7 ヘンジ3・解答
彼は、二つ持ったカップをそっと机に置き、立ち上がると机を回り込み彼女に近づいた。貼り付けたような笑みで言葉を過剰に発する助手のいまだに少し艶のない栗色の髪に覆われた丸い頭の上にてのひらを、落とす。
「髪、さ。寝起きなんだし、少しぐらい乱れたって大して変わらないだろう?
……痛かったかね?」
落としたてのひらから伝わってくる彼女の緊張に、少し気は咎めたものの少々強引な言い分で、乱暴にはならないよう気をつけながら栗色の髪を掻き回す。てのひらに感じる感触は、いかにぱさついているとはいえ己のものよりも格段に柔らかい。しかしいつもの感触に比べるとなよなよしい、とそんなことを思いながら、俯かせた助手には見えないところで苦い、否、切なさに崩れた笑みすら浮かべそこね、斜め下手を眇め見ている。
ややもすると、小さく、先ほどの饒舌さが嘘のような声が。
「いいえ……。……………………けど、くすぐったい……です」
くすぐったい、と言いつつも彼の手から彼女が逃れようとする素振りは微塵もない。ソファーに座る彼女は、揃えた膝の上で白い両手を組んでいた。組む手の指先は強張り白く、それ以外の部分は、震えている。
そんなことも知らぬふりで、ケルッツアはさらに言い募った。
「止めて欲しい?」
彼女からの返事はない。返ってきたのは少し上がり気味だった小さな肩がわずか揺れ、さらに力でも入れたかすぼめ気味になるという反応。間近で聞き取る息の音はか細く、呼吸も少しだけ落ち着きがない。
ソフィレーナ、さんは怒っているだろうか。彼が少しだけその顔を覗きこむとさらに俯かれる。しかしその栗色の前髪の隙間からは、赤々と染まった目元と頬とが見え隠れしていた。
気づいた灰色の瞳はみはられ、今年に、と消え入る小ささの声を褐色の耳朶が拾い取る。
「……今年に入って……あなた、触りすぎ、です」
音程は怒りよりも意地の方が強く、音の底からは非難に混じった照れや羞恥が姿を隠しきれていない。
零れ落ちる響きに、つられたか、彼は自然湧き上がってくる少しの恥ずかしさにそらっとぼけ、宙に顔を向けると天井にうそぶいた。
「そうかな……。百も二百も触ってないはずだけど」
掠れた音が響いた後、彼の厭に早い動脈のリズムと褐色の耳朶に痒みが蘇ってきた頃。
「……十五回、も……触ってる……」
返された声は少し拗ねた調子も含んで、弦楽器の高い音を静かに弾いた。
「じゃあ、もう触らないでおこうか?」
すかさず問い返すと無言。長い沈黙の後、ずるい、と、返される非難の声は弱い。
ケルッツアは尚も、その手の動きを労わるものに変えつつも、ソフィレーナの頭を撫でている。彼の中の、わき道にそれたとも言うべき照れも興奮もすでに静まってはいたが、それでもその手は止まらない。
その表情には優しさが多分に含まれていると同時、暗い憂いをも内包していた。
一つ、息を吸い込み。
「……。
ココアを作ったんだけど冷めてしまってね……作り直したほうがいいかな」
彼が話題を変えると頭の下から、私が、と声がする。しかしほんの少しだけ栗色に埋めたてのひらに力を込めると、彼女の、続けたいだろう言葉は続かなかった。代わり、頭に置いたてのひらから口の閉じられる動きが彼に伝わる。
口を閉じたソフィレーナは、目の前、木製の低いテーブルに置かれたカップの一つを取った。
ケルッツアがそっと窺うに、両手に包んで口元に寄せている。こくん、とした喉の動きもまた、頭に置いた手から如実に伝わり。
ずるいわ、と。そんな声は、呟きの不確実さで生まれた。
「……いいえ、美味しいです。……ありがとうございます。
ドクター・ワイズ」
平気な声で気取って助手然と返された返事に少し可笑しさを感じた彼は、同じように知恵者然と答えようと口を。
「いいや。口にあって良かったよ。ソフィレーナさん」
開いたところで方向転換。知恵者ではなく、ケルッツアとして答える。途端、動揺したらしいソフィレーナの素直な肩の動きを見、こういうときばかりはどもらず彼女の名を呼べる己の神経に少し呆れ大まかには開き直った。
褐色のてのひらの下には整った栗色の髪。そこから手を退かすか退かさないか、判断を遅らせたまま彼は。
「ねえ、ソフィーレンス君」
もう一度、ゆっくりとつむじから前髪に向かって沿うように撫で。
ふと。
『不あんにおもっていることを、だれかにつよく否ていしてもらわないといけない……』
「なぁに?」
ケルッツアの右耳には幼い子供の真剣な声が、左耳からは柔らかく丸みを帯びたソフィレーナの声がする。
彼女の下に元凶と思われる白い馬が現れたのは。僕ごときの払いの言葉で簡単に退いた理由は。
それは全て一つの事柄を意味していた。そして、今この場にいる彼にはどうにも、解決できないことだということも。
日の出まで季節柄あと二十分弱。現時点で助手が安寧を得るための代償は、理不尽に課せられた悪夢のノルマを全て一時に見てしまうということ以外には、あり得ない。
助手の夢の中で、あと何回知恵者は自殺をするのだろう。
彼女の夢の中で、あと何回彼女は壊れなければならない?
ぐるぐると、知恵者と位置づけられた者の思考は巡ってゆく。
明けてしまえば昨日、明けてない今は今日の夜。悪夢を一気に見たソフィレーナはしばらく現実に戻れなかった。見開いた瞳に光はなく、眼球の表面に展望部屋の光景が映っていようとその意識は夢に囚われて忘我状態。彼が幾度と名を呼び、ときには抱きしめても、呼吸は小さく、ただ、目を見開いたまま固まっているばかり。
僕は生きている、僕はここにいる、と幾度繰り返したか。ふと、抱き寄せていた体に小さな震えが走り、声がした。
結局意識を取り戻したのは、目覚めてから優に十五分後。
夜が明ければまた、助手は悪夢に身を投じなければならない。それは酷く当たり前のことで、彼自身よくわかっているはずのことだった。何も解決していない。なれば、日の出と共にさらに膨れ上がった悪夢のノルマが彼女を襲っても、何も不思議なことはない。
しかし、エゴともいうべきものか、ケルッツアは、ソフィレーナにそんな体験も、思いも、これ以上はして欲しくなかった。いかにそれで己の心がほんの少しだけ。
『不安に思っていることを、誰かが強く否定しないといけない……』
また、同じような映像が彼の頭に蘇る。金髪の綺麗な顔をした青い瞳の男の子は、己を見上げて真剣な顔で何かを訴えているが、声はもう忘れ、内容も、こういうことを言った、としか思い出せない。
ケルッツアに特別な力はなかった。けれど、ソフィレーナの不安を否定することならできるのではないか、と、知恵者は考えている。それは彼が夢の登場人物であること、どうやら彼女の不安の核らしいことなどから導き出した結論だった。僕は生きている、死んでいない、と何度となく彼女の夢を否定し、不安を取り除こうと努力して、いまだ事の解除に至れない。
しかし、今度こそはできるかもしれない、と。一際強い意志の下。
「僕は」
あとから思えばこれは、愚かさに唆された行動だったけれど。
意味が響いたとほぼ同時、ソフィレーナは名を呼ばれたとき以上に肩をびくつかせ、少し、カップの中のココアを零してしまった。慌てて傍の布巾を取ると汚してしまった場所を拭き取ろうとして置いたカップを倒し、結局事態をより大きくしている。
その反応に、そっと横手から彼女の零したココアを拭き取ると、彼は憐憫と憤怒のない交ぜになった顔をそっぽに向けた。
白い馬が消えたのはソフィレーナさんが起きたから。そして白い馬、元凶が姿を現したのは。
「あ、た……りまえです……。あなたはまだ、生きている、わ」
片付けられてゆく惨事ともいえない机を、手をこまねいて見、彼女は一層俯くかと思われたその頭を止めて大きく震え、極力平静を心がけているのが丸わかりの声で返事を返す。
空になったカップを持つ手の柔く白い指先がココアに塗れたまま小刻みに震えている様は、持ち上げられたカップの腹からこげ茶の雫が断続的に滴る様は、ソフィレーナにもケルッツアにも、酷く惨めに映っていた。
元凶が現れたのは、彼女がいまだその支配下にいるから。
理解したくもない現実は、いまだ知恵者とその助手に圧し掛かる。
知恵者の過去の記憶において、白い馬の恨みは広範囲に亘るため被害が甚大になることが多かった。今回、遺跡調査での発生で人数が百を超さなかったのは奇跡。
そして、絶対記憶脳を持つダリルの末姫が受けるだろう苦痛と精神的ショックの大きさは誰が考えても計り知れない。
記憶が、増すこともない代わり減らされることも忘れることもないその頭は、幾度と見せられる結果の同じ、所々の違う悪夢の全てを正確に、寸分の違いなく何も改変されずに覚えている。
何度も何度も見せられる知恵者の自殺した映像の中で、回数的には圧倒的に少ない知恵者の生きている現実を選び取る、不安の現実化してしまった世界から、その中で見る一瞬の夢のような現実を掬う。この作業に掛かる時間は、昨日の夜で十五分。今朝はそれより長いだろう、とケルッツアは瞑目し、不安に胸を焼いた。現実よりも圧倒的に多い虚構の中で現実を探し出す時間が、ある程度延びれば彼女はその作業に慣れるのか。
巡る思考はどうにも楽観的な意見を弾き出せない。
ソフィレーナ・ド・ダリルは忘れることのない頭脳、絶対記憶脳保持者である。忘却という手段は人類が心、精神を守るために得た盾。哀しみに耐える力は生きてゆくための必須技能との考えが一般的であり、彼もその説に異存はなかった。
しかし、ソフィレーナは"忘れない"。
白い馬のもたらす精神的苦痛に対しても忘却という手段を取れない彼女は、あるいは。
壊れ
「あ、あーあぁー何やってるんですかね私。"優秀な"助手失格です。 あなたにこんな手間をかけさせるなんて」
止まった空間を割る声は、明るさを装って響く。
苦い思考から立ち返ったケルッツアの目の前で、ソフィレーナはカップについたココアを拭き取っていた。汚れた手より必要以上にカップを拭く仕草を繰り返している様は、滑稽を通り越して。
引きつったような三日月形を口元に作り出すその目元は、やはり栗色のカーテンに隠れて彼には見えない。
そのとき、ケルッツアをざわめかせていたのは何という感情か、彼は判別を付ける暇すら惜しんだ。
「手間と思わないからいいんだよ。貸して」
響いた声は意識したものより格段に低い。彼は素早く彼女の手をカップごと手繰り寄せ、流れるようにカップだけ外すとその白い指先に付いてすでに粉めいたココアを丁寧に拭っていった。
「ど、ドクター。そんなことを」
彼の左手、息のかかるほど傍から響いた多分の戸惑いとわずかの羞恥を含む抗議には取り合わず、褐色とは違う色の細い指先をガラス細工のように扱う、その動作を眼球に像として結びながらも、ケルッツアは意識の表に浮かび上がる苦い仮説に立ち返っている。ドクター、ともう一度戸惑いがちに呼ばれる声に、わずか、持ち上げられている顔を見、栗色の前髪の下、言葉を発した後のわずかに開いた唇を認めたところで、また自身の内に深く沈みこんだ。
映っている小さな隙間は、震え、ゆっくりと閉じるとあとは硬く噤まれる。
世にも稀なる美しい栗色の髪、家柄にしては少々、人によっては大幅に華の足りないと思われるだろう容姿、低い背、ダリル直系の虹彩、唯一の皇家の末姫君にして、王臣より永久に外された者。
頑張り屋で密かに矜持が高い、菌糸が大好きで知恵者の論文も大好きで、アライグマのように凶暴でウサギのようにあちこち駆けている印象が強く職業の範囲以上に知恵者を気にかける、怒った顔は怖いけれど笑った顔は筆舌に尽くし難いほど、可愛い、晴れた日の砂漠に現れる夕と夜との境を映した空よりも綺麗な目を持つ、優秀な、そうあろうと努力する、知恵者の助手。
そして、恐らくこの世に唯一人だろう絶対記憶脳保持者。
絶対記憶脳とは対照的思考に基づく名称だった。
記憶脳保持者、驚異的な記憶力を誇る者は何もソフィレーナ・ド・ダリルだけではなかったが、彼らは驚異的な記憶力と引き換えに人間関係を円滑に進める上で欠かせない言語能力、コミュニケーション能力の欠損を必ず伴う。そして彼らの異常なまでの記憶容量は、本来記憶に使われるべきでない脳の箇所をも潰して記憶容量に割いているために生まれるものだとの研究結果も出されていた。
しかし、彼女は彼らに比べて圧倒的に普通であるにも拘らず、驚くほどに正確。欠損は一切見当たらず、検査で示される記憶回路も他を犠牲にしている結果を弾き出さない。だのに記憶脳保持者が忘れてしまうことでさえ、ソフィレーナ・ド・ダリルは忘れることがなかった。一ヶ月前のことであろうと十年前のことであろうと何一つ。十年前に訪れた避暑地の看板の、汚れですら忘れることはない。
彼女の記憶容量はどこから生み出されるものなのか。その謎に挑みたい者もいれば、そんな理屈はうっちゃっておいて、彼女の記憶脳をより完全に近づけたいと考える者も当然の如くいた。そして、彼女、でなく絶対記憶脳保持者を必要とする者の中には、ソフィレーナの人格こそが世にも稀なる頭脳の欠陥と考える者も少なくなく、事実、ソフィレーナの心こそ、絶対記憶脳最大のバグであるという研究結果を覆す結果も論も、いまだ出されてはいない。
また、彼女の記憶は疲れているときほど鮮明になるとの結果も出ている。本人は現在と過去とを混同しやすいとの報告も出ているが、反比例するように記憶は尋常でないほどの正確さを誇るようになるとのこと。そのため今では彼女の心の状態、否、彼女の状態と絶対記憶脳は相容れないとの論が主流になりつつあった。
一般的に大きな精神的ショックがあると、人格は壊れやすくなる。一等堪えるだろう精神的ショックを意図して与えられている今の状況は、ソフィレーナにとっていかほどの傷を残すのか。その後の顛末にケルッツアは。
もし、壊れてしまったら
ココアの付いた白い指先は、今彼の褐色のてのひらの中で微かに震えて赤い。視界には綺麗に巻いた栗色のつむじと髪ばかりが見え、続く顔は栗色の髪の隙間からでさえ窺うことができなかった。小刻みに震える小さな両肩は、夏服のワイシャツに包まれて儚い稜線を描いている。
拭う手が止まったことに身を引こうとする白い指先の動きを封じ、少々強引に引き寄せ直す。
と、ほぼ息だけで構成された小さな声が、ケルッツア・ド・ディス・ファーン、と。
「爪の中まで入ってる」
その声に半事実を返して、彼はその綺麗な桜色の爪先を布巾でなぞり落とした。
人格の壊れたソフィレーナ・ド・ダリルは、完全なる絶対記憶脳を有する者となる。完全なる記憶媒体は、知恵者の助手には相応しいのかもしれない。彼女は軽口も叩かず言われたことに人形のように従い、知恵者に、あるいは請われた者に知識を提供していくのだろう。合理的にして、無駄のないもの。
そうなれば、知恵者にとってソフィレーナ・ド・ダリルというものは便利以外の何でもなくなり、ケルッツアは助手に対する心の置き場に迷うこともなくなる。
助手は恐らく無駄口も愚痴も零さず泣かず、怒らなくなるのだろう、と。
何に関しても無関心。笑めと言われて浮かべる笑みは、さぞや。
……別に、僕は。
そこまで考え彼は思考を打ち切った。拭う手を止めて今度こそ白い手の逃亡を見逃す。離した途端引っ込められてしまった現在の彼より小さな手をわずか目で追って、膝の上で硬くなって動かないことにそっと肩を竦めた。
途切れて震えた感謝の言葉が、小さく消えていく。
その声にいいや、と返すと、知恵者は気分を切り替えるように満面の笑みめいたものを助手に向けた。
「………作り直してくる。
ところでさ、どうも僕の作ったココアは薄い気がするのだけど君はどうやって作っているのかね?
ほら、時々、ふわふわ泡立ったものを飲んでいることがあるだろう?」
少しかがみ込んだ姿勢からさらに腰を折って訊くと、その追随から距離を置くようにして助手の声と上半身がソファーの背に引っ付き、無理な体勢を取ったためにだろう、次の瞬間には顔が痛みに引きつった。
しかしそれも一瞬のことで、やや視線は外し気味、じりじりと近寄ってくる褐色の顔に観念したか。
「……。
牛乳で、作るんです。
沸騰させない程度に温めて、粉を入れておいたカップにゆっくり注ぎながらかき混ぜる……。
でも私だってそんな凝ったココアたまにしか作りません。よっぽど、特別ってときぐらいにしか」
観念したような響きでココアの作り方を吐いたソフィレーナは、その後栗色のカーテンを払うときっちり抗議も付けてケルッツアを見返す。
しかし、睨み付けられた彼はといえば、彼女の潤んだ瞳と隠しようもないほど赤い目元の肌に、頬を崩すばかり。
「じゃあ今日は特別ってことにしよう。
どうせそんな基準作るものだもの。だったら今だってなんら不都合はないはずだろう?」
楽しげにソフィレーナのカップ分だけ持って応接室へ向かおうとしたケルッツアに。
大きく響いた声らしき音と、強く引き戻す右手に掛かった熱。熱は柔らかな感触を伴って褐色のてのひらを掴んでいる。
彼が引き戻される力に抗わず進みかけた足を戻すと、掴む手の力は少しだけ緩んだ。
知恵者は、助手に振り向かない。
彼の後ろでは詰まった音が熱を伴って幾度か吐き出されていた。次いで、覚えのある猫の毛のように柔らかな何かが褐色の手の甲をくすぐって滑り落ちていく。その色が栗色だと気づいたときには、滑らかでいて少し冷たく、その内に硬く平べったいものを包んだ感触が触れてきた。縋る両手が頂くような位置で褐色のてのひらを持ち上げていることから、彼は手の甲に押し付けられているものが彼女の額だということを悟る。
伝えられるものは、言葉でも声でもなかった。
「………………………」
手の甲には緩やかに擦るような動きで額が押し付けられ、頂かれるてのひらを持ち上げる白い手は、生体の振動幅よりも明らかに震えが過ぎている。
縋りつく彼女の様子を感じ取り理解した後。何の予兆も兆候も言葉もなく、ケルッツアは手の甲を引っ繰り返した。
矢のように離れる額と同時、驚いたような声が響く。褐色のてのひらは離されなかったが、瞬時頂かれる高さは格段に低くなった。
小さく、失態を告げる音が褐色の耳朶を掠った拍子に。
「…押し付けてきたのは君だ。 ……逃げる?」
少し強い口調での問いに、弾かれたか、背後の雰囲気が変わる。いまだに褐色の手の甲を支え持つ揃えられた指先は、逡巡の後におずおずと元の体勢に戻った。柔らかな栗色の前髪と滑らかな額に体温が馴染む前、褐色の指腹が勝手に動いても、押し縋る力を強めこそすれ拒む仕草は微塵も見せない。
その様がまた、彼には哀しかった。別に逃げたんじゃありません。びっくりしただけです。そもそも何をもってにげたっていっているんですか? もう。などと。 軽口でも飛んでくるかと思っていたのに。
「ソフィ、ぃ……レンス君……」
思わず口を突いて出た彼女の本名を、本名を呼ぶとまた驚かせ、彼女の平常心をなくしてしまうおそれがあるので言い直し、一度、二度。軽く指先を動かしてから、ケルッツアは後ろ手にソフィレーナの顔をてのひらで辿っていく。額をゆるりと撫で、その手を下ろして眉毛と優しい睫の感触を覆うと、少しだけその場にてのひらを留まらせて柔らかな体温を感じとった。褐色のてのひらは動き、頬の辺りへ。 滑らかで熱い丘陵を一度は撫で落とし、上へと辿ると、そっと彼女から頬擦りを返される。
あなたは、と触れている肌が動き、耐えて耐え切れず、あるいは彼の手によって切られた糸の音が落ちる。
「あなたはまだ……生きて……る……の……」
言葉は語尾に近づくにつれ儚く、不確かさを含んでいった。触る頬を通じて、彼女の目元には焼くような熱が集まっている。
すかさず、細く白い指が褐色の手の甲を不器用な動作で掴み、離そうと動いた。
それを。
「そう。……良い子だね」
てのひらを押し付け直して、ケルッツアはソフィレーナの頬を滑る温かな雫を、拭っていく。
それでも彼は、彼女の。
「……こんなでも、優秀な助手、ですか?」
生ぬるい朝の光がカーテンの隙間から展望部屋に零れ落ちる頃、彼の背後から覇気なくおどけた声が掛けられた。添えられていた指先の離れる感覚に、乾いた眦をもう一度指腹で拭い、ケルッツアは、彼女の頬を包んでいたてのひらを離してソフィレーナに振り向く。
「……そうだね……。良い子と優秀さは違う。
でも、君の言う、こんな、でも、僕にとっての逸材なのは変わらない」
静かに向けられる滲んだ一対の丸い瞳を捉えた途端、強まる耳朶の痒さに笑みで視界を潰して、発する言葉は彼自身聞き取っても十分に掠れている。
潰した視界を元に戻すと、驚いた顔を少しだけ切なさの漂う笑みに変えた助手がいた。
「……絶対記憶脳保持者?」
おどけた問いにはすでに寂しさなどなく、わずか苦笑が混じっている。
その答えに不快とも歯がゆさともつかない複雑さを覚えながら、知恵者は軽く横下手を眇め見ると。
「もし、もう一人絶対記憶脳保持者がいたとしても君とは違う。多分、そういうことだ」
掴みたての解答に言葉は返らない。
末皇女は、流民の目の前で目を丸くして頬と言わず顔中を赤らめ、頭をゆるく振ると前髪に目元を隠して俯いてしまった。
その様子を耳の痒さにせっつかれて最後まで見ることなく、知恵者は助手のココアを淹れに応接室へと発つ。
けれど、ここまで必要とされていても尚。
ソフィレーナは、ケルッツアに。
朝日は生ぬるく厭に黄色味を帯びていた。彼らの過ちを暴くこともなく、その先をゆるく不気味に照らしている。
その中で、忘れ去られた、あるいは意図してそっぽを向かれた夢のかけらだけが、静かに警告を告げていた。
『そして、わたしたちの"くらいあんと"よ。
あなたはかいけつできることは、なるべくじぶんでかいけつしたいとおっしゃいます。
けれど、―――に、にらまれたものは、じぶんではけっしてふあんの否ていをおこなえない。
もとより、不あんの否ていは、せいこうするよりしっぱいする方がおおいのです。……不あんをとりちがえて否ていしても、もとをわからずに否ていしても、もっとわるくなるから……』




