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星屑オペラッタ ~わすれな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~  作者: 境 美和
2章~好奇心は無慈悲な幻覚の帝王~
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9 シンソウ2・収束



 ワイシャツのボタンを一つ二つと外してゆく白い指は忙しなく、そして思うように動いてくれないもどかしさがある。


『わッ?! な、何してるのッ!!?』


 勢いよく背けられた褐色の顔の代わりに見える耳朶が赤い。


 冷静な自分は己のしでかしていることに赤面を禁じ得なかったが、当の皇女は何か誤解しているらしい子供にかける言葉さえも惜しみ、ややはだけ気味の胸元。


私。


 次々と場面の変わってゆく脈絡のない、否、三つの筋に沿った場面が順番も筋もばらばらにソフィレーナの内で吹き荒れていた。


 吐くような目眩の中で長い栗色の髪は邪魔でしかない。邪魔というより変だと細胞の隅々までが狂ったように叫びだし己が異物なのか周りが異質なのか判別さえつかず、思わず頭を強く振ったソフィレーナは、取り囲む部屋が、世界や概念が急速に重みを失い張りぼてのように薄くなっていくことに気がついた。


 夕空の瞳に覚醒とも言うべき名の、鋭い光が差す。


私はあのひとに確かに――を―――の。―――と言って、無事に――から帰ってきて欲しくて。

――? ――って何? 思い出せない。

思い出せない?

そんなはずがない。忘れることができるのなら私はこんなにも苦しまなかったかもしれない気持ち悪いっていわれなかったかもしれないわたしはでもわたし



「……っ、ぁ……」


 こみ上げる感情に思わず開いた唇からは、か細くも確かに声が響いた。


 瞬間、辺りの色が急速に彼女の脳に飛び込んでくる。薄暗い展望部屋、特殊なガラスでできた展望窓の近く。目の前に広がる蒼い絨毯にはわずか陽の光が滲んでいる。


 巨大な暗幕のようなカーテンを開け放しているため、視界はウィークラッチ島の船着場付近を捉えていた。

 曇り空の下、朝にはまずいないだろう人々は出航したり到着したり、遠目にも賑やかだ。


ここ……?


 一度、二度瞬きをして、ソフィレーナは今己が蒼い絨毯に両膝をついて座り込んでいることに気がついた。


 全身のだるさは背の痛みを霞ませるほど酷く、肌を冷やす汗の感覚に知れず寒気が走る。聞き取る呼吸は短距離走を繰り返したかのように荒く、取り出そうとする記憶は白いもやに阻まれていた。


 こういう状態を、忘れる、というのか、と彼女が茫然と思考を動かした途端、堰き止められていたかのように今までの出来事が体内を駆け巡る。その流れの中にあっては意味や声どころか、光さえもろくに掴めない。


 識別の暇さえ与えてくれない怒涛の流れに頭痛を覚えた彼女は、さらに前のめりになりかけ膝に硬質なものが当たる感覚に痛む頭を押さえてそちらを見遣った。


 巧みな金細工でできた、柄に蒼く煌く小さな宝石の嵌め込まれているナイフが少し鞘から抜けた状態で転がっている。薄暗い室内にあって尚その金は鈍く重く反射し、輝きを失ってはいなかった。


 ナイフの転がる蒼い絨毯にも、勿論ナイフ自身にも、生臭い血の色などない。


 記憶の奔流は静かに引き始めていた。

 

 ソフィレーナはこめかみに感じる頭痛の残滓を、ゆっくりと首を左右に動かすことで振り払う。


 わずかの目眩に勝てず、膝立ちの状態から尻をついて絨毯に座り込み、膝の近くに転がっている金細工のナイフを丁寧に取り上げて、柄の金細工を、宝石を確かめるように指先で辿っていった。


『これが君の手元にある限り、僕は自殺ができない』


 灰色の両眼に強い光を湛えて彼女を見るケルッツアには、その言葉こそが真であると言い切るほどの真摯さと迫力がある。


 金属の冷たさは指先に移り、徐々に緩和されて彼女と触れる温度を等しくしていった。


 褐色の手が握っていたその柄の感触を心地よく感じつつ、与えられる冷たさを追って眼を瞑り、ソフィレーナはすでに己の統制下にある記憶を引き出してゆく。


 悪夢、自殺。未来に起こるだろう光景。原因、遺跡。今朝。


 単語の羅列を意味ある繋がりへと引き上げていった。


悪夢に魘される原因は少し前に行った遺跡調査。

助手の話から、あるいは別の要因から心当たりを覚えた知恵者は、一人彼の故郷である砂漠へと。


『――明日の朝までには悪夢を終わらせてみせるから……。

 もう少しだけ、辛いだろうけど辛抱して……待っていて』


 それが、今朝方、国立図書館に人の入る少し前に起こった出来事だと、そう思い至った後は巻き糸を解くほど簡単に記憶が引き出されてゆく。


さっき……の、悪夢……が………丁度、百度目…………。


 彼女は、膝の先に転がる流民のナイフを視界に改めて捉えた。


 少し鞘から抜けかけたそれは渡されたときから抜けかけているのではない。


 てのひらに確かに残るその冷たさに、ソフィレーナは酷く落ち着いた心地で仕方がない、と息をつく。


 夢の中で彼女の望むことは一つ。そして当の彼女は、その高潔さを安堵で迎え入れている。たとえ、結果的に知らぬ恨みを買った遺跡の思惑が働いていたとしても、悪夢は忠実にソフィレーナの取る行動を映して見せていた。


 まだ、決心がつきかねているらしいが、いずれ。


『これが君の手元にある限り、僕は自殺ができない』


はい、ドクター。その言葉に、嘘偽りはないのでしょう。


 自分は欲が深いのだろう、と身の程を弁えない駄々に苦笑して、ソフィレーナは抜けかけの鞘と胴をきちんと元に戻した。


 澄んだ音を立てたナイフを胸元に引きよせ、頑なに抱き込み握りこむ。


 その冷たさが心地よく。


ごめんなサい


 申し訳なかった。



「…………流民の、ひと…………」


 速い記憶再生の速度の中で、あるいは先ほど彼女を落ち着かせた言葉の映像の中で、ケルッツアは見慣れない服装を纏っている。


 白よりも深く美しい蒼の印象が強い衣装に身を包んだ知恵者は、彼女の知っている彼とは別人のよう。それでいて、本来あるべき姿だと、ソフィレーナに強く感じさせる何かがあった。

 それは彼の肌の色に合う衣装の色であったり、褪せた衣装の醸し出す月日の重さであったり。

 あるいは、理由などないのかもしれない。


 その差異が、時の隔たりが、ほんの少しだけソフィレーナの胸に触れて言い得ぬ寂寥を生み落としていく。同時に、言い得ない安らぎと切なさがこみ上げた。


 こんな衰弱状態、普段ならざる状態にあっても感じてしまうわがままとも言うべき寂しさを持て余し、心に潜む澱に彼女は、彼に対する後ろめたさを感じている。


 貪欲な自分を恥じて罵り、けれど、欲望の際限は見えそうにない。


 知恵者に。一等慕い、敬愛し、言い得ぬ激情を持って己が臨む者に、彼の持てる最大限の、最大級のものを与えられている。


その自覚があって尚、足りないとさらにそれ以上を望むなんて……害にしかならない……。


 一つ息を吐き、ソフィレーナはゆっくりと立ち上がろうと脚に力を入れて目眩に襲われ、均衡が保てず酷い倒れ方をして強か右肩を絨毯に打ち付けた。


 それでも、胸に抱いたナイフは手放さない。


 そのまま、今ある現実を、あるいは現実と信じたい泡沫の欠片を、体の隅々まで染み込ませるようにと吸い込んだ。


 閉じた視界で頬に当たる展望部屋の蒼い絨毯は埃っぽくあまり綺麗な様子ではなかったが、柔肌に食い込む砂やつぶての感触でさえも、彼女にとっては大切な宝物。


 正直なところ、ソフィレーナには現実がどちらなのか、確信を持って答えることが、もう、できない。


 ただ、こちらが本物であればいいという願望で、知恵者のいる世界を想っているに過ぎなかった。


 この世界の時間では今朝、彼女の感覚では遠い昔に、目覚めて知恵者を塔より送りだしてから、助手は彼女の見つけた規則を外れる回数、内容の、同じ結末、同じような粗筋を辿る記憶を体験し続けている。


 五感は現実との差異など見出せず、本当の体験か、それとも夢か。


 判別のつかない状況は言い換えるならば頭が彼女の統制下にない、頭の全てを乗っ取られた状態に近しい。


 夢に落ちた記憶もなければノルマだろう回数もとっくに過ぎているのに、悪夢は現実味を増して彼女を飲み込み、時には彼女の力だけでは脱しきれないほど酷くなっていった。


 中には馬鹿丁寧に遺跡の原因を突き止め帰ってきた知恵者が禁書庫で落下、自殺するというパターンの夢すらあり、夢の中でさらなる悪夢と何回もの日常の崩壊を見せつけられることなどザラに。


 また、夢の中の時間と現実との時間には隔たりがあるため、今日、という概念を記憶の上で千秋以上巡っているソフィレーナは、自分が本当はどの時点に生きているのか、浚い、吟味することはすでに、途方もない消耗を伴う。


 現実がここであればいい、とは、真にソフィレーナの切願でしかない。


 その中において尚。否。

 だからか。


 でも、と。


 未だ融けたことのない北国の果て、氷壁のように凍てつく心が聞こえざる声を発する。


でも、あのひとが言っていたじゃない。私は今、未来の可能性の一つを見ている状態だって。

ならどちらも。どちらも現実なのだわ。


あのひとがいなくなったら、どちらにしろ、私は。


 その思考はナイフを助手に預けた知恵者の意に背く。


 そのことを知って、解っていて尚ソフィレーナは譲れなかった。


 ああ、これで譲れないものが二つに増えた、とは、心の片隅で零した諦めの言葉。


あなたが、その結末を取るのなら、私は。


 虚ろな瞳を閉じて開き、ソフィレーナはまるで陽だまりのテラスで嗜む紅茶にほだされたかのような、甘い吐息を一つ、深い蒼色の絨毯へと落とす。


 その様は、真っ白な部屋のベッドでまどろむ姿とよく似通っていた。


 夢の中の彼女と、現実の彼女の差異はどこにあるのか。ソフィレーナはすでにどこかが。


 遺跡が原因の夢は、緩く、着実にソフィレーナの内を壊して。


 あるいは。



 元からあった要素を育て、廃人への道をとぼとぼと、辿らせていく。


『シンソウ3・姉姫』は9月17日21:40更新です。

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