第九十九話 食糧便を継ぐ者
ラトナ村へ戻る前に、診療所から三日目の残量報告が届いた。
橋の修理は一日延びたが、若い御者の交代便が予定どおり粉を補い、診療所には引き続き二日分が残っていた。
医師は子供の治療を続けている。
俺はその報告を若い御者の名前で記録し、自分の手柄にはしなかった。
北方からも知らせが届いていた。
十日後の照合で、農家の納付控えと元倉庫番の証言が一致した種麦は農民の所有と正式に確認され、領主の異議はその部分について退けられた。
出所を確認できない袋は引き続き封印し、王宮軍の未払代金は別件として審理する。
ハンナは
「勝ったのは紙じゃない。種を蒔く日を諦めなかった人たちよ」
と伝えてきた。
畑にはもう、細い緑の芽が出ているという。
ラトナ村へ戻った俺は、共同倉庫の前で見慣れない列を見つけた。
並んでいたのは食料を受け取る人ではない。
食糧便で働きたいという若者たちだった。
かつて最初の配達表を書いた少年が、今は彼らに地図の読み方を教えている。
少年は名前をカイトと名乗り、帳簿の端に自分の字で『運ぶ前に確かめること』と書いていた。
「道が通れるか。受取人がいるか。代わりに届けられる人はいるか」
俺は教室の隅で聞いていた。
カイトは一つだけ、教え方を間違えた。
倉庫の残量を見て、足りなければ出発しないと言ったのだ。
「足りないときこそ、何が必要か聞くんだ」
俺が口を挟むと、カイトは顔を赤くした。
「それ、前に俺が言われたことだ」
壁の地図には、北方で修理中の橋とは別に、今朝、近隣の谷で落ちた小橋を示す赤い印が加わった。
教室にいた若い御者が、その印を指さして尋ねた。
「食料が足りなければ、どの村を先にするんですか」
カイトは答えに詰まった。
「人数が多い村、かな」
ハンナが首を振った。
「人数だけじゃない。水がない村と、麦を煮る鍋がない村では、必要なものが違う」
俺は口を挟まずに聞いていた。
教える側が迷うことも、学ぶ側が問い直すことも大切だった。
訓練の便には、いつもより少ない食料を積んだ。
失敗しても被害が小さいように、という理由だけではない。
一つの袋を誰に渡すか、判断の重さを知ってほしかった。
カイトは受取人の名前を読み上げ、出発前に道の状態を確認した。
俺は最後尾の荷車に乗った。
「今日は指示しないんですか」
「聞かれたら答える。でも最初の判断はお前たちだ」
カイトは緊張した顔で手綱を握った。
村へ着くと、届け先の家は空だった。
窓には板が打たれ、庭の井戸も使われていない。
新人の御者は荷物を置こうとした。
「住所は合ってます」
「受け取る人がいないのに、置いていけない」
カイトは止めた。
隣家を訪ねると、受取人は洪水で避難所へ移ったという。
避難所には別の便が届いていた。
「じゃあ、この袋は余りだ」
新人が言った。
「余りじゃない。まだ行き先が決まってないだけだ」
カイトは村の共同倉へ向かった。
共同倉の管理人は、受け入れを拒んだ。
「勝手に置かれても困る。数が合わなくなる」
カイトは顔を赤くした。
今までなら俺を呼んでいただろう。
だが彼は荷車へ戻り、配達表を開いた。
元の受取人と、避難先の責任者に確認を取る。
そのうえで管理人と受領書を作り、数量と変更理由を記した。
時間はかかった。
それでも荷物は誰のものか分からないまま放置されずに済んだ。
帰り道、新人が言った。
「失敗したと思いました」
「俺もだ。でも、勝手に置かなかったのはよかった」
カイトは笑った。
俺はそこで初めて口を開いた。
「次は避難所へ行く前に、共同倉の管理人にも連絡しておこう」
カイトは頷いた。
「次の便の人に教えます」
その言葉が、俺には何より嬉しかった。
夜、ミラが新しい配達表を見せた。
署名欄には複数の名前が並んでいる。
俺の名は、その一つにすぎない。
「寂しい?」
とミラが尋ねた。
「少し。でも、ずっと俺一人で運ぶ方が怖かった」
カイトが封筒を持ってきた。
フェル村の少年の母親からの手紙だった。
『次の子に、ちゃんと届いたと聞きました』
俺は何度も読み返した。
救えなかった人の記憶が、次の誰かを救う力になっていた。
翌日の教室で、カイトは昨日の失敗を隠さず話した。
「届け先の家が空で、俺は一度、勝手に共同倉へ置こうとした」
新人たちがざわめく。
「それでどうしたんですか」
「受取人と管理人に確認した。時間はかかったけど、誰の荷か分からなくならずに済んだ」
カイトは黒板に
「届け先が変わったら確認する」
と書いた。
新人が尋ねた。
「誰にも会えなかったら?」
彼は訓練用の麦袋を棚に置いた。
「勝手に配らない。安全に預かって、待つ人へ遅れを知らせる」
新人たちは御者役と受取人役に分かれ、伝言が途切れたところからやり直した。
俺は教室の後ろで、答えを言わなかった。
その夜、ハンスが新しい荷車の車軸を見せに来た。
「俺が倒れても直せるように、図面を残した」
ミラは帳簿の写しを何冊も作っている。
リオは水路の便を若い船頭に任せ始めた。
ハンナは種麦の管理を村の女性たちへ教えていた。
俺は一人ずつの仕事を思い浮かべた。
自分の保存倉庫は、相変わらず五百キロしか入らない。
それでも運べる食料の量は、初めて村へ来た日よりはるかに増えていた。
誰かが自分の役割を手放しても、仕事が続く。
その当たり前が、長い旅の中で一番難しかった。
出発前、カイトは新人たちに言った。
「間違えたら、隠さず帰ってこい。次の便が困るから」
俺はその言葉を聞いて、初めてトトを村へ連れてきた日のことを思い出した。
あのときは一人で荷を抱え、何もかも自分で決めようとしていた。
今は、違う判断をする人が何人もいる。
俺が間違えても、誰かが気づく。
誰かが倒れても、次の人が道を知っている。
カイトが戻ったら、最初に聞くのは
「正解だったか」
ではなく
「待つ人に何を伝えたか」
にしよう。
俺は古い配達表の裏へ、その問いを書いた。
翌朝、カイトが持ってきたのは新しい配達表ではなく、俺の署名欄を消した帳面だった。
「今日から、俺たちだけで判断します」
胸が冷えた。
俺がいなければ間に合わない村を、何度も見てきたからだ。
「間違えたらどうする」
「戻って報告する。隠さない。けれど、出発するかどうかまでタクトに決めてもらったら、いつまでも俺たちの便にならない」
俺は反論しかけた。
昨日の避難先変更だって、連絡が遅れれば食料が傷む。
橋の水位が上がれば、若い御者が命を落とすかもしれない。
ミラが差し出したのは、カイトたち自身が書いた三つの約束だった。
増水した橋は渡らない。
届け先を変えるときは確認する。
連絡が切れたら引き返す。
「タクトがいなくても動けるようにする。だから、タクトがいたときより無茶をするわけじゃない」
俺は署名欄のない帳面を返した。
「分かった。今日の判断は任せる」
荷車が門を出たあと、俺は反射的に追いかけそうになった。
けれど足を止めた。
夕刻、帰ってきたのは荷車ではなく伝令だった。
増水で道を変え、到着が一日遅れるという。
俺は
「すぐ迎えに行く」
と言いかけた。
伝令は続けた。
「カイトからです。『増水した橋は渡らず、安全な場所で待機する。受取人には別便で遅延を知らせた。明朝、迂回路と水位を確かめる』」
俺はようやく椅子に座った。
不安は消えない。
それでも、待つ人へ知らせるところまで彼らは自分でやり遂げていた。
翌朝、カイトたちの便は安全な道から村へ着いた。
受領書には遅延の理由と、食料を受け取った人の名前が残されていた。
俺が受領書を閉じると、カイトが戻ってきた。
「次は俺が留守番をする。別の御者に判断を任せたい」
俺は地図を机の真ん中へ広げ、彼が指した迂回路に目を落とした。
「任せる相手にも、引き返す権利を渡そう」
とカイトが言った。
俺は頷いた。
あの日、王宮で認められなかった力が、いま誰かに判断を譲る力になっていた。




