第九話 奪われた香草畑
差し押さえの使者が来たのは、期限の二日前だった。
黒い馬車が村の入口に止まり、北方商会のグレインが降りてきた。
護衛が三人、後ろに続く。
「借金の担保を引き取る」
彼は書類を掲げた。
「待ってください。五日前の申立ては役所に受理されています。境界の現地確認が終わる前です。原本の提示を求めています」
俺が言うと、グレインは鼻で笑った。
「村の借金だ。部外者は黙れ」
村長が前に出た。
「ラトナ村の代表は私だ。期限前の差し押さえには応じられん」
「支払い能力がないなら、担保を保全する権利がある」
護衛が香草畑へ向かおうとした。
ハンスが道を塞いだ。
「ここは俺たちの畑だ!」
一触即発だった。
俺はハンスの肩をつかんだ。
「手を出さないでください。見ている人に、何が起きたか証言してもらいます」
村人たちは距離を取り、日付と人数を帳面に記した。
グレインは不愉快そうに眉をひそめた。
「記録して何になる」
「あとで確かめられます」
「勝手にしろ」
使者たちは香草畑の入口に杭を打ち、商会の札を掲げた。
収穫は禁じられた。
彼らが去ったあと、ハンスが地面を蹴った。
「結局、何もできなかった!」
「今日は止められませんでした」
俺は認めた。
「でも、村の人が傷つかずに済んだ。次に必要なのは、正式に異議を出すことです」
「腹が減っている人間に、紙切れで戦えっていうのか!」
その言葉は痛かった。
俺は、街の役所へ行くための食料と時間を計算した。
倉庫の在庫は減っている。
香草を売れなければ次の仕入れができない。
「俺が街へ行きます。村では、香草以外に売れるものを探してください」
商会の札が立った香草畑を前に、ヨルンは長いあいだ黙っていた。
「ここは、わしの父親が最初に香草を植えた場所だ」
「自然に生えたものじゃないんですか」
「最初は山にあった。村で増やして、少しずつ畑にした」
老人は杖で土を叩いた。
「飢饉のたびに、こいつを売って麦を買った。村を何度も助けた畑だ」
俺は初めて、香草畑が村の貯金のようなものだと理解した。
現金がなくても、手入れを続ければ毎年収入を生む。
その土地を奪われれば、村は次の危機に対処する力を失う。
「昔の記録はありますか」
「村の祭りの帳面に、収穫量を書いたはずだ」
村長の家を探すと、古い祭礼記録が見つかった。
十年以上前から香草を収穫し、売上の一部を共同井戸の修理に使っていたと書かれている。
「これは役に立つかもしれません」
俺は慎重に頁を写した。
ハンスは畑の入口で護衛を見つめていた。
「俺たちのものだって、みんな知ってるのに」
「知っているだけでは、外の人に伝わらないことがあります」
「腹立たしいな」
「俺もです」
彼はしばらくして、持っていた斧を地面に置いた。
「殴り合いになったら、母ちゃんを置いて牢に入ることになる」
「そうです」
「なら、今日は我慢する」
俺はその決断が、どれほど難しいか分かっていた。
夜、ハンスは木の匙を削り始めた。
怒りをぶつけるような速さだったが、刃先は正確に動いた。
「街で売れるか?」
「まず試しましょう」
「売れたら、母ちゃんに温かい粥を食わせる」
奪われた畑を取り戻す戦いと、今日の食事をつなぐ仕事。
役所の書状には難しい言葉が並んでいた。
俺は村人たちの前で、一行ずつ普段の言葉に直して読み上げた。
何が許され、何がまだ決まっていないのか。
誤解が生まれないように何度も確認する。
勝ったと騒ぐより、次に備える方が大切だった。
どちらかを諦めるわけにはいかなかった。
村長が頷いた。
「木工品ならどうだ。ハンスは腕がいい」
ハンスは黙っていたが、しばらくして言った。
「壊れた桶を直すくらいならできる」
「それで十分です。まず一つ作ってください」
翌朝、俺はセリアの事務所へ駆け込んだ。
「期限前に畑を封鎖されました」
彼女は書類を確認し、顔をしかめた。
「保全措置の名目か。厄介だね。でも、原本の提示を拒んだままの執行は争える」
「すぐ解除できますか」
「すぐには無理。だから仮の命令を求める」
セリアは申立書を作った。
俺は木札の写し、村の帳面、香草畑の地図を順に並べた。
役所の窓口では、担当者が書類を突き返しかけた。
村の入口で、トトは商会の馬車が消えた方向を見つめていた。
「あの人たち、また来るかな」
「来ると思う」
「怖くないの?」
「怖いよ。でも、怖いからこそ準備する」
俺は帳面を見せた。
日付、証人、書状、売上。
小さな文字が並んでいる。
「これが俺たちの武器だ」
トトは頷き、自分の鉛筆をぎゅっと握った。
「村の代表者本人でないと」
「村長の委任状があります」
「公証は?」
「こちらに」
セリアが用意してくれた封印を見せると、担当者は渋々受け取った。
審査には二日かかると言われた。
俺はその間、市場で新しい買い手を探した。
香草が使えないなら、村で作った木製の匙や修理した桶を売る。
大きな利益にはならないが、食料の購入を止めないためだ。
夕方、パン屋の親父が俺を呼び止めた。
「北方商会が、お前に品を売るなと触れ回ってるぞ」
「やっぱりですか」
「俺は売る。ただし、売れ残りしかない。新しい粉は商会が押さえてる」
「それで十分です」
俺は代金を払い、頭を下げた。
二日後、役所から仮の命令が出た。
商会は契約原本を提出するまで、香草畑での収穫を妨げてはならないという。
俺は書状を握り、村へ走った。
村に着くと、畑の前にまだ商会の札が立っていた。
「命令が出ました。封鎖は一時停止です!」
村人たちが集まった。
ハンスが杭を抜こうとしたが、俺は止めた。
「役所の人が来るまで、札は証拠として残しましょう」
ハンスは苦笑した。
「お前といると、怒る前に数える癖がつくな」
「俺も怒っていますよ」
「そうは見えん」
「すごく怒っています。だから、勝てる方法を選びたいんです」
畑へ戻った農家は、最初に香草を摘まなかった。
踏み荒らされた畝を直し、境界の杭を皆で打ち直した。
「次は誰の土地か、子供にも分かるようにする」
俺は仮許可の期限を確かめ、期限前に本申請へ同行すると約束した。
畑を見回った農家の一人は、すぐ香草を摘もうとした。
「今摘まなきゃ、また冬が来る」
だが畝には商会が踏みつけた跡が残り、収穫できる株は思ったより少ない。
俺は買い取り額を約束しかけてやめた。
見込みを偽れば、村人はまた他人の言葉に縛られる。
農家たちは残った株を数え、傷んだものを苗に回すと決めた。
ハンスは境界杭の脇に立ち、
「今日はここを見張る」
と言った。
畑を取り戻すとは、札を抜くことではなく、来年も収穫できるように守ることだった。
その夜、村長が仮命令の内容を村人に説明していると、畑の見張りが駆け込んできた。
「商会の男が、仮命令の期限までに苗を抜けと言ってきた!」
ハンスが鍬をつかんだが、ヨルンがその柄を押さえた。
「苗を守るなら、争うより先に水を運べ。踏まれた根が乾いてしまう」
村人たちは夜のうちに畝を整え、傷ついた苗を植え直した。
商会が奪おうとしたのは今日の収穫だけではない。
来年の収入だった。
朝になって役所の立会人が来ると、畑には抜かれた杭と、植え直された苗の列が残っていた。
「被害を確かめてください。仮命令があっても、畑は勝手には元に戻りません」
俺の言葉に、立会人は初めて畝へ降り、土の傷を記録した。
「香草畑は、まだ私たちのものだ」
小さな拍手が起こった。
勝利と呼ぶには早い。
借金は残り、商会は諦めていない。
それでもなお、奪われた仕事を取り戻す最初の一歩だった。
商会の札は証拠として畑の端に残った。
ハンスはそれを睨んでいたが、やがて鍬を土へ下ろした。
「札を抜くより、苗を一本でも生かすほうが先だ」
村長は役所の命令書を共同倉に掲げ、翌朝の採取当番を決めた。
ミリが手を上げた。
「私、苗に水をあげる」
ミリは抜かれた苗を一本だけ拾い、根についた土を手で包んだ。
「札は読めないけど、これが枯れるのは分かる」
その姿を見た農家が、水桶を持って戻ってきた。
「ただし踏まれた畝は危ない。俺が道を作る」
とハンスが答えた。
ミリは桶を持つ前に、傷んだ苗と無事な苗を一本ずつ見分けた。
誰も畑に入れなかった昨日にはできなかった仕事だった。
奪われかけた畑に、もう一度、働く人の声が戻った。




