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星屑オペラッタ ~わすれな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~  作者: 境 美和
2章~好奇心は無慈悲な幻覚の帝王~
29/38

8 シンソウ1・混乱

9



 高級なものだろう潤沢に光を弾く真っ白なシーツの波間には、幾筋も白と並んで尚麗しさの際立つ栗色の御髪が円状に、まるで一つの花のように広がり流れていた。


 ゆるく波打つ栗色の花弁の中央に埋もれる小さな白い顔は、髪の美しさに想像される美女より格段に劣っている。


 一等上質な紫水晶の濃さに下から淡く栗色の煙る一対の円らな瞳。それを縁取る髪と同色の長いまつげ。流麗ではないが優しげな眉の線と高くはないが筋の通った鼻に、至って普通よりわずかに小さな口という、髪以外はこれといって特筆すべき美しさを持った訳ではない娘が一人、今体を預けるベッドよりもさらに光度を増して白い、慎ましやかな風体のドレスに身を包み、ただ、何もない真っ白な天井を眼球の表面に映している。


 彼女と陽光以外には色のない部屋に、ゆるく聞こえるのは風の音か、木々のざわめきか、彼女の生きる音の一つ欠片。


 かつては理性を宿していただろう一対の特徴的な虹彩は、ガラスの反射にあるような光だけを弾き返して、時折、ほんの時折生理的な欲求に従い瞼に保護される。


 ベッドに沈む体は寝返りを打つこともなく、全くといっていいほど生気が感じられなかった。


 かつて国立図書館に勤めていたときの健康的だった肌はいまや青白く、ついていた筋肉も削げ落ちたか指先は枯れ木のようにやせ細っている。容姿に恵まれていたならば間違いなく倒錯的な美しさを放っているだろうソフィレーナ・ド・ダリルは、腐っても皇女、なり、それなりの容姿で壊れ、彼女の生家である皇家ダリル家に保護されていた。


 幾歳、幾年月日が巡ったのかは、その髪の長さが物語る。彼女は今、小鳥よりはわずかに多いだろう食事量を己に課して日々を生きていた。


 一面を白で統一された美しい部屋から逃げ出すことも、暴れることもなく。


 何も、尖った刃を生み出さない部屋の中で、人形然と時を過ごしている。


 ふ、と。その力があったのかさえ危うい細さの腕を、ソフィレーナは宙に持ち上げた。真っ白なドレスの袖が重力に従い捲れて肩口へと落ちていき、露になった腕だけが天を目指す。青白い肌の内に細い血管が透けて見えていた。


 その腕を視界まで持ってくると、彼女はゆっくりと己の頬へ、指先を降下させていく。


 ソフィレーナに落ちてくる指は、手は、すでに彼女のものではない。


『お帰りソフィーレンス君。そのバスケットの中身はティーチャー・ラナシルアから?』


 落ちてくる指先は褐色の色。かかる声は、再生される映像は幾度も思い返した現実。国立図書館最上階禁書庫。その饐えたような、それでいて妙に落ち着く埃の匂いが彼女の鼻腔を擽った。


 見上げた先には白い天井などではなく、どこまでも高く聳え立つ本棚の群れが整然と辺りに並んでいる。


 本棚の横手からは、黒いコートを纏った十四歳の外見、本当は四十代半ばの男性がちょこん、と顔を覗かせていた。


 穏やかな表情の中にわずかの聡さを覗かせて、子供のような外見、子供のような仕草のいとも稀なる知識を有していたこの国随一の知恵者、これ以上はないと彼女の慕い陶酔して止まなかった者の姿を捉えたとき、もう二度と動かぬとさえ思われたソフィレーナの青白い唇が、微かに震える。声も音も出なかった。


 思い返す、否、幾度も体験し再生される幾通りもの記憶映像の中でのケルッツアには、いつも、どこにも死の影などはない。


 最初は。


ケルッツア・ド・ディス・ファーン……


 声は口内にすら響かず耳朶に拾わせて再確認することさえもできなかったが、確かに生まれ落ちた。


 少し美しさを崩して作られた人形の面に一対の流れが湧き起こり、横へと流れていく。


 眼球に映る景色は白い天井の様子。


 しかし彼女は今、国立図書館の最上階、禁書の類のある場に立っていた。腕に夏みかん入りのバスケットを提げ、助手の制服と決められた男性のような格好、それに合わせるかのような短髪で己の上司を視界に捉える。


 三脚を三メートルほど上った所にはごく当たり前のように、もうどこを探してもいないはずの者がその認識を誤らせてしまうような自然さで部下を見下ろし、おいでと手招いていた。その仕草がこの頃は特に優しく、時に甘い蜜を含んでいるようにも感じられて、今の彼女には嬉しさと同時、言い得ない切なさを湧き上がらせどうしようもなくさせる。


 回想の中のソフィレーナはその手に時に呆れ、時に素直に手招かれていった。


 それからなにがしかの理由で会話が続けられ、非難か呆れか、親愛に満ちた日常の場面が。


 褐色のてのひらが、指腹、指先が、舐めると等しい速度で白い頬を辿っていく。確かめるように、味があるのならば味わいつくすように、ゆっくりと、幾度もその感触を刻み込んでいた。

 灰色の髪の下、横顔に鮮紅を流すその灰色の眼は今、漆黒に染まりやり、多分に淋しさと、惜しさを含んでソフィレーナだけを見つめている。


 紡ぐ言葉の理由付けは、彼自身、何でも構わないのだと、気づくのはいつも後になってから。


『ごめんね』


 本当の理由を語らない謝罪の後には、膝立ちの状態から前のめりに崩れ落ちた格好で果てた知恵者の遺体が待っている。


 真っ赤に染まった禁書庫の一角、残されたケルッツアの亡骸の傍に座り込んで、ソフィレーナは己を襲った事態に茫然自失と、まだ温かさの残る鮮血に塗れた褐色のてのひらに指を這わせた。


 つい今しがた彼女の頬をいとしむかのように幾度も撫で辿ったてのひらは、痙攣ですら反応を見せない。


 赤い血のついた白い指先は知恵者のした真似事のように助手の白い頬を辿り、二つ、三つ、赤い筋を付けていった。


 回想の中でソフィレーナは、ただ知恵者の死を、日常だったものの終わりを受け入れられず、混乱を繰り返している。


 げに、後悔とは先に立たないものである。


おいていかれ、ちゃった……


 清潔というにはあまりに病的な白さのベッドに体を埋めて、ソフィレーナは頬を辿っていた指先をゆっくりと下ろし、今にも折れそうなほど細い首に向かわせた。忌々しくも流れ打つ血流を探し、幾度か辿る。


 爪で、とも思ったが、今彼女の体を管理しているのは彼女ではないため、そして暴れれば母が悲しむため、静かに時を過ごすに留まっていた。


 そうして持久戦を続けている。


 彼女は後悔していた。あのときに、と己の放心を心底軽蔑し、憎々しく思う。

 尖ったものの排除された部屋の中で、どうしてあのときに、と。


 ソフィレーナ・ド・ダリルは壊れている。


 しかし、否だから。その壊れた心の中において尚、知恵者という存在の色は一つと褪せることはない。


ケルッツア・ド・ディス・ファーン。


 その想いだけが、ソフィレーナをいまだ真っ白な部屋に留め、生きることを選択させている。


 彼女は壊れていたが、壊れているなりの道理で動いていた。回想の始まりでケルッツアはソフィレーナを手招く。そう望んでくれるのならば、行きたい。それが彼女の一番の望みであり、叶わないのならば。


 真っ赤に染まった蒼い絨毯の上に、鮮血に染まったはずの美しい金細工のナイフが一つ、置かれるように転がっている。


 柄に小さくも蒼く煌く宝石がはめ込まれた流民のナイフは、知恵者の形見と等しい。


 ダリル元当主の、そしてかつて知恵者と友好関係にあった王の計らいで、柄にあった宝石だけは彼の助手の胸元に揺れる何がしかの鍵に小さくカットされて嵌め込まれているはずだった。


 その鍵の持ち主はしかし、胸元に揺れるそれには目もくれず、知恵者亡き後はあるはずのないナイフに手を伸ばし、そっと絨毯の上から取り上げると、血に塗れるのも構わず両手で握り締めた。


 血を吸ったナイフは意外にも軽く、ほのかに温かい。


叶わないなら。


 その柄と鞘とに手をかけて、ソフィレーナはゆっくりとそれらを引き離していく。

 かち、とあっけなくも鞘の奥で音が響き、鞘と柄との間から鋭い光を弾いて。


叶わないのならば、せめて。


 ソフィレーナは壊れていた。それでも壊れているなりの道理を通そうと。



『これが君の手元にある限り、僕は自殺できない』



 銀色の光が見えるか否か、唐突に強い声が響き渡る。とっくになくなってしまった、もう二度と聞けないはずの響きが幻聴と思えない確かさで届いたことに彼女はひどく混乱し、思わずと最尊であった者の形見を取り落としてしまった。


 しかし取り落としたナイフは、床と接することなく褐色の手に置かれたまま。


 目の前には硬質な白さなどなく、赤茶けた柔らかな色合いと深い蒼がある。


 褐色の手の出口、袖口を手首に巻くようにして縛る布は手に持たれているナイフの柄に嵌め込まれた宝石と同じ色だった。


 着込まれている長袖は少し褐色に汚れた白い生地。

 灰色の頭髪を隠すためだろう、頭に巻かれた赤茶けの白い布にも、深い蒼の線が見え隠れしている。

 ゆったりとした長袖の衣服と左肩から上腕を隠すように掛けられた蒼い飾り布を腰で縛る帯も蒼い。

 上着と飾り布から覗くゆったりとしたズボンは白い生地であるものの、纏う衣服は蒼の雰囲気に満たされていた。


 使われる色の比重は明らかに白に傾いていながらも不思議と蒼が印象に残る衣装を着込み、目元と手足以外を少し汚れた白い布で覆った覚えのある灰色の三白眼は、顔の下部を覆っていた茶けの白い布を指でやや乱暴にずらすと、ソファーの上で起き上がろうとする助手を手で制し、片膝をついた格好で彼女に視線を合わせた。


『ソフィーレンス君』


ああ、声がする。生ぬるい朝日が入り込む展望部屋の中で、呼ばれた響きに従って目を開けた。そこにはとても真剣な眼をした見慣れない服装の、よく見ている顔が。


 灰色の三白眼に映る己の姿を認め、彼女は一つ瞬きをした。長い髪は純白のシーツに埋もれ、短髪が知恵者お気に入りの青いソファーに敷かれている。


 起き上がろうと身に力を込めたと同時、白いドレスがさらりと衣擦れの音を立て、掛けられていた黒く丈の長いコートを肩口まで引き寄せられた。


 ゆるく聞こえる葉擦れの音。


 呼吸はわずかに乱れ真っ白な空間に消えてゆき、けだるい朝日のこぼれる青で統一された部屋に、抗議か疑問か、音ともつかないものが唇から零れ落ちて、真剣さを緩めた灰色の柔らかな眼差しに迎えられる。


 彼女の目の前にあるのは、近頃見る回数が格段に増えた表情を湛えたケルッツアだった。髪に触れてくる仕草は優しく、指先は少し冷たいが生きるものの温度を残して離れる。


 心地よさに眦を緩めると、離れていった手がもう一度と栗色の髪を丁寧に梳った。


 起こしてごめんね、などという殊勝な響きに、言葉よりも先に首が左右に動く。


 夢の中のように、感覚が。


『遺跡に行って来る。

 でね、これを君に預けてゆく。

 このナイフは、僕の育った民に伝わる自殺の正当なやり方に必要不可欠なものだ。

 僕はこれがないと自殺をすることができない。……したくない、といってもいいかもしれない。誇りをとって死を選ぶときに、手を抜きたくはないからね。


 ……そして、ソフィーレンス君。


 僕がこの刃でこの首を切ったのなら、そんな凶器は原型など留めているはずがない。危ないものだし、確かこの国ではそういった曰くの生まれたものは別の形に変えてしまうと聞いているよ。


 君の夢の中でも、ナイフの刀身は熔かされてしまって君に残されたのはこの石だけだ。


 君は今奇しくも未来の一つを見ている状態にある。


 僕が自殺を遂行した後にこのナイフが原型を留めていないことは身をもって知っている。


 これが君の手元にある限り、僕は自殺ができない。

 これが君の手元にある限り、僕は自殺していない。


 ――明日の朝までには悪夢を終わらせてみせるから……。

 もう少しだけ、辛いだろうけど辛抱して……待っていて』


 ソフィレーナは血に染まった蒼い絨毯の上に立ち尽くしていた。


 彼女の足元には血に濡れた抜きかけのナイフが転がっている。


 だるさを堪えて真っ白な天井を見上げ、純白の衣装に身を包んだ彼女はベッドの上に身を起こした。


 掛けられた毛布と黒く裾の長いコートは季節が夏の終わりにさしかかろうとも彼女には暑いはずだったが、その温度が今は不思議と心地よい。


 褐色の手は、知恵者お気に入りのソファーに置かれた白い手にそっと、掛けられた。


 金色の冷たい質感が彼女の頬に触れている。


 気だるく、とても清々しいとは思えない朝の採光を背にした灰色の眼はそれでも尚強い光を宿して夕空の眸を飲んでいた。差し出すナイフを持つ手は力強く、そこに確かに在るということを感じさせ。


 褐色のてのひらに包まれた手の指先を動かすと、包まれていた温度は離れていく。


 引いていく熱に少しの寂しさを覚えつつも、ソフィレーナは金色のナイフを手に取った。


『これがあるかぎり、あなたは、自殺、し…………ない?』


 ぽつり、と彼女と陽の色だけしか色彩のない部屋に音が落ちた。純白のベッドに腰かけて足元はいまだ乾かぬ血のぬかるみに濡れている。


 取り落としたナイフは彼女の手の中、その冷たさを焼き付けるように誇張していた。


『うん。……死なない』


 ナイフを握る白い手に、褐色の手が重なって温かさが生まれる。てのひらにある冷たさに反比例するように、手の甲に置かれた熱は鮮明になる。


 血溜まりに立ち尽くし真っ白なベッドに腰かける白い手は、宙に、白いシーツに置かれていた。


 てのひらは金色の柄に温度をあわせ、熱く、冷たい。


 痺れるような感覚に一層強く柄を握り締めて、ソフィレーナは目の前、自信と生気に満ち溢れたケルッツアを見、見つめた。


 そのどこにも死の影などない。そのどこにも血に塗れた痕など。


 もとより。


「ほ……んと、ですよ?」


 寝起きのせいか、妙に喉に張り付く粘液の隙間から出てくる声は厭に掠れていた。


 喉から響いたその音は少なからず真っ白い部屋に閉じ込められたソフィレーナの眦を大きく開かせ、血溜まりに立ち尽くす助手の顔を上げさせる。


『ほんとう、ですよ? このナイフがある限りあなたは自殺しないって死なないって本当に、本当ですからね?

 もし、もした、違えられたらわたし、わた、あ、あなたのこと、か、顔も見たくないくらいに

 き、

 じ、助手だって、勝手にやめちゃいます! わたし、ほ、本当じゃなか、わたしっ』


 ソファーから飛び起きたソフィレーナは、渡されたナイフを胸元で握り締め、背が痛むのも構わずに少々驚いた顔のケルッツアに詰め寄った。己でも何を言っているのかわからず唇だけが無様に動き意味らしき羅列を綴ってゆく。


『じさ……しないって……。本当に…ほんとう、に……』


 その勢いも徐々に削げ、ソファーの上で半ば正座をしたような格好を取ったまま、彼女は項垂れたその次に、そっと、言葉を落とした。


『……信じます…から……

 だから、違えないで、ください……。

 無事にも、帰ってきて……ね』


 涙の気配に語尾は消えていく。

 項垂れる栗色の髪に触れる手の感触は、何物にも代えがたくそこにある。


 ある。と。

 ソフィレーナは信じたかった。


 彼女は今、真っ白いベッドの上で幸せな夢想に浸っている。


 指先に触れるものは熱を吸ったシーツの感覚でも、その部屋には彼女以外誰もいなくても、彼女はいまだ自分が知恵者の助手であると、賢者の称号を賜った知恵ある流民、国立図書館の総館長は生きているのだと、悪い夢の中にでもいるのだと、思い込みたかった。


 俯けば長々と伸びた己の髪が栗色の衝立となって視界を狭める。ゆるく波打つその髪を乱暴に引っ張ると、途端鮮烈な痛みが頭皮に生まれた。


 ソフィレーナは一つ、壊れた柔らかさの笑みを零す。


 現実は、この真っ白な部屋だった。


 いかな時折見る優しい夢の中で知恵者が生きていようとも、それは彼女の願望に過ぎない。


 本当は、世に言うケルッツア・ド・ディス・ファーン、類稀なる体を有した類を見ない知識を持っていた知恵者は、とっくの昔に三メートル高々から落ちた損傷を誰よりも早く察知し、自ら命を絶っている。


 知恵者の体は契約により国に譲渡され、世間では彼の体から得られたデータを使い、盛んに若返りの、不老の研究がなされていた。


 彼女に記憶される知識も、彼女を訪ねるかつての知人たちも月日の流れに取り残されているものはいない。わずかな面会時間の中にもそれぞれの生活を営んでいるということをソフィレーナに思い知らせている。


 全てもう、わかりきったことだった。


いい加減、幸せな夢を捨てて、割り切るべきなのだ……割り切って


 現実の無味乾燥な空気の中、ソフィレーナは一つ瞬きをした。


 年老いた彼女の母の顔を思い出し、静かに、何の感情も籠らない笑みを浮かべる。

 美しい母を思うと心が痛んだ。しかし、もうどうしようもない。


鏡が欲しいと言った……あの言葉を、ママはまだ覚えているかしら……


 そのときが来たら、お化粧も自分でしよう。そのためにも、鏡は必要。柔らかに浮かぶ微笑は浮き足立っていた。青白い頬を仄かな花の色に染めて、ソフィレーナは大人しくそのときを待っている。


 知恵者の死は何よりも鮮明に、何度も何度も彼女の中で繰り返される。生きている、と自信ありげに微笑むケルッツアを信じたその次の瞬間には血溜まりに転がる無残な骸を見ることになった。


 取り乱す助手に構わず世間は知恵者の死を受け入れ粛々と過ぎていく。希望のような理想の夢が決して多くはない回数彼女を浮上させ、その足元を数え切れない現実が薙ぎとっていった。


 摩耗する意識の中、彼女は現実を思い知らされ、目的を変えてゆく。


 もはやソフィレーナの生み出した夢の中にしかケルッツアは存在しない。


 現実はあくまで稀有な流民の死を肯定し、巡り流れていった。


 幾度も体験する現実の中で、最後だけは変わりがない。

 幾度も経験する現実の中で、彼女の想いも変わらない。


 優しい夢の中、金色のナイフの質感は痺れて感覚が上手く掴めなかった。


 垂れた栗色の前髪に、二度、三度とてのひらの温かさが下りてくる幻は、兎角鮮明。


『違えはしない。約束するし…ちゃんと戻ってくるよ。

 ……その代わり、君にはここで待っていて欲しいのだけど……だめ?』


 幸せな偽りは続いてゆく。夕暮れを覗き込む灰色は、いたずらっ子のような茶目っ気を含んでいた。


 その顔に彼女は血溜まりにへたり込む顔を灰色の目に合わせて、白いシーツに腰かけたままソファーの上から茶化した、半ば本気の返事を返す。


『…お安い御用です。

 でも、約束、違えたら私、あなたのことなんて忘れて、研究に明け暮れちゃいますから。

 それから、このナイフだって、返しません』


 ナイフを抱きしめたまま、潤んだ瞳で答える助手の言葉が実現不可能だと、彼女は骨身に染みるほど思い知っていた。


 ソフィレーナにケルッツアを忘れることなど、脳の観点から見ても心情の上から見ても到底不可能。


 そんなことを全て察してか、否か、幻の中での知恵者は、それは困る、と肩をすくめている。


 過酷な現実の中で、泡沫のような夢は酷く優しい。ソフィレーナは、これが幻だとわかった上でこの世界に身を置きたいと何度も思い、願い。


 結局、過去のことと諦めた。


ぜんぶ、幻。だからはやく。



 はずだったのに。


『ソフィ……れーなさん』



 突き放したはずの幻が、自棄に尾を引いてソフィレーナを捕らえている。

 ナイフの感触は痺れていながらも確かだった。持ち直せばその冷たさがてのひらに蘇る。


 全て夢、と自嘲する心はしかし、幻だと諦めて尚彼女の心を揺るがせていた。


『これが君の手元にある限り、僕は自殺していない』


 このナイフがある限り己は自殺をしないと、そう言い置いて展望部屋を去った異民族の子供の姿が、よく見慣れた展望部屋の扉を開けて軽く手を振るその仕草が、灰色の目が、その夢が、現実を、そして壊れた願望を抱く彼女をどうしようもなく揺さぶる。


 真っ白な部屋、血溜まりの禁書庫。朝の展望部屋に響くもうどこにもいないはずの者の声は、自棄に現実味を帯びて似たような夢は見たことがないと訴えかけていた。


 その姿に制止をかける己の声も。もどかしくもワイシャツのボタンを外してゆくその目的も子供の驚いたような声も。全て。


 全てが、泣きたくなるほど鮮烈。


『じゃあ、行ってきます』


 幸せな夢は静かに続く。幾度も思い知らされる現実の中で、確かに続いてゆく知恵者のいる夢。儚い夢。幸せな幻。現実は違うとわかっていても尚、魅力的なまほろば。


 その鮮烈さが彼女には何よりも恨めしく、眩しい。


 涙は枯れることはなく、夢想は尚もゆっくりと続いていく。


 その夢に顔を背けられずただ感情を垂れ流し、焦点の合わない瞳を前に向ける皇女の、整えられていた美しい栗色の髪が一筋、ほつれ、眼球に映る光景に筋を作っていた。


決意して、そのときを待っているというのに。


 涙が長いまつげの柵を越えて頬を伝う間もなく落ちてゆくが、拭う手は動かない。


どうして夢想は、こんなに惨めたらしいの。


 その甘美さに抗えない自分も、夢の中のもういない人も、彼女にとっては全て煩わしい当惑の対象。


 ソフィレーナは一人、空虚な檻の中で迷子のように泣いた。


 泣いて何かが変わるという訳でもなかったがその愚かな行為をせずにはいられなかった。


 真っ白なドレスの上から胸元の鍵に手をやる。


 蒼く煌く美しい宝石の嵌め込まれたそれはごつごつとして、彼女の体温によく馴染んでいた。


 引っ張り出し、視界に。



 そこで。



 途轍もない違和感に襲われ、ソフィレーナの息が止まる。


 食料も水もろくに通さない喉で音を潰し、彼女はその首にかけていた銀鎖をまじまじと凝視した。



 蒼く深い色が煌くその鍵。銀鎖に通されたものは。


朝の更新が読み逃されやすいので毎週水曜と、時々木曜の更新にします。

『シンソウ2・収束』は9月16日21:40更新です。

『シンソウ3・姉姫』は9月17日21:40更新です。

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― 新着の感想 ―
悪夢が現実に成り代わりそうになっている!? 銀鎖に通されてるのは鍵だと思ってたけど実は別物だったりするんだろうか…気になる(っ ॑꒳ ॑c)ワクワク 遺跡に行ったら、ケルッツアは研究者だし呪いとソフィ…
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