第八話 パンの匂いを知らない少女
「パンって、焼くとどんな匂いがするの?」
ミリが尋ねたのは、ラトナ村に戻った翌朝だった。
俺は答えに詰まった。
甘い、小麦の香り、香ばしい。
どんな言葉も、知らない匂いを伝えるには足りない。
「今度、実際に嗅いでみよう」
「ほんと?」
「材料が揃ったらな」
村では橋の修理が進み、香草の乾燥棚が作られていた。
俺がいない間に、トトは札を使った在庫管理を覚えていた。
「昨日は豆を四袋使った。残りはここ」
少年は誇らしげに帳面を見せた。
「よく数えたな」
「村長さんが教えてくれた」
俺は保存倉庫から小麦粉を取り出した。
街のパン屋から、形の崩れたパンと一緒に少量譲ってもらったものだ。
「今日は試しにパンを焼こう」
広場に集まった子供たちが歓声を上げた。
しかし、すぐにエナが心配そうに言った。
「粉を使い切ってしまわない?」
「使う量は決めています。今日は少しだけ。残りは主食用に取っておきます」
村には大きな窯がなかった。
使われていない共同の石窯を掃除し、ハンスが崩れた部分を直した。
薪も限られているため、料理と一緒に焼く段取りを考えた。
生地をこねるのは久しぶりだった。
日本でパン職人だったわけではない。
仕事で工場を見学した経験と、家庭で作った記憶を頼りに、村の年長者に教わりながら作業した。
「水を入れすぎだよ」
エナが笑った。
「こっちの粉は吸い方が違うんだ」
「なるほど。お願いします」
俺が偉そうに指示するより、村の人の知恵を借りる方がずっと早かった。
生地を休ませ、窯の温度を確かめる。
焼き始めると、やがて村の広場に香ばしい匂いが広がった。
ミリが鼻をひくひく動かした。
「これ?」
「そう。これが焼きたてのパンの匂い」
パンを焼く前、俺は村の子供たちに小さな仕事を頼んだ。
「窯の周りに近づきすぎないように、線を引いてくれる?」
トトが棒で地面に線を描き、ミリは小石を並べた。
「ここから先は熱いから、入っちゃだめ」
ミリは年下の子に得意げに教えた。
エナは手を洗うための水を用意し、村長は薪の使用量を記録した。
水も薪も限られている。
焼きたてのパンを作るだけで、村の貴重な資源を使うのだ。
「今日はお祝いの日にしよう」
村長が言った。
「お祝い?」
「腹を満たすだけなら粥でもいい。だが、人は楽しみがなければ働き続けられん」
パンを小さく分けると、子供たちはすぐに食べようとしなかった。
手の中で転がし、匂いを嗅ぎ、湯気を眺めている。
「熱いうちに食べた方がうまいぞ」
俺が言うと、トトが笑った。
「もったいないんだよ」
その気持ちは分かった。
食べれば消える。
食べなければ、いつまでも持っていられる気がする。
「食べ物は食べるためにあるんだ」
そう言ったあと、俺は言い直した。
「でも、また作れるって信じられるようになるには、時間がかかるよな」
トトは静かに頷いた。
午後、俺は子供たちに数字の札を見せた。
「これが今日使った粉の量。こっちが残り。足りなくなりそうなら、早めに分かるようにする」
ミリは指を折って数えた。
「じゃあ、明日のパンは?」
「毎日焼くには、まだ粉が足りない」
「そっか」
「でも、次に何を買うかは決められる」
少女はしばらく考え、笑った。
ミリは焼きたてのパンを鼻先に近づけ、深く息を吸った。
トトが笑うと、彼女は真顔で言った。
「明日、パンがなくても、今日のことは忘れたくないんだもん」
俺は窯の前に立ち、次は村人だけでも焼けるよう、窯の扱い方を教わって書き残そうと思った。
毎回同じ味でなくてもいい。
次があることが大事なのだ。
「じゃあ、待つのも仕事だね」
俺はその言葉を忘れないように帳面へ書いた。
飢えた子供が希望を持つことは、食料の量だけでは決まらない。
次があると信じられる約束を、俺たちは少しずつ作っていた。
少女は目を閉じた。
「……あったかい匂いだね」
俺は笑いそうになり、笑えなかった。
先ほど分けたパンを、子供たちは最後のひとかけらまでゆっくり噛んだ。
ミリは半分を布に包もうとした。
「おばあちゃんに持っていくのか」
「ううん。明日、また匂いを忘れたら困るから」
俺は胸が苦しくなった。
「匂いは忘れてもいい。また焼けばいいんだ」
「また焼ける?」
窯の火が落ちたあとも、広場にはしばらく人が残った。
誰かが昔の収穫祭の歌を口ずさみ、別の誰かが続きを歌った。
俺には知らない歌だったが、子供たちは笑いながら覚えていった。
食料を届けることは、生き延びるためだけではない。
こうして人が集まり、明日の話をする時間を取り戻すことでもあるのだ。
「そのために、畑と橋と仕事を戻すんだよ」
ミリはパンを食べ切った。
窯の火が小さくなると、ミリは空になった皿を自分で洗い、次に使う子のために伏せた。
俺が明日の粥の粉を数えていると、彼女は
「次はいつ?」
と尋ねた。
答えを急がず、村長と次の製粉便を確かめた。
希望を守るには、曖昧な約束ではなく次の食事を用意する仕事が必要だった。
パンを分け終える前に、村長が広場へ駆け込んだ。
手には商会の封蝋が付いた書状があった。
「皆、窯の火を消す前に聞いてくれ。商会から書状が来た」
借金の原本を確認する申し入れに対し、北方商会は一週間後に返答すると記していた。
その一方で、期限までに支払わなければ香草の採取地を差し押さえるという。
「山まで取られたら、村の仕事がなくなる」
村長は唇を噛んだ。
俺は書状の日付を確認した。
期限は五日後。
返答予定より先に差し押さえるつもりらしい。
「セリアさんに知らせましょう。返答前の差し押さえが認められるか確認します」
「間に合うか」
「返事を待つだけでは間に合いません。今日のうちに境界を知る人を集め、古い地図を確かめましょう」
村長はパンを配っていた老人たちを呼び止め、明朝の境界確認に立ち会うよう頼んだ。
エナは証言した人の名前と時刻を記し、トトとハンスは目印の石を調べる役を引き受けた。
「五日後に土地を奪わせないため、覚えていることを全部話してほしい」
祝いの席はそのまま村の相談の場になった。
俺たちは香草の収穫を急ぐのではなく、村が長年使ってきた記録を集めた。
俺はセリアに相談するため、返答予定日と差し押さえ期限の食い違いを帳面に書き出した。
土地の権利を示す古い地図も見つかった。
夕方、ミリが俺の袖を引いた。
「タクトお兄ちゃん、商会の人はパンが嫌いなの?」
「どうして?」
「みんながパンを食べられるようになるの、嫌がってるみたい」
俺は答えを探した。
「パンが嫌いなんじゃない。自分の思い通りにできないのが嫌なんだと思う」
「じゃあ、みんなで焼けばいいのに」
簡単な言葉だった。
誰も商会との争いを望んでいなかった。
それでも山が奪われれば、来年の香草も、今夜窯に入れた薪を買う仕事も失う。
村長は役所へ提出する地図の写しを作り、境界を知る老人二人の証言に日付を添えた。
俺はセリア宛てに書状と差し押さえ期限を記し、村の使者に託した。
夕刻、使者が役所の受付印を押した控えを持ち帰る。
期限までに現地確認を求める申立てが受理されたのだ。
差し押さえが止まったわけではない。
それでも商会が一方的に境界を決める前に、村の言葉を役所へ届けられた。
窯のそばでは、明朝の粥に使う粉が取り分けられていた。
ミリは大人たちの手元を覗き込んだ。
「明日も食べられる?」
「明日の分はある」
と村長。
「明後日の分も守るために、今夜は働くんだ」
トトが地図の端に小石を置いた。
風で紙がめくれないようにするためだ。
ミリも石を一つ拾い、反対側の端を押さえた。
「パンの匂い、また嗅ぎたいから。私も守る」
少女はパンを受け取ると、すぐには口をつけず弟の前へ置いた。
弟が半分を返すまで、二人とも黙っていた。
俺はその食卓に必要なのが一度の施しではないと知った。
ミリは弟に残り半分のパンを渡した。
弟が匂いを確かめるように顔を近づけると、ミリは笑って自分の分をかじった。
地図の上の小石は、食事が終わるまでそのままだった。




