第九十八話 五百キロの使い道
北方から戻る途中、俺たちの隊列は崩れた吊り橋の前で止まった。
対岸の診療所では、乳児用の粥と薬草が尽きかけている。
橋の修復には三日。
川は増水し、船を出せない。
保存倉庫には、食料が四百八十キロ残っている。
俺なら対岸へ渡れれば食料を出せる。
だが渡る方法がない。
村人は古い索道を指さした。
人は乗れないが、小さな荷物なら滑車で送れるという。
「一度に何キロ?」
「二十キロが限界だ」
俺は倉庫から食料を出しかけたが、バルクが止めた。
「縄が傷んでいる。今も耐えられるとは限らない」
雨で濡れた縄を見て、俺は手を引っ込めた。
先に索道の状態を調べ、医師から必要な品目を確かめる。
焦りを抑えることから、救援は始まった。
対岸の窓で白い布が振られた。
「何人いる?」
俺が叫ぶと、医師は指で人数を示した。
乳児と衰弱した子供がいる。
今夜必要なのは、少量ずつ調理できる粉と飲み物だった。
だが川幅は広く、声も途切れ途切れにしか届かない。
村の老人が古い索道の小屋を開けた。
滑車は錆び、縄には毛羽立った部分がある。
「昔はこの滑車で向こう岸へ麦を送った。だが今は支柱まで傷んでいる」
バルクは首を振った。
「支柱の傾きも確かめよう」
試しに石を入れた袋を吊るし、地面の上で引いた。
縄が軋んだ。
荷重を半分にすると、ようやく滑車が動いた。
俺は川の向こうを見た。
食料が手元に残っていても、壊れかけた索道に命を預けるわけにはいかなかった。
「安全が確認できたとして、何を優先する?」
ハンナが尋ねた。
俺は麦袋へ手を伸ばした。
腹を満たすには麦が必要だ。
だが医師から届いた紙には、別の順序が書かれていた。
『今夜は粉。
薬草は先。
水と薪はこちらにある』
俺は麦を戻した。
一度に送れる量が少ないなら、対岸にあるものを運ぶ必要はない。
粉は防水布で包み、薬草は潰れないよう小分けにした。
一袋ごとに、誰が受け取るか名前を書いた。
最初の本番で袋は川の真ん中に止まった。
バルクが縄を引くと、支柱がわずかに傾いた。
「戻す!」
俺は叫んだ。
対岸から医師の声が届く。
「待てない子がいる!」
俺は拳を握った。
自分が飛び込めば、何かが変わるような気がした。
だが水は速く、橋はない。
「飛び込むな」
とハンナが言った。
「ここで倒れたら、次の袋も送れない」
老人は滑車の位置を見て、支柱にかかる力を減らす方法を示した。
バルクは荷を地面に下ろしてから補助の縄を張り、少量の荷で改めて点検した。
支柱の傾きは収まらなかった。
だが対岸の医師が必要だと知らせた粉だけは、先ほどの袋で届いていた。
次の袋を掛けようとしたとき、縄の傷がさらに開いた。
バルクは即座に作業を止めた。
「これ以上は危険だ」
俺は対岸の窓を見た。
小さな明かりが灯っている。
あの光を消したくない。
それでも、無理に送れば索道が壊れ、明日以降の便も失われる。
夜、医師から合図が届いた。
最初の袋の粉で粥ができ、何人かの子供は口にできた。
ただ、一人はまだ飲み込めず、医師が付き添っている。
俺は地面に座り込み、初めて息を吐いた。
運びきれない食料は、まだ倉庫に残っている。
だが今夜役に立ったのは、ほんの数袋だった。
ハンナが言った。
「残りは橋を直すか、安全な迂回路が見つかってから運ぼう」
「そうだな。次の便までつなげる」
二人は修理用の木材と職人の手配を始めた。
能力の強さではなく、届くまでの手順が命を救った夜だった。
翌朝、職人は傷んだ索道を使用禁止にした。
「支柱が持たない。次に動かせば、人が巻き込まれる」
橋の修理には木材が要る。
俺の保存倉庫には食料と飲み物しか入らないため、ハンスが荷車で材木を運び、職人たちが交代で基礎を組み直すことになった。
対岸から医師の追加報告が届いた。
粥を飲み込めなかった子は、夜明けに少量の水を口にできたが、医師は無理に食べさせず経過を見るという。
バルクは裂けた縄を切り離し、職人が誤って滑車を動かさないよう支柱に使用禁止の札を結び付けた。
俺は医師へ、粉の残量と橋の修理を待てる日数を尋ねた。
対岸では近隣の村から穀物を分けてもらえる見込みだという。
足りない粉だけを急ぎたいが、危険な索道を使う以外の方法を探してほしいと返事が来た。
その子の名前は、医師が送ってきた紙の一番下に書かれていた。
俺はその紙を畳まず、若い御者にも見せた。
「食料があるからといって、危ない道を通っていいわけじゃない。君ならどうする?」
若い御者はすぐに答えなかった。
職人の工程表と対岸の残量を見比べ、村へ使者を出して穀物を融通してもらうこと、診療所へ不足する日を先に知らせること、橋が通れるまで索道を使わないことを提案した。
「その間に子供の具合が悪くなったら?」
「医師から知らせてもらう。ほかの安全な道も探す。でも壊れた縄に命を預けない」
俺は頷いた。
自分の倉庫にある食料の量だけを見ていたら、思いつけなかった答えだった。
若い御者は使者に渡す手紙を自分で書き上げた。
危険な索道の再使用を求める者にも、使用禁止の理由を説明した。
橋の修理予定、診療所の粉の残量、代替の陸路便の連絡先が並ぶ。
俺は数量だけを確かめ、署名は彼に任せた。
「足りなくなる前に医師へ届けます」
「頼んだ」
夕方、医師から連絡が来た。
若い御者の使者を受けた近隣の村が、粉を二日分、迂回できる陸路で診療所へ届けたという。
診療所にはこれで三日分の食料が確保された。
若い御者は、橋が三日で直らない場合に備え、近隣二村の炊事係と交代の陸路便を決めた。
医師から毎朝届く残量が二日分を下回れば、予備の粉を持つ村が一日分を追加する。
迂回路が塞がれば出発を中止し、もう一方の村へ知らせる。
どちらの村も自分の食卓を空にしない量を残すと確認した。
医師は、まだ粥を十分に飲み込めない子には無理に食べさせず、状態を見ながら処置を続けると伝えた。
対岸で毛布をかけた子供は、まだ食事を十分に取れない。
それでも声をかけると、ほんの少し指を動かした。
若い御者はその合図を見て、明日の連絡時刻を自分の帳面に書き込んだ。
翌朝、若い御者は近隣二村の炊事係を橋の手前に集めた。
片方の村は自分たちの子供の分を残す必要があり、もう片方は雨で迂回路がぬかるんでいた。
「どちらかが無理をする計画なら、続きません」
彼は医師の残量報告を読み上げ、二村が交代で届ける量と、出発を中止する雨量の目安を地図に書き込んだ。
村の女性が尋ねた。
「途中で馬が倒れたら、誰に知らせるの?」
若い御者は答えに詰まり、俺を見る。
俺は黙っていた。
やがて彼は、峠の手前の農家を連絡所にし、使者が戻らない場合は救援便の詰所から確認に出ると提案した。
農家の主人が
「それなら見張れる」
と引き受けた。
対岸から伝言が届いた。
昨夜まで粥を飲み込めなかった子が、医師の見守る中で少しだけ口にできたという。
まだ熱は下がらない。
若い御者は喜びかけてから、次の診察の時刻を確認した。
「次の便は君に任せる」
と俺が言うと、彼は首を横に振った。
「俺一人では決められません。医師と村の人たちが、毎朝決められるようにします」
俺は倉庫の残量表示を閉じた。
四百八十キロの食料があっても、川を越える判断まで魔法がしてくれるわけではない。
若い御者が最初の伝令を送り出す。
橋はまだ壊れている。
それでも対岸の灯りを守る道は、一本ではなくなっていた。




