第九十一話 差し押さえの朝
王宮の門をくぐった俺は、槍を持つ衛兵より先に、門番の足元に置かれた弁当箱を見た。
蓋は開いていたが中身はない。
「朝飯は?」
と尋ねると、門番は顔をしかめた。
「昨日から配給が半分です。王宮の中でも」
差し押さえ命令を出した宰相ラウゼンは、長い机の向こうで俺を待っていた。
共同備蓄を王室の管理下へ移す。
輸送は許可制にする。
違反すれば荷車と倉庫を没収する。
三つの条件が読み上げられた。
「備蓄を隠していると思うのなら、帳簿を見てください」
俺はミラの写した数字を置いた。
「村ごとの残量は毎日公開しています。王宮にも同じものを届けています」
「公開したからこそ、略奪の標的になる」
と宰相は言った。
「各領主が勝手に輸送を始めれば、軍の食糧が尽きる。国境を守る兵が飢えれば、百万人の食卓など一夜で消える」
宰相の執務机には、戦場から戻った兵の報告も積まれていた。
「国境の砦では三日も粥だけだ。お前の公開帳簿を見て、村の倉庫へ兵が押しかけた例もある」
ラウゼンは書類の端を押さえた。
俺は初めて、宰相が単に権力を守ろうとしているだけではないと理解した。
だが軍を守るために村の輸送を止めれば、兵の家族が飢える。
「軍用の必要量を先に示してください。村から取り上げる量ではなく、実際に食べる人数と日数を」
「国家機密だ」
「なら公開するのは合計だけでいい。監査する人は王宮と村から一人ずつ選ぶ」
宰相は答えず、机の上の差し押さえ命令を指で叩いた。
「期限は今夜だ」
地下倉庫へ向かう階段で、ミラが小声で言った。
「このままでは王宮に入る荷車だけが増えて、村へ戻る荷車が消える」
「まず王宮側の在庫を確認する。差し押さえの根拠にされた数量が本当か、立会人の前で確かめたい」
宰相が認めた臨時の立会検査で、兵站官は袋の列を誇らしげに見せた。
「封印は全部無傷です。王室の検査を受けています」
俺は一袋を持ち上げた。
軽い。
指で押した感触が、穀物の粒ではない。
倉庫番が顔を強張らせる。
「勝手に開ければ軍法違反です」
「兵站官の許可と立会記録を取ってください。中身が麦なら俺が謝る」
ミラが日付を記録し、兵站官が封印を切った。
乾いた砂が床にこぼれた。
誰も声を出さなかった。
軍を守るはずの封印が、空腹を隠す蓋になっていた。
倉庫番は泣きそうな顔で言った。
「俺は毎朝、封印の数を数えた。袋の重さまでは命じられていなかった」
「あなた一人に責任を押しつけるつもりはありません」
俺は袋の並びを見渡した。
砂袋と麦袋が混ざっている。
全部が偽物だと決めつければ、残る食料まで無駄にする。
三人で列を分け、無作為に袋を選んで開けた。
結果は惨憺たるものだった。
兵站官はその場に座り込み、軍に何を配ればよいのかと呟いた。
「今ある麦の量を確定させます。兵と町の配給を別々に止めるのではなく、同じ不足として数えるんです」
ミラは最初の帳簿に『未確認』と書いた。
数字の空白は恐ろしかった。
だが存在しない麦をあることにしておくより、はるかにましだった。
王宮の外では、いつものように配達の鐘が鳴っていた。
俺は止めるよう命じられた荷車の御者たちに、命令の写しを見せた。
「違反して走れとは言えない。だが各村の食料を勝手に王都へ集めることもできない」
御者の一人が尋ねた。
「じゃあ俺たちは、今夜何をする?」
「村へ状況を知らせてくれ。輸送停止が何日続けば危険か、返事を集めてほしい」
荷車は動かなかった。
代わりに走ったのは、空荷の馬に乗った連絡役だった。
止められた道の上にも、まだできる仕事はあった。
王宮を出る前、ミラは偽の封印の形を紙へ写した。
「本物の印は左右対称。偽物は輪の端が欠けている」
「いつから使われたか分かる?」
「まだ。でも古い検査票と比べれば、最初に混ざった日を絞れる」
俺は倉庫番に、封印の型を扱う職人の名を聞いた。
倉庫番は一度口を閉じた。
自分が知る名を告げれば、同僚が疑われると思ったのだろう。
「今ここで決めなくていい。ただ、証拠が消える前に記録だけは残してほしい」
倉庫番は小さく頷いた。
門番に手渡したパンが弁当箱に収まるのを見て、俺は銀貨三枚を握って城を出た日を思い出した。
あのとき自分は、食料があるのに飢える子供を見た。
今は王宮の中でさえ同じことが起きている。
「この国の倉庫を一つに集めたら、守れると思っていたんだろうな」
バルクが呟いた。
「でも一か所で消えたら、全部が止まる」
「だからこそ、村の備蓄を残す必要がある」
俺は差し押さえ命令の期限を見つめた。
今夜、誰かが止めると言わなければ、明朝から何台もの荷車が動けなくなる。
俺は各村への連絡文に、自分の署名を添えた。
責任のない忠告として送るつもりはなかった。
夜更け、門番が連絡役へ小さな紙を渡した。
王宮の倉庫で働く仲間から預かったものだという。
そこには、封印を取り替えた日の当直表が書かれていた。
俺はすぐに犯人を決めつけなかった。
誰かが印を押したことと、誰かが麦を盗んだことは同じではない。
だが偽物が混じった日を探せる。
ミラは紙を受け取り、明朝、印章職人を訪ねると決めた。
王宮の鐘が遠くで鳴った。
止められた荷車の代わりに、調査が動き始めていた。
ミラと当直表を読み直すと、倉庫の封印を確認した時刻と、裏門を通った馬車の時刻が並んでいた。
だが、その一致だけで馬車の中身を麦と断定することはできない。
俺は立会人を呼び、砂の入っていた袋の番号、封蝋の欠けた位置、当直表の写しを別々に封じた。
原本は王宮に残し、写しはミラと公証人に預ける。
ラウゼンは差し押さえ命令書を見つめた。
「軍の備蓄が不足しているのも事実だ」
「なら、軍と村の必要量を同じ表に並べてください」
と俺は言った。
「どちらかを隠しても、食料は増えません」
門番は当直表に記された馬車の通行時刻を答え、兵站官は砂袋が見つかった棚番号を示した。
二人の記録には食い違いがあった。
ミラはそこを『要確認』と記した。
「証言したら、職を失うかもしれません」
と門番が呟いた。
「あなた一人の証言で決めません。記録と照合します」
ラウゼンはしばらく沈黙したあと、命令書の余白に署名した。
「差し押さえの執行は明朝の監査まで保留する。ただし今夜の便は一袋ずつ報告せよ」
御者たちが待つ北門へ戻ると、夜の見張り火が灯っていた。
荷車の前には、村へ戻るのを諦めかけた少女が座っていた。
「今夜はご飯が来る?」
差し押さえの保留を聞いても、少女の母親は喜ばなかった。
「明日の朝、また止まるのでしょう」
俺は否定せず、次の便が止まった場合の配給所と連絡係を伝えた。
少女は鈴の音を聞きながら母の手を握った。
母親は伝えられた配給所の場所を復唱し、少女の襟を直した。
「一袋ずつ届け先を報告する条件で、便は出せる。ただし道の安全も確かめてからだ」
ハンスが手綱を取り、門番は自分の名で通行時刻を書いた。
少女は荷台の端に結ばれた小さな鈴を見つめた。
出発の合図でそれが鳴ると、初めて立ち上がった。
翌朝の監査で再び止められるかもしれない。
それでも、今夜だけは荷車が門を越えた。
門番は交代兵に通行記録を手渡し、
「俺の署名で通した」
と自分の名を指でなぞった。
少女は母親と荷車を追い、振り返って鈴の鳴る方へ手を振った。
王宮で一枚の命令を保留させたことが、あの子にとっては今夜の食事になった。
ミラは偽印の写しを鞄へしまい、明日はその印を作った人の声を聞こうと言った。




