第百話 誰も飢えない明日のために
会議の前夜、王都から衛兵長の審査結果が届いた。
門前で証人を守った判断は正当な緊急保護と認められ、命令違反による懲戒は行わない。
ただし、拘束保留を記録する手順には不備があったとして、衛兵隊全体に新しい記録訓練が命じられた。
衛兵長は自分だけの免責を求めず、あの日証言した若い部下も訓練の場に立つと返事を寄こした。
俺はその紙を受領書の間に挟んだ。
審査結果の紙をしまってから、俺はラトナ村の古い井戸を訪ねた。
最初に来たころは水が濁り、汲むたびに泥が舞っていた。
今は修理された蓋があり、当番表が掛けられている。
「ここも、誰かが直してくれたんだな」
隣でミリが頷いた。
「ハンスのおじさんと、村のみんな」
ミリは以前より背が伸びていた。
あの日、種麦の袋を抱いていた小さな手は、今では井戸の記録を書いている。
「今年のパン、ちゃんと焼けたよ」
俺は笑おうとして、うまく声が出なかった。
ミリは井戸の当番札を一枚外し、まだ名前のない欄を指さした。
「来月からは、私が記録する番なんだ」
以前なら自分で書き込んでいただろう。
今は鉛筆を渡すだけにした。
ミリは水位を測る縄の結び目を確かめ、誰にも促されず数字を書いた。
小さな記録だった。
それでも、その一行を自分以外の誰かが残せることが、今日の会議で決めようとしていることの答えに思えた。
ラトナ村の広場に、各地から荷車が集まった。
祝宴ではない。
大陸の食糧便が初めて開く、公開の配達会議だった。
王国の役人、敵国の救援隊、農家、船乗り、医師。
かつて互いに疑い合った人々が、同じ地図の前に立っていた。
俺は会議の冒頭で、一枚の古い配達表を掲げた。
最初にラトナ村へ運んだ食料の記録だった。
空欄だらけで、字も乱れている。
けれどあの日、目の前の誰かが食べられたことだけは確かだった。
「俺の能力は、食料を五百キロまで保存できるだけです。作ることはできません。飢饉も止められません」
会場が静かになった。
「だから、食べ物を作る人、運ぶ人、受け取る人が必要でした。今も必要です。今日ここで決めたいのは、俺がいなくても食糧便を続ける方法です」
ミラが新しい規約の要点を読み上げた。
共同備蓄の数字は公開する。
緊急輸送は現場が判断し、あとで監査する。
種麦と救援用の食料は分けて管理する。
国境を越える便には双方の受領書を残す。
配達が遅れた理由を隠さず、次の便に生かす。
しかし和やかではない。
輸送費の負担をめぐって、開始前から声が荒れていた。
「我が国の馬を使うなら、こちらの村を優先すべきだ」
「国境の向こうに飢えた子がいてもか」
俺は二人の間へ割って入らなかった。
代わりに、地図の上へ空白の札を置いた。
「まず、食料が届いていない村の名前を書いてください」
札はすぐに埋まった。
争っている間にも、待っている人がいる。
その事実だけは、誰も否定できなかった。
読み上げが終わると、王国の役人が異議を唱えた。
「現場に任せれば、勝手に備蓄を動かす者が出る」
「出るかもしれません」
俺は答えた。
「だから受領書を残し、後から監査する。ですが許可が届くまで食料を止める制度には戻せません」
敵国の隊長も立った。
「こちらも同じ監査を受ける。違反した便は国境を越えさせない」
「では、誰が損失を補償する?」
答えは簡単には出なかった。
輸送中の事故、盗難、橋の崩落。
一つずつ負担を決めなければ、規約は立派な紙のままで終わる。
昼過ぎ、カイトが発言を求めた。
「俺たち若い御者にも、決める席をください」
年長の商人が笑った。
「お前たちに何が分かる」
「荷車が止まったとき、誰に知らせればいいかは分かります」
カイトは配達表を掲げた。
そこには失敗した便の記録も、変更した受取先も書かれていた。
「偉い人が決めるまで待てと言われたら、また届かなくなる」
会場が静かになった。
俺はカイトを見た。
自分がいなくても、同じ疑問を口にする人が育っていた。
夕方、全員一致にはならなかった。
輸送費の分担は試行期間を設け、盗難の補償は次回までに共同基金の案を作ることになった。
決まらなかったことを、決まったふりはしない。
それでも緊急輸送を止めないという一点で、参加者は署名した。
国王の使者も、敵国の隊長も、村の代表も。
俺は最後に署名し、ペンをカイトへ渡した。
「次の便は任せた」
広場の端で、トトが笑っていた。
初めて出会ったとき、彼は空腹で立てなかった。
今は新しい御者に道を教えている。
「お兄ちゃん、あのときのパン、覚えてる?」
「硬くて、湯でふやかしたやつか」
「うん。あれが、すごくおいしかった」
俺は頷いた。
五百キロの倉庫では、世界中の飢えを消せない。
だが一つの食事から始まった道は、もう自分の手を離れて伸びている。
会議が終わった日の夕刻、カイトの荷車は北へ向かった。
俺は追いかけなかった。
荷車の車輪が遠ざかると、ミリが俺の袖を引いた。
「あの人たち、帰ってくるよね」
「帰る予定だ。でも道が崩れたら引き返す。その判断も、もう俺が代わりにしなくていい」
ミリは少し考え、出発表の
「帰着確認」
の空欄を指でなぞった。
「戻ったら、ここに丸をつけるね」
俺はその印がつくまで、村の仕事を続けようと思った。
荷車を見送って広場へ戻ると、ミラが古い配達表を俺へ返した。
「これ、どうする?」
「新しい帳簿の一番前に挟んでおいてほしい」
「失敗も多い記録だよ」
「だから残したい」
最初の便では、配り忘れそうになった老人がいた。
次の便では橋が壊れ、食料を渡せなかった。
救えなかった村もある。
それでも記録が残ったから、別の誰かが同じ失敗を避けられた。
俺は紙の端を指でなぞった。
同じ夕刻、ミリは次の北の村便へ送る豆袋の口を結び直していた。
「昨日、うちの畑から持ってきた豆だよ。荷車が戻ったら次の便にも積むんだ」
俺は袋の送り先を確かめ、彼女に受領欄を示した。
ミリは自分の字で村の名前を書き込んだ。
会議の翌朝、北へ出たカイトの便から早馬が戻った。
峠の手前で小橋が崩れ、荷車三台が足止めされたという。
会議で決めたばかりの規約が、最初の日から試される。
俺は地図を取ろうとしたが、カイトが添えた報告書を読んで手を止めた。
『食料は無事。
迂回路は村の人に確認中。
現場で決め、到着時刻を知らせます』
ミリが広場へ走り、北の村へ向かう別便の御者を集めた。
トトは古い配達表を開き、使える渡し場に丸をつけた。
「こっちの道なら、荷車を一台ずつ渡せる」
とトト。
「全部は無理。先に病人用の麦を運ぼう」
とミリ。
二人は意見を交わし、現地の橋番へ伝令を出した。
俺の返事を待つ者はいなかった。
昼過ぎ、カイトから続報が届いた。
村人の案内で軽い荷車一台を渡し場へ回し、残る二台は安全な場所に留めた。
運べなかった麦も、隠さず次便の記録に残してある。
夕方、北の村から受領書が届いた。
先に運べた麦で老人たちに粥が配られ、届かなかった分は翌日の予定として村の掲示板に残された。
「全部、運べたわけじゃないんだね」
とミリ。
「ああ。でも、誰が次に運ぶかは決まってる」
トトは翌日の便を担当する御者に迂回路を伝えた。
俺は何も指示しなかった。
会議から二日後の朝、北の村を発つ前にカイトが一台の荷車を止めたという報告が、先行する伝令から届いた。
車輪の留め具が緩んでいたのだ。
かつてなら俺が先に駆け寄っていた。
だがその場では、隣の若い御者が工具を借りに走り、現地の連絡係が届け先へ遅延を知らせた。
直った車輪を確かめてから、カイトが出発の合図を出した。
俺の保存倉庫に頼らず、荷車は安全な帰路へ向かった。
その夕方、カイトの荷車がラトナ村へ戻った。
ミリは御者たちの顔を一人ずつ確かめ、受領書を受け取った。
『明日の便は、若い御者たちが迂回路を調べて決めます。
相談が必要になったら連絡します』
ミリは帰着確認欄に丸を付け、カイトの追伸を次便の担当者へ渡した。
翌朝、トトは新しい便の荷札を若い御者へ渡した。
整備を終えた荷車のそばで、ミリは送り先を読み上げる。
若い御者は車輪を一周して確かめ、荷札を胸元へしまった。
「行ってきます」
俺は頷いた。
許可を求める声ではなかった。
トトが鐘を一度鳴らす。
初めて俺がこの村へ食料を運んだ日と、同じ音だった。
俺の保存倉庫は閉じたまま。
荷車は村の道を進み、角を曲がって見えなくなった。
道の向こうで、別の荷車が村へ帰ってきた。
若い御者はそれとすれ違い、道を譲ってから進んでいく。
俺は二台の車輪が残した轍を見つめた。
もう誰も、俺の合図を待っていなかった。




