第九十話 空の食卓に置かれた地図
大陸の各地で食糧便が動き始めてから、初めて全地域の代表が同じ広間に集まった。
農家、御者、船乗り、医師、領主の使者。
敵国の将軍の代理人もいた。
会議の中央には、大きな地図が置かれていた。
赤は不足、青は輸送可能な道、緑は次の収穫が見込める土地。
以前なら、俺が一人で赤い印を追いかけていただろう。
今は違った。
「北の峠は雪が解けるまで閉じる。代わりに川を使う」
リオが言った。
「川沿いの村は船を出せる。ただし燃料の補給が必要だ」
別の代表が続ける。
「南の農家は種を守れた。次の収穫の一部を共同備蓄へ回せる」
ハンナが報告した。
地図の上で、赤い点と青い線が少しずつ結ばれていった。
そこへ王都から急使が来た。
国王の名で、すべての食料輸送を王宮の許可制にするという。
「緊急時の統制だそうです」
使者は言った。
会議場がざわめく。
許可を待てば、フェル村で救援要請が二日間止まった悲劇が繰り返されるかもしれない。
俺は使者を責めなかった。
王宮にも、限られた備蓄を把握したい事情がある。
「王宮が必要なのは情報ですか。それとも、運ぶ人間を支配する権限ですか」
使者は答えられなかった。
俺は会議で決めた共同備蓄の記録を差し出した。
運んだ量、受け取った人、事故、遅延、残量。
すべてを公開し、各国の監査人が確認できるようにする案だった。
「情報は渡します。でも、食料を届ける判断まで何日も止めることはできません」
使者は文書を持ち帰った。
結論はまだ出ない。
夜、会議が終わると、俺は一人で地図の前に残った。
ミラが温かいパンを二つ持ってきた。
「食べて。今日は朝から何も口にしてないでしょう」
「人に食べろと言ってばかりだったな」
二人は地図の前でパンを分けた。
「百万人を救えると思う?」
ミラが尋ねた。
「分からない。でも、俺一人じゃなくなった」
そのとき、外から荷車の音がした。
ラトナ村の少年が新しい配達表を持ってきたのだ。
「次の便、どこへ行けばいい?」
俺は赤い印を一つ指した。
「まず、昨日まで誰も行けなかった村へ」
少年は頷き、地図の写しを受け取った。
朝になれば、また誰かが食料を運ぶ。
俺がいなくても続くように。
それこそが、俺がこの世界で作りたかったものだった。
しかし翌朝、王宮から二通目の命令が届いた。
共同備蓄の差し押さえと、食糧便の代表者の出頭命令。
俺は封書を閉じた。
差し押さえ命令が執行されれば、共同倉庫の鍵を持つ村人まで荷を動かせなくなる。
俺は出頭を決め、ミラに各地の配送予定を引き継いだ。
広間の隅には、最初に救ったラトナ村の少年がいた。
かつては食料を求めて倒れた子供が、今は他の村の配達表を確認している。
「タクトさん、俺が道を覚えたのは、最初に連れて帰ってくれたからだよ」
俺は思わず口元を緩めた。
「今度は、お前が誰かを連れて帰る番だ」
少年は地図を抱え、仲間の御者のもとへ走っていった。
王宮への出頭を前に、仲間たちは役割を分けた。
ミラは各地の帳簿を持ち、バルクは輸送隊を止めないよう御者を集めた。
リオは川の便を確認し、ハンナは農家に次の種の予定を伝えた。
俺が王都へ行っている間にも、食料は動き続ける。
かつては俺がいなければ開けなかった倉庫も、今では村ごとの備蓄で補えるようになっていた。
ラトナ村の少年は新しい配達表に自分の名前を書いた。
「今日は俺が届ける」
俺はその文字を見て、初めて出頭命令への恐怖より、仲間への信頼を強く感じた。
出頭の日の朝、俺は保存倉庫の中身を確認した。
乾燥豆、少量のパン、飲料水。
王宮へ持っていくには少なすぎる食料だったが、どこかで足止めされた人を助けるには役立つかもしれない。
門の外にはミラとバルクが待っていた。
二人は何も言わず、配達表の写しを渡した。
今日も食料は動いている。
王宮へ向かう途中、俺は一度だけ会議場へ引き返した。
地図を写していた若い御者が、まだ机の前にいた。
雪で閉ざされる峠に、赤い線を引いている。
「その道を消したら、北の村は見捨てられたと思うかもしれません」
「消すんじゃない。通れないと書いて、代わりの道を探すんだ」
船頭のリオは川の浅瀬を示した。
農家のハンナは、春まで残す種麦の量を記入した。
敵国の代表も、川向こうの船着き場を使える日を教えてくれた。
「国境の向こうの人間を信用するのか」
と若い御者が聞いた。
「信用だけで荷を渡さない。互いの受領記録を照らし合わせる。それなら、どちらの国の人も嘘を見つけられる」
リオと敵国の代表は、同じ橋の図面を挟んで言い争った。
橋板の幅が違えば、小舟に荷を移す時間も変わる。
二人は測り直す日を決め、地図の隅にそれぞれ署名した。
ミラは会計の写しを三部作った。
王宮へ持参する分、各地の代表に残す分、町の公証人へ預ける分だ。
「差し押さえの根拠になった旧通達は、すでに期限が切れています」
とミラが言った。
「だが新しい命令書は別だ。期限切れだけを理由に無効とは言えない」
俺たちは出頭命令と差し押さえ命令を区別し、発効日と署名者を確認した。
誰かが書類を隠しても、救援便の予定と実際の残量を照合できるようにする。
若い御者は地図の端に自分の名を書いた。
「タクトさんが戻らなくても、俺たちは出発します」
「戻るつもりだよ。でも、そう言ってもらえる方が安心する」
そのとき、北の峠から戻った伝令が息を切らして駆け込んだ。
「途中の小屋に、荷車を待つ家族が残っています。子供が二人。峠は夜のうちに凍ります」
王宮へ出頭する時刻まで、もう長くはなかった。
俺が向かえば間に合うかもしれない。
しかし、差し押さえの理由を問いただす役目も捨てられない。
「その家族は、誰が迎えに行く?」
若い御者が地図を指した。
「俺たちが行きます。昨日、狩人に教わった林道なら橇が通せます」
「雪の下の沢は危険だ。狩人に先導を頼んで、夕方までに戻れなければ引き返してくれ」
彼は反論せず、必要な縄と灯りを確認した。
ハンナは食料を二日分に分け、リオは川向こうの小屋へ合図を送る係を引き受けた。
俺は何も指示しなくても動く仲間を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「戻ってきたら、結果を俺にも知らせてくれ」
「戻るのは俺たちだけじゃありません。家族も連れてきます」
若い御者は猟師と医師を連れて外へ出た。
馬の足音が遠ざかるまで、俺は会議場の戸口に立っていた。
まだ峠の家族は助かっていない。
道が通れる保証もない。
それでも彼らは、俺の返事を待たずに出発した。
若い御者が出ていったあと、俺は机の地図に残された『崖に注意』の文字を見た。
彼が自分で調べた道だ。
次の御者が危険を知らずに走らないよう、そのまま残しておく。
「タクト、王宮へ」
とミラが呼んだ。
俺は地図を机に置き、外套の襟を立てた。
危険な道も、まだ救えていない村も残っている。
だが、地図を引き継ぐ仲間はもうここにいる。
俺は二人と目を合わせ、出頭のために扉を開けた。




