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星屑オペラッタ ~わすれな姫は賢者様の瞳の奥まで知りたい~  作者: 境 美和
2章~好奇心は無慈悲な幻覚の帝王~
27/38

6 ヘンジ2・自問自答

8



 静かに湧き出る噴水の音は途切れることなく続いている。城の裏手にある小さな庭には、鉱物だろう、真珠の輝きを放つ石が敷き詰められていた。円状に作られた庭の真ん中、ケルッツアの腰掛ける白い石段に囲まれた小さな噴水はこんこんと水を湧かせ、小川のように微かな音を響かせている。


 迫る森との境界である小さいながらも手入れの行き届いたその場所で、来たときの格好があまりにボロだからと貸し出された、科学大国、『千の花』という名をいただく国では一昔前に貴族の着ていたような飾りつきの白いブラウスに、すらりと伸びた黒いズボン、この世界では人型の者は誰でも纏っている、黒く長いピンで留めるようなマント、という、やや服に着られた感が否めない格好をして、彼は持参してきた小さな黒い手帳に何やらしきりと書き込みを続けている。


 日差しは生ぬるく、木々に流れる風は春の穏やかさに包まれている。


 書き込みを続けている手も、立ったときの視界も、腰掛けたときの視線も随分と縮んだものだ、と。


 ふと彼は、感慨深そうに顔を空に向けかけ、視界の途中で庭を取り囲む木々の幹の一つからよく似た小さな顔が二つ、連なってこちらを窺っていることに気がついた。少々驚いたものの体を向けて笑み、軽く手招くと、二つの顔は、ぱっと嬉しそうな表情を浮かべ駆けてくる。


 先頭は金髪に青の目、後に続くは黒髪に紫の目の同じ背格好をした、黒いマントを羽織った彼らはほぼ同時にケルッツアに飛びつき、向かってきたときとは打って変わった真剣な調子で、こういった。


『あのね、あのね、どくたー・ケルッツア。

 あそこに、くろくておおきい石があるでしょう? もし、あれにさわっちゃったら、ぼくたちにおしえてください。

 あそこにはね、―――がねむっているの。さわったら、おこされたことをすごくおこって、―いをかけられてしまう。

 ―――のーいは、かけるひとの不あんをぞうふくさせます。

 ―われたひとは、―――のゆめをみたあとに、わるいゆめばかりみるようになるの。まいにちまいにち、じぶんが、いちばんふあんに思っていることを、ずーっと、みせられます。

 ―をかけられたひとは、そのうちねむれなくなっていって、よわって、しんでしまう。

 それをなおすには、―――を、ちからをもった―――に、―ってもらうか、不あんにおもっていることを、だれかにつよく否ていしてもらわないといけない…………』


 気弱そうな声、金髪の男の子がそういい終えると、黒髪の、少し勝気そうな声が続きを訴える。


『そして、わたしたちの"くらいあんと"よ。

 あなたはかいけつできることは、なるべくじぶんでかいけつしたいとおっしゃいます。

 けれど、―――に、にらまれたものは、じぶんではけっしてふあんの否ていをおこなえない。

 もとより、不あんの否ていは、せいこうするよりしっぱいする方がおおいのです。……不あんをとりちがえて否ていしても、もとをわからずに否ていしても、もっとわるくなるから……。

 ……わたしたちふたりなら、あわせてだが、父うえと同じくらいのちからをだせます。

 だからもし、あの石をさわってしまったら、どうぞ、わたしたちにおしえてください』


 二人に促された先には、確かに黒く大きな、今の彼と同じ背丈ぐらいの石がある。その石は黒々と光を返していながらも、光の加減か輪郭は緑に輝いて見えていた。

 この世界では彼らが正しい、と、ケルッツアは急ぎ、その石と双子に教えてもらった知識をメモ帳に書き取ろうと。


 自分が暗闇の中にいることに気がつく。


 心地よい眠気が体を包み込んでいた。驚きすらも遠い心地で呆けていると、闇に目がなれたか、辺りの状況がおぼろげに浮かび上がってくる。

 国立図書館展望部屋の、視界の低さは、絨毯に座り込み、ソファーの足を背にした格好で眠ったからだと思い出せば、あとは巻き糸を解くように記憶が追いついた。辺りを見渡せば、記憶を裏付けるように読みかけの書物らしきものや積読された本の塔、木製の低いテーブルには切り株のような輪郭の、助手用の背もたれのない椅子が重なって見えている。


 衰弱した助手に付き添っている間の、手持ち無沙汰な時間を読書に費やしていた自分は、どうも途中から眠っていたらしい。ほぼ寝返りを打った形跡がないことで一眠り程度だろうと闇になれた目で彼が確認したところ、開いたままテーブルの上に置いておいた銀の懐中時計は、彼の知る時刻より三時間進んだ朝の四時を指そうとしていた。


「……」


 意外に長く眠っていたことにケルッツアは少し驚き、先ほどまで己の前にあった夢、すでに解体された映像を数秒かき集めようとして、判然としない内容にその作業を諦める。異世界に行ったときの記憶、双子の兄弟が出てきた気はするが、何の内容だっただろうか。そういえば夢の中でメモを残そうと思っていたのだっけ、と手元にある黒く小さな手帳を数枚捲ってみるものの、記憶が思い出されることはなく。

 無意識、後頭部を少し掻くと肩を落としてため息一つ。ソファーの上で眠っている助手の容態を確認しようと振り向くと。

 すう、と。

 同時に、静かに息の吸われる音が耳朶を掠った。


「…………」


 少しどころでなく拍の高まった心臓の辺りに手を当てて、ケルッツアは寄りかかっていたお気に入りのソファーの足から己でも何故こんなにおっかなびっくりなのかわからないまま、ソファーの上へと視線を向ける。


 闇夜に浮かび上がるまろやかな稜線は、緩やかに動いていた。


 横を向き、ゆったりと肩を上下させて眠るソフィレーナは、ソファーの背に背をつけて猫のように体を丸め、黒いコートと毛布に顔を埋めている。黒いコートに、艶の戻りつつある栗色の髪が柔らかにかかり、短髪ながらも緩やかに奔放な筋を描く様は、その筋が彼女の呼吸に合わせてふわ、ふわと動く様は、ケルッツアに言い得ない心地をもたらした。衝動よりはずっと弱く、温かさよりは格段に熱い熱を持つ、少し切ない色の。


 その何かの名にも心当たりを見出せぬまま、湧き上がる心地を瞬きで耐えて、彼はしばし、その波が体中に広がり消えてゆくまでを見送る。


 目の前のソフィレーナは、しゅる、と緩慢な衣擦れの音を立てて足を伸ばし、うつ伏せになった。


 辺りを支配しているのは、穏やかな呼吸の音。

 悪夢に魘されていれば、呼吸は浅く早いはず。そう、心の波がおさまった頃、ケルッツアは安堵を眦に浮かべて、闇の中でも白く浮かび上がる、毛布とコートから出ている小さな指先に褐色の指を添わせた。触れた箇所からじんわりと伝わる赤子のような温かさに、思わず先ほど生まれて消えたはずの感情に任せて、その指先を緩く握りこむ。

 それから呼吸に合わせてふわふわと動く栗色の髪があまりにも柔らかく、温かそうだったので、触れていた指先のすぐ近く、ソファーに投げ出された栗色の髪にも指を。


「……んぅ……」


 伸ばしかけたところで、小さく零された息ともつかない音に慌てて、手といわず腕ごと引っ込めた。

 己の行動を理解したか、ケルッツアは無言で少し不思議そうに引っ込めた手を見ている。いかに温かそうでも、髪には普通体温は通わない、と。そうわかっていて何故か手が伸びた。その手を軽く握ったり開いたりしながら、一気に跳ね上がった血流の音にますます目を見開いている。


 気づけば、両の耳が疼いて痒い。


 その痒さからか、それとも別の何かからか。半ば逃げるようにして立ち上がると、ケルッツアは早足に展望部屋から応接室へと歩を進めた。目的のドアを前にすると同時、極力音を立てないようにしながらドアノブを捻り、中に滑り込んでまた静かにドアを閉める。迷わず給仕スペースへ入ると流しに行き、少し乱暴にコップを掴んで水道のコックを捻った。

 静かな水音。みるみる溜まる透明で冷たいそれをコップの縁すんでのところで止め、豪快に呷り飲み干す。


 動脈の忙しない音に混じって喉を滑り落ちてゆく冷たい感覚と流れに、寝ぼけた頭が澄み渡っていった。少々多く汲んでしまった液体も無理に喉の奥へと落とすと、呼吸はわずか乱れた代わり、すっかりと耳朶の痒さも取れている。

 使ったコップを流しに置き、近くに置いてあったやかんを少しゆすいで水を入れる。蓋をしてコンロに乗せ、ガス栓を開けるとそれを火にかけ。


ソフィ……レーナさんはもうすぐ、あと二十分以内に起きる。


 そのときに備えて何か温かな飲み物を。近くで寝起きを、片隅の意識ながら観察していた情報で割り出した結論に合わせての行動のさなか、ふ、と手持ち無沙汰になったケルッツアは、整頓された給仕スペースに目を留め、苦く、見渡した。

 普段綺麗に片付いている場が今、同じように片付いていることが何を意味するか。

 知恵者が一度手をつけ片付けもそこそこに出た場所は、物が勝手に動かない限りそのままになっていて然るべきである。大して片付けず出てくる者がそこをもう一度使ったところで、その片付け具合に大した違いがあるべくもない。


 しかし、その場所はいつものように片付いている。


 それが堪らなく、コーヒーと間違えて墨を口に含んだときより、不味い粉薬を飲み下し損ねたときより、ケルッツアには苦々しい。


 安静を言い渡されてから一度だけ、助手は知恵者の制止を振り切る形でこの給仕スペースに入っていた。夕食時、食券であらかじめ買っておいた料理を温める段になって飲み物もあった方がいいという流れになり、当たり前のように応接室に向かった知恵者を追い越す小柄な体躯。

 ふいに彼の横を撫でた空気の流れは背の痛みもまだ引かないだろうに朗らかに、何でもないことのように明るく言い放った。


『私がやります。

 じゃないと助手失格です。

 私が何のためにいるのかわかんなくなっちゃいますもの』


 この言葉に、そのときの彼は鳩が空気銃を食らったような顔で言葉を飲み込み、しばし、その場に立ち尽くしている。その間にも意気揚々と応接室へ向かう助手との間は開いていき、硬直のとけたケルッツアは追いすがるようにしてソフィレーナの後を追うと、何を馬鹿なことを、と口火を切ったものの。


『やだ、なんて顔してるんです。こっちがびっくりするじゃないですか!

 大丈夫ですって。

 私が背を打ちつけたのは本棚の並んだ部分ですし、本の並びも余裕が取られていたからクッションに落ちたのと変わらないってこと、ケルッツア・ド・ディス・ファーンだってわかってらっしゃるでしょう?

 あれだけ休んだんですもの。少しは動かないと』


 助手はそう言って彼の散らかしたままだった流し台の上やら中やらを綺麗に整頓、料理を温めつつ湯を沸かし、あっという間に夕食の用意を整えた。その所々で、動きは微妙に可笑しい。


『ソフィーレンス君さ、………。

 ――――。………………』

『どうしたんです? あ、もしかしてちゃんと温まってませんでした?』

『いや、丁度よく温まってる、……』


 そんな状態で用意された夕飯は、たとえ温かな湯気を上げて美味しそうでも、己の好きな糖度に整えられたコーヒーが付いても、ケルッツアには大して魅力的に感じられない。それでも向かいに座るソフィレーナの顔があまりにも嬉しそうで、結局、美味しい、という言葉しか出てこなかった。確かに味は良いものであったしコーヒーも好きな甘さだったので嘘はついていないが、それでもどこか不味く、苦い。


 知恵者の世話をいついかなるときも焼かないと助手失格。その考えは間違っていないとケルッツアは確かに思っている。


 しかし、そのことを今の助手が口にするのは、何故か、どうにも、気に入らなかった。否、気に入らないという感情は強すぎる。それよりは寂しさに、あるいは悲しさに傾いたものが彼の心の隅といわず真ん中に居座り、消えることはない。


 そんな澱を生み出し抱えていることにも疑問を呈しながら、彼は彼女のしまったココアの粉缶とコーヒーを探し出した。コーヒーを引っ張り出そうとして、思い直しココアだけ取り出すと、しゅんしゅんと訴えるやかんの火を止めて一カップにつき匙三杯分を入れる。湯を注ぎ、ティースプーンで緩やかに掻き混ぜて。


僕の役に立たなければ、助手の意味はない、それはそうだ。それは全く、間違っていない。


 そんなことを考えそれでも消えない自身の不快感に、斜め下手を鋭く睨みつけた。それでも、こうして不快なのは、彼女に限ってその助手の有様から外れていると思っているからに他ならない。それは何で?


それは、彼女に付加価値があるからだ。


 自身で組み立てる簡単な疑問に即答し、その付加価値のために特別扱いをしているのだろうと、幾度か巡ったことのある思考にたどり着くと、自然、ケルッツアの口からため息が出る。またここか、という言葉を飲み込み、天井を見上げて。


 ソフィレーナに付く付加価値は、絶対記憶脳などという世にも稀なる脳の保持者であるということと、優秀な助手であるということの二点である。この二点は、知恵者にとって非常に利用価値の高いものだった。なにせ溜め込んだメモリーを瞬時検索、それを自動でやってくれる機械が独自に意志を持ち、動き、欲しい情報を給料という糧と引き換えに提供してくれ、その他知恵者が心地よく仕事、生活できるようにとの世話まで焼いてくれている状況に近しいのであるから、便利だと思わない方が可笑しいというもの。


 よく、彼女の頭を撫でたりするのも、触り心地が大変良くて癖になっているからで、それもまた、心地のよさという観点で付加価値、利用できる知恵者の利益に換算される。助手の笑顔もその例外ではない。


 これらの点を考慮し、メンテナンスの一環で特別扱いしている、との考えが自然であることは、ケルッツアには一目瞭然のことのように思え、事実、そうだった。


 と。

 言い切れれば良いものをしかしここでまた、彼に疑問が生じる。


 付加価値を認めて特別扱いをしているのならば、逆を言えば、その価値がなくなったら用無しになる。根拠が崩れれば理論は立ち行かない。理由が崩れれば式は成立しない。彼女に付く付加価値は、知恵者の助手における特別扱いの根拠であり、理由だった。

 その付加価値がなくなれば当然、自分は彼女を特別扱いの枠から外すだろうと。


だって外さないと、可笑しいことになるじゃないか。


 結論は至極簡単に、彼の中で竹を割ったように導き出されている。

 しかし、その思考を選んだケルッツアの顔は駄々っ子のように不快そう。それは、その結論に納得がいかないという証拠であり、その解が間違っていると訴えかけるケルッツアがいるということに他ならない。


何の役にも立たなくなったソフィレーナさんを、僕は?


 そこで彼の思考はいつも行き詰まる。ただ単に、付加価値のないソフィレーナを切るのか否かだけならば、答えはこれまた簡単に導き出されていた。いついかなるときも。


いいや……。切り捨てない。傍に置く。


 先ほど積み上げてきた理論が崩壊する答えが出るということは、先ほどの理論に決定的な間違いがあることを指している。では、どこが間違っているのか。

 また、利のないソフィレーナを傍に置いて、自分は何をするつもりなのか、利のない彼女に何を?

 傍に置くということを望むということは、そうしたいメリットないし何かを僕は彼女に見出しているということになる。それは何だ? 付加価値を失った彼女に、僕は何を要求するつもり?

 それともただ単に情が移っただけだろうか。でも……。ケルッツアはその疑問を考えて、考えて、ぐるぐるぐると考えて。


 ふと、目の前のカップがぬるくなっていることに気がついた。


 酷い失態を犯したときの不快感が彼の中で鎌首を擡げる。ぬるく冷めたココアほど不味いものもない、とソフィレーナがいつも冷ましてしまったココアを不快そうに飲み干していたことを思い、彼はカップに蟠るその液体を迷うことなく流しに捨てた。


馬鹿だ。こうしている間にも、彼女の目覚めは迫っているのに。


 やかんに残っていた湯に新たに水を入れ、そつなく火にかける。

 起きたときに温かな飲み物が用意されていると、気分も落ち着いて穏やかな気持ちになる、と、経験からケルッツアはどうしてもそんな飲み物を彼女に用意したかった。それは、彼女の心を落ち着け、安堵させたいからに相違なく。


僕は何故、彼女に対してこうも躍起に?


 同じ思考の堂々巡りにまた迷い込む前に知恵者は一つ乱暴に息を吐き出した。カップを綺麗に洗い、水を切って、それも終わると肩の力を抜き、首を回してしばしストレッチのようなことを繰り返す。

 そうしている間に、やかんのぬるま湯は見る間熱湯へと変わっていき、ああ、もしかして。と。

 カップにまた三杯ずつ砂糖交じりのココア粉を入れながら、ケルッツアは頭の片隅で考えた。もしかして、利を失ったソフィレーナを傍に置く理由は。彼女に願うことは。


元に戻って欲しい。利の復活を、付加価値の復元を、願い、要求し。

…………。僕自身でも、彼女の付加価値を蘇らせようと、するのかもしれない。


 やかんの湯をカップに注ぎ、洗ったティースプーンでまた、くるくるとカップの中の水面に渦を作って。


ならばその暇を惜しまないほど、今の状況が僕にとって心地よいということになる。

でもその手間は恐らく半年や一年などという短期間ではないだろう。そこまでしてかつての助手の付加価値をまた得たいと僕は思うのだろうか? でも、どうして……。


 などと、最後は投げやりに思考を打ち切った。


 解は出ない。

 ケルッツアは助手に対する自身の特別扱いの理由にまだ、答えを出せずにいる。


 立ち上るココアの湯気が勢いを殺す前。詮無い思考を応接室に捨て去った知恵者は二つのカップを両手に、その部屋のドアノブを腕で捻り押し開け、カーテンを通してうっすらと光の差し込む日の昇る前の展望部屋へと歩み出た。

 そのまま、ここからは衝立で見えないお気に入りのソファーへと進んでいき、光の度合いがやや低いことに今日は曇りか場合によっては雨だろうか、と。ふと進路変更。カーテンの合わせ目から外が曇っていることを確認。部屋に向き直ると、お気に入りのソファーで眠る助手の傍に。


 白い馬を見つける。


 鋭く息を飲み込んだケルッツアに、白く毛の長い、額に角のある馬は気づいた様子もなくソフィレーナを見ていた。

 いつからいたのか、応接室の扉からお気に入りのソファーは、パソコンを置いてある机を囲むようにして取り付けられている衝立の陰で見えないためわからないが、物理的に馬が展望部屋に自力で辿り着く可能性は低く、この島に馬が持ち込まれたという話も生息も聞いては。

 何より。


あんなモノ、コチラの世界には存在。


「……ノ」

 紡ごうとした言葉は、瞬時振り向いた馬の鋭い眼光に遮られる。

 両肩に少しずつ圧力が掛けられてゆく感覚に足を踏ん張り、彼はその翡翠に輝く両目をひたと睨み据え。


『わたしたちの"くらいあんと"よ。とてもつよい、はらいのことばをおしえます。

 これは、あいてのそんざいをみとめないことば。

 もし、わたしたちがそばにいないときに、あぶない目にあったら、このことばを、できればあいての目をみながらとなえてください。

 あいてがきえるまで、かならず、かならずとなえつづけていてください』


 彼に術をかけた双子の片割れ、黒髪の男の子の声がケルッツアの中に突如浮上する。

 その声に従って払いの言葉と教えられた単語を十回ほど繰り返したか、唐突に、掛かっていた一切の無理な圧力は消え去り、次の瞬間には白い馬の姿まで消えていた。

 しかし、存在しないはずのものを撃退した彼の表情は芳しくない。去来する、むこうで因縁をつけてきた動物相手に睨めっこした状態を保ったまま短くて百回、長ければ千回近く言葉を唱えてはじめてその相手が消えるという、疲れた古めかしい記憶は今、彼にどうしようもない違和感を抱かせている。


こんなに、簡単に退くはずがない。じゃあ、何故……?


 いくらこの世界でルールがつけられているとはいえ、あっけなさ過ぎる。いぶかしむ彼の耳にふと、不明瞭で意味の伴わない声が届き。


 唐突に、否、白い馬を見たときからわかっていたことだろうか。ケルッツアに理解が落ちた。馬が消えたのは。


 背筋に氷を押し付けられたような感覚が酷い。

 曇り空、結界により雨の降らない早朝、ウィークラッチ島国立図書館最上階展望部屋は、分厚いカーテンがほとんど光を遮ってしまうために酷く暗かった。

 闇になれた知恵者の瞳は、お気に入りのソファーにあったまろやかな丘陵が緩慢に動き、わずかに辺りを見回す動作を捉えている。

 彼女は、目を擦りながら、右下を見て、左下を見て。


「……。……けるっつあ、……ど……?」


 呟かれた声は浮ついていながら頼りなく、聞くものを不安にさせるような響き。ケルッツア・ド・ディス・ファーン、と。ソフィレーナだけが使う呼び名が途切れがちに小さく囁かれ、返事がないと知るとソファーの上の影が大きく動く。

 もう一度。


「……ケルッツア・ド……ディス・ファーン……?」


 その声は少し大きめに発されたが、辺りを不安げに揺らして消えていった。

 ケルッツアは声を出そうとして、出せない。それは彼女を観察していたい訳ではなく、彼女の目覚めに驚いたからでもなく、勿論、不安がる様子を面白がっている訳でもなかった。どころか、目覚めてすぐに己を探す、その酷く不安げな姿に一刻も早く声をかけ安心させたいと。


 しかし声は出ない。息の音と心臓の響きだけが彼の中で出口を求め、逆巻き渦巻いていた。指の一本ですら動かせない異常事態に、ケルッツアは苦しそうな表情で斜め下手を眇め睨むと自由になる視線だけでも逸らさない。

 ソフィレーナはソファーから完全に身を起こし、立ち上がろうとしていた。硬く張り詰めた雰囲気を漂わせ、左右に視界を広げている。

 胸の前に寄せられた白い手が厭に小さく、頑なに握りこまれている。まるで迷子のようだ、そんなことを彼が苦しい胸のうちで思った矢先、少し遠くに視線を投げたか、綺麗な声が、あ、と響いた。


 互いの視線は絡まり、闇にほの浮かんだ白い顔は、そっと、縋るような笑みを浮かべ。

 すでに、ケルッツアの金縛りとも言うべき状態も、部屋に張り詰めていた緊張感も解けている。


「あ、ああ。……ごめんね、おはよう。そふぃ、ぃ……ん」


 自由になった手足を動かし、動揺と苦い確信を振り払って知恵者は助手の呼び名もあやふやに、余裕のある歩みで、しかし少し性急さの感じられる歩幅で彼女に近寄った。


「いいえ。……おはようございます、ドクター。

 ……考え事でしたか?」


 彼を迎える助手の声は明るい。彼女は、助手用の椅子に腰掛けようとして知恵者に先を越され、仕方なしまたソファーに腰を下ろし、笑みを浮かべていた。

 その表情の硬さと、知恵者の視界からは見えない場所で震えている手、両腕に見る強張りがばれていないと思っているのだろうか。ケルッツアはそんなことに内心苦虫を噛み潰し、表情と声ばかりそ知らぬふりをして、貼り付けた笑みのソフィレーナに。


「うん? うん。ちょっとね。……よく眠れた?」


 はい、という声は少し大きく、辺りを一瞬静まらせたが。

 構わず、彼女は次々と言葉を連ねていく。


「こんなにいい場所を貸していただいてるんですもの。よく眠れない方が可笑しいですよ。

 それより、ケルッツア・ド・ディス・ファーンこそよく眠れました? 私なんかにここ貸し出しちゃって良かったんですか? 後悔していません?

 って、まさか床で眠ったなんてことはないですよね!?

 それは困ります!

 助手ばっかり元気でも肝心の知恵者が元気じゃないなんてそんな馬鹿なことはありませんもの!

 私が眠る前も起きてらっしゃいましたし今も起きてらっしゃるし私はもう十分休みましたし平気ですから、どうぞ今からでも睡眠を」


 一歩間違えば喚きにすら変わりそうな言葉の羅列は、知恵者の顔をどんどんと歪ませていくが、ソフィレーナはその顔を網膜に映していて尚、彼の苦渋に気づかない。起き抜け一番にケルッツアの姿を探した迷子は、目当ての人物を見つけたと同時、確かに泣きそうな笑みを零していた。

 その縋るような表情を見ている彼は、彼女の発言が単なる強がりだと見抜いている。そんなケルッツアにとって、ソフィレーナの、から元気、貼り付けたような笑みはひたすらに辛いものだった。もう少し自分を信用して欲しい気持ちと、言い得ない歯がゆさ。それから。


 抱く苦い心情は、やがて静かな憤怒に変わる。


9月2日の21:40に次話更新します。

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