などないということを知らせる表情でもあった。
その例外に、知恵者も含まれないのだと。
ティアレーヌの言葉にならざる声が、ソフィレーナを殴りつける。
ソフィレーナは、今微笑む美しい姉の横で、褐色の耳朶を赤く染めて優しげな、この頃助手に向けることの多くなった甘い笑みを浮かべて立つケルッツアの姿を幻視した。
彼女の蜜色の髪に褐色の指が、てのひらが沈み、その絹のように滑らかな頬を辿ってゆく光景。優しく低い声で呼ばれる名は。
わたしのナまえじャな
途端、彼女の内を、酷く痛い、それは過ぎ去ってから初めて灼熱だったと感知できるほどの熱量を持った衝動が落雷のような速さで駆け抜ける。
その指はその顔ハそのコえハわたシノ
まろび転げそうな足取りで寝かされていたソファーから飛び起き床に足を着くや否や、ソフィレーナはティアレーヌに飛び掛る勢いで縋り付いていた。
「だ、や! やだ!! 止めて!! やよ!!」
しかし女神は、小豆色のショールといわずドレスを両手で引き裂かんばかりに握りしめて金切り声を上げる妹を軽くあしらい、恐ろしく優美に立ち上がる。
「さあ、ココアだったわね。ミルクたっぷりで、あまぁいやつ」
声には侮蔑と憐憫、そして隠し切れないほどの優越感がにじみ出ている。
お前は子供だと、知恵者には相応しくないと、その瞳は言外にそう語っていた。
その姉の瞳と、思い出すケルッツアの笑顔、声、仕草。何かわからないものがソフィレーナを。
「ねえティーや! やめて!!
だめッッ!!! だめよあのひとはわた、
私のものなんだからあッッッ!!!!!!」
甲高い声の意味が展望部屋に膨らみ、消えていく。
声が消えて、弾む息の音が少し収まった頃。
ソフィレーナはそこではじめて、我に返り口元に手を当てた。思わずその場に、ただでさえ青かった顔をさらに青くして震え、へたりこむ。
そんな彼女にかかる、ため息は。
「……レーナは、知恵者殿に恋をしているのね……」
声の優しさと呆れに、ソフィレーナは恐る恐る、顔を。
上げる必要もなく、ティアレーヌはへたりこんだ妹に視線を合わせるよう、己も絨毯の上に座り込んだ。
「嘘よ。さっき言ったことは、ぜんぶ、嘘。
今朝、遠目から知恵者殿らしき人を見ただけ。
美しいなんていわれてないし、私がここに来ていることも、知恵者殿は知らないわ。
一芝居、打ったの」
妹と同じ格好をとって尚美しく広がる小豆色のドレス、麗しき女神の瞳には、欠片もソフィレーナを追い込んだ毒も熱もない。
暖かな眼差しに半ば呆然と、今までのやりとりが単なるお芝居と悟った彼女は、しかし、疑惑と焦燥に事の追及をやめられなかった。
「でも、ケルッツア・ド・ディス・ファーンの耳が照れると赤くなるって……それに、ママも」
ケルッツアの耳が、照れると赤くなる。それは彼の照れた姿を見たものでなければわからないはずだ、と縋るソフィレーナに、にっこり。ティアレーヌは種明かしをしてみせる。
「男の人って、照れると耳を赤くする人多いのよ。だから、カマをかけたの。
あとね、ロザリオを渡すときも、随分と冷静だったって。勿論、耳も赤くなってなかったって。
だってママ、そのことに驚いていたもの」
普段男女問わず羨望の眼差しで見られることの多い彼女はそう言って、ソフィレーナの乱れた栗色の髪を撫でた。
慈愛に満ちたティアレーヌは、芝居を打つ前のティアレーヌと雰囲気も仕草も同じであり、先ほどの毒々しい彼女が本当にお芝居の中の人格だということをソフィレーナに知らせている。
完全に騙され、乗せられたことにショックを受け、しかし姉の考えた構成が随分と拙いものだということにも気づくと、それでも尚見抜けなかった注意力のなさに、末皇女はどんな心境でか、顔を覆った。
覆って、自身で発してしまった本音に対し、空洞のような両眼に笑みすら浮かべて、零す。
「………ばかみたい……」
ティアレーヌの目の前、ソフィレーナに正気は戻っていなかった。
彼女の妹は暗い顔で発した言葉に苦く、泣きそうな、しかし恐ろしいほどに静かな笑みを湛えて両のてのひらを見ている。
俯く栗色の短髪の隙間からは憐憫と諦め、憤怒を混ぜた厭に悟った表情が消えることはなかった。
「……ばかみたい…って……レーナ、そんなこと……」
焦りとも悲しさとも聞き取れるソプラノに、ソフィレーナはゆっくりと、狂想に満ちた穏やかな顔を向ける。
静かな視線にたじろぐ姉に首を傾げ、いっそ朗らかな声で、間違ってないわ、と説きかけた。
「……だって、ばかみたいじゃない……。唾棄すべき本音だわ……。
ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、ケルッツア・ド・ディス・ファーンだけのものなのに、私はまるで自分のもののように、考えているって、ことでしょう……?
いつだってそうだわ。そう考えている自分がいることを否定できない……。
馬鹿すぎて泣きたくなるの。
だって、そう思っちゃいけないってわかっていても止まらないんだもの……。強欲以外の何ものでもないじゃない。
さっき、私があのひとに、恋してるってティーは言ったけれど……
もし、この強欲を恋に数えるなら……なんて、はた迷惑で……最低極まりないだろうって、思ったの」
夢の中のような曖昧な響きで言葉は綴られる。語る穏やかな様相は、涙の気配も激情も全てを包み諦めた空虚で作られたものだった。
ゆらゆらと揺れる光のない瞳の奥の奥、氷のように冷たく、だからこそ灼熱を持つものが凝っていることに気づくと、同時ティアレーヌは遣る瀬無さに顔を歪める。
妹の狂気には、知恵者殿が絡んでいる。
過去、知恵者を本土へと抜けさせる片棒を担いだ経緯や、夢に魘される言葉の端々から薄々気づいていたソフィレーナの懸想相手。
カマをかけ、本音を引き出した所まではティアレーヌが図った策の内にあったが、正直、これほどの激情を末姫の小さな体が飼っているとは、第一皇女の思考の範疇になかった。
妹の見る悪夢は、劇団の友人と同様、一番起こってほしくないこと、現実になると耐えられないような不安の具現化した世界であると、第一皇女の想像にもそのことは難くない。
そして、そんな一番の不安の世界の筆頭核に妹が挙げた人物が知恵者だということは。その世界を見ることでこうも苦しみ、狂ってゆくということは。
そんなの、全身全霊で知恵者殿が好きだと、泣き叫んでいるようなものじゃない……。
その想いを汲んでいるのかいないのか、ティアレーヌはしばし今朝方目撃した流民の子供の横顔を思い出した。
涼しい目元に少し拉げた高い鼻。それなりの顔立ちを精悍に、それ以上に見せているものは、灰色の三白眼に宿すなにかの切っ先のような真摯さ以外の何ものでもない。
妹が心を寄せる者は、悪夢の解除のために堂々と島を抜けていった。
その目的がたとえ、国で困っている者を救うという大義名分の下にあったとしても。
ティアレーヌは、ゆっくりと正気のない妹の顔を見つめる。ねえ、レーナ。唇から零れ落ちた言葉は彼女自身驚くほど、落ち着いたものだった。
「そうやって……考えて、答えを出すことは、いいことだと思うわ。
けどね、私はレーナが抱いている感情を否定しない。……オペラの世界なんて、そういうものでできているもの……。その感情を否定したくないわ。
ねえ、レーナ……考えることは素晴らしいことだけど……本当に、あなたの抱いている感情は、唾棄すべきもの、かしら……。
その答えを、貴女だけが出せる……出してもいいものなのかしら……?」
首を傾げることによって肩口にかかり、零れ落ちる蜜色の光を優しさに浸して、第一皇女、絶世と言わざるを得ない美貌を持つ女優は言う。
そのソフィレーナの持つ虹彩よりは紫の占める割合が高い両眼は、酷く真剣だった。
しかし、その表情を正気の戻らない瞳で見るソフィレーナは、もうすでに答えは出ているといわんばかり、顔を苦笑と嘆きに崩しただけ。
「だって、おいていっちゃうわ…………。 あのひとは、結局……」
その言葉には恐ろしいまでの空虚感と狂気が孕まれている。
しかしティアレーヌはその狂気に押されて尚、怖気づくことなく持論を展開した。
「……そのことを、レーナは知恵者殿にちゃんと訊いてみたの? あなたがどう思っているかなんて、知恵者殿だってわからないはずよ。そのことを伝えた上で、きちんと、訊いたのかしら……?
もし、まだだったのなら……結論を出すのは早いと、思うわ。
伝えて、何か変わるかもしれないでしょう?
……お姉ちゃんにも、レーナにも、その答えの正確なところは、出せないはずだもの」
にっこり笑うティアレーヌは酷く明るい。
ソフィレーナの眼は大きく見開かれた。
美しい姉の言葉は、絶望の淵に沈みこんでいた末姫に希望という感情をもたらす。
知恵者が自殺する、それ以外の選択肢があるかもしれない、と。確かにこのとき、一筋の光を心に抱く彼女がいた。
根拠などなくともその言葉が本当であればいいと、心の底から、正気でない彼女でもそう願わずにはいられないほど、ティアレーヌの言葉はソフィレーナに絶対のように響く。
狂気を映し込んだ一対の眼は、ゆらゆらと揺れ動き、見開かれ。
「ティアレーヌおねえ、ちゃん……」
零れ落ちたソフィレーナの声に、ティアレーヌは慈愛に満ちた顔をわずか、切なさと焦燥に染めかえた。
幾度もここではないどこかのティアレーヌに話しかけていた妹は、本当に、今、目の前に戻ってきた。
縋る妹の目にそのことを感じ取った彼女は、妹の両肩にそっと手を置き、引き寄せ、光も焦点も定まらない顔を真正面から見つめ。
「ソフィレーナ、貴女は今どこにいるの?
お姉ちゃんはここにいるわ。ウィークラッチ島の国立図書館最上階の、展望部屋。あなたの目の前にいるわ。
ここにしか、あなたも私も、いないのよ」
美しいソプラノの声、日ごろ観客に聞かせる声よりもさらに澄んだ響きが展望部屋に生まれ、消えていく。
ティアレーヌが覗く一対の瞳の奥、ソフィレーナの深淵はゆっくりとその底なしと思われた暗く深い瞳の色を姉のよく知っている色に変えていった。
眼の錯覚か、それとも光の加減か。眩いものが一瞬、妹の両眼に差し込むのをティアレーヌは見たと。
同時に、あやふやさのない泣きそうな声がソフィレーナから生まれる。
「ぁ……おね、おねえ、ちゃん」
今にも零れ落ちそうな光を湛えた眼は女神の像を正確に結び損ねていた。
おずおずと伸ばされる妹の両手に両腕を開くことで応えて、彼女はそっと首をかしげてみせる。
胸を大きく開けて迎え入れる仕草をするティアレーヌに、くしゃ、と音すら立ちそうなほど、ソフィレーナの顔が歪んだ。歪んだ顔のまま、判別つきがたく引き攣れた音を孕んだ声で。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーンは……し、死んで、ないよねえ?」
懐疑で息も絶え絶え、恐る恐る縋ってくる妹の冷たい手に手を重ねて、ティアレーヌはその小さな体を抱きとるとあやすように背中をさすった。
子供にするような調子で己も体を揺らし、ゆっくりと説いていく。
「ええ。今あなたを助けるために遺跡にいっているのでしょう? 死んでない」
「じさ、な、て……っし、ない?」
下から縋ってくるソフィレーナの顔は、涙と鼻水に塗れて酷く醜い。その顔を肩口に押し付けて、第一皇女は幾度も妹の栗色の髪を撫でた。
「うん。知恵者殿は生きているわ。自殺もしてない」
抱きとられたソフィレーナは、涙と鼻水を美しい姉の着る小豆色のドレスに押し付ける形、その体勢を拒めもせずにただ、姉に、問いで確認するばかり。
「ほん……と?」
「ほんとう」
「こっちが、げんじつ?」
「うん。お姉ちゃんが証明してあげる」
たおやかな白い指先は、幾度も栗色の髪を梳いて温かな温度を分け与えてゆく。髪に落とされる口付けは優しく、目の前を覆う美しい蜜色からは良い香りがする。
幼い頃に与えられたものを今また与えられて、ソフィレーナの、涙腺と言わず心の鍵までもが、緩み。
「も、ね」
酷いしゃっくりの中紡がれる言葉は、鍵の落ちる音に似ていた。
「も、夢見るの、やなの。
けるっつあ・ど・でぃす・ふぁーんがいない、夢。あのひとが、ね、死んで、じさ、て、お葬式もすんだ、夢。
たくさん、たくさん、みるの。
げんじつ、どっちかわかんないよぉッッ!!!!!
その、ち、ね、けるっつあ、ど、でぃす、ふぁーんがね、生きているのね、わたしの、そうぞうなんじゃ、な、か、て!!!!
ほ、と、は、し、じさ、じ、し」
息継ぎの間さえうまく取れなくなってゆく妹の叫びを、嘆きを焦燥や不安を、抱きとめるように腕の力を強くして、ティアレーヌは栗色の髪に顔を埋め、幾度も彼女の興奮をなだめている。
「大丈夫。大丈夫よレーナ。そんなの全部うそっぱち。知恵者殿は生きているわ。
なぁんにも怖いことなんかない。こわいことなんかないから……。
まあまあ、こんなに震えて……」
優しく温かな姉の腕の中で、ソフィレーナは彼女に縋って泣いた。泣き喚き、心の内に渦巻く感情を全て曝け出した。
けれど、妄信的に優しいものに縋れるほど、ソフィレーナは愚かには、あるいは賢くはできていなかった。
まどろみに体を預ける中で、彼女はそんな己をあざ笑い、しかし心の深く、酷く冷たい所で抱く想いは。
姉の腕の中、温かな温度にくるまれ泣きつかれて落ちる瞼、狭間垣間見える瞳には光がない。
目覚めてから、ずっと。
ソフィレーナは、ティアレーヌに縋ったところで何も変わらないと、しっている。




