第七話 百二十枚の借金
村長の帳面には、三年前からの借金が記されていた。
最初に借りたのは銀貨三十枚。
井戸を深く掘るための金だった。
それが今では百二十枚に膨れ上がっている。
「利息が高すぎる」
俺は呟いた。
「借りたときは、こんな額じゃなかった」
村長は疲れた声で言った。
「契約書はありますか」
「商会が持っている。村には控えだけだ」
控えは古く、ところどころ文字が滲んでいた。
しかし、元金と利率は読み取れた。
年利は一割。
三年で百二十枚になる計算ではない。
「追加で借りた分は?」
「去年、麦を二十枚分。それだけだ」
俺は紙に数字を書き並べた。
元金五十枚、利息、返済記録。
百二十枚には届かない。
「おかしい。延滞料が何重にもついている」
ハンスが拳を叩いた。
「やっぱり騙されてたのか!」
「まだ決めつけられません。契約条項と支払い記録を照合する必要があります」
「そんな悠長なことを言っていたら、種麦まで持っていかれる!」
ハンスは立ち上がった。
「商会の使いを捕まえて、吐かせよう」
「それをやったら、向こうに村を潰す口実を与えます」
俺は強く言った。
「怒るのは当然です。でも、相手の得意な場所で喧嘩をしないでください」
沈黙が落ちた。
村長が古い箱を持ってきた。
「支払いのたびに受け取った木札がある。証拠になるか」
中には数字を刻んだ札が十数枚あった。
商会の焼印もある。
俺は札を日付順に並べた。
帳面には記録されていない返済が三件見つかった。
「これを全部写して、街の公証人に確認してもらいましょう」
「公証人は金がかかる」
村長は空になりかけた麦袋を見た。
「調べるために、今夜の粥を薄くするのか」
公証人セリアは、俺に別の帳面を見せた。
「商会の帳簿は、相手を悪者だと思って読むと間違える。まず数字を事実として並べな」
「支払った記録はこれです」
「じゃあ、受け取った側の記録と突き合わせる。日付が一日違うだけなら、輸送の都合かもしれない」
彼女は木札を並べ替え、俺に計算させた。
元金。
利息。
返済。
延滞料。
何度やり直しても、商会の請求額には大きな差が残った。
「違法なんでしょうか」
「そこは慎重に言いな。契約書の原本があれば、相手が根拠にする条項が分かる。なければ分からないこともある」
「時間がかかりますね」
「時間をかけずに断言して、村を負けさせる方が怖いよ」
俺は頭を下げた。
事務所には、農民や職人が相談に来ていた。
売掛金を払ってもらえない鍛冶屋。
土地の境界で争う兄弟。
みんな数字と紙を持っている。
この世界には魔法がある。
だが人間の揉め事は、どこへ行っても似ているらしい。
「先生、俺にできることはありますか」
「字が読めるなら、村の控えを二部作りな。一部は村、一部はここ。火事や盗難で一つ失っても、もう一つ残る」
俺はその夜、宿の灯りの下で書き写した。
途中で数字を一つ間違え、最初から照合し直した。
面倒な作業だった。
しかし、食料の袋を一つ運ぶのと同じくらい大切な作業だと感じた。
食料を奪われる村では、記録まで奪われていることがある。
翌朝、セリアに控えを渡すと、彼女は頷いた。
「これで一つ、相手が消せない事実が増えた」
俺は思わず笑った。
剣を持たない俺にも、積み上げられるものがあった。
「香草の売上から費用を出すか、村で決めてください」
村長は村人を集めた。
食料の購入に回すはずだった金を、借金の調査に使うかどうか。
セリアは最後に、村長の委任状を指で叩いた。
「これはただの紙じゃない。村が自分で決めた証拠だよ」
俺はその意味を考えた。
外から来た俺が全部決めれば、次に俺がいなくなったとき村はまた困る。
判断する力を村へ残すことも必要だった。
意見は割れた。
「今は腹を満たす方が先だ」
「調べなければ、次も奪われる」
トトの母親エナが、寝床から起きてきた。
まだ顔色は悪い。
「私は調べてほしい。子供たちに、ずっと同じ借金を背負わせたくない」
エナは息を整え、
「でも、病人の食事だけは減らさないで」
と付け加えた。
村人たちは静かになった。
結局、最低限の食料を確保したうえで、少額を調査費に回すと決まった。
借用書を握っていた老人は、破るのをやめた。
「残しておく。孫に、どうして払わずに済んだか説明するためだ」
俺は金額の横に、異議を認めた役所の日付を書いた。
怒りだけでは明日また同じ紙を突きつけられる。
残るのは証拠と、声を上げた人の名前だった。
セリアが村人の木札を並べると、同じ月に二度支払ったように見える家があった。
農家の男は
「俺が間違えたのかもしれない」
と札を引っ込めようとした。
「間違いなら、それも記録しましょう」
と俺は言った。
都合のいい証拠だけを残せば、商会の帳簿と変わらない。
セリアは札の裏に確認待ちと書き、別の家の控えと照合した。
男は札を戻し、震える声で言った。
「払った日を、娘が覚えてる」
娘を呼ぶかどうかも、まず家族に決めてもらうことにした。
翌日、俺は村長とともに再び街へ向かった。
市場の奥にある公証人の事務所では、セリアが前夜の写しを机に並べて待っていた。
「昨日の控えだけじゃ足りない。今日は木札の焼印を確かめよう」
セリアは木札を一つずつ確認した。
「焼印は本物だね。問題は、この控えだ」
彼女は契約書の一行を指した。
「『橋の維持費を含む』と書いてある。なのに、別の伝票で通行料を請求している」
「二重取りですか」
同行した村長は、木札を一枚ずつ掌に載せた。
「払った金が、ちゃんと記録に残っていたんだな」
「これだけで借金が消えるわけではありません。でも、村が何もしてこなかったわけじゃないと示せます」
村長は札を箱へ戻し、蓋を丁寧に閉めた。
その手つきは、失いかけた尊厳をしまうようだった。
「可能性が高い。ただし原本を見ないと断定できない」
セリアは証拠の写しを作り、商会へ原本の提示を求める書状を書いた。
「これで勝てますか」
「勝てるかは知らない。でも、争うための足場はできた」
事務所を出ると、黒い上着の男が待っていた。
「北方商会のグレインだ。余計なことをしているらしいな」
「借金の確認です」
「村の借金は村が払う。外から来た男が首を突っ込むな」
グレインは俺の前に銀貨十枚を置いた。
「この金を持って消えろ。ラトナは商会が面倒を見る」
銀貨十枚。
村の食料を何日も買える額だった。
俺は手を伸ばしかけて止めた。
「受け取る条件は?」
「村との取引をやめる。それだけだ」
俺は銀貨を押し戻した。
「それだけ、ではありません。村がまた飢えても、俺は戻れなくなる」
男の笑みが消えた。
「後悔するぞ」
「その言葉は、書面に残してもらえますか」
セリアが事務所の扉から顔を出した。
グレインは何も言わずに去った。
公証人は俺を見て、少しだけ笑った。
「勇気はあるね。だけど勇気だけで商会には勝てないよ」
「分かっています。だから、数字を集めます」
俺はラトナの帳面を抱き直した。
この戦いで必要なのは剣ではない。
誰が、いつ、何を渡し、いくら受け取ったのか。
飢えた村から奪われたものを、一つずつ数え直すことだった。
村へ帰る前、セリアは
「見つけた木札を村でもう一度数え、誰の家のものか控えて」
と念を押した。
俺は村の古い受領書を机に広げ、支払った麦の量と銀貨の換算を別々に記した。
そのとき村長が、小さな領収印を押した木札を差し出した。
「橋が流される前、通行料の代わりに麦を納めた証だ」
セリアの表情が変わった。
「待って。この印、商会の受領印じゃない。橋の維持組合のものよ」
「どういうことですか」
「商会は橋の維持費を借金に上乗せしている。でも村は、その維持費を組合へ直接納めていた可能性がある」
俺は商会から届いた催告書を開いた。
百二十枚という大きな数字の中に、『橋梁維持分』の文字があった。
グレインが十枚の銀貨で俺を追い払おうとした理由が、少しだけ見えた気がした。
「これで借金は消えますか」
「まだ。木札だけでは納めた額が分からない。組合の控えと原本を照合する必要がある」
俺は頷いた。
勝ったと叫びたい気持ちはあったが、証拠が揃わなければ村にもっと大きな請求が来る。
その日の夕方、村長は集会で木札を掲げた。
「俺たちは払うべきものを拒んでいるんじゃない。払ったものを、もう一度払えと言われているかもしれないんだ」
ハンスが立ち上がった。
商会の使いに殴りかかろうとしていた男は、拳を開いて言った。
「うちの納屋にも木札がある。明日の朝、持ってくる」
「うちにもあるよ」
年老いた農婦が手を挙げた。
続いて、今まで借金の話になると黙っていた家族も立ち上がった。
橋守は杖をつき、皆の前に出た。
「組合は解散したが、最後の会計係はわしだ。帳面は洪水で流された。でも麦の受取量を刻んだ梁は修理小屋に残っている」
セリアは慎重に答えた。
「梁と木札が一致すれば、二重請求を調べる手掛かりになります。まだ借金が消えると決まったわけではありません」
「それでいい」
と村長は言った。
「明日、村で確かめよう。合わない数字も隠さない」
俺が指図する前に、村人たちは誰が梁を運び、誰が札を照合するかを決め始めた。
十枚の銀貨を断った俺の勇気より、ずっと大きなものが目の前にあった。
ハンスは俺に振り向いた。
「商会へ怒鳴り込みに行くのはやめた。俺の家の札を持ってくる。あんたも一緒に数えてくれ」
百二十枚の借金は消えない。
だがハンスは最初の札を梁の刻み目に重ね、数字を声に出して読んだ。
村人たちも自分の札を持ち寄り、商会に任せていた勘定を取り戻し始めた。




